Lycoris Record : 彼岸花の回顧録 作:フェデラルジオグラフィック
シリアスな話を濃密に詰め込んでるのは見てて飽きないんですが視聴直後の疲労感が…
8/29 少し誤字や表現等修正
9/1 剃刀おやじの肩書修正 この時点ではまだ次長だった
1968年 カバン無き彼岸花
―――70年安保、反対!
防衛庁に対する、攻撃的な、デモンストレーションを、完遂、しようでは、ありませんかぁ!
拡声器がハレーションを起こし、音割れでとびとびのアジ演説を投げ飛ばす。あることないことを大声で叫び、徒党を組んで角材を振り回し、ときに石を投げ、しまいには火炎瓶やパイプ爆弾を投げながらデモ行進をする。今の日本では考えられないような光景、これはどこぞのテロ対策に失敗した治安の悪い途上国の話だろうか?否、1968年の東京で起きていたことのひとつである。ソ連がその力を急速に増し、アメリカがベトナムで文字通り沼に沈みつつあった1960年代暮れ、日本の主な外交テーマとして国内でやり玉に挙げられたのは「安全保障条約」であった。知識人と労働者たちは海の向こう側の理想郷を夢見、団結して政府と、時に隣人同士とも戦っていた。
このような時代にあって、政府の治安維持方針は「機動隊による生け捕りのみ」とすることになった。当時のDAはこの状況に不満を募らせていたが、自分たちで独自に行動することもなかった。当時の警察庁次長が剃刀に例えられるほどの切れ者で、かつ彼岸花(まだ「かつての名」で呼ぶ人間のほうが多い時代だった)をよく知っている内務省上がりの人間だったので、DAに対し表に裏に圧力をかけ続けていていたからである。
「殺せば『殉教者』になるでなあ、第二のホルスト・ヴェッセルを作るわけにはいかん」
これが当時の警察庁次長の考えだった。
ではDAは暇だったのか、と言われればNOである。「生け捕り」を指示されていたのは「日本国民」に対してのみであったため、「大陸」からの工作員やそのシンパとの水面下での戦いを繰り広げていた。ただそれらは主に裏日本(日本海側)で行われていたので、東京などの表日本で並行して行われていたのが、「リコリスは若い女性である」からこそできる任務。
その任務を説明する前に安保闘争と学生運動の概略について説明しなければならない。1968年は安保闘争が最盛期を迎えていた時期のひとつである。大学・事業場・公園等々に折を見ては集結し、アジ演説を飛ばしあう。「演説」で済めば最良で、大抵の場合は「ゲバ闘争」という名の攻撃的行動に発展するのが常であった。というよりゲバ要員をかき集める口実として集会の体裁を借りていた、といったほうが正しい。で、このゲバ闘争、すべてのセクトで団結し政府へ攻撃して機動隊と衝突するばかりではない。あるセクトが気に入らないセクトを攻撃し、両者を分断するため機動隊が割って入る、ということも珍しくなかった。このような状況ではセクトが絡む集会を常に監視し、セクトが不穏な動きを見せている場合は直ちに介入するか、少なくともその準備をはじめなければならない。
だが当時の警察はこれがうまくできなかったのである。理由は単純で「左翼の情報収集や監視はベテラン刑事の仕事」という認識が警察にあったので、集会に「ベテラン」を送り込んだからである。ちょっと考えてみよう。刑事は私服を着ているが大学卒または高卒で6年以上経験を積んだベテランである。セクトを組んでゲバ棒振り回す連中に労働者はあまり多くなく主力は現役大学生で、ときおり高専生や高校生まで混ざってることもある。年齢層が根本的に違うので、潜入しようとしたときに老け顔やたばこの臭いで喝破されて私服警官は門前払いを食らうのである。門前払いで済めばいいほうで、悪い時にはリンチにあって大けがをすることも珍しくなかった。
一方、リコリスの主力層は中学~高校生相当の年齢である。人混みのなかで周囲の情報を集める訓練を受けているし、いざという時のための戦闘訓練も受けている。警察はリコリスによる集会への潜入をDAに委託することが多くなっていった。DAはベテランまたは
リコリスによる集会への潜入は順調に進んだ。セクトは私服警官の潜入にかなり神経質になっていたので、婦女子には監視の目が数段落ちたからである。ベテランのリコリス達は周りに溶け込む方法をいくつも知っていたのも大きかった。彼女たちは公園や広場を囲う機動隊と押し問答しながら(そうしないと怪しまれる)集会へと入り込み、集会に参加するセクトを偵察し、隙を見つけて何食わぬ顔で現場から立ち去って行く。これを繰り返してセクトたちの行動原理というか、習性についての情報を積み上げていった。いくつか挙げていくと、このようなものである。特に最後の一点は「若い女」でなければできない芸当である。
・ゲバ闘争を予定しているセクトは旗やプラカードを多く用意し、
そうでないセクトは幟を多く用意する傾向にある。
彼らはゲバ棒を旗やプラカードの持ち手に偽装して持ち込んでいる。
・政府に対する攻撃を試みる場合、旗やプラカードが一つに密集するが、
セクト間で争う場合は旗やプラカードの集まりが複数に分かれることが多い。
ゆえにセクト間の衝突の際はプラカード集団の間に機動隊を突撃させれば分断は容易である。
・リコリスが「あるセクトがゲバ闘争を予定しているか否か」を判断する最も確実な方法は、
そのセクトの集会への参加の意思を示すことである。
普通は参加を認めてくれるが、ゲバ闘争を予定している場合は謝絶するのでそれとわかる。
ゲバ闘争で婦女子がけがや死亡した場合、ほかのセクトから批判されるからである。
そういった情報を収集しては警察と共有していたのだが、対応するはずの警察側の対応に難があって機動隊が大損害を出すことが少なくなかった。当時はマスコミや世論がセクト側に寄っていたことも相まって、デモ隊に対して強硬手段をとったり人数的な優位を確保することさえ難しかったことが大きな原因である。
「ウチに石が飛んでくるから、ここに機動隊を配置しないでくれ」
「何とか交番を移してくれないかな?活動家がうろついて客が来ないんだ」
こんなことが現地の住民から現場の警察官に要望されることがままあったのだ。
おかげで1968年に活動家を1人検挙する際に負傷する機動隊員の数は0.8人だった。その前年の羽田空港では、デモ隊を鎮圧するのに1200人の負傷者を出している。当時の警視庁警察官は外勤(交番勤務のこと)や交通課も含めて総員3万名だったから、毎日この調子では1か月足らずで全員が負傷してしまう。ゲバ闘争は過熱する一方で対抗するべき機動隊の増員は遅々として進まず、負傷者、殉職者が積みあがって対応能力は削られていく一方。その損耗を短期的に補うとともに大規模警備にて特設大隊として人員増強の元となるべき方面機動隊さえ枯渇が危惧され始めていた。この時の警視庁がどれだけ追い詰められていたかを物語る内々のエピソードとして、警視総監はリリベルを機動隊の後備役にすることを警察庁長官に具申する一幕があったことを申し添えておく。
この状況が変わるのは1968年の暮れの頃。文化大革命の余波をもろに浴びる英領香港からある男が日本に帰ってきてからの話である。
次回「サクラになったヒガンバナ―講堂事件」