内政? ハーレム? 立身出世? そんなことよりレベル上げだ!(仮)   作:トシアキウス

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クソ長回想回。
主人公は登場しません。


堕天

 彼女の祖父は暴君であった。入り婿の父は気弱で、母も祖父の言うことに逆らわない人間であった。兄は頭の働きが良くなくて、それは生まれつきのものであった。社会生活にハンデを背負った反面、腕力には恵まれていた。元冒険者という猟師のおじさんの角張った筋肉質の腕と比べ、兄の腕は不均衡に太くたるんでいるが、異様な力を発揮して青竹を握りつぶすほどであった。そんな兄のお世話をするのが、家庭内における彼女の役目であった。

 祖父と父母、兄と彼女の五人家族である。祖母は母が子供の頃に亡くなっていた。村人の噂によれば祖父と曾祖母にいびり殺されたという。祖父の亭主関白ぶりは有名で、後添いを迎えられなかったのもそれが原因であるらしい。

 祖父は事あるごとに怒鳴り散らした。怒鳴っていないときは不機嫌そうにむっつりして、返答のたび何かしら怒気を表すから、農作業中仕事上のやり取りをするにしても、いちいち顔色をうかがう必要があった。機嫌が良いのは飲酒のときくらいである。激昂するか沈黙する癇癪玉のようなよくある人種で、彼女の家はそんな祖父に支配されていたせいか、彼女が物心つくころには大声に反応して身体が強ばる癖がついていた。

 祖父は兄には甘かった。家族の中で兄だけを可愛がっていたといってもいい。長男が第一という価値観もあるが、他の家族にするように家庭内暴力を試みたら逆に組み伏せられかねぬという予感もなくはなかったろう。祖父の兄への溺愛ぶりは食事の順番にも表れていた。彼女の家の食卓は二人がけである。最初に祖父と兄が出来立ての料理を食べ、次は働き手の父と母で、最後に彼女が残り物を食べて後片付けをする。偉い順番で食べるという家庭内規則である。彼女が口にするご飯は冷たかった。そうでない食事をするには、その順番が繰り上がるまで年月が過ぎなければならなかった。

 彼女が十二歳の頃、祖父が卒中で死んだ。葬式では兄がずっと泣き喚いていて、父と母は兄をなだめながらも、どこか晴れやかであったのを覚えている。酒飲みの卒中は生き延びることが少なくないといわれている。もしそうなれば兄に加えて体の不自由な祖父となり、二人分のお世話を家族がせねばならなくなる。葬式のごちそうの余り物で作ったシャケの握り飯は、ほっとする味がした。

 

 食卓の順番は、母と兄、父と彼女というふうに変わった。祖父という働き手が減った一方で酒代の必要がなくなったので、農作業の負担は増えたが家計には余裕ができた。成長期に充分な栄養を得たことで彼女の肢体は女性らしい丸みを帯び、村の少年たちにからかわれたり、男性の視線を感じたりすることが増えた。

 肉体が成長する一方で、家庭内環境は改善したとはいえなかった。母が金切り声を上げるようになったのである。母は祖父に代わり、家庭内における新たな支配者となっていた。祖父ゆずりの暴君ぶりは抑圧された母本来の気質からなのか、父のふがいなさからなのかはわからない。入り婿で遠慮することの多かった父はびくびくする生活を長年続けたせいか、祖父のいなくなった後も大人しい性格を変えられなかった。

 

 祖父が彼女に対する以上に、母は彼女に冷淡になった。祖父が生きていたころは祖父に虐げられる女性同士というある種の連帯感があって、辛い境遇を慰めてくれたりこっそり食事を分けてくれたりした。前提としての親子の情は無論ある。しかし祖父から解放されて連帯感がなくなるとともに親子愛も薄らいだのか、何かにつけ彼女の生活態度にけちをつけ、「いやらしい」とか「淫売」とか教育的な発言を繰り返した。幼児から娘へと美しく花開く年頃である。実際、そういった教育は必要であった。いわゆる鄙まれな少女に彼女は成長しつつあり、世間体に気を遣わねばならなかった。教育方法が嫌味や体罰だけなのも仕方なかった。母は祖母を幼くして失い、小間使いとしてはともかく女性としての教養は不足していた。化粧がへたくそで、精神的な負担からか若くして小じわが増え、父と結婚したときも年上の父より一回り年取って見られていたらしい。

 人間は何かを愛さずにはいられないという言葉がある。減った分の愛情は他方で補填されるというその習性に従い、かつて父と彼女と兄に分散して向けられていた母の愛情は、兄一人へと向けられるようになった。農村にありがちな長男至上主義ではない。もっと人間的な理由であった。きっかけはおそらく祖父の葬式である。皆が皆世間体から悲しんで見せているなか、兄だけが心の底から悲しんで、祖父のための涙を流していた。その様子に後ろめたさを感じたのかもわからない。肉親にもかかわらず悲しむどころか厄介払いで仄かに喜んでさえいる。そんな自分自身と、兄以外の己の家族とが、ひどく罪深いように思われてならなかった。母はただただ打算なく悲しむ兄の純心さがまぶしくて、心を打たれたのであろう。兄を溺愛するようになって「天使ちゃん」とたびたび呼んでいることからもそれが察せられる。

 彼女も母と同様に祖父の死を悲しめない罪悪感を覚えはしたが、母とは違い、それが兄への愛情に転化するには至らなかった。何となれば彼女は兄のお世話係である。頭が悪くて力が強い。しかも強制された役目である。うんざりさせられたことは数え切れない。信仰や憧れといった一方的な好意というのは大抵、対象への距離に比例するといわれている。人間の顔面に近付けば近付くほど小じわや毛穴といった粗が見えるように、ひたむきな愛情を抱くには、彼女は兄に近すぎた。母の気持ちに共感できない。兄の純粋さに感激しない。そういった態度も、母が彼女を嫌う一因であったろう。

 

 存命の頃祖父は暇があれば兄を遊びに連れて行った。釣りや昆虫採集、つちのこ探しなどらしい。それ以外は聞いていない。二人して泥だらけで戻ったこともあるが、何をしていたのかはわからない。彼女は祖父に遊んでもらったことがない。朝お弁当を手に家を出て、夕暮れに帰って来ることもあった。二人とも、楽しそうだった。祖父は上機嫌で、兄は心底幸せそうな笑顔を浮かべていた。そのとき獲れたつちのこの蛇拓は今でも居間に飾ってある。つちのこを売ったお金は酒代になった。

 兄だけが祖父に遊んでもらえる。いいなと思わなくもないが、不満はなかった。祖父が兄をかまっている間は、兄の世話から解放されて、一人きりになれたのである。彼女は自分のために時間を使えた。

 彼女は自由な時間を得るといつも、一冊の本を開いて過ごしていた。とある偉い冒険者の冒険譚とその偉大さを書き記した本で、装丁は立派であった。

 猟師のおじさんに貰った本である。古巣のしがらみで何十冊もの在庫を抱える羽目になり、村人相手に押し売りするわけにもいかずに自腹で済ませ、子供たちに配っていた。

 他の子供たちと同様に彼女も本を持ち帰ったが、その際母は、祖父が健在の当時にしては珍しく激怒した。

「こんな、こんなもの勝手に貰って。お礼をしなきゃならないでしょ」と彼女をさんざん折檻すると、野菜か何かを包んで猟師のおじさんにお礼しに行った。

 そうした入手経緯のせいかこの本を手に取るたびに頬を打たれた痛みが連想されて、反射的な罪悪感にぞくりとした。しかしそれでもこの本は、彼女にとって宝物であった。

 彼女の所有物は玩具も勉強道具もみな兄のお下がりで、薄汚れていた。この本は始めから自分だけのものである。手垢や唾液にまみれていない。きれいな新品であった。

 彼女の家にこれ以外の蔵書はない。昔は父のものが何冊かあったらしいが売り払われた。祖父が兄に兄の読めぬものを買い与えるわけもない。

 本の中身自体は、空想的な物語とやけに現実的な内容の継ぎ接ぎで矛盾も多い。何度も読み返しながら年月を重ねれば、首を傾げることも増えた。思い返せば彼女は本の内容に感銘を受けたというより、読書という行為そのものに夢中になったのであろう。

 ひとけの無い納屋の脇に腰掛けて、手洗いをしてきれいになった手でページをめくる。眼が疲れると顔を上げてぼんやり空を見上げながら文章を咀嚼する。後書きを読み終えれば、また前書きから読み始める。同じページの同じ文章を同じように読み直した同じ頭の働きを、心地良く味わった。

 本を開いている間は、怒鳴り声にびくつきながら家の手伝いと兄の世話に費やされる生活を忘れていられた。前はここまで読んだ。次はあそこまで読める。そればかりを楽しみに日々の暮らしをやりすごした。年中行事や四季の移り変わりなどより、何ページ読んで読めるかが念頭に置かれていた。他の子供のように将来のことなどはまるで考えなかった。どうせ思い悩んでもどうにもならないのだから、こんな生活の合間合間に訪れるわずかな時間の幸せを想うことこそ健全であった。

 

 兄にかまってやる祖父が死に、母は愛情を示すばかりでお世話自体はほとんどしない。いよいよ読書の暇もなくなりそうに思われたが、僥倖にも、彼女の拘束時間はそんなに変化しなかった。祖父に代わって兄の遊び相手をするお友達が出来たのである。年少の子供たちであった。

 彼らは頭の成長がひどく遅れている兄を、図体の大きな同世代として扱った。こういう点で田舎の村社会というのは案外に大らかである。力持ちで色々な遊びを知っていて、玩具も沢山所持している。年少の子供たちの間で兄はたちまち人気者になった。この子供受けぶりは、ある意味で祖父の教育成果といえる。この頃には兄自身も成長して年少と同等くらいはあったので、友達とやり取りする分には支障なかった。祖父の躾からか腕力を誇示して年上面することがない。悪意を察する能力が無いからいじめられても反撃せずに微笑する。そういった気質も子供たちには気安かったろう。一緒に遊ぶ仲間をやるだけならば、もはや年齢は関係なく、図体の大きさも個性の一つに過ぎなかった。

 

 子供たちとの交流が始まると、兄の精神は急速に成長して行った。「いってきます」や「こんにちは」などの挨拶を自主的にするようになり、「ママだいすき」と話して見せては母を涙ぐませた。この調子ならいつかは人並みになってくれるかもしれない。そんな希望もあってか、母は「天使ちゃん」を褒めそやし猫可愛がりした。褒めて伸ばすという教育方針を、赤ちゃん口調で実行したのである。

 見るに堪えぬ母の振る舞いの甲斐あって兄は成長した。やろうと思えば一人で着替えもできるくらいになった。けれども実のところ、お世話係の彼女の負担はむしろ増していた。兄は愚図るようになっていた。

 母の前では一人で着替えて見せるくせ、彼女と二人きりのときは手伝いなしでは服を着ない。断れば腕を振り回すなどして全裸のまま暴れ出す。生前の祖父や頑是ないお友達から癇癪という行為を学習したのであろう。あるいは母が甘やかした兄の眼前で妹の彼女をさんざんに叱責する様子を見て、それで彼女を召し使いであると見なしたのかもわからない。

 

 母は祖父の子で、兄は母の子であった。それなら自分は何なのだろう。母に叩かれた頬と兄に打たれた肩の痛みを堪えながら、愚にも付かぬことを考える。母と兄がああなってしまったように、自分はこうなってしまった。そのように人間が成長した。家族への奉仕という名目であらゆるものを奪われながら、読書という束の間の安息だけを慰めに生きて行く。己はそういう人間なんだと彼女は諦めていた。このときはまだ、彼女の精神の均衡はそれなりに保たれていた。

 均衡が崩れたのは彼女が十四歳になった年の春先である。

 

 発端は彼女の兄と同い年の青年の思い付きであった。年少の子供社会の中とはいえ、出来損ないのあいつが我が物顔でいるのがなんとなく気に入らない。嫉妬というほどではなく、ただあれの振る舞いのおかげで、同じ年上の自分まで侮られているような気がしてならなかった。あれを基準にされたくない。あれが下でこちらが上だと、年少連中にわからせたかった。ガキ大将ぶっての制裁は大人げなく、そもそもあれに恨みがあるわけでもない。当人は馬鹿力であるし、むしろ妹が美少女なので外面では仲良くしたい。とにかくあれとあれに懐いた子供たちに、兄貴分の威厳を見せつけてやろうと考えた。

 思春期を経た青年と年少の子供との差違で最もわかりやすいのは、欲が一つ多いことである。青年は無垢な子供たちに見せつけてやるべく、秘蔵の本を持ち出した。

 

 中綴じの薄い本である。真っ当な成年向け書籍と違って教会への税金は支払われていない。違法ではあるが取り締まり切れないので見逃されている。若者思いの行商のおじさんが村の出口で休憩中、こっそり販売してくれる。玉石混淆で海賊版まがいのものすらあるが、安くて種類が多いので、金のない田舎暮らしの青少年や、恋愛を自粛する駆け出し冒険者や冒険者志望者にとっては、ある種の生命線でもある。

 

 青年は「いいものを見せてやろう」と子供たちを河原に集めると、もったいぶった動作で「いいもの」を開いて見せた。

 少年社会によく見られる自主的な性教育活動である。必ず大人に隠れてやる。場所が河原なのは作法である。鑑賞会が済んだら口止めと、入手方法の伝授をする。自然と代々行うこれは、男社会において教会の儀式に次いで一般的なイニシエーションであった。

 青年は子供たちの反応を見た。恥じ入って顔を逸らす。むっつりした顔で耳だけを真っ赤にする。「エロだ」「ばっちい」と言いつつも口元をにやつかせる。この類いの違法本は白黒で印刷が粗いので、写真ではなく線画や漫画といった内容であり、ある程度見慣れなければのめり込めない。今回は初心者向けに劇画調のものを選んだのが功を奏した。写実的な生々しい絵なら、子供の単純な想像力でも現実に結びつく。

 あれこれされる質問に答えながら、青年は子供たちの尊敬のまなざしと、己が大人であるという自負を存分に味わった。例のあいつが気に入らないという始めの考えはすっかり忘れてしまっていた。青年は子供たちとのやり取りが忙しくて見逃していたが、当の彼は口を半開きにして一見ぼんやりした顔で、本の中の女体を凝視し続けていた。

 

 秘密の集会は連日続けられた。子供たちはどんどん知識を吸収して、青年が口頭で説明した自己処理方法を試してみて、成功にこぎ着けた者が出たほどであった。ここまで来ると青年も子供たちの勤勉さに辟易し始めた。仲間内という閉鎖環境での性の追求は行きすぎると男色の気配を帯びてくる。ある子供が自己処理学習の成果を他の子供の前で自慢げに実践して見せたのには閉口させられた。

 青年は集会の終了を宣言して、続けたがる子供の不満を逸らすため、数冊の薄い本を回し読み用に寄贈した。子供たちが青年に懐いていたのは青年本人を慕っているからではなく、青年の蔵書を閲覧したいがためであった。そのことに気が付けばむなしさと羞恥心が湧いてくる。

 河原を離れながら振り向いて子供たちの様子を見ると、子供たちの共有物となった薄い本を例のあいつが一人で開いて見つめていて、その手は股間に伸びてゆさゆさと揺れていた。その仕草にどうもいやなものを感じて落ち着かなかった。そういえばあれの母親は頭のおかしい婆さんである。自分のことが発覚すれば「天使ちゃん」にいらぬ知恵をつけたことを追求しに、家まで怒鳴り込んで来かねない。そんな予感のせいであろう。

 

 その日、彼女はいつものように読書をしていた。納屋の脇で木製の酒瓶ケースを二つ重ねて腰掛ける。閉じた膝に本を乗せる姿勢は、最近は胸が邪魔で読みづらくなりつつあった。用がなければ誰も寄り付かず、家や道路からは死角になって見えない。ここなら自分の好きなことをしても、誰からも怒鳴られないし打たれない。気兼ねせず一人でいられる場所であった。しかしその日は足音が聞こえた。

 兄であった。本を閉じて隠すように後ろに置いて、どうしたのかと尋ねてみる。どうも様子がおかしい。兄は彼女に向かって歩きながら、ズボンのなかに手を突っ込んで上下させている。股ぐらが痒いのであろうか、「天使ちゃん」の珍しくもない奇行である。しかし声をかけても止まらずに彼女のそばに寄ってくる。

 思わず「あっ」と声が漏れる。こちらがまごついている間に、すんすんと匂いを嗅がれるほどに近寄られていた。いやな気配がした。

 彼女は咄嗟に逃げようとしたが、しかし腕を素早く掴まれていた。万力のごとき力で骨が軋んだ。不意の痛みに声を上げる。大声を出すのに慣れないせいか、か細い悲鳴であった。それに反応して兄は、笑いを漏らしたような音を発した。

 兄の目は血走っていて、その口元はいやらしく歪んでいた。

 

 どれくらい時間が経ったかわからない。兄は一人でズボンを穿くと去って行った。

 体じゅう痛かった。起き上がり、服を集め、一歩一歩ふらつきながら歩いて行く。動作や呼吸の度毎に、身体の芯にこびり付いたような重い痛みが走った。途方もない罪を犯したような心地であった。おのれ自身の大切な一部分が永遠に損なわれたように感じられた。

「洗わなきゃ」

 そう呆然と呟いた。川の水に血の付いた服を浸けてぐしゅぐしゅともみ洗いする。初めての生理のときが思い出された。涙でぼやけた視界のなかでいやに鮮やかな血の染みが、水に流れてかすれて行った。肌で粘つく体液は外気に触れて冷え切っていた。水を吸った衣服を絞ってまとめて持つ。立ち上がる。取り落とした。濡れた布の塊が地べたの上に広がった。不意にへたり込み突っ伏すと、彼女はひたすら嗚咽を漏らした。

 

 一度だけ、母に己の将来について質問したことがある。

「馬鹿言わないで。あんたは天使ちゃんが結婚するまでお嫁さん代わりをするんだよ。大事な大事な家族のためよ。嫁になんてやるもんか」

 こんな人間には兄の所業を告発しても、逆に「天使ちゃん」を誘惑したからだと責められるであろう。父にしても耐えろとしか言わないに違いない。どうせ誰も助けてくれないんだ。彼女はそう思い込み、兄に己がされた仕打ちを誰にも打ち明けようとはしなかった。

 

 性の悦びを知った兄は春の陽気もあってかさかり付いた。人前では普通でいるくせ、彼女と二人きりになった途端に、後ろから抱き付いてへこへこと腰を振る。幼子(けだもの)のごとく純心で、幼子(けだもの)のごとく自制心に欠けている。人形遊びのように手足を痛めつけても、衣服を破ることはなかった。癇癪の次は悪知恵を覚えたのである。

 彼女もただやられているわけではない。最初のうちは何度もいいようにされていたが、ここ最近は不穏な気配を感じると、さっと身を躱して逃げ出せるようになった。兄の腕を掻い潜ったり、怪力による拘束からするりと抜け出したりである。何彼につけ母にけなされて自信を持てない自分にも、身体を動かす才能があるのを知った。今さらだった。その場を切り抜けた後は兄の昂りが静まるまで、隠れん坊のように隠れて過ごした。

 接触を避ける機会が増えれば、身の回りの世話の頻度も減って行く。見窄らしい兄の格好を見て母が「天使ちゃんのお世話が滞っているようだけど」と嫌味を言った。

「色気づいてでもいるのかしら。生意気よ」

 村の誰かと逢い引きでもしているのかと勘繰った母に、頬を腫れ上がるまで繰り返し平手で打たれた。

「この面なら余計なことは出来ないね。天使ちゃんのお世話に専念するんだよ。あんたなんかを育ててやった、あんたの役目なんだからね」

 顔がそうなっても兄はお構いなしであった。彼女は逃げ続けた。寝不足で隈が増え、母の体罰と兄の暴行とで身体の痛みも引かなかった。肉体と同じように、彼女の精神は日に日に追い詰められて行った。兄もまたその欲求を我慢させられて、しだいに不機嫌そうな表情を浮かべるようになった。祖父と似たむっつり顔である。

 

 ある日、本を隠しておいた場所が荒らされていた。

 千切られたページがあたりに散らばっている。背表紙から真っ二つに裂かれて分割された表紙には、泥か糞便を指に付けてした茶色い落書きがあった。呆然と膝をつく彼女の後ろに兄が現れた。

 兄の支離滅裂な言動を普段のように察するには、頭がちゃんと働かなかった。こんなものがあるから自分から逃げるんだ。そんなような意味の言葉を発している様子であった。兄が背後から覆い被さり彼女の身体をまさぐった。彼女はされるがままであった。

 事を終えた兄が心底幸せそうに息を吐く。肉の衝動から解放されて、天使のような微笑であった。

 

 汚されて台無しになった身体で、同じように犯された本の残骸をかき抱く。

 相手を虐げることで言うことを聞かせる。己の欲を満たすため、積極的に他者を害する。家族からは癇癪を学習し、友人からは悪知恵を覚え、そうして兄は我と我が身の衝動から、悪意というものを獲得した。

 それは人間性と言い換えられるかもしれない。しかし兄には理性はない。理性のない悪意に満ちた人間性、そんなものを持つ邪悪な存在は、この世界に生きる者なら誰しもが知っている。魔物である。

 もはや兄は魔物であった。邪悪な魔物になってしまった。

 

 靴下を手に河原で手頃な石を見繕う。靴下では生地が破けるかもしれないので、予備の手ぬぐいでも試しておく。あの本で学んだ仕方であった。

 決行の機会は間もなく訪れた。息を荒くして抱擁してきたのを以前のように躱してやると、てっきり逆らわれないと思ったのか意表をつかれた顔をされる。そのまま逃げ出して身を隠す。彼女を探してきょろきょろ辺りを見回す姿を観察する。しばらく待つ。諦めて股間をいじりながら歩き出した背後へと、足音を殺して近付いた。即席のブラックジャックを振り回し、遠心力を充分に効かせて後頭部へと打ち付けた。鈍い音とともによろめくと、うめき声を上げてこちらを見る。次の一撃を放つべく石入りの靴下を回転させた。

「いたいよ」「やめて」「ごめんなさい」と情けない声を上げている。暴力を振るうのには慣れていても、振るわれる側になるのは初めてであろう。しかし腕力は向こうが強く、反撃という行為を学習するおそれがある。今のうちに畳み掛けねばならなかった。四肢や胴体を打ったが分厚い脂肪と筋肉に阻まれて手応えが心許ない。痛みは与えられているがろくな怪我にはならないであろう。狙いを頭部に集中させた。顎先をかすめて膝が抜けた。ふらついて四つん這いになるが、それでもなお這って逃げ出そうと動いている。打ち損ないで背中を打つたび、「いたいいたい」と鳴いている。靴下に穴が開いて石が抜けた。手ぬぐいに切り替える。頭蓋を殴る手応えは、こちらの方が頼もしい。念入りに石を包んだ手ぬぐいは血を吸って真っ赤に染まり、打擲音も湿っていった。

 本を読んで冒険者になりたいと思ったことは何度もある。そのたびに諦めていた。

 しかし今は憧れた冒険者と同じ行為をしていた。冒険内容は魔物退治で、対象は図体のでかいゴブリンである。被害者も依頼者も実行者も自分自身で、報酬はこの人間に擬態した魔物からの開放である。武器から用意する初めての冒険であった。

 絶叫が聞こえた。魔物()はだいぶ前から血溜まりに沈んで呻くばかりで力尽きている。母であった。血の気の引いた顔で震えていた。何度か大声で鳴かれたので、それを聞きつけて来たのであろう。

「あ、あんた、いったいなんてことを……」

「私、冒険者になりたかったんです。だから、あ、あの、褒めて下さい。魔物退治、私なんかでも、ちゃんとしっかり出来たでしょう?」

 それからのことはあまり覚えていない。母に続いて何人もの大人の人がやって来て、彼女に手枷をしてから教会の物置に閉じ込めた。

 

 頭のおかしかった兄が頭のおかしい母の前で頭のおかしくなった妹に頭を割られた。単純な暴行事件と片付けるには問題があった。犯人である妹は、日常的に母からは虐待を、兄からは性的なそれを受けていたことが取り調べで判明した。ある意味で正当防衛である。情状酌量の余地があった。目撃者が多数いて、被害者である兄が有名なこともあって、事件内容とその経緯はあっという間に村中へと広まった。犯人が実の兄に手籠めにされていたのも、村人の知ることとなった。噂の種としては大物であるが、大っぴらに批評するには極めて繊細な問題である。この類いの話は新聞に載ったら慈善団体の反発が予想される。この田舎では関係ないが都会では地方ギルドの飯の種である。村の名誉にもかかわってくる。村長は村人全員を集めて箝口令をしいた。

 紆余曲折を経て、家庭内の事故として片付けられることになった。母による虐待は処罰するのが難しく、兄のそれは肉体的な被害と相殺する。そのような裁定であり、名目のために村長は見舞金を出した。その大半は兄にかけた回復魔法の費用である。妹の方は教会の無料診察を受けた。念のため洗浄器で洗浄された後、薬を処方された。

 

 兄は死ななかった。教会の神父の魔法治療のせいで一命を取り留めた。けれども身体の半分が頭のように不自由となり、前までのような怪力は発揮できず、びっこを引いて歩くようになった。ほとんど蚊帳の外であった父はというと、噂好きの村人に兄の片棒を担いだと下種な勘繰りをされて、以前にも増して肩身が狭くなった。母は言った。

「あんたなんか産まなきゃよかった」

 長男を生み損なった女が何を言う。そう言い返す気力は彼女にはなかった。

 母は兄のお世話による負担でやつれ始めた。そして自分が辛い思いをする原因に向かって「家から出て行け」と繰り返した。

 彼女はその通りにした。

 

 数日後、彼女はクルエル市の路上に立っていた。家族から開放され、念願の冒険者になる機会ではある。しかしその気力はまるでわかなかった。女神の加護を失った冒険者は大成できないと、彼女は本で読んで知っていた。働き口を探そうとはした。何度か面接してもらったが、全て断られた。自分という人間は鈍臭そうに見えるらしい。我ながらもっと必死になればいいとのにとも思うが、家にいた頃のように辛い目に遭うだけの日々が予想されて、どうも身が入らなかった。兄へ反撃したときの夢見心地が、今でもずっと続いているような心地であった。

「あの、結構前からそこにいましたけど、待ち合わせですか?」

 彼女に話しかける人がいた。身綺麗な男性で、優しい微笑を浮かべていた。丁寧な口調と物腰に促され、田舎から出て来たという身の上を告げた。

「食事をご一緒しませんか。もちろん僕のおごりです」

 ひどく親切な人であった。食事の前にドレスコードだからと、なぜか服屋に連れて行かれた。

「似合っていますよ。ええ、すごく」

 生まれて初めて身につける綺麗な服に、生まれて初めて口にする繊細な味付けの料理である。大好きなシャケにあんな調理法があるのを初めて知った。ムニエルというらしい。

 外は暗くなっていた。

「宿をとってあるんですが……どうです?」

 世間知らずの彼女にもなんとなく意味はわかった。自分はどうせとっくに損なわれている。断る理由はなかった。

 ベンセレムで立ちんぼの鑑札が発行されるのは十八才以上である。この優しい男性は俗に言うお父さん活動に熱心な慈善家で、働けない未成年の少女に援助するのが趣味であるという。無論、一夜限りではあるが恋愛関係にはなってもらう。

 彼女はこくりと頷いた。懐の生活費は心許なく、それに優しい男性である。村に来る役人さんのように紳士的であった。お金と引き替えに一時の我慢をするにしても、ひどいことにはならなそうであった。

 彼女は肩を抱かれて宿の部屋に入った。

 男性が豹変したのは、行為自体の始めである。

「なんで処女じゃないんですか!」

 彼女は突き飛ばされた。

「誰かの手垢にまみれてないと思ったのに! これじゃあハズレじゃないですか!」

 あまりにもあまりな言葉に彼女は涙ぐんだ。

「まあいいです。料金は最初の付け値を払いますよ。ただしですが……僕は初めてが欲しい」

 ぬっと伸びた指の先がとある箇所を圧迫した。まるで理解出来ない行為に怯える彼女の耳元に口をよせ、男が愉快そうに囁いた。

「女性が春を売るということはね、尊厳を売り渡すということなんですよ。勉強になったでしょう?」

 ひどい目に遭った。

 

 目を覚ますと一人であった。枕元には料金が二つに分けて放ってあった。言われた額の半額とそのまた半額で、合計すれば四分の三の額となる。独り決めに値切ったうえで思い直し、気前の良さを催してチップをはずんだ感じであった。それでも割引されて逃げられたのには変わりない。寝台の上に丸まって口惜しさに涙をこぼした。シーツは湿って冷たかった。ノックとともに女中の声がチェックアウトの時間であるのを知らせてきた。都会では悲嘆にくれるのにも延長料金が要るらしい。彼女は身体もろくに拭かず、逃れるように宿を出た。

 

 彼女は歩いた。街の道路の硬い路面を踏むたびに、下半身に痛みが走る。雑踏で立ち止まる気にはそれでもなれず、ただ歩き続けた。彼女の足は自然と水場へ向かっていった。

 いつの間にか、橋の中腹に立っていたのに気が付いた。土手があり、河川敷がある。大きな川に架けられた大きな橋の上であった。国道王の土木遺産のトラス橋である。クルエル市の名所であった。何もかも大がかりで、汚れてしまった衣服と身体を洗うには無理があった。欄干の向こうは檻のような斜め鉄骨に阻まれている。

 都会に出たてでのこのこと知らない人に付いていき、貞操ばかりかお尻の穴まで玩具にされる。家族に搾取されて学習せず、赤の他人にもそうされる。下卑た人間なら面白がるような境遇である。みじめであった。

 

 生まれてきたのが間違いだとは思えない。家族の性質は別として、自分という人間は決して恵まれていないわけではない。平和なこの国に生まれ、かわいそうな外国のかわいそうな子供と違って飢えることはまず無かった。男の人の反応から、見目と体付きが良いのは自覚していた。それにあの兄を不随にできた。無事に事を進め、こちらは五体満足で終えられた。つまり冒険者に必要な暴力の才能があった。もし何もかも正しく行動していたのなら、あの本の冒険者のようになれたかもしれなかった。富を得る。愛される。そして誰かに尊敬されて、自分自身を好きになれる。でも今の自分はそうじゃない。未来の自分も同じだろう。

 家族に逆らう勇気が無い。境遇を変えようとする意気地が無い。変わりたくても変われない。理想を抱いて育みながらも諦めて、なりたい自分になれなかった。畢竟、自分は自分の人生をしくじったのである。もはや取り返しがつかなかった。

 

 橋の下の水面は黒々と波打っていた。重たそうな水に揉まれれば苦しい思いをするかもしれない。橋の高さはかなりあり、それなら中州はどうかと見れば、砂が多くて柔らかそうに思われた。上手く頭から落下して首を折りでもしない限り、半端に助かってしまうだろう。

 彼女は欄干を掴んで動かなかった。トラス橋の鉄骨が邪魔で、乗り越えるのが億劫であった。そもそもこういった場合、手足を縛る必要があると聞く。その状態では跳躍してもろくに距離を稼げない。欄干を乗り越えて転げ落ち、鉄骨に身体をぶつけながらというやり方になる。その痛みを避けるならばわざわざ不安定な鉄骨にしがみついて、落ちぬよう体勢に気を付けながら手足を縛る格好となる。いずれにしても一思いというには煩雑に過ぎた。心中が喧嘩別れに終わるのはそういう理由からであろう。ただでさえ少ない気力を振り絞り、その境界を乗り越える。それはこの先も生きて行くのと同じくらい、難しいことである。

 

 それでもと彼女は思った。最後の最後くらいは、こんな自分を変えたかった。勇気を出す。思い切る。我が身を縛るものはもういらない。とても苦しいだろうけれど頑張ろう。そう決意すれば、彼女を取り巻く世界の全てが鮮やかに色付いた。

 緑色の水は思いの外透き通り、川の流れがよくわかった。橋にはそれなりの人通りがあり、閑散として見えたのはその大きさ故であった。薄緑色に塗装された鉄骨に、錆の染みや鳥の糞などの汚れはほとんど無い。頻繁に清掃されているのであろう。河川敷で遊ぶ子供が見えた。敷物を敷いて、お弁当を食べる親子がいた。若い冒険者の集団が土手の上でランニングしていた。自分もあんなふうになりたかったが、まあ仕方ない。彼女は欄干に足をかけた。

「終わりにしたいの? お姉ちゃん」

 鈴を転がすような声が聞こえた。振り返る。誰もいない。声の主がくすりと笑った。

「こっちだよ」

 見上げると、上弦の鉄骨に腰掛けた少女が、足をぶらぶら揺らしていた。

 年の頃は彼女より少し年下であろう。二次性徴を迎えてわずかに膨らんだ胸と、女性らしくなりつつある腰つきがそれを示していた。体の輪郭がわかりやすい服装であった。ぴったりと張り付いた上衣は肩から脇、それから鳩尾からお臍にかけての肌色をすっかり晒してしまっていて、しかも下半身がいわゆるショートパンツである。活発そうにはたしかに見えるが、端的にいうとはしたない。寒そうでもある。

「あっはい。い、いえ……私は何も」

 しかしこういった女子には気後れしてしまうのが彼女のような人種である。咄嗟に誤魔化しの言葉が出た。

「うそだね。わかるよ。だってあたしもそうだったもの」

 ひどく穏やかな声音であった。その目には彼女を小馬鹿にしたりなじったり、悪意の色は見られなかった。それどころか心の底から同情している。そんな感じがした。

 

 少女は足を揺らした反動で宙返りして鉄骨の上に立つと、「ほっ」「やっ」「とおっ」と鉄骨から鉄骨へと飛び移り、彼女のそばにふわりと着地して欄干に寄り掛かった。冒険者なのであろうかもの凄い身体能力である。移動自体は目まぐるしいはずなのに、鉄骨を蹴る音や着地の衝撃はまるでなかった。単純な身軽というより、どうしてか羽毛のように淡く儚い感じがした。

 少女は面と向かって言った。

「もう一度言うよ。お姉ちゃんは、終わりにしたいの?」

 声が響いて、甘い香りがした。

「……もう。もういやなの。からだを滅茶苦茶にされて、心も滅茶苦茶になったこんな私が」

 言い出してからは止まらなかった。

「私、何か悪いことした? お爺ちゃんはいっつも怒鳴る。お母さんは私をぶつ。お父さんは助けてくれない。あいつは……きもちわるい。けがらわしい。くさい。きたない。それなのにあいつばっかり贔屓される。なにが天使ちゃんよ。動物で、言うこと聞かないペットじゃない。なんで私が我慢しなきゃいけないのよ」

 敬語を使わず話したのはいつ以来だろう。

「そんなやつらにいいようにされる自分自身が一番いや。奪われ続けている私が。変われないでいる私が。歪んで、けがれて、台無しになった私がいやなの。私はこんな私を抱えて、もう生きていきたくないのよ……」

 少女の手が、そっと両頬に当てられた。

「お姉ちゃんはとっても辛かったんだね。ごめん。さっきわかるって言ったのはやっぱり嘘になっちゃった。だってお姉ちゃんはあたしより、ずっとずっと苦しい思いをしてたんだから。あたしにはおにぃがいたけど、お姉ちゃんには誰もいなかったんだ」

「あなたのお兄さんは、優しいの?」

「うん。ざーこざーこ、ざこおにぃって言ってあげると喜んじゃう、よわよわなおにぃだけどね。あたしのためなら、なんでもしてくれるんだ」

「羨ましいな」

「えへへ。いいでしょー」

 照れ臭そうに自慢すると、欄干に飛び乗ってステップを踏んだ。手を後ろに組み、ふわふわとした足取りであった。狭い足場なのに危なげがなく、けれどもどこか病的に透き通って見えた。話が途切れたが、この沈黙は不思議と心地良かった。

「ねえ、お姉ちゃん」

 背を向けたまま少女が言う。

「転生って知ってる?」

「転生? 生まれ変わりってこと?」

 前世の自分が云々というやつであろう。普段使わない言葉であるが、女子の占い遊びには前世占いなんかもあるから意味は知っている。ちなみに自分の結果はモグラであり、一時期あだ名がモグラ女であった。目元が隠れた髪型に関連づけた悪口である。

「そ。今の自分を捨てて、新しい自分になるの。違う自分で違う人生。前の自分じゃ出来なかったことでも、新しい自分ならきっとできる。もちろん心や知識はそのままだよ。二度目の人生でやりなおすなら、自分が自分のままじゃなきゃ、まったく意味がないからね」

 教会で聞かされるような死後の世界の話であろうか、しかし少女の言うそれは妙な具体性があった。

「あたしはしたよ」

 上を向いて少女が言った。欄干を前後する足取りと同じく、浮ついた口調であった。少女に釣られて見上げた空はいやに青く、どこかからはぐれてきたのか、雲の欠片が頼りなく浮かんでいた。

「あたしは前までのあたしを捨てて、今のあたしに生まれ変わった。体が軽い。咳も出ない。こういうお腹が冷えちゃうような、カワイイ服も着ていられる。おにぃには『そいつはいかんぞえっちすぎるー』って叱られちゃったんだけどね」

 たしかに、同じ女性の自分から見てもふしだらと言いたくなる格好であった。開きすぎた脇から横胸の輪郭がくっきりと見えている。

「お姉ちゃんも……ううん。お姉ちゃんだからこそ」

 少しの間気弱な顔を浮かべると、それを誤魔化すように陽気な口振りで言葉を継いだ。

「気が合うし、すっごく仲良くなれそうなの。こんな気持ちは初めてかも。一目惚れっていうやつかな。えへへ、おにぃが焼き餅焼いちゃうね」

 彼女の反応を待たずに少女は続ける。

「あたし昔からね、おにぃのことは大好きだけど、お姉ちゃんも欲しかったんだ。だって女の子同士じゃないとやれないことってあるもんね。シーメルはどう? やっぱり? じゃあ……と、そういえばまだお名前を知らなかったね」

 なぜか独り言で虚空に話しかけた後、少女がようやく振り向いた。

「あたしはユルマ。ユルマ・ガバケッツ。お姉ちゃんのお名前は?」

 彼女は名乗った。

 ユルマは、舌に馴染ませるように彼女の名前を繰り返した。

「いい名前だね。うん。響きも好きになれそう。でも言う機会はあんまりなさそうかな。だってお姉ちゃんには、お姉ちゃんになって欲しいもの」

 ユルマが女兄弟を欲しがるのと同じで、彼女も彼女に優しい兄と妹が欲しいと、そう思っていた時期がある。けれども彼女の母親は長男でしくじったので祖父に女腹と見なされて、子作りを禁止されていた。真っ当な避妊具一つ買う金で、焼酎二杯は飲めるらしい。

「お姉ちゃん、か。なれたら、いいんだけれどね」

 ユルマと自分とは、初対面で何の繋がりもない関係である。

「なれるよ」

 こんな汚れた人間を、ユルマかユルマの兄が養ってくれるとでもいうのであろうか。邪悪な人間の子供を宿しているかはともかくも、変な病気にかかっているかもしれなかった。獣人、同性、変態行為と、教会での衛生教育が頭に過ぎった。その可能性に今さらながら思い当たり、彼女は後ずさった。心の汚れと違い体の汚れは伝染する。

「こないで」

「お姉ちゃんはきれいなままだよ……なんて言ってもお姉ちゃん自身は納得できないよね。だからさ」

 ユルマが欄干からそっと降りた。こちらへと踏み込むと、手を取って、告げた。

「転生しようよ、お姉ちゃん。新しい、きれいな自分に生まれ変わろう? あたしと同じように、あたしと一緒に、今までのいやな自分にさよならしよう? あたしのお姉ちゃんになって、人生をやり直そう?」

 ユルマのいう転生が、どういった意味の行為なのかはわからない。夢見がちな少女のたわごとならまだしも、田舎者を食い物にする地方ギルドの誘い文句という線もある。年上の男性に騙された次は年下の女の子に騙される。愚かな娘の末路としては手頃であった。

「ダメ、かな」

 ただ、そう問いかける気弱な様子が、自分自身と重なって見えた。彼女はこくりと頷いた。

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