ここに来てから数日が経ち、冬に行なっていた仕事も少しづつ思い出してきていた。
早朝、待合所で事務仕事を手伝っていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あら? おひさ~。いつここに来たの?」
この声は……。
「あ……」
ちょっとケバ…ゴホン 派手…ゴホン ゴージャスな服装をした女性が近付いてきた。
「マルゼンスキーさん……」
「あら。覚えてくれていたのね。嬉しいわ」
……忘れる筈もない。この人の旦那さん――マルゼンスキーさんの元トレーナーさんらしい――に僕はえらい目に遭わされた。
ここに来た当初、旦那さんに『好みの女性像』に付いて聞かれたことがあった。その際、『未だそれどころじゃあリませんから。早く巡り会ってみたいですけど』と迂闊にも気安く答えた僕に、彼は『それなら好みの女性に巡り会って来い』と言うや否や事もあろうに、塀を挟んで反対側のすぐ隣の女性専用区域に放り投げてくれたのだ。投げ込まれた先は運が良いのか悪いのか男性側と同じ作りだったので洗い場とかではなく露天風呂だった。
そして投げ込んだ自分はその足でいち早くその場から逃げ出していた。周囲の人達と一緒に……。
おかげで入浴中だった患者さんや看護師さん、女医さんから変質者呼ばわりされて肩身の狭い思いを3日ほど味わったのだ。確かに眼福ではあったが、割に合わなさ過ぎた。覗き魔の変質者という誤解が解けたというか、流石に気の毒に思ってくれたらしい一部始終を見ていた通院治療中の男性患者によって露天風呂に飛び込んできた真相が判明した後は逆に同情されたが……。
その後、暫らく避け続け遠くから観察しているうちに基本的には気がいい人であることはわかった。時偶、豪快に悪乗りするだけで……。ただ、あれ以来あの人が本当にヒトなのかは非常に疑わしく思っている。機会が遇ったら解…ゲフン、全身隈なく徹底的な精密検査をしてみたいものだ。
そんな他愛もないことを考えていた間もマルゼンスキーさんのマシンガントークは続いていた。
「いつから来たの? 調子は如何?」
矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
「あ、ええ、数日前から……調子の方は何とか……マルゼンスキーさんこそ調子は……」
圧倒されながらも、マルゼンスキーさんに体調を聞いてみる。
30代前半の筈だがまだ20代半ば、下手すれば10代後半に見えるときもあるマルゼンスキーさん。相変わらず元気そうだったが、暑気中りぐらいはしているかも知れない。
「私?」
自分を指差すマルゼンスキーさん。
「何言っているのよ。見ての通り私は元気よ、どこも彼処も」
胸を叩いて笑うマルゼンスキーさん。
「はぁ……」
やっぱり……。
「ここには皆の顔を見に来ているのよ。色んな人が集まるから」
待合所を見渡すマルゼンスキーさん。
「暇な人たちで集まって色々とお喋りするのが楽しいのよ」
ここは療養の場なんですが。と一言言いたい。相変わらずのマイペースだ、この人は……。
「何はともあれ、これからもよろしくね」
あまりよろしくされたくなかった……。
これから数ヶ月か数年かはわからないけど、長い付き合いになりそうだ。
午前の仕事も終わり、食堂へ足を運ぶとそこで会いたくない人に出くわしてしまった……。
「ウゲッ 清一さん……」
苦手な人だ……思わず身構えてしまう。
「おいおい、久しぶりに出会って最初からこれか? 随分と警戒されたもんだ」
マルゼンスキーさんの旦那さんになる清一さんは、かつて中央のトレセン学園でトレーナーをやっていて、そこでマルゼンスキーさんと知り合い結婚したらしい。かなり有名なトレーナーだったらしいがマルゼンスキーさんのリーグ引退と同時にトレーナーを退職し、今はこの地でマルゼンスキーさんと悠悠自適の生活をしている。
……未だ40代後半だというのに。
「あ、いえ……そんな事は」
口篭もっていると、
「まぁ、最初がアレだったからなぁ。仕方ないと言えば仕方ないか。いや、済まん。あの時の事は謝る。……この前はきちんと謝っていなかったからな」
頭を下げる清一さん。
如何したものか困っていると助け舟があらわれた。
「あら、清一さん。……何やっているの?」
「ん? ああ、マルゼンスキーか。いや、前の事を謝っていたんだ」
「呆れた。未だ謝ってなかったの? 全く……」
そう呆れるマルゼンスキーさんの盆には色取り取りの料理が所狭しと並んでいた。
「……すごいですね……相変わらず」
日替わりのお好み定食の他に鰤の照焼き丼、カジキのムニエル、アサリの深蒸し、アンコウ鍋……。あ、自分でもわかるボルドーの高級ワインまで……って、ワインは持ち込みか。
軽く見ても四人前は超えているだろう……。
「最近ご飯が美味しいのよ。これぐらいあっという間に食べちゃうのよね」
そう言ったそばからムニエルに齧り付いている……。
あの食欲で現役時代の体型を維持できるんだから、ある意味生物離れしている……。
その様子を見ているだけで満腹になりそうな勢いだった。
「あなたは何にするの? ここの牡丹丼はお手頃価格でお薦めよ。あなたがいなくなってから出来た新メニューなの」
「牡丹って猪じゃないですか。鍋じゃないんですね。でも、へぇ……丼物は、久しぶりだな」
「何? 何食べるの?」
「……じゃぁ、牡丹鍋、じゃなかった、牡丹丼にします」
ムニエルとお好み定食を平らげて、照焼き丼に取り掛かるマルゼンスキーさんの前を離れて、丼物を買いに行こうとすると、
「ん、何か買うのか?」
と、一心不乱に目の前の深蒸しを平らげていた清一さんが、
「ついでに俺の分、何か麺を適当に頼んでくれ。金は後で払う」
と頼んできた。
これ以上食べるのか……?
そんな表情が顔に出ていたのか、清一さんは事も無げに
「麺でさっぱりと〆るよ」
と宣ってきた。
相変わらずすごい食欲だ。これでBMIが21.5というのだから、世の中は……。