ゴシゴシと、ブラシをこすりつけるようにして汚れを拭う。何かはわからないが、やたらこびりついていて全然とれない。一旦休憩して、「ふぅ」と額に手をやった。思い出したかのように塩素の臭いが鼻を突いて、噎せ返りそうになる。屋内プールだから日差しこそないけど、この匂いは慣れない。
他の人はどうなのかと周りに目を向けると、慣れた様子でプールサイドを掃除していた。みんな、黙々と手を動かしている。一人だけサボるのもなぁ、と、俺はまたブラシを握った。
再び床の汚れと格闘しつつ、海行きたいよな・・・・・・とぼんやり思う。ここ、海なし県だし。プールくらいでしか泳げないし。良いよなぁ海。輝く水面、賑やかな海の家、塩気を含んだ涼しい風、海に浮かぶ浮き輪と俺、何より水着の美人・・・・・・最高だよなぁと妄想に耽る。
煩悩に浸りつつ手を動かしていると、後ろから誰かが歩いてくる音が聞こえた。
「お疲れ様、少年。ずっとそこやってんね?」
「あー、センパイ。お疲れ様です」
そこに居るのは、スタッフ用のシャツを着て、髪をポニーテールに結んだ女性。俺をこのバイトに誘った人でもあり、学校の先輩でもある。俺のことを名前では無く『少年』と呼んでくるので、俺も『センパイ』としか呼ばないようにしている。そして付け加えるなら、メッチャ美人だ。
「てかそこ、汚れじゃなくて模様だよ?」
「え、そうなんスか!? マジかよ・・・・・・全部ムダじゃん・・・・・・」
こんな黒くてよくわかんないのが模様だったなんて・・・・・・どういう意図で作られたんだろうか。意味が分からない。
「私も昔、おんなじことしたんだよね。なつかし~」
「ならもっと早く言ってくださいよ。バカみたいじゃないッスか、俺」
「ふふふ! ゴメンゴメン」
本気で気落ちしている俺に、センパイは「ゴメン」と言いながらも笑う。俺からすれば、全然笑えなかった。
「ふぅ、笑った・・・・・・。
そうそう、忘れるところだった。そろそろ集合だって。行こ?」
「あ、ハイ」
笑顔のまま差し出された手を、思わず握ろうとして、引っ込めた。
「いや、じゃなくて! ブラシ片付けてくるんで、先行っててもらえません?」
「ん~、じゃあ、待ってる。
ほら、急げ少年」
「え!? あ、はい!」
ひらひらと手を振るセンパイに背中を向けて、不自然にならないように歩く。やっぱり、この距離感には慣れない。
センパイがこのバイトに俺を誘ったのは、なんでも男避けのためらしい。夏休みになってナンパとか増えるから、適当に彼氏のフリをして欲しい、とのことだった。そして、他のスタッフへのアピールでもあるのか、こうして付き合っているような距離で接してくる。結構、心臓に悪い。
センパイを待たせていることを思い出して、小走りになってブラシを用具入れに戻す。回れ右してセンパイの元へ向かいつつ、天井を眺めた。そして、デッカいタコを見つける。天井に描かれた、スミを吐く巨大なタコ。・・・・・・あ、あの模様、タコのスミか。ようやく気付けた。
嬉しくなりつつ、考える。どうなるんだろうなぁ俺の夏休み。取り敢えず、海は行きたいなぁ……その、センパイと一緒に。
そう思った、8月のある日だった。