「……氷室さん!」
無事、奈々を家族の下に送り届けた大悟達は、一度、調査状況を報告するために菊川警察署へ戻ることにした。陽が沈み、次第に空が夕焼けに染まり行く中、一行は菊川警察署に到着する。警察署の中に入る一行を呼び止めたのは、セーラー服を着た一人の女の子だった。
「美琴くん?」
「お知り合いですか?」
ええ、と健吾の問いに頷いた氷室は不安そうな表情をするその女の子と向かい合う。
彼女の名前は
烏の濡羽色の豊かな黒髪を背中まで伸ばしており、両側頭部にはトレードマークの赤いリボンを結んでいる。雪のように白い肌と、赤みを帯びた大きな瞳が神秘的な雰囲気を感じさせる。彼女を見た、多くの人に好印象を与えるだろう、APP14の可愛らしい美少女だ。
心身共に壮健な氷室の姿を正面から見た美琴は、「よかったぁ~」と安堵の溜め息を吐いた。
「何故警察署に? まさか、また怪異に襲われたのか?」
「私の方は大丈夫です。その、誰かが私に変な電話を掛けてきて……」
「電話?」
「はい、氷室さんが危ないって……」
その言葉に、氷室は怪訝な顔をする。
「……それは確かに変だな。念の為に聞くが、剛の馬鹿じゃないだろうな?」
「いえ、違います。声は男の人だったんですけど……」
氷室と美琴の関係を知る者はそれほど多くない。氷室が嫌疑を向けた加賀剛は二人の関係を知る数少ない一人であり、霧崎翔太と共に怪異症候群の解決に協力した氷室の友人だ。氷室の脳内で加賀が「そりゃあ……ねえってもんだよ!」と抗議の声を上げているが、怪異関係の問題をよく引き起こす筋金入りのトラブルメーカーには当然の扱いである。
だが、美琴本人の証言で加賀の容疑は否定された。もう一人の協力者である霧崎翔太がそんなことをする人物ではない以上、残る可能性は……。
(……まさか、特務課の人間か?」
氷室を除き、特務課に所属している職員は四名。この内、金森雛子に関しては、性別を理由に被疑者リストから除外されるので、中川良助、高木健二、小暮紳一の三名が被疑者となる。本当に彼等が犯人なのかは不明だが、氷室はその犯人に強い苛立ちを覚えていた。
姫野美琴は一般人である。仮に特務課内部に犯人がいるとすれば、その人物は警官失格だ。もうこれ以上、彼女を此方側に関わらせるべきではない。
「いいかい、美琴くん。君はもう普通の高校生なんだ。また自分から首を突っ込むことはない」
「……はい、でも」
「でも、じゃない。あまり大人を困らせるな」
「す、すみません」
美琴は硬い表情で俯いてしまう。
「俺達の仕事は、もう君には関係のないことだ。何か用があるなら後にしてくれ」
「……分かりました」
肩を落とす美琴の姿に、礼子は「はぁ」と溜め息を漏らす。数秒、氷室に非難するような眼差しを向けた礼子は、下を向いたまま警察署を立ち去ろうとする美琴の背中に呼びかけた。
「待ってちょうだい!」
「え…?」
「氷室さん。あなたも物騒な世の中なのは知ってるでしょ? こんな時間に女の子を一人で帰らせる訳にはいかないわ」
「……それは」
「私がこの子の面倒を見てるから中川さんに報告してきてくれない?」
優しげに微笑む礼子だが、その言葉には有無を言わさぬ威圧感を含まれていた。漫画ならば、背景に「ゴゴゴ・・・」という文字が描かれていそうなほど凄みを帯びていた。それこそ、多くの怪異事件を解決に導いてきた氷室が押し黙るほどに。
「それなら僕も残ります。……多分、僕がいない方が話せることもあると思いますから」
大悟も礼子に同調する。入所三ヶ月の自分が一緒では話し難いこともある、という口にした理由も嘘ではないが、氷室に袖にされた美琴を心配する気持ちが心の多くを占めていた。
「分かりました。では氷室さん、中川さんには僕達二人で報告に行きましょう」
「……ああ」
憮然とした表情で頷いた氷室は健吾と二人で奥の部屋に進んでいく。その様子を見送った後、礼子は美琴にソファに座るように促した。ソファと反対側の壁に背中を預けた大悟は、少し距離を置いてソファに腰を下ろした女性二人に視線を向けた。
「あたしは浪川礼子。あなたの名前を聞いてもいいかしら?」
「……はい。私は姫野美琴です」
「美琴ちゃん、ね。素敵な名前じゃない」
物理的距離は詰めないままに、礼子は美琴との精神的距離を詰めに行く。
「ホント、男の人って勝手よね」
「えっと、その……」
「氷室さんのこと、好きなんでしょ?」
「え、えぇっ!?」
あわわわ、と美琴が顔を真っ赤にして慌てふためくのを礼子は微笑ましげに見つめていた。
「ど、どうして…?」
「あら。あたしも女の子なのよ? 見れば分かるわよ」
「女の子……?」
等と、大悟が割と失礼なことを口にすると、礼子は大悟のことをギロリと睨みつける。
「何か…?」
「…いや。礼子さんは女の子と言うよりも大人の女って印象があって…」
「あら、ありがとう。けど、女の子の方が個人的には嬉しいわね」
「うーん。女心って難しいなぁ……」
女の子、という言葉に疑問を抱いたのは何も悪い意味ではない。大悟にとっての礼子は頼りになる大人の女なのだ。今日もキリエル人の件で焦っていた大悟を窘めてくれた。本人は褒め言葉のつもりなのを悟ってくれたのか、礼子も直ぐに矛を収める。
この辺りは日頃の行いが良いからだろう。これが凛太郎であれば、正気度が削れるほどの迫力で睨みつけられたはずである。
「それで? どうして美琴ちゃんは氷室さんのことが好きになったの?」
「三ヶ月前、氷室さんに怪異症候群から助けてもらったんです」
「怪異症候群?」
「はい。『ひとりかくれんぼ』を発端とする怪異の連続発生事件です。その時、私は何度も氷室さんに守ってもらいました。だから今度は私が、と思って……」
徐々に言葉尻が小さくなる美琴に大悟はやや苦笑気味に告げる。
「男としては、女の子を危険なことに関わらせたくないって気持ちはわかるけどね」
「それで女の子の気持ちを蔑ろにしていたら本末転倒よ」
「それはそう」
氷室の気持ちは理解できる。女の子で、高校生で、一般人の美琴には元の生活に戻ってほしい。
けど、その願いは氷室個人のものでしかない。美琴の人生は、美琴だけのものであり、それをどう生きるのかは美琴自身が自己責任で決めるべきものだ。氷室の意志で、無理に押し付けていいようなものではない。
「けど三ヶ月前か……丁度、僕がこの仕事に就いた頃のことだね」
「え、そうなんですか?」
「うん。僕が今の職場…烏丸超常探偵事務所に就職したのは4月8日のことなんだ」
大悟は目を瞑る。その瞼の裏には、全ての始まりの日の光景が鮮明に映し出されていた。
「…そう。全ては、4月7日の夜に送られてきた水晶玉から始まったんだ」
2016年 4月7日(木) 午後7時
神津市・東区 九条大悟の家
『――小鳥遊藍子ちゃん、素敵な演奏、ありがとうございました!』
『ありがとうございました』
九条大悟は、定職に就かずに日本各地を転々としている【フリーター】だ。或いは【ディレッタント】と言うべきかもしれない。あくせく労働する必要がなく、有り余る時間と資産を自分の為に費やす資産家のことだ。
現在、大悟は神津市東区のアパートで暮らしている。その理由は、寝床兼移動用の車両を車検に出していることと、この辺りにある建物に用事があったからだ。
『来週のゲストは、往年のホラー女優、
「愛さん。すっかり有名になったなぁ……」
十秒にも満たない時間、画面に映し出された女性の事を大悟はよく知っていた。
何せ、物心がつく前からよく顔を合わせていた間柄だ。二十年前、1990年代にはローカルアイドルグループ【ラブ&ヒーロー】として活動していた彼女が、今や全国区で有名なホラー女優とは随分と出世したものだ、等と考えてしまうのも仕方が無いことだろう。
ピンポーン!
その時、部屋の中に備え付けのチャイムの音が軽快に鳴り響いた。こんな時間になんだろう、と思いつつ玄関に向かった大悟は、念の為にドアチェーンを外さずに玄関の扉を開けた。
「お客様宛にお荷物のお届けに上がりました!」
来たのは何の事のない宅配便だった。配達員から荷物を受け取った大悟は、すぐに差出人の名前を確認する。差出人の名前を確認した大悟は、そこに書かれていた名前に怪訝な表情をした。
「僕の名前…?」
差出人の名前は九条大悟。漢字も読みも一語一句自分と同じもの、つまりこの荷物は自分が自分宛てに送ったもの……のはずであるのだが、大悟には、自分宛てに荷物を送った覚えがない。
不審物に分類される代物なのは間違いないが、中身を確認しない訳にはいかない。
唯一の肉親である伯父から送られた護身用の念持仏を片手に握りながら、ダンボールを開封すると中から出てきたのは水晶玉だった。
「…水晶玉?」
大悟は、水晶玉から不思議な力を感じていた。嫌な気配ではない。少なくとも、この水晶玉が自分を害することはないだろう、と本能的に感じていた。同時に、この水晶玉が普通の代物ではないことも理解していた。
心を惹かれるままに水晶玉を見つめていた大悟の意識は、深い海の底に沈み込むように落ちていくのだった。
闇に閉ざされた世界。希望の灯を許さない闇の世界に一筋の光が差し込む。粘液のように黒く塗り込められた空間を銀の光が照らし出す。その光の中に、大悟は一人の女性の姿を垣間見た。
『私は………………………ユザレ。この………が……たと………………、…………の……………てい…………こ……す』
(ユザレ? それが、君の名前なのか……?)
白い法衣を身に纏うその女性は闇の中を揺蕩う大悟の意識に語りかける。その女が青い光の魔法陣を作り出すと、大悟の意識は泡のような光に包み込まれる。フードから覗く青い瞳と目が合った大悟は、溺れる者のように法衣の女に手を伸ばした。
『…………から………………のは、………………だけ……。かつて…………………だった……は、戦い…………用い……を……………すと、……の………………なって、…………オリオン……へ……てい…………。…………たちよ、……を………、…………を………です』
(……よく聞こえない。君は一体、何を伝えたいんだ……?)
『……を甦らせる方法は唯一つ――』
淡い光を掴み取る。それと同時に、大悟の意識は光射す世界に浮上した。
2016年 4月8日(金)
「――はっ!?」
頭が痛い。意識は起きているはずなのに体がついていかない。全身の細胞がストライキを起こしているかのように、体が思うように動かない。大悟は額に流れる汗を服の袖で拭い取ると、昨夜送られてきた水晶玉に視線を向けた。
「今の夢は……あの水晶玉のせいなのか?」
しばらく水晶玉を眺めていたが、自分がいつ、眠りに落ちたのかは思い出せない。恐らくはあの水晶玉が原因なのは間違いないだろうが……。
取り敢えず、普段の習慣でテレビのリモコンに手を伸ばす。テーブルの上に置いてあるリモコンを掴むと電源ボタンを押した。黒い画面に、毎朝見るニュースアナウンサーが映し出された。
『先日未明、神津市の路上で男性が死亡しているのが見つかり――』
「……またか。最近、物騒になってきたなぁ……」
等と言いつつ体を起こすと大悟はテレビをつけたまま風呂場の方に向かう。寝汗でぐっしょりと濡れている寝間着を洗濯機の中に放り込むと、汗まみれの体をシャワーで洗い流してから髪型等の身嗜みを簡単に整える。
『先月にも複数の遺体が見つかっており、警視庁は同一犯による反抗の可能性が高いと見て――』
同じ街で連続殺人事件と思しき複数の殺人事件が起きている。人的事件に対する護身用のスタンガンと心霊事件に対する護身用の念持仏、他には財布等の必要な物を鞄に詰めた大悟は、部屋の片隅に置いてある水晶玉を拾い上げた。
「…この水晶玉も持っていこう。例の事務所の真偽を見極めるには丁度いいかもしれないし」
大悟は、箱の中に入れた水晶玉を鞄の中に入れると地図を片手に自室を出発した。
目的地は徒歩二十分以内の距離に位置する探偵事務所だ。その探偵事務所は超常現象や心霊現象の類を専門としており、伯父の情報網では「本物」という話を聞いている。本当に本物ならば、水晶玉の件も解決してくれるだろう。
そして、大悟の悲願も――
「? なんだろう、あれ?」
歩道を歩いていた大悟は進行方向に空中に空いた穴のようなものを見つけた。その穴の周囲の空間には亀裂が入っており、少しずつ穴の大きさを広げている。穴の中からは青黒い靄が溢れ出しており、その靄を目にした大悟は全身粟立つのを感じた。
それなのに、道行く人々は何の反応も示さない。まるで穴の存在に気付いていないように、穴の直ぐ側を平然と素通りしていく。
「あ!」
別の道を探そう、とすぐに来た道を引き返そうとする大悟だったが、その穴の前で全身赤い服を着た女性が転ぶのを目にしたと同時に、何も考えずにその女性の下へ駆け出していた。
「大丈夫ですか!?」
大悟が声を掛けるとその女性は無言で振り返る。彼女は口元を隠すマスクを外しながら……
「ワタシ……キレイ……?」
「!?」
その女性の素顔を目にした大悟は驚愕と恐怖に目を見開いた。何故ならば、その女性の口が耳元まで大きく裂けていたからだ。体を硬直させた大悟に『口裂け女』は容赦なく掴みかかる。
「しまっ…!?」
そのまま地面に押し倒された大悟は身動きすることもできない。振り上げられる血濡れの鎌を目の前にして、大悟は目を瞑ることしかできない。先立つ不孝をお許しください、と心の中で謝罪の言葉を口にする大悟へと口裂け女の鎌が振り下ろされた。
「死ネェ…!」
九条大悟
Lv 31
HP 50/50
MP 14/14
SAN 65/65
浪川礼子
Lv 30
HP 48/48
MP 15/15
SAN 70/70
烏丸健吾
Lv 30
HP 40/40
MP 12/12
SAN 55/55
氷室等
Lv 30
HP 48/48
MP 11/11
SAN 55/55