──とある神々の王の独白
数多の英雄が激突する豪華絢爛たる戦場。
自らが開幕の銅鑼を鳴らし、大戦と呼ぶに相応しい状況を作ったにも拘わらず、その英雄は落陽の空を眺めていた。
それは何も一番槍の役割で大量に魔力を消費したからでも、ましてや敵を前に怖気づいたからなどという理由でもない。
一番槍ともう一つ、かの英雄には役目があったのだ。
神父は告げた。
この大戦、自分以外にもう一人、裏で絵図を描いているものがいる、と。
そのもはや確信の領域にある予測は直感や神の啓示などではなく、謀略家としての経験が彼をそう確信させていた。
何せ聖杯大戦が本格化する以前から“黒”のアサシンによる暗殺を企てたものが居るのだ。
それもまるでこちらの反応全てを読み切った、完璧な状況を作った上で、だ。
何かがおかしいと謀略家たる彼に予想させるのは簡単で、さらに以後の敵陣営の動きからして一連の暗殺劇が陣営の総意であったとするには幾つか解せない動きがある。
だからこそ神父はこの動きを自分と同じ陣営の総意に基づかない個人による単独行動ではないかと予想した。
そこで彼は一つの保険を掛けた。
貧者の見識を有するとある英雄による監視である。
元より魔力消費が激しい宝具開放を決めた時点で、継続戦闘は厳しい。ならばいっそ一番槍の役割以後、敵に圧を与える役として後方に控えながら、同時に戦場を俯瞰させ、神父が覚える違和感を俯瞰させた方が後の展開に優位となるだろうと判断したのだ。
神父の方針に英雄が否を唱えなかったこともあり、かくして“赤”の陣営が誇る大英雄は壮麗なる剣士と俊足の大英雄の激突にも、黒騎士と反逆者の激突にも、反逆の騎士による襲撃にも反応せず、黙して己の役割に順じた。
果たしてその実直さは狙い通りに。
落陽の空。一人、単独で戦地を抜け出した敵手の姿。
それを見付けた時点で英雄は己の役割を全うする。
敵の索敵能力と自身の魔力を考えれば、即時追走は不可能であったが、それでも敵を見上げながら地上を駆け抜ける程度造作もなし。
何よりも──神父がそうであったように、彼にも一つの思惑があるのだ。
彼は施しの英雄。胸の内に秘めた“願い”のためにも、何としてもかの敵と相対する必要があるのだから──。
☆
端的に言って、状況は最悪だと言っていいだろう。
必勝を誓い、計画を立て、完璧を期して状況を作り上げた。
望み通り勝利へと王手をかけた。
かけたはずだった。
にも拘わらず、自分は最後の一手を誤った。
敵の粘りを許してしまった。
その結果がこの様だ。
侮ったわけではない。
しかし余分な慢心があったことは否めない。
一度、暗殺に成功していたからだろう。
自分が綿密に組み上げたこの状況を前に、何処かで敵はこれを読み切れないと考えていたのだろう。
だから見落とした。そう──一度、暗殺されかかった者が、二度目を予知して保険を掛けないことなどあるはずがないのだ。
ましてや敵はこの聖杯大戦における屈指の謀略家。
自らも策謀で戦場に立つからこそ、同じく策謀を企てるものの存在に気づいても可笑しくは無い。加えて自身こそがその当時者ならば網を張るのは当然の事。
そして自分は見事、紙一重で網にかかってしまった。
成功体験とは、つくづく人を傲慢にさせる。
……全く、慢心とは実に恐ろしい。
たった一手、たった一手でこうも趨勢が逆転してしまうのだから。
「形勢逆転、ですね」
「………」
そう言って目前の神父は悠然と告げる。
全身に手傷を負い、今にも消えてしまいそうなほど弱っているものの、その表情に焦りも恐れも何もない。
あるのは先ほどまでアルドルの手にあったはずの勝利への確信。
この戦いの場に現れた新たな参戦者の姿はそれほどまでのインパクトを持っているのだ。
“赤”のランサー、英霊カルナ。
インドの叙事詩マハーバーラタにその名を刻む世界屈指の大英雄。神秘の古さが物を言う魔術世界において、神代の息吹を一身に受け、英雄と呼ぶに相応しい破格の功績を有する正にこの聖杯大戦における“赤”の陣営が最高戦力の一角。
トゥリファスの戦地に立っていたはずの大英雄が今まさに敵として、アルドルの目の前に立っているのだ。
状況は極めて最悪だと言っていいだろう。
ただでさえ現代を生きる人間がサーヴァントを打倒するなど至難の業、ましてやそれが破格の力を有するトップサーヴァントならば尚の事。
これが普通の魔術師であれば最悪を通り越して絶望としか形容できまい。
「……は」
そこまで考えてアルドルは思わず自嘲する。
反撃は無いと正々堂々と乗り込んだ時点でやはり自分は慢心していたのだ。遮二無二言わず、最初から力を解放し、盤外から殴りつけていればそもそも戦いが長引くことなど無かったろうに、必勝を誓っていながらこの様。
それとも或いは慢心ではなく酔っていたのか。
一世一代の大博打、自らの手腕で憧れの舞台を操る展開に。
どだい自身は二十そこらの若造なれば、経験不足は否めない。
対して見た目に反して敵はアルドルの生を二つ足しても上回る経験豊富な老獪なる聖人。ダーニックならばいざ知らず、多少の優位があったところで純粋な読みあいでは一手先を行かれてしまうのは当然のことだったか。
何にせよ、反省するには遅すぎる。
シロウ神父、“赤”のキャスター、そして“赤”のランサー。
状況は一対三。不利を通り越した絶望的な状況である。
さてどうしたものかと黙り込むアルドルに神父が言葉を投げかける。
「先の言葉をお返ししましょうか、チェックメイトですね。アルドル・プレストーン・ユグドミレニア。その魔術、その智謀には私としても驚嘆しましたが、こうなってしまえば流石の貴方にもどうしようもないでしょう?」
「……確かにな。神代の魔術を振るったところで真正の英雄を相手取るのは流石に無理がある。ましてやそれが神々の王すらも認めた破格の英雄ならばな」
「やはり──それも知っていますか。単に情報通というわけではなさそうですね。どうやら貴方は私とは違った特殊な
「さてな、何のことやら」
いよいよ以って逃がすつもりはないと目を細める神父を傍目に、アルドルは自らの慢心を反省しつつ、取り戻した冷静さで状況を見定める。
……単純な武力においてシロウ神父は既に脅威ではない。自分との戦いで無数の傷と多くの魔力を消費した彼は風前の灯火だ。
ただでさえマスターという楔を持たぬ『はぐれ』なのだ。
このまま戦い続ければ先に息が尽きるのは向こうに成るだろう。
“赤”のキャスターについても問題は無い。元々、戦闘を得手とするサーヴァントでも無いし、直接戦闘となれば一合と交わす間もなくアルドルは勝利することができるだろう。この間合いであれば宝具の発動など許しはしない。
だからこそ目下、最大の脅威は言うまでもなく。
「…………」
黄金の槍を構え、無言でこちらを眺める大英雄のみ。
何を考えているか分からぬ視線で“赤”のランサーはこちらを観察している。
「……全く、たまらんな」
苦笑する。
チリチリと肌を焼く魔力に、圧倒的なまでの存在感。
魔力という枷があるだろうに、相対する敵に全くと言っていいほど隙や不利を悟らせない完成度。
真っ向から打ち合えば為すすべもなく敗走するだろうとアルドルは確信する。自らが掴み取った神代の再演と言った奇跡も、神々が創り上げた魔剣も、この男を前にすれば全て無意味だ。
例外というものは常に付きまとうもので完全無欠などあり得ない話だが、それでもピラミッドの頂点は例外を許さない。
予定調和の展開を齎すからこその
かの英雄を打倒するのは困難だと確信したからこそ、己はマスター殺しに終始することを選んだのだから。
こうなれば自分に選べる手段は限られてくる。
一縷の望みに懸けて全力で逃走するか。
或いは──ここで『
「すぅ……ふぅ────」
アルドルの切り札は三つ。
対魔術師・対サーヴァントとして用意した、神代再演の工房と神々が創り上げた勝因の魔剣。
これらは何れも敵のマスターを直接倒すためであったり、サーヴァントからの遁走を容易にさせるための手段であり、同時に自らが手で確実にシロウ神父を抹殺するために考案した手段である。
前提として戦に熟練したトップサーヴァントを相手取ることを視野に入れて用意していたわけではないし、そもそも既に把握している“赤”の陣営の面々を考えれば、この力でまともに相手取れるのは“赤”のキャスターぐらいだろう。
三騎士は無論の事、目の前の大英雄と同格の“赤”のライダーや規格外の耐久性を誇る“赤”のバーサーカーを相手取るのは不可能だし、先に脱落した“赤”のアサシンとて、その真なる性能を考えれば相手取るのはやはり不可能。
アルドルの披露するこの魔術はあくまで自身の研究と、やはり神父を確殺するためだけに用意した成果であるのだ。
そもそもこの聖杯戦争において最も秀でた賢者とも言える彼に真っ向から大英雄と相対する胆力も傲慢さも有りはしない。
誰よりも英雄という存在を知る彼だからこそ、そんな無謀は選ばない。
だが……アルドルの三つ目の切り札、これだけは違う。
最後の切り札だけは違うのだ。
それはあり得ただろう
自身の計略が悉く頓挫し、自陣営の大英雄が筋書き通り開始早々潰え、聖女の介入を許し、大聖杯を奪取され、ユグドミレニアの頭領をも失う──。
そんなあり得たはずの
たった
反逆の騎士も、施しの英雄も、俊足の狩人も、最速の英雄も、勇猛なる反逆者も、最古の暗殺者も、稀代の劇作家も、そして救世を望む聖人も。
その全て、綺羅星の如く君臨する一騎当千、万夫不当の英雄たち全てを粉砕するための業。
かつて抑止の使者たる正義の味方を真正面から殺し切った切り札こそが、アルドルの誇る三つ目の切り札である。
「っ──…………」
無論、代償は限りなく重い。
神代再演を成立させるために払ったリスクなど笑い話になるほどには。
少なくとも辛うじて残った『
ただでさえもう思い出せる記憶は、忘れるわけにはいかなかったこの世界の記録と自らが『
次に使えば間違いなくそれらの記憶は蒸発するだろうし、加えて言うならば正義の味方との戦いで損耗した魂は間違いなく保たない。
もう向こう五十年の
だが、どの道このままいけば、自らのタイムアップを待つまでもなく、此処で朽ち果てることとなるだろう。
ならば──使うか、最後の切り札を。少なくともこちらにダーニックやフィオレがいる限り、目の前の大英雄と神父さえ道連れにすればユグドミレニアの勝利は揺るがぬものとなるはずだ。だったらいっそ──。
「──自らの生死よりも味方の勝利を望む決意は買うが今は止めておくが良い、“黒”のマスターよ。その覚悟を使い切るのはまだ早い」
「……何?」
「……ランサー?」
いよいよアルドルが覚悟を決めようとしたその瞬間。
不意に無言だった“赤”のランサーが口を開いた。
構えを解き、黄金の槍を立てて、静かにアルドルへ眼を合わせるその姿に戦意など欠片もなく、寧ろ誠意のようなものすら感じさせる。
その不可解なまでの立ち振る舞いにアルドルは勿論のこと、味方のはずのシロウすらも困惑している。
そんな二人を傍目に次の瞬間、“赤”のランサーは驚くべきことを口にしていた。
「勘違いしているようだが、今この場でお前と矛を交わすつもりは俺にはない。無論、そちらが望むというならば是非もないが、少なくともこの場において俺からお前に槍を向けるつもりはない」
「なんだと……?」
その言葉は決死を誓わんとしていたアルドルを本格的に困惑させた。
しかしそれも当然の話だろう。
“赤”のランサーはシロウの言葉を受けてこの場に現れたはずだ。ならばその目的は敵であるアルドルの抹殺であるはずだし、そもそも敵であるアルドルに対してそれ以上の接触理由は持たないはずだ。
真意不明の“赤”のランサーの言葉にアルドルは思考を精一杯回すが彼の見識を以てしても“赤”のランサーの真意は読み取れなかった。
そしてそれは……かの謀略家にとっても同じことだった。
「どういうつもりですランサー。貴方には確かにこの戦いの裏で動き回る者の排除を求めたはず。貴方もその命令に了承したはずですが……?」
「確かに。俺はお前に協力することに否は無いといった。だが、その命令全てに従うつもりはない。俺がお前に協力するのはあくまで“赤”の陣営として勝利するためであって、それ以上でも以下でもない。俺に命令を出来るのはマスターだけだ。そしてマスターでないお前に従う理由を俺は持たない」
「……それは」
シロウの言葉に“赤”のランサーは強く言い返すでもなく、淡々と、事実のみを述べるようにして静かに言い返した。
そう、“赤”の陣営のマスターらがシロウの謀略の毒牙に掛かったことを知り、他のサーヴァントは渋々ながらもシロウをこの聖杯大戦における“赤”の陣営の指揮者だと認めているが、“赤”のランサー──カルナだけは違う。
彼だけは未だに正気を失った自らのマスターを“赤”の陣営本来のマスターだと定めているのだ。
魔力のパスで繋がり、契約が履行されている限りたとえ実権が神父の手に移ろうとも自らのマスターは変わらないと彼は考え、振る舞っている。
だからこそシロウの存在はあくまで協力者に過ぎないとも。
その上で。
「だからこそ“黒”のマスター。俺はお前に一つ提案をしたい。そのために俺はこの場に馳せ参じた。どうか俺の言葉に耳を貸して欲しい、“黒”のマスターよ」
「──……」
真正面からアルドルを見るその瞳にはやはり誠意があった。
どうか話を聞いて欲しいと。
目の前の大英雄は本当にただそれだけを訴えている。
その眼を前にアルドルをしても取れる手段は一つしかなかった。
「……話は聞く。だが提案とやらに乗るかは聞いた上で判断させてもらおう」
「──ありがとう。敵であることには変わりないが、この一時に矛を収めてくれたことに感謝する」
そう言って“赤”のランサーは微かに微笑んだ。
“……なるほど、これが『施しの英雄』。神々の王も認めるわけか”
その高潔さ、あんまりにも清らかで太陽の如き眩しさだ。
己の一生をかけてユグドミレニアに勝利をと誓っているアルドルをして危うく戦意を失いかねない誠実さを目の当たりにし、アルドルは内心、素直に両手を上げる。
単純な武力の差以上に、これでアルドルはこの場において完全にかの大英雄に対抗する手段を失った。
少なくともこの状況で戦意で応えられるほどアルドルは
「それで話というのはなんだろうか。貴公の提案であっても流石にユグドミレニアに勝利を譲れという話には乗れないが?」
「俺から降伏を促すつもりはない。こちらに叶えたい願いがあるように、そちらにも叶えたい願いがあることは承知している。互いに激突するしかない運命にある以上、いずれ我が槍でそれを果たすつもりだ」
“赤”のランサーはコンと一度槍を鳴らし、暗に矛を収めるつもりはないと示す。この場では対話を選んだものの、決着は必ずつけるという意思表示だろう。
「だが勝負の天秤が決する前にやるべきことがある──お前は既に知っているようだが、俺のマスター……本来、俺の主たる存在はそこの神父ではない」
ちらりと横目にシロウを捉えながら“赤”のランサーは言う。
視線を向けられたシロウの方は苦笑しながら肩を竦める。
認めるが、反省するつもりはないという姿勢だった。
「今は亡き“赤”のアサシンの毒。俺のマスターを含む時計塔の魔術師たちは皆、それによって正気を失い。今や神父によって傀儡にされている。彼ら自身、もはや自らが戦場に立っていることの自覚すらないだろう」
「だろうな。でなくばこうも神父の思い通りに“赤”の陣営を動かせるはずもなし。それで? その話を私に聞かせた上で貴公はどうするつもりだ? 正気を取り戻させてほしいというならば残念ながら提案には乗れないな。毒の深度が分からないというのもあるが、それ以前に敵に塩を送るつもりはない。この場での助命を引き換えにするほど私は諦めてはいないのでね」
“赤”のランサーを前にアルドルはハッキリと言い切る。
……確かにこの場での助命を代価に“赤”のマスターの正気を取り戻すというのは悪くない交換条件かもしれない。
実際の所、本気で事に取り掛かればアルドルの腕ならば“赤”のアサシンの残り香程度払うのは手間でもできなくはないだろう。
そしてシロウ神父が裏切者である以上、“赤”のマスターらの正気を取り戻すことで逆に状況の優位を確立できる可能性があることも考えれば、二重の意味で悪くない。
だが──その場合、神父を脅威から外せても五人のマスターの復活と展開の複雑化が予想される。
そのリスクを考えればアルドルはその多少の優位を容認しなかった。
アルドルの読みは全知全能の未来視などではない。この世界と近似した世界線を知り、あくまでそれを基準として敵がどのように動くかを予想立てて動いているに過ぎない。
だからこそ、その世界線において既に落第していたものを参戦させれば、読みに不明な部分が多くなってくる。
そうなれば結果として今以上の不利な状況が発生するかもしれない。
今の状況下においてもまたユグドミレニアの勝利を望むほどのアルドルがその可能性を許容するはずなどない。
そしてその内実を知ることはなくともアルドルが勝ちを捨ててないことを承知している“赤”のランサーもまたアルドルの言葉に頷いた。
「だろうな、俺もそのように承知している。だからこそ俺が願うのはその
「──……何?」
今度こそアルドルは本気で困惑する。
この聖杯大戦ではなく、聖杯大戦が終わった後の話。
勝者と敗者が決定づけられた後の未来を“赤”のランサーは語る。
「始まりはどうあれ、今の俺のマスターに戦う意図はなく、“赤”の陣営が勝つにしても負けるにしても、その結果は我がマスターには関わりのない話だ。現状マスターを取り巻く環境は戦場より遠い所にある」
静かに、淡々と、あらん限りの誠意を込めて。
「謀略も戦場の道理と捉えられてしまえばそれまでだが、少なくとも今のマスターに戦う意志がないことは明白だろう。
だから──
“黒”のマスターよ、どうか我が望みに応えて欲しい」
「────」
アルドルは言葉を失くして絶句する。
その願い、その提案はアルドルをして一切予想だにしない内容だったからだ。
確かに“赤”のランサーの言う通り、“赤”のマスターは英霊を召喚し、参戦することまでを良しとしたが、実際は戦場に立つ以前に毒牙に掛かって正気を失ってしまった。
であれば、正気なき彼らがどのような世界観で現実を幻視しているかはともかく、現状を端的に言うならば完全なる部外者だと言っていいだろう。
ならば自らの意志で確たる意志を示していない彼らまでをも敵とする道理はなく、無関係の人間として後の利損を外に置けば彼らを殺す理由はない。
この場で矛を交わさない条件として『聖杯大戦終了後、“赤”の陣営のマスターたちの命を見逃す』という提案は悪くないどころか、寧ろアルドルにとって願ってもない提案だと言えるだろう。
しかしアルドルが絶句したのはそのような優位な提案だったからではない。
聖杯大戦終了後という英霊が消えた後の、何の保証もない状況。
履行されるかもわからない約定。
言ってしまえば、たったそれだけ。たったそれだけの提案をするためだけに目の前の英雄は態々敵の前に姿を現し、神父の不興を買うことも厭わず、信頼できるかどうかも分からない敵マスターに誠意を見せているのだ。
疑っていないわけではないだろう。
向こう見ずに信頼しているわけでもないだろう。
ただ目の前の英雄は誠実に願っているだけなのだ。
どうかその様にして欲しいと、矛を向ければ無理に従わせることも可能な格下の敵を前にしてなお、彼はあくまで頼んでいるだけ。
敵の事情も、味方の事情も、全てを知って、承知して、それでもどうか頼むと……
アルドルに裏切られる可能性を受け入れた上で尚、“赤”のランサーは履行されることを信じて誠実に訴えかける。
その穢れの無き黄金の精神力にこそ、アルドルは絶句したのだ。
識ってはいた。識ってはいたのだ。
目の前の英雄がどういった存在なのかを。
だがしかしそれを置いて、なおもこの大英雄はアルドルの予想の上を行ったというだけの話。
これが『施しの英雄』──神々の王すら認めた高潔なる者。
そしてやはり彼を無視できるほどアルドルは魔術師にはなれない。
「──……了解した。ユグドミレニア次期当主、アルドル・プレストーン・ユグドミレニアの名の下に誓おう。たとえこの戦いに“黒”の陣営が勝利したとしても“赤”の陣営のマスターたち、時計塔の魔術師たちの命を取ることは決してしない。無論、以後においても向かってこない限りでの話だが」
「構わない、俺とマスターの契約はあくまで聖杯大戦終了までの話。そこから先については我がマスターの責任だからな……俺の提案に乗ってくれたことに感謝する“黒”のマスターよ」
そう言って“赤”のランサーは礼を口にし、頭を下げる。
その様を見てアルドルは確信した。
どだい、この聖杯大戦がどのように推移していくにせよ、アルドルにとって最大の鬼門となるのはこの英雄となるだろうと。
最大の敵が神父なのは言うまでもないが、もしも彼以外でアルドルの、ひいてはユグドミレニアの勝利を阻むものがいるとするならば、それは他でもない、かの大英雄であろうとアルドルは確信した。
よりいっそう覚悟を強めるアルドルを傍目に件の大英雄はクルリと向かう方向を変えて、仮初のマスターたるシロウ神父に、無造作に告げる。
「そういうわけだ。この場においてはお前にも“黒”のマスターを見逃してもらいたい。その上で追撃をするというならば全力で妨害させてもらうが?」
「……言いたいことは色々とありますが、良いでしょう。この場は貴方に免じてこれ以上の戦闘を行わないことを約束しましょう」
やれやれと首を振りながらシロウは敵の抹殺を諦めた。
実のところ、シロウには一つだけ目の前の大英雄を無理に従わせる手段があるのだが、それを使うには些かリスクが大きすぎると考えたのだ。
かの大英雄であれば一つ、二つの『特権』ではまかり間違って気合で対抗されかねないし、そうなれば大英雄の抵抗力を前に、命令の履行より敵の離脱が早いだろう。
そうなれば無駄な『特権』の消費に加えて、大英雄と完全に決別するという結果しか残らなくなる。
先の展開を考え、“赤”のランサーにはまだ協力者であって欲しいことを考えれば此処は“赤”のランサーの願いを通すほかなかった。
「そういうわけです。どうぞ、お好きに退却してもらって構いませんよ。貴方との決着はいずれ相応しい時に、相応しい舞台で行うといたしましょう。此処で見逃したところでこの大戦における私にとって最大の敵が貴方であることには変わりないでしょうし、敢えて言っておきましょう、いずれ必ず、お前は私が殺す」
「それはこちらの台詞だ。此度は私自身の脇の甘さが招いた窮地であったが、次は無い。確実に、完璧に、今度こそ状況を仕上げてお前を確殺するとしよう。個人に救える世界などない。いずれ必ずお前の悲願に現実を叩きつけてやる」
「──よく言った、ならばやはりお前はオレの敵だ、アルドル・プレストーン・ユグドミレニア。我が悲願の証明を以て、お前を必ず敗北させよう」
「否だ。千年樹は崩れない。勝つのは我々、ユグドミレニアだ」
その言葉を最後にアルドルは虚空にルーン文字を刻む。
恐らくは何らかの移動にまつわる魔術なのだろう、突風が吹き荒れたと同時に、アルドルの姿は完全にこの劇場から消え去った。
空間転移か、瞬間移動か。
どちらにせよあっという間に遠ざかっていく気配を感じ取りながらシロウは息を吐いた。
「やれやれ、やってくれましたね、ランサー」
そう言ってみすみす敵を見送るはめになったシロウは、その要因に目を向けながら口を開いた。事が事なだけに些か口調には険が混じる。
「お前の命令を順守するつもりはない。俺のマスターはお前ではないからな」
「ですが、協力者ではあるはずです。貴方の行為は“赤”の陣営の勝利を遠ざける不誠実なものなのでは?」
シロウの言う言葉には一理がある。確かに“赤”のランサーの言う通り、シロウは正式な“赤”のランサーのマスターではない。
寧ろ、裏切者ですらあると言っていいだろう。
だがしかしその上で一先ずは“赤”の陣営勝利のために協力する関係にあると“赤”のランサーとは契約を交わしているはず。
だとすれば“赤”のランサーの行った一連の行為は不誠実だと言える面があるのは否めない。
シロウの追及に果たして“赤”のランサーは悪びれも、反省もなく、やはり淡々と言葉を返す。
「勘違いするな神父。俺は確かにこの場で“黒”のマスターを助命するよう誘導したが、それを以て“赤”の陣営の勝利を遠ざけたつもりはない。……あの男との戦いに熱を燃やしていたお前やあの男は把握していないようだが、こちらはこちらで動きがあった。事の次第では……“赤”の陣営が勝利に近づくことになるだろう」
「なんですって?」
予想だにしない解答にシロウは思わず驚きに声を上げる。
“赤”のランサーは続けて言う。
「何も“赤”の陣営の勝利を望んでいるのは俺やお前だけではないということだ。尤も、アレに“赤”の
“赤”のランサーは含みのある意味深な言葉を言って、消える。
恐らく霊体化して、正気を失った本来のマスターの下に向かったのだろう。
“赤”のランサーは基本的に何もない時は自らのマスターの下に寄り添っているが故に。
勝手気ままな振る舞いだが、少なくとも現状“赤”の陣営を裏切るつもりはないらしい。
「……はあ、そうですね。こうなった以上、私に出来るのもまた見守ることだけですか。せめて向こうでは何らかの戦果が挙がることを主に祈るとしましょう」
どだい後はなるようになるだけ。
何処か諦めにも期待にも聞こえる言葉を言い残して、シロウもまたその場を辞する。
そうして誰もかれもが舞台から降壇した後に。
残った影はただ一つ。
一人、蚊帳の外であった劇作家のみ。
「うーむ……これはアレですな。吾輩! 完ッッ全に忘れられてますな!」
誰も居なくなった舞台で“赤”のキャスターはそう言って、笑った。
今回のあらすじ
主人公くん
「カルナさん、マジカルナさんっス」
施しの口下手
「一つ肩の荷が下りた。安心安心」
シロウ神父
「言うこと聞いてくれる味方が居ない(´・ω・)」
影の薄い劇作家
「吾輩! 最近オチ担当では!?」