日暮れ前、学内の第一レース場を備えた野外トレーニング場の一角に青いジャージを着込んだ男が立っていた。近くのベンチにクリップボードとその脇にクーラーボックスを置いて、メジロマックイーンのトレーナーは送り出したウマ娘たちが帰ってくるのを待っている。
彼の正式な担当はメジロマックイーンただ一人だ。しかし補助トレーナーとしてトウカイテイオーやイクノディクタスのトレーナーらに頼まれて——そしてマックイーンに何故かついて来たゴールドシップも加えて、四人の練習を見ている。
マックイーン主体の合同トレーニングではあるのだが、イクノとゴルシに関してはトレーナーからトレーニングメニューを別途持たされていた。一方でテイオーやマックイーンに関しては基礎トレーニングを重視している。そのため四人は一緒に外出に出たが、ゴルシとイクノが最初に戻り、大きく遅れてテイオーとマックイーンが帰ってくる予定だった。
「おーっ?メジロのナイト様は今日も懲りずに基礎練で御座いますか?」
ウマ娘たちが帰ってくるまでに、トレーニング内容の確認を欠かさない男の元に、ウマ娘を五人引き連れた短髪の男が現れる。現れるなり、いかにも相手を軽んじていますと言わんばかりの態度でマックイーンのトレーナーに話しかけた。
確認を続けるマックイーンのトレーナーは「俺の名前は内藤だ」とだけ訂正する。この内藤と名乗った男は、相手が自分の立てたマックイーンの指導方針を非難してる一人と知っていた。しかし対抗心も見せずに、男は淡々と受け流す。
「はー、お前の名前なんてどうでも良いんだよ。今日は俺たちがここ使いたいから退いてくんないかな?」
「断る。事前に予約した場所を譲る理由がない」
横暴な態度をとる短髪が内藤と名乗った男に詰め寄る。しかし、詰め寄られた側も一切引くことなく突っぱねる。
「おいおい、後輩だと思って舐めたんだろうけど実績はこっちのが上なんだぞ。敬意ってものを示せよ、な?」
トレーニング場には他にもトレーナーやウマ娘がいた。しかしこの短髪の男は自分より下と思った青いジャージの男にだけ強く出る。男たちが隅にいるからか、短髪の担当ウマ娘たちが壁を作ってるからか他のトレーナーたちは気づく気配がない。そば耳を立てているであろう練習中のウマ娘たちも巻き込まれたら叶わないと近寄らない。
「君が誰であれ、ここはマックイーンのために予約した場所だ。譲る気はない」
「そのマックイーンもダメなんでしょー?それなら重賞勝った私が使う方が有意義だと思うんですけど?」
業を煮やした短髪の担当ウマ娘が黒いサイドテールを揺らしながら一歩前に出る。実力主義の認識が強いトレセン学園の中で、G3に勝って増長してしまったのか。自分達の言うことに従わないことに苛立ちを隠さず、耳を絞って男に躙り寄る。
「は?お前、今なんて言った?」
躙り寄ったウマ娘に対して、男は初めて感情的な反応を示した。男は目を見開き、少女を威圧する様に低い声で問い糺す。少女はそんな反応を予想していなかったのか、すぐに驚いて一歩後退る。そしてその間に少女のトレーナーが割って入った。
「おいおい、生徒を怖がらせるとか最低かよ」
「君とは話していない。そこのお前、もう一度行ってみろ」
自分の振舞いを棚に上げて非難する短髪の男を退けて、少女に迫ろうとするマックイーンのトレーナーという構図が出来る。この構図にさらに逆上して短髪の男が担当する他のウマ娘たちも非難の声をあげる。
「別に基礎練するだけなら、コース使わなくていいでしょ!」
「勝つ気がないならやめてよ、アンタもアンタの担当も!」
男はすぐにまたマックイーンを槍玉に上げた女の子に視線を向かわせて、そちらへと歩み出そうとする。そこに身長一七〇の赤いジャージにヘッドギアを付けた奇ウマ娘が、ウマ娘たちの背後から現れた。
「おーおー、桂マが成桂みたいになってどうしたよ」
「げっ、ゴールドシップ」
男を囲んでいた少女の一人が振り向いて、顔を顰める。それに遅れてマックイーンのトレーナーが桂マと呼ばれて、ゴールドシップを一瞥した。だが原型のなくなった名前弄りにも、先に一人で帰ってきたことにも言及しない。
「そこのお前たち、さっき言ったことをもう一度言えと言ってるんだ」
「おいおい、落ち着けって」
マックイーンのトレーナーが怒っていることだけを理解したゴールドシップが、少女たちの間をすり抜けてマックイーンのトレーナーの肩を掴んだ。そして短髪の男や囲んでいるウマ娘たちから距離を取らせようとする。その姿だけを見て、短髪の男はゴールドシップという奇人さえも味方だと錯覚したのか、強気に口を開く。
「メジロマックイーンと仲の良いゴールドシップだってお前のやり方は目に余りあるってよ!」
「あーん……?アタシが、なんだって?」
火に油を注ぐ言動を見て、マックイーンのトレーナーを止めようとしていた少女は振り返る。男と少女たちを見定める様にそれぞれを一瞥する。最初にゴールドシップへの苦手意識を表していた少女は、勝手に威圧されたと勘違いして、負けじとまた一歩前に出る。
「アンタだって、遊んでるだけなんだからどっか行きなさいよ!」
「そうよ!遊ぶのにも基礎やるにもコースはいらないでしょ!」
数の暴力を勘違いした少女たちは、わざわざ仲裁してくれた少女にも非難の声を向ける。全員が全員、耳を絞って和解の余地を見せない。
「あー、そういうことかよ。メンドーくせーなぁ……」
ゴールドシップでさえ片目を瞑り、耳を倒して辟易とした顔をする。しかし、その辟易の意味を勘違いした黒髪のウマ娘が、ダメ押しの様に鼻で笑いながら、目の前の二人に言葉を吐き捨てる。
「
「今、マックイーンさんの悪口を言いましたか?」
吐き捨てた少女の背後から、また一段と冷めた声が投げかけられる。またかと思った少女たちが振り向いた瞬間、彼女たちの喉から潰れる様に空気が絞り出される。そこには四白眼になるほど大きく目を見開き、尻尾を逆立て耳を絞ったイクノディクタスが立ってた。イクノはその場にいる全員をそれぞれ順繰りに凝視した後、眼鏡のブリッジを持ち上げてかけ直す。
「答えなくても構いません。そもそも練習の邪魔をする事もマックイーンさんを侮辱することも許しませんから。しかし貴方たちは言葉で言っても引かないでしょう?どうですか、ウマ娘らしく模擬レースで決着を着けるというのは。そちらが負けたら謝罪を要求します」
「……ふーん?じゃー、こっちが勝ったら私たちに楯突いたこと謝ってどっか言ってよねー?」
イクノの提案に乗り気な勝利経験のあるウマ娘たち、一方でトレーナー二人は揃って渋い顔をした。模擬とはいえどレースはウマ娘たちに掛かる負担が大きい。特にこの状況下では本気の潰し合いになる可能性がある。しかし、短髪の男は自分の圧倒的有利から先に決めてしまう。
「そっちが言い出したことだ。やっぱり止めたはなしだぜ」
「お前!イクノ君も勝手なことを!」
イクノは三つ編みを揺らしながら少女たちの合間をすり抜けて、メジロマックイーンのトレーナー側に立つ。ゴールドシップはイクノの肩に腕を回し、耳元に顔を寄せる。そしてマックイーンのトレーナーにだけ聞こえない様に何かを話している。そしてその場にいる全員に向かってゴールドシップが提案する。
「よっし、決まりだな!そっちが全員出る、代わりに距離は2000でどうだ」
「こっちは別にいいわよー?未デビューの癖に、その距離で良いのかしらー?」
「ったく、アタシにまで突っかかって来やがって」
「アンタは生意気なのよ!」
余りにも当人たちが盛り上がりすぎて、最早マックイーンのトレーナーには手のつけようが無かった。最初は一番怒っていた男が、後から来た二人の怒りに呑まれて一人正気に戻っている。その男から見れば、こちら側に立つ二人の提案は正気の沙汰とは到底思えない。
メイクデビューから一勝クラス二勝クラスと順々に獲得賞金を重ねて、漸く挑めるのが重賞レースなのだ。そこに加えて、人数の不利と言うのはレースにおいて致命的という他ない。改めて止めようとしたところで、ゴルシとイクノに男は肩を叩かれる。
「いいからいいから、お前はマックちゃんのお出迎え準備でもしててくれよな」
「正統な抗議で跳ね除ける事も出来ますからね、ですがその前に灸を据えなければなりません」
「ってこった、心配すんなって」
発バ機の代わりに短髪の男がスタートラインの横に立ちスタート係を務める。ゴール板の代わりに置かれているヒシアマ姉さんの看板前でマックイーンのトレーナーが立ち、トレーナー同士で旗信号のやり取りをしていた。
少女たちはそれを尻目に、念入りにストレッチをしてからジャンケンで決めた順番にスタートラインに並んだ。イクノディクタスが最内一番、ゴールドシップが大外七番という枠番は、勝負相手の五人に安心感を与えたのか。五人は勝ったつもりで話している。
騒動がここまで大きくなれば、無視しきれずに少し離れたところでトレーニングをしていたトレーナーやウマ娘たちが観戦に寄ってくる。ヒト耳よりも遥かに遠くの音を拾うウマ娘たちの耳には騒動の大部分が伝わっていたらしい。ウマ娘たちを介してその場のおよそ全員が話を知る事態になっていた。
そろそろ模擬レースの開始と言わんばかりに短髪の男が台の上に立つ。
「スタート!」
「あん?」
短髪の男は、チャンスと言わんばかりに旗を振る。六人は調子良く駆け出していく。一方でゴールドシップだけは大きく出遅れてのスタートだ。一番最初にスピードを上げてイクノディクタスが飛び出す。黒髪のウマ娘も口だけではないのか、イクノディクタスを追ってハナを巡り争う。その後ろを走る四人はイクノに自由な走りをさせまいと後ろから追う。そして誰もがゴールドシップはもう終わったものだと認識していた。
序盤からイクノを潰そうとウマ娘たちは躍起になっている。後ろからイクノを無理に抜かそうとするウマ娘や牽制や駆け引きを仕掛けてるのか少し足取りが乱れたウマ娘と、全体的にハイパースでレースが流れていく。
(ち、思ったよりコイツしぶとい!)
イクノディクタスは未デビューであるが、明らかに競い慣れている。サクッと潰せるつもりだった黒髪の少女は苛立たしさ混じりに、無理気味に追い抜いた。そしてそこからイクノの周りを囲む様に他のウマ娘たちが上がってくる。
「ははっ!勝った!」
短髪の男は、周りの人に聞かれるのも気にせず笑い出す。しかしながら、異変はここからだった。トレーナーたちが口々に突っ込む。
「アっレっは誰っだっ」
「なんだアレは!」
「噂に聞こえた凄いやつ!」
「なんてべらぼうで出鱈目な走りなんだ!」
「たぁーッ!」
「ワイトもそう思います」
ゴールドシップがいる。スタートに失敗したゴールドシップが折り返し地点を超えたところで一塊になっていたバ群の最後尾に追いついた。そして追い付くどころか、そのまま大外を回って追い越しをかけている。尻目にそれを見たウマ娘が、牽制のつもりで無理気味に身を寄せてブロックしてもそれを押し退ける様にゴールドシップは前へと出て行く。
第三コーナーを回って、ここから勝負が動くという瞬間にはもうゴールドシップはハナ争いに並び立つ。そして何の技術も使わずにその脚力だけで抜け出した。急な一人旅に観客は呆然とする。
「マックイーンさんたちであれば、練習になったんですけれどね」
短髪の男は、抜かれるだけでスパートを掛けない黒髪の少女に急いで視線を合わせる。そこで目にしたのはマークが緩んで、イクノディクタスが抜け出し勢い付けてゴールドシップを追い始める姿だった。
抜き掛けに投げ掛けられた挑発を聞いて黒髪のウマ娘は遅れてスパートを掛ける。だが残りのウマ娘たちは冗談の様に疲弊している。中距離を走る体力は全員あるはずだった。
決着は数馬身差をつけてゴールドシップが一着。二着はイクノディクタスが、余裕を持ったハナ差で黒髪のウマ娘に競り勝った。三着以降はゴールと共に肩で息をする。
「芸術はーっ!爆発だーっ!」
「岡本太郎もそう言っていました」
一番に入線したゴルシは観客に対して、両掌を向けて腕を左右に動かして遊んでいる。追いついたイクノも横に立って、余り表情を変えずにゴールドシップの寄行に乗っかった。
「んな……んな馬鹿なことがあるか!お前ら、何をしたんだ!」
ゴール後に、顔を赤くした短髪の男が巫山戯た態度のゴールドシップとイクノディクタスに迫る。今にも掴みかかりそうな気迫の中で、今度はメジロマックイーンのトレーナーが割って入った。それが男の怒りに油を注いだのか、遂に短髪の男はマックイーンのトレーナーに掴み掛かる。
「お前の力じゃねぇだろ!ふざけんなよ!」
「そうだ、俺の力じゃない」
「だったら——
「これはお前らが嘲ったマックイーンの人望だ。それでも納得行かないなら黙って見ていろ、マックイーンはお前たちの遥か上を行く」
「うおおおおおおおおおお、いっちゃーく!」
「はあああああああああああ、にちゃーく!」
メジロマックイーンとトウカイテイオーが長めの外周から帰ってきた時には、ゴールドシップとイクノディクタスが強めに併せをしていた。調子に乗ってゴール板を超えたところで一本指を立てるゴールドシップと、それに差なく続いて二本指を立てるイクノディクタスが楽しそうに走っている。
「二人ともおかえり」
「ただいま戻りましたわ」
「ありがとーっ」
トレーナーは二人にスポーツドリンクとタオルを持って近づく。汗の匂いを気にする少女は少し長く手を伸ばして受け取り、気にしない少女は不思議そうな顔でマックイーンを見て首を傾げる。
「ゴールドシップさんとイクノさんは……楽しそうですわね」
少し垂れ目で愛嬌のある美人と切長の瞳にキリッとした美人が、二人揃って併せをしている姿を見てマックイーンは優しく笑う。
「おや、マックイーンさんおかえりなさい」
「マックちゃんもテイオーも早くやろうぜー!」
一区切りつけたタイミングで走っていた二人は寄ってきて、なぜかゴールドシップがマックイーンの頭を撫でる。
「ちょっとなんですの、やめてくださいませ。髪の毛が崩れますわ!」
「では私も失礼して」
「イ、イクノさんまで……!もーっ!なんなんですの!」
いつも巫山戯倒すゴールドシップだけでなく、憧れと好意の入り混ざった感情を向けるイクノディクタスにも撫でられる。マックイーンは堪らず顔を赤くして、逃げ出した。じゃれ合う三人を尻目にトウカイテイオーはマックイーンのトレーナーを見上げる。
「そう言えば、帰ってくる時に凄ーく人目を感じたんだけどさ。何かあったの?」
「何もなかったぞ。さ、少し休んだら練習に戻るぞ」
Tips トレセン学園の治安
まず諸君が中央トレセン学園の一員となった事を寿がせて頂く。
さて、理事長やURA代表と言ったお偉い様がたの話を拝聴する式典の後に、間髪入れずに人事部から今後の説明があって入社初日から大変疲れていると思う。明日以降は各持ち場での研修が始まるから、私からの話は手短に済ませ、終わった時間は早く上がれる様に手配してある。
私からの話は
一つ目はトレセン学園内では必ず四方に注意して歩いて貰いたい。特に慣れるまでは走らないことを勧める。理由は学内ではウマ娘たちの走行が認められているからだ。毎年、数人は学内でウマ娘に轢かれて怪我をしている。流石に全力疾走するウマ娘は居ないが、例えば校内で鬼ごっこをしている生徒なんかは割といる。他にも荷物を積んで歩く生徒もいて、ぶつかった拍子に崩れた荷物で潰されたケースもあるから十分に注意して貰いたい。
次に二つ目だが、今の話を除いてもトレセン学園は治安が良いとは言い難いため、慣れるまでは不用意に人目のつかない所や用のない所に立ち寄らないことを勧める。生徒たちも一枚岩ではないから一括りにはしたくないのだが、挫折や限界に行き当たったことで鬱屈した衝動を持て余したウマ娘がイジメに走るとかな。ウマ娘たちならまだしも、ヒトがウマ娘たちの喧嘩に巻き込まれたら一溜りもない。見つけたら自分で何とかしようとせずに直ぐに最寄りの警備員や生徒会、風紀委員などに連絡・相談をしてくれ。
三つ目だがトレセン学園には問題児というのも存在する。さっき挙げた荒れた子たちではなく、だ。例えば悪戯好きの生徒で隙あらば罠に嵌めてきたり噛み付いてくる奴、他人の身体で実験を試してくる奴、賭けを挑んでくる奴やハイテンションで絡んで人を引き回す奴もいる。後、理事長。私としては友好の表現だと思うが慣れないとあっさり巻き込まれて痛い目を見るから、慣れるまでは不用意に近寄らない様に。
特にトレーナー
……うん?勿論、警備員はいる。が、警備員は外部からの不審者や夜間外出の取り締まりなどが主な役割だからな。暴力行為くらいの大きな騒ぎにならなければ、いつものこととスルーされるから諦めるように。
これで最後だ、四つ目は学外への外出についてだ。周辺市街地はトレセン学園を中心に発展した経緯を持つ。そのため近隣商店街や公共施設などは極めて学園関係者に友好的である。
しかし、
以上で注意喚起を終わりにする。もし質問があれば今から三分以内で個別に来るように。後八分以内に寮前まで行かねば担当にジャイアントスイングの刑と言われているのでな。
出典: ××××年度中央トレセン学園 新入社員向け注意喚起より