パライソの寺にぞ 参ろうやなぁ
──とある信仰者たちの祈り
深夜二時──ブカレストの街は静まり返っていた。
ルーマニアのブカレストと言えばルーマニアの首都にして最大の都市である。ともすれば、深夜といえども酒場で飲んだくれる男たちや、それらを相手に水商売を行う女たちの影があってもおかしくはないだろう。
しかし今日この日に限って言えば街は不思議なほどに静かだ。
街路を通り抜ける妙に風は冷たく、満月の夜なのに不自然に夜の闇が深く感じられる。暗所を徘徊する夜行性の獣たちすら息を潜め、夜は静寂を保っていた。
不意に──沈黙を破る、一つの足音が聞こえる。
コツコツと規則正しく響き渡る音は平時であれば気にも止めないような日常の雑音だ。にも拘わらず街の沈黙もあってか、足音は街中に響き渡るような錯覚を感じさせるものだった。
さながらそれは絶対的支配者による凱旋。玉座へと至る王を見守るように夜の静寂が緊張の色を纏う。ただ在るだけで空気が引き締められるようだ。
そうして足音と共に、眩いほどの月光の下。
夜の闇から今宵を統べる支配者は姿を現した。
「──……」
千年樹に属する魔術師であることを示す白い制服。その上からは白い外套を羽織っており、腰には鞘に収められた剣を携えている。
夜風に揺れるのは藍色の髪、若く端正な美貌は、しかし刃物のような一種の鋭さを感じる顔立ちだった。
してみれば何処かの物語に登場する騎士のような、そんな印象を周囲に与えるだろう容姿の青年である。ただでさえ現代的な価値観からしてみれば異端のように感じる青年だが、容姿や装飾品以上に明確なまでの異端性を有している部位があった。
右目である。
本来であれば青年の左目と同じく欧州人らしい
いわゆる
瞳孔の中央部に据えられた九つの枝を重ね合わせた紋様を中心として広がる二十文字を越える鍵文字の数々。
見るものが見ればそれはエルダールーンというものであると看破するだろう。
曰く、死と再生を象徴するという文様だ。
“──オーディンは九つの栄光なる枝を取りて、一撃にせん。
毒蛇九つに裂けて、分かたれり”
不思議な話だが、エルダールーンのように対照的に並べた九つの枝の紋様は、それをなぞることで既存の全てのルーン文字を顕すことが出来るという。
それはまるで図ったような美しさ。
九つの枝、九つの図──九つという世界で
そう──ルーン文字を操る者たちは、九つの世界で生きている。
「…………」
それこそが己の
平時であれば
静寂を征くこの青年は今より既に戦場だと心得ている。
そして、この戦場で行われる戦果によって、残る全ての趨勢が動くだろうとも。
夜の静寂は即ち嵐の前の静けさなのだ。
これより先、今宵の主役が遂に舞台に上がるのだと。
世界が、運命が、予感したからこその静寂。
「…………」
一歩、踏みしめるたびに青年は自分自身を自覚する。
──肉体に不備はないか、精神に不足はないか、魂に傷はないか。
──魔術回路は良好か、工房接続に途絶えはないか。
──記録に翳りはないか、経験に不明はないか。
熟練の医師が丁寧に触診するように、青年は己自身を確かめていく。
それは遥か昔、幼子の頃から行っている青年の手癖だった。
何か、大事な時はこうして自分を確かめる。
「…………」
我思う、故に我あり。
その『我』こそが『私』であることを信じられるたった一つの鍵だった。
──ある日気づけば、己は全く知らない世界に放り出されていた。
容姿が違う、家族が違う、常識が違う、日常が違う、世界が違う。
そんな状況に突然放り込まれた時、人は一体何を思うか。
いきなり足場を崩されたような喪失感、自分自身が積み上げてきたものすべてが崩壊する感覚。
その中で、正気を保つ術は
だからこその我あり。
青年にとってこの世に存在する普遍かつ不変とは、他ならぬ己自身だった。
「…………」
故に決断と選択が生死を分かつ大事にあって最大の武器を確かめる。
大事なのは常に己自身。
何を思い、何を感じ、何を掴み取らんとするのか。
道を見失わないために、青年は己自身を確かめる。
お前は誰だ。
──私はアルドル・プレストーン・ユグドミレニア。
何処から来た。
──遠く、遠く、遥か遠く。ずっと向こうから。
行先は。
──最果てへ。栄光と智慧の彼方へと。
「…………は」
ならば何も、何も問題は無い。
出来る限りの最善を整え、最良の結果を求め続けた。
運命を覆すために、黄昏を越えるために。
後は愚者のように踏み出すだけ。
己が最強と証明するのみだ。
全て、全て、悉く、凌駕し、超越しよう。
「──ハーヴィの館で、ハーヴィの箴言は語り終えられた。人の子には有用この上なく、巨人の子には無用のもの。語られた者には栄えあり。知る者には栄えあり。聞いた者は生かせ。傾聴した者に栄あれ」
では──栄光を取りに行こう。
足音が止まる。アルドルの視線の先。
そこに目的の建物が存在していた。
ブカレスト中心部に建築されたアテネ音楽堂。1800年代の終わりに建てられたブカレストを代表するコンサートホールで、クラシックの世界的な音楽祭の舞台ともなる著名な場所である。
そして此処こそが、“赤”の陣営が新たに拠点として定めた、敵の本拠地でもある。
それを示唆するように周囲には微かに魔力の気配。結界の残滓。
だが、不思議なことに侵入者を拒むはずの守りは今は完全に解かれている。
扉に手を掛ける。鍵は掛かっていない。
結界と言い、まるで来客を待っているかのようだ。
「ク──」
アルドルの口から苦笑の様な、嘲笑のような笑いが漏れる。
それは敵手の大物さに対してか、或いは傲慢さに対してか。
好んで試練を望む
アルドルは臆することなく、扉に手をかけ、躊躇なく開け放ち、歩を進める。
そうして──。
「──ようこそ、お待ちしておりました」
舞台へと続く観客席の向こうに。
遂に不倶戴天の相手を目にするのだった。
──邂逅する。
この聖杯大戦始まって以来、舞台の裏から己と同じようにこの戦いそのものを己の都合が良いように操ろうと見え隠れしていた影。
“赤”の陣営という時計塔の手駒たちを乗っ取り、陣営そのものを手中に収めんとした己に最も早く剣を突き立てた敵。
それが今まさにシロウ・コトミネ神父──否、第三次聖杯大戦より生存し続けた“赤”のルーラー、天草四郎時貞の眼前に現れたのだ。
「そうですね。始める前に少し質問をさせて頂いても?」
「好きにすると良い。時間稼ぎだろうが本心だろうが、やるべきことは変わらないからな」
「ありがとうございます」
意外なことにシロウの提案に返ってきたのは了承の言葉。
穏やかながらも両者の間に交わされる意識は不倶戴天を掲げているが、それでも無言のままに開戦するほどの憎しみを両者持ち合わせてはいない。
敵が憎いから排除するのではない。
互いの願い、互いの祈りのために排除するものである。
なればこそ、互いに憎悪も怒りも持ち合わせてはいない。
ただただ相容れない。両者はそれだけだった。
「では初めに。貴方が“黒”の陣営のマスター、アルドル・プレストーン・ユグドミレニアで間違いないでしょうか」
「ああ、私がアルドルだ。“黒”のアサシンのマスターでもある。何故分かったのかは……まあ、この状況ならば明確か」
「ええ。手酷くやられましたからね。お陰でこちらの計画も大きく修正する必要が出来てしまいました。私のことはいつから気づいていたのですか? てっきりダーニックが気づいたのかと思っていましたが……貴方の様子を見るにどうやら違うみたいだ」
「いつから気づいていたか……最初から、と言えば信じるか?」
「最初から、ですか。なるほど、それは大変だ」
アルドルの言葉にシロウは苦笑するように頷く。
常人であればその大言に馬鹿なと一笑してしまうだろうが、シロウは疑うことなくその言葉を信じた。
何故かと言えば難しいが、その言葉に偽りが無いと思ったからだ。こちらを見据える油断のない瞳には迷いも嘘も何もない。ひしひしと見る者を焼き尽くすような決意が満ちているだけ。
……何処かの聖者と同じ目をしている以上、可能不可能は問題ではない。
やると言ったらやる。
そう言わしめるだけの
ならば男がそうだと言ったらそうなのだろうとシロウは疑うことなく信じる。
「では私がこの戦いに望むこともご存じなのでしょうか?」
「全人類の救済の事か。大聖杯を用いた第三魔法を利用し、全人類を死の呪縛から解き放ち、この世から全ての争いを失くす。それを以て救済とするのだろう」
「はは、ええまあ。その通りなのですが……こうして面と面で向かってあっさり言われると中々に滑稽ですね」
「確かに。言わんとするところは同感だ。全人類の救済、あらゆる聖人君子が望んだ理想もあっけらかんと口にしてしまえば喜劇のようだな」
シロウの困ったような笑みにアルドルもまた頷く。
全人類の救済──第三次聖杯戦争において大聖杯を目にした瞬間から、この数十年、シロウがずっと胸に抱いていた祈りも口にしてしまうと軽く感じてしまう。
それも敵が当然のように口にするというこの状況は正しく滑稽としか言えないだろう。何せ両者ともにそれが不可能だとは思っていないのだから。
「ふふ、しかしそうなると甚だ大変だ。この聖杯大戦に勝利する上で貴方という存在には確実に死んでもらわなければならなくなりました」
「それについては私も同感だ。……殺し損ねたことまでは
そう言ってアルドルは厳しくシロウを睨みつけた。
……不気味な薄ら笑いを浮かべる目の前の男はあろうことかマスターであるアルドルの目にはサーヴァントとして映っている。
それもマスターとして目に映る霊基は紛れもなくルーラーだと訴えている。
──聖杯大戦に紐づけられた様々な要因要素を限りなく細部まで見通すことの出来るアルドルは、自身の暗殺が失敗し、目の前の神父が生き残ることまでは当然のように見えていたし、その可能性を計算した上での第二、第三のプランも当然のように用意していた。
だが少なくとも現時点、現在までの進行において既に神父がサーヴァントとしての格を取り戻していることについては完全に想定外だったと言っていい。
何せ、その
「……やはり貴様は危険だな、天草四郎時貞。この聖杯大戦においてユグドミレニアの勝利を阻む要因は様々に存在するが、明確なまでの
「それはこちらも同じことです。アルドル・プレストーン・ユグドミレニア。こうして会敵し、貴方という存在を目の当たりにして確信しました。我が野望、我が悲願を阻む我らが主が齎す試練、私はそれを私とは異なるかのルーラーが担うものだと考えていましたが、どうやらそれは私の勘違いだったようです」
空気が変わり雰囲気が変質する。
誰にでも隔意も、敵意も抱かないはずの男。
全人類を救済するという願望のために自らの感情をも焼き払った男が此処に初めて明確なまでの敵意を放つ。目に射止めるは誰でもない、眼前に佇む青年の姿。
そう──。
「
「
場の空気が一瞬にして凍り付く。
激突するのは正に顕現する英霊たちにすら勝る極限の意志と意志。
それを以て両者は悟った。
目の前の天草四郎時貞/アルドル・プレストーン・ユグドミレニアは同じなのだと。
共に聖杯という万能の杯でしか成し得ない祈りがあり、願いがあり、望みがある。
そしてそれを手にするためには、どんな手段を用いても必ず勝つという必勝を掲げている。
故に不退転、故に不倶戴天。
必ず成すのだという絶対の誓いは此度の聖杯大戦において抜きんでている。
ならばこそ両者こそが語る通りに最大の敵。
この聖杯大戦に勝利するために何が何でも排除しなければならない相手に他ならない。
「とはいえ、些か無謀な様にも思えますがね。慢心でも傲慢でもなく、単純な事実としてお聞きしますが、
「無論。……そもそも貴様何を勘違いしている。お前がサーヴァントに戻っているのは想定外だったが、私はサーヴァントが相手でも勝ち得る算段を立てているからこの場に立っているのだよ。例えばこの場を舞台を眺めるように見ているだろう
「──んん、吾輩。珍しく空気を読んで口を閉ざしていたのですが、疾うの昔にバレていたようです! これこそ正に『
シロウの挑発にアルドルが舐めるなと言葉を返すようにして沈黙していた影を見抜くと、その影こと“赤”のキャスターは舞台袖から実体化しながらいけしゃあしゃあと笑う。
そしてそれまでの沈黙を憂さ晴らすように語りだす。
「しかし『
大仰な仕草でバッと両手を広げると、“赤”のキャスターは祝福するように舞台上のシロウと舞台を見下ろすように観客席に立つアルドルを讃える。
さながら物語の
構図はさながら喜劇的だ。聖杯大戦における主役とも言える
それが罷りなるこの状況、言うなればただ一言。
「『
そう言って、
「……そちらのキャスターについては識っていたが、実際に目の当たりにすると流石の
「……その点については否定しようがありませんね。とはいえ、彼の存在は有効です。曰く、最初から知る貴方であるならばその特性もご存じでしょう。尤も貴方に対しては有効とはいかなそうですが」
「だろうな。ペンは剣より強しというがそれは風評という世間を挟んでの話だ。批評の場であるならば詩人の言葉は聖人君子すらも殺すだろうが、生憎と此処は戦場だからな。ペンより剣が強いのが道理だ」
言うとアルドルは言葉の通り、ゆっくりと剣を抜いてみせた。
腰に差した白い鞘から姿を現す一振りの西洋剣。
形状は一般のそれと比べればやや細剣に寄っているが、相当の業物なのだろう。一見刀身がくすんだ年代物の見た目にも拘わらず、刃が放つ鋭さが積み重ねてきた歴史を示すように見る者を圧する。
富める者を満足させるために作り上げられる装飾剣とは異なる人々を引き付ける魔性。戦国時代を生き、そしてサーヴァントとして生まれ出でたシロウの目には当然、その正体が
アレは
「キャスター」
「──ふむ、この先は言葉は不要ということですな。ではマスター、これを受け取りなさると良い、吾輩、キッチリと依頼通りに仕上げましたが故」
そう言って“赤”のキャスターは相変わらず舞台役者のように芝居がかった仕草で、粛々と鞘に納められた一振りの刀をシロウに手渡した。
シロウはそれを両手で受け取り、そしてそのまま抜き放つ。
アルドルの持ち出した魔剣が正に古き時代からそのまま持ち出した年代物だとするならば、こちらは現代において再び活躍させるために
光を受けて返す白刃は歴史を経た業物でありながら、鋭さを最も新しき頃にまで取り戻した刃。歴史という名の時間によって内包する神秘をさらに一新したような魔剣。
「
「……ふふ、ますます捨て置けないですね。貴方は」
目を細めながら言うアルドルの呟きにシロウは苦笑するように笑う。
そうして互いに剣を構え、刀を構え、向き合う。
もはや交わす言葉は不要だった。
両者は既に互いを認め、知り、
ならば待っているのはただ一つ。
不倶戴天という両者に和解などという温い選択肢などない。
──生か死か。
全ての趨勢を握る戦いのみ。
まさに
「ははははははは!! どうぞ──どうぞ御両人とも存分に戦いなされい! 烈火を伴う嵐のように! 稲妻を伴う豪雨のように!! 永劫醒めぬ物語が、これより始まるッ!!!」
瞬間──両者は同時に動いていた。
……
…………。
「シュ──!」
先攻したのはシロウ神父。
刀を構え、いざ尋常にという体勢から彼は僅かな手首の動作のみで、手品師のように何処からか取り出した三本の剣の柄のようなものを手にすると、途端に柄から長身の刃が伸びる。
そしてそれを相手の意表を突く形でそのままアルドルに目掛けて投擲する。
──天草四郎時貞はルーラーのクラスを得た英霊であるが、同時にその皮たるシロウ・コトミネ神父は聖堂教会に属する代行者である。
なればこそ、シロウには英霊としての能力以外に、受肉してからの数十年間を生きた代行者としての技能が備わっている。
その証明こそがこの投擲武具『黒鍵』である。
対魔性、対吸血鬼に備えてその刃を狂気の如く研ぎ澄ましてきた聖堂教会。彼らが用いる概念武装が一つ『黒鍵』は「浄化」の特性を備えた代行者たちの正式武装だ。
刃の形を持つ投擲武具であり、投擲する際に様々な
アルドルの不意を打つ形で放たれた三本は眉間、心臓、脚部の三点に狙いすまされた同時攻撃。
それがサーヴァントの膂力で放たれたのだ。
速度にして音速。常人には刀身が放つ残光しか見送れないだろう。
一瞬の空白を狙った完全なる不意打ち。
上級魔術師でも対処困難な熟練の戦闘屋の技を前にアルドルは──。
「子供騙しだな」
一言、切って捨てた。
無造作に振るわれた一閃が三本の死線を切り落とす。
居合抜きのように下段から上段に流れた切り上げはシロウの攻撃を完全に破砕する。
「ですが……!」
同時にダンと力強い踏み込みの音がアルドルの耳に届き。
「……踏み込める隙は作れました」
「ッ!」
日本刀が振り下ろされ、西洋剣が迎撃する。
用途として、技で以て斬り捨てる日本刀と力で以て叩き切る西洋剣とでは鍔迫り合いでは後者の方に分があるだろう。しかしそもそもをして宝具の域にまである両剣にその手の常識が通用するはずもなく、また単なる力比べでの舞台においては振るい手の特性が浮き彫りになる。
「く……おっ……!」
一瞬の膠着は僅か二秒にして前者に軍配が上がる。
こと純粋な肉体性能において人間がサーヴァントを上回れるはずもなく、魔術的な強化を自らに付与していたにも拘わらずアルドルは簡単に押し切られ、たたらを踏む。
その隙にシロウは流れるような動作で突きを入れた。
「ハッ!」
「つ、ォオ!!」
咄嗟に半身を引いて、首元に迫った突きを回避するアルドル。
だがしかし攻撃は終わらない。
突いた刀が下に流れる。
刀を切り落とすよりも引くといった動作に近い様で繰り出される素早い袈裟斬り……!
「ぐっ……!」
その連続攻撃にアルドルは飛びのくことで回避する。
反応速度は人間にしては早いものの、それで完全にサーヴァントの性能を凌げるはずもなく、白い衣装の胸元に刻まれた微かな切れ込みから深紅の色が広がる。
シロウは逃がすものかと飛びのくアルドルにさらに踏み込もうとするが防戦一方をアルドルは許さなかった。
飛びのきながらも彼は素早い動作で虚空にルーン魔術を刻む。
「
その
古来より本当のルーン文字の意味を隠すため、銘文の最後に刻まれてきたものだ。
浮かぶ四つのルーン。
シロウの四方を囲うように設置されたルーンにアルドルが唱える。
「『美しき寡婦、インゲボルグよ。多くの女がここにて
多枝のルーンが形状を変え、魔術陣を為す。
シロウを阻むように現れる
碑文にはオークニー諸島に伝承されるルーン配列が刻まれており──。
「ッ……!
「
シロウが対応しようと魔術を唱えるよりも先に、アルドルが唱える。
謳うように呟く。とある先史時代の墳墓の名を冠した魔術は内に囲い込んだシロウを言葉の通り、地面へと
「くっ、加重効果……重力操作か……!!」
歯噛みしながらシロウは忌々し気に呟き、体内の魔力循環を高めて強引に振り切り、立ち上がる。
サーヴァントを一瞬でも拘束する辺り極めて優れた魔術式であるのは言うまでもないが、流石に相手が悪すぎる。
如何に優れた魔術とて、所詮は神秘の時代からは遠い現代魔術師の魔術。
神秘の質という面において圧倒しているサーヴァントであれば『対魔力』のスキルなぞ持たずとも、存在を高めるだけで纏わりつく現代魔術師の魔術程度、簡単に振り払うことができる。
だが、その一瞬にしてアルドルは反撃の手立てを手にしていた。
「
アルドルの背後にルーン文字が浮かび上がる。
ルーンは巨大な氷晶を生み出し、シロウを圧するように佇む。
次瞬、アルドルが
「破ぜろ」
「ッ!」
爆散する氷結晶。刃が如き鋭さを有する一メートル前後の氷柱が幾重にも飛び出し、さながら散弾の様に劇場内の悉くをシロウごと破壊しにかかる。
先に見た通り、瞬間的な魔力出力においてアルドルは圧倒的であり、サーヴァントにすら有効打たりうる。それだけの魔術を有する魔術師による攻撃は、まともに受ければシロウですら危うい。
例えばこれが『対魔力』を有する“赤”のセイバーや、純粋にサーヴァントとしての圧倒的な格を有する“赤”のライダーや“赤”のランサーのような大英雄であれば問題あるまいが、生憎とシロウはサーヴァントとしての純粋な性能だけ上げれば二流のそれ。
加えて今の彼は要石とも言うべきマスターを持たぬ『ハグレ』にすぎない。その霊基は脆弱でルーラーとしての性能は大幅に低下している。
ならばこそ、この絨毯爆撃にも等しい無作為な範囲攻撃を受けるわけにはいかない。
「
取り出した三本の黒鍵を眼前の地面に投げつける。
突き刺さった黒鍵は、途端に自ら意志を持つようにギャリギャリと劇場の地面を這いながら複雑な文様を描いていき……。
「結界か」
アルドルが呟くと同時、シロウを害さんとした襲い掛かる氷柱が、シロウに当たる前に壁に阻まれるようにして砕け散る。
黒鍵に魔術を込めたのだろう。似たような術理であれば既にアルドルの膨大な戦歴の一つに経験として刻まれている。
「……やれやれ、困ったものです。上手く凌ぎ切られましたか」
ふう、と軽く息を整えながらシロウが笑う。
ジャブに近い
人間はサーヴァントに遠く及ばない。──これは何も単純に神秘の質や霊格の差と言った常識だの話ではない。当たり前の事実としてサーヴァントは人間より上の存在だ。
何せ彼らは生前、歴史に名を刻まれるような難業を遂げた英雄であり、人間として一生を生きて死んだ今を生きる人々にとっての完成者である。
であれは道半ばの生者に勝てる道理など無く、練度、経験、知識においてサーヴァントは人間よりも上の存在なのだ。
だからこそ異常なのは目の前の青年。青年は生者であり、未だ道半ばであり、人生の先達者たるサーヴァントからしてみれば英雄と成り得るだけの
にも拘わらず、サーヴァントの攻勢に耐えてみせたその技量。ただ戦闘に長ける優れた上級魔術師というには目の前の男のそれは常軌を逸している。
「ただの研鑽ではそうはならないでしょう。現代では剣で切り合う戦争など時代遅れでしょうに、一体どんな戦場で鍛え上げたのですか?」
「無論、亜種聖杯戦争において。尤もそれだけではないがね、格上の存在という意味ではお前たちに似たような存在は現世にも存在している。代行者であるお前にとっては甚だ同一視されたくないだろう存在だが、
「……死徒、ですか」
「そうだ」
アルドルの言葉に予測を口にすると返ってきたのは肯定の言葉。
それは流石のシロウも呆れた真相だった。
──『死徒』とは現代で言う所の吸血鬼のことだが、血を吸う鬼もその階梯によって細かな性能が異なる。
例えば吸血鬼に殺された人間が成る『死者』や意志はあっても思考ができない『屍鬼』。
こういったものは死徒の置き土産や『封印指定魔術師』の実験の産物として魔術世界でもたびたび見られる存在である。
だが、本物の『死徒』に限っては話が違う。
完全に吸血種として自立している彼らは存在として『城塞』とも例えられるほど強大な力を有しており、独自の異能まで確立した霊長から外れた存在だ。
『死徒』にも完成度によって下位と上位に区分されるが、もはやここまでになってしまえば魔術師や代行者と言えど、簡単に相手取れるものではない。
それこそ性能だけで言うならばサーヴァントとやり合うようなものであり、間違っても鍛錬のために相手取っていいような存在ではないのだ。
だが、アルドルはそれをなんて事の無いように語る。
「とはいえ連中は現代ではそう見えるものではないからな。本気で刃を交わしたのはせいぜいが四体程度だよ。それも明確に殺し合うほどの戦闘を行ったのは南米でやり合った一体のみだ。だが、人間よりも上位の存在と戦うシミュレーションとしては十分だったよ」
口元に微かな笑みを浮かべながらアルドルは言い切った。
虚勢というにはあまりにも太々しい笑み。
それにシロウは事実であることを悟り、尚の事呆れる。
「それはそれは……その戦果が事実なら聖堂教会に属する身として転職をお勧めしたいですね」
「生憎と今の環境で間に合っている。それに神の存在は認知しているが、信仰するほど切迫していないのでね。安直に救いを縋るほど私は脆くない。第一、私は神に愛されないのでな」
「ふふ、それは神父である私への挑戦でしょうか。主の愛は遍く全てを等しく抱きしめるものですよ?」
「その全てに私は属さないだけだ。お前たちの主が
「……?」
軽口と交わしたアルドルの言葉にシロウは怪訝そうに眉を顰める。
だが別段、アルドルはその疑問に言葉を返さない。
これに関しては誰かに漏らしても詮無きことだ。
魔法以上にめちゃくちゃなアルドルの真実などこの場において意味は無い。
「さて、と──」
それよりもアルドルは自らの状況を振り返る。
どだい、ここは未だ死線。
“戦いにおける技量はほぼ互角。性能差はあれどアレと私に大差はない”
ここまでの戦闘でアルドルはシロウの技量を完全に把握していた。
予見した通り、“赤”の陣営に属するサーヴァントの中でも“赤”のルーラーこと、天草士郎時貞はさほど強いサーヴァントではない。
少なくとも“赤”のセイバーを筆頭とした三騎士や“赤”のライダーと言った大英雄と比べれば、まだ届く相手であることは間違いないだろう。
それは楽し気にこの戦いを傍観している“赤”のキャスターも同じこと。
“とはいえ長引けばその限りではないか。凌ぎあいは紙一重。長くなればなるほど性能差の方が明確に出てくる”
そう──技量という一面を比べればアルドルはシロウ神父を倒しうる。
……が、それも条件は短期決戦に限られる話だ。
魔術の腕、剣術の腕、技量においては及んでいても性能差がかけ離れすぎている。鍔迫り合いであっさり負けたことからも元より、膂力、体力、俊敏性……単純な肉体のスペックにおいて生身のアルドルは圧倒的にシロウの後塵を拝する。
その差は戦いが長引けば長引くほど浮き彫りになって行くだろう。
加えて技量において拮抗しているならそうやすやすとシロウがアルドルに首を晒すはずもなく、このまま戦闘が推移していけば事態はきっと互いに隙を伺う中長期戦になるはずだ。
それは……実に困る。
“であれば一般的な判断として撤退が好ましいが……”
状況を一覧していけば明確に不利なのはアルドルだろう。
アルドルはそれを自覚している。
そして同時に相対する相手、シロウも同じことだった。
だからこそ──シロウはこうして様子見に徹さざるを得ない。
“私がサーヴァントに成っていることは本当に想定外のようでしたが、それでも事ここに至ってサーヴァントの妨害が無いなどと考える貴方ではないはずだ”
確かに目の前の魔術師は卓越した手腕で、“赤”の陣営が主力のサーヴァントたちが出払っているこのタイミングを見事についてみせた。
だが入念な計画を立てただろう目の前の相手がその道半ばでサーヴァントによる妨害が一切入らないなどと楽観していたはずがない。
にも拘わらず、目の前の相手は自らのサーヴァントも連れず、単騎駆けでこの場にいる。
“それに死徒を相手取ったのが真実だというならば……”
魔術の腕は流石にユグドミレニアの俊英というだけはある。
剣術の腕は聖杯大戦に備えていたというだけあって素晴らしい。
だが、努力だけでは
世界には生命としての残酷な優劣が存在しているのだ。
その格差を渡るには努力や才能以外の例外が必要となってくる。
なればこそ必ずあるはずだ。
アルドル・プレストーン・ユグドミレニア。
彼がサーヴァントごと“赤”の陣営を全滅させてみせるとだけ確信し、敵陣に飛び込む選択を取っただけの
「……切り札があるのであれば早めに切ることをお勧めしますよ。貴方は現状が分からない程、愚かではないでしょう。それとも出し惜しんで死にますか?」
シロウの言葉は分かりやすい程の挑発だった。
隠している手を此処に晒せ、とシロウは最も警戒する一手を真正面から促す。
何にしてもその如何、正体不明の一端を掴まなければシロウは動けないから。
──予感があるのだ。
目の前のこの男は、聖杯大戦を勝ちうるだけの『モノ』を持っているという予感が。
その挑発にアルドルは──。
「そうだな、出し惜しんでも仕方がないか。少なくとも
構えを解き、脱力し、肩の力を抜きながら言葉を紡ぐアルドル。
語りながら彼は何気ない動作で左手で自身の右目を抑えながら──。
「──お前は死ぬだろうがな」
言って、その眼が秘めたる真の性能を開眼する。
──黄昏時は過ぎされど、神の
かくて
今は無き黄昏の時代の残滓、その末の魔術師が遂に神話の一端に手を掛ける──。
「此処に神の仔──降臨せり。時代よ廻れ、我らは神代の流れ星」
さあ──神話の時代を再演しよう。
注意を払わざるべからず
内のいずこの席に
敵が坐れるか
わからざれば
──とある神霊の箴言