──ふと、夢を見る。
ありふれた凡人だった者の夢を。
時代は世紀末。
遂に西暦が2000年、俗にいう
《彼》の何度目かの生まれ故郷である日本においても提唱されていた2000年問題やらノストラダムスの大予言がうんたらと新時代前夜特有の混沌と虚構と期待が混ざり合った雑多な雰囲気が満ちていたという。
時代の狭間。歴史の変わり目。
そんな一種の境界の時代に《彼》は生誕したのだ。
とはいえ《彼》の出生における特殊性などその程度。生まれた家庭は旧華族の血が入っているとか戦国武将の子孫だとか、そういった事情は絶無で先祖は極々ありふれた市井の何某か、両親は特徴のない一日本国民である。
強いて言うならば高校入学時および大学入学時に奨学金を頼らず一括で《彼》の希望する進路を叶えられた中流階層の人間、というぐらいだろうか。
何にせよ、余人が目を見張るような特殊性は何一つ持ち合わせなかったと言っていい。そしてそれは生まれ出でた《彼》も同じことだ。
《彼》は凡人だった。
知的好奇心が平均よりも高く、当人は人好きする性格ではないのに不思議と周囲の人に好かれる。普通よりやや物静かな普通の人間。
学校の勉強は嫌いだけど、知的好奇心を満たす意味での学びは好み。人付き合いは苦手だけれど、他人からの好意には相応の返礼をする。
正に中庸と言った属性を持った本当の、本当に、ただの凡人。
だから、だろう。
《彼》は特別であることを好いていた。
いや、愛していた、とさえ言っていいだろう。
自分が取りたてて特別な背景を持たないからこそ、時代に名を刻むような偉業を打ち立てる有名人や生まれに歴史を背負う人々、ジャンルを問わずに物語の主役のような人生を歩む人間に、無条件で憧れていた。
別段、彼らのような存在に成りたいと思っていたわけではない。ただ特別であるということ。人々を魅せられるような
特別であることに憧れていた《彼》にとって、その軌跡は極めて魅力的であり、言ってしまえば彼らの軌跡を見ることこそが好きだったのだ。
小説の一ページをめくる時の様に、世情を伝えるニュースに流れる『特別』を眺めては一喜一憂し、更新される
自分にはない特別だからこそ、特別であるということへ《彼》は無条件に尊敬して憧れていたのだ。それは
英雄、英傑、偉人、傑物、聖人……個人名を歴史という大河に刻んだもの全てに《彼》は畏敬し、純粋な憧れを向けて──何時しか、その軌跡全てを収集し続けることこそが《彼》の生きがいと化していた。
一種の
だからこそ学生時代、誰しもが夢や進路に迷う時期にあって《彼》は迷わず考古学の道を選択したという。
──そこで歴史家の道を選ばなかったのは、より『特別であるもの』を求めた結果だった。
誰かの
凡人ではあったもののやりたいことが明白であった《彼》にとって、道は常に一本道だった。ただそう生まれ、そう好み、そうであるからこそ脇目もふらずにただ志した道を往く。
それはもしかしたら凡人ならざる偉人へと繋がる道だったのかもしれないが、結局のところ《彼》は凡人だったのだ。
何故ならば《彼》はその歩みが結実するのを見るまでもなく、道半ばで死んでしまったからである。
大学生。目指した夢まであと一歩という所で《彼》は若く、そして凡人であるままに何を成すこともなく死んだ。
死因は覚えていないし、然して重要でもない。
《彼》の死を悲しむものは身内だけだったし、その死は一日に平均して死ぬであろう死者の一人として数えられただけであって世界に何の影響も及ぼしていないのだから。
ただ生まれ、ただ死んだ。
これはたったそれだけの話なのだから。
故にこそ《彼》は、■■■■は、本当にただの凡人だった。
それこそ何処ぞの少女と同じように。
──ページをめくる。
だからこそ、
《彼》が一番初めに抱いたのは困惑だった。
自分は死んだ。そこに無念はあれど後悔や未練はなく、自分は何処まで行っても凡人だったという確信だけがあった。
次の生を切望した記憶も、祈りも願いもなく、
違ったのは
余人より遥かに優れた才、生まれの特殊性、周囲の人間関係。全てが全て、凡人とは言い難い『特別なもの』に満ちていた。
故に──《彼》は前世と同じように当たり前に道を定めた。
自身もまた『特別なもの』に成ったならば、
誰に言われるまでもなく、《彼》は内から生じる衝動と短くも確かな
……それが己が《起源》から生じるものだと知るのは後の話。
地獄のような僧侶と、常軌を逸した天才、そして凡庸な精神を持つ秀才に囲まれた《彼》にとって二度目の学生時代において語られる思い出だ。
ともあれ《彼》は変わらない。凡人と呼ばれた前世と同じように自ら道を定めて脇目も振らずにひた走る。外圧によって揺らがないその精神は鋼のようで、初志貫徹した生き様は原初の衝動を契機とした蒼穹が如く澄み渡っている。
相も変わらず《彼》は彼一人で完結している。
ただ一つ、前世とは異なる点があった。
それは……。
『お前は一族の誇りだ』
──かつて
眩し気に目を細め、愛しく、そして憧れるようなその視線を《彼》に向ける男がいた。
自らの背景を細部まで知る《彼》にとって、男が《彼》に向ける感情は客観的に見て当然のモノだったと言っていいだろう。
衰退しかけの一族に降誕した規格外の天才。『特別なもの』に焦がれた《彼》だからこそ男が自分に抱く感情はよく
だから
実際に男からそう声を掛けられた時、自己で完結されていた世界に波紋が起きた。
衝撃だった。驚愕だった。
男が《彼》に
男から向けられた感情こそが衝撃だった。
『──そうか、貴方は……
それは当事者意識の欠如。
《彼》は常に世界を無関係の他人のような目で眺めてしまっていたのだ。それこそ自分の人生さえも。
故に鋼、故に蒼穹。
外圧によって歪まぬのではなく境界の向こうで世界を眺めていた。
それこそが自分という存在の本性。
《光》という普遍にして不変の
だが、この時。
《彼》の世界に確かな亀裂が入った。
そして傷はさらに深くなる。
『今まで言われるままに学んできましたけど……学ぶことはこんなにも新鮮で楽しいものなのですね! ア■ド■!』
年が近いという理由で、短期間だけで教導することとなった少女は、《彼》に対して照れながら、でも楽し気に笑いかける。
『その、ありがとうございます。姉ちゃんがあんなに楽しそうに笑ってるの久しぶりに見たから。……兄さんが居たら、こうなんだろうかなって』
そう言って《彼》に頭を下げる少年がいた。何処か緊張しながら、しかし確かな好意を《彼》に向けて、礼を告げた。
『そうか、お前にとって『死』は終わりではなく、証なのか』
地獄のような僧侶が告げる。《彼》と交わした論議の末に、《彼》が告げた言葉に頷き、人の
『呆れた。お前自身が一度でも道を踏み外せば、それで終わりだろうに。夢見がちというか楽観が過ぎるというか。……その性質、あまり私の前で晒さないでくれよ? どこぞの愚妹に重なって、つい殺したくなってしまうだろう?』
何時かに問われた疑問に答えた時、《彼》にそんな言葉を向けた女がいた。言葉通りに呆れたような視線と、微かに肌を刺す割と本気の殺意。
『……不愉快だな、その気配。貴様、どこぞの神性の縁者か? 何にせよ、此処で死ね。マスターである前に、私はお前が気に食わん』
憎悪が在った。ただそれだけで恐怖と戦慄を覚える感情が存在した。
『変わった
賢者は愉快気に笑った。世界を俯瞰するような視線は、何処か《彼》に通じるものがあって、かの魔法使いに親近感を抱いた。
『このような結末は私とて不本意なのだがね……だが、『世界の敵』とあれば話が別だ。すまんなマスター、私は
責務を背負い、疲れたように無銘の英雄は告げる。無機質なままに殺意を向けてくるその様は機械の様で、もの悲しく、されども背負った責任を手放さぬ強さに満ちていた。
多くのモノを見て来た。多くの場所を歩いて来た。
今まで体験したことのない激動の人生。
その中で完全無欠の世界に波紋が起こったのだ。
生きている。
皆が皆、確かな世界で生きている。
それはとても当たり前のことで、衝撃的なことだった。
──他人事のように見て来た。
自分は凡人なんだからと『特別』とは違うのだからと。
記録だけが、自分の機能だと思っていた。
けれど違う、違うのだ。
自分もまた当時者だったのだ。
歴史に生きている、今を確かに生きている。
それを、ようやく、死の果てでようやく思い出した。
だから──。
『お前は一族の誇りだ』
その言葉に、《彼》は、私は──。
「ならば、私はそのように生きようか」
そういって答える私はやっぱり凡人なのだろう。
──誰かの期待に応える。
☆
──ふと、夢を見る。
ありふれた凡人だった者の夢を。
時代は世界を一変させる革命の前夜。
旧時代より続く常識と新時代への願望が交錯する混迷期。
そんな時代に《彼女》は生まれた。
『十八世紀に生きたもので無ければ、生きる歓びを知ったことにはならない』──とある国の外相だった男の言葉だが、この時代は正に新旧が交錯する混迷期にして激動の時代。
今に至るまで積み上げて来たあらゆる常識が瓦解する革命の時代であった。
身分に基づく封建的な存在を一掃し、民を中心とした、民による自由な社会。
王室や貴族と言った血統を絶対視する身分が罷り通る当時のその国にとって、その思想がいったいどれほど極大の爆弾であったかを誰が悟れたか。
熱狂する民衆も、それに反発する旧弊の権化たちも、もはや冷静さを保つことは出来ず、弁舌達者な先導者たちが注ぐ油に火炎をまき散らし、誰も彼もが声高だかに叫んでいた。革命を、新たな時代の到来を、と。
それを《彼女》は深窓の窓際で眺めていた。
《彼女》はありきたりな凡人だった。
生まれた血統こそとある大劇作家に通じる歴史ある貴族階級のものであったが、《彼女》の生まれた時分において既にその肩書は飾り以上の意味を持たず、らしい資産と言えばこじんまりとした農園が一つ。
没落した貴族の生まれ──ならばそれは凡夫と大して変わりはない。
ほどなくして十代の前半で母を亡くしたのを契機に、《彼女》は街にある修道院にその身元を預けられた。
この時代、子どもを真っ当に育てるというだけでも大変なことだ。手に負えない我が子を教会に預けるというのは当然で、それ自体に恨みや嘆きを覚えたことは一切なかった。
修道院の暮らしが肌に合っていたということもあるのだろう。明るくも、生来物静かな性質である《彼女》にとって修道院での労働と、静かな祈りの時間は代わり映えのしない安穏とした日々だが、激動する外の世界とは真逆に、ひたすらに穏やかな日々だった。
嗚呼──きっと自分は静かに一生を終えるのだろう。
何となくそんな確信が胸にあった。結婚も、何かを成すこともなく、ただ生まれてただ死ぬ。ありふれた凡人の生。
空いた時間に本を開くささやかな幸せを片手にその生を終えるのだろうと。この時は真実、そう思っていたのだ。
だが、時代の激動はそんな凡人のささやかな夢を許さなかった。
革命である。旧権力者を悉く掃討し、新たな時代を築くのだと。
そう気炎を吐く者たちは教会にも目を付けた。
功徳を説く信心深き神父も居たのだろうが、混迷の時代に在った人々は古きを善しとするものは皆もの全て敵だと考えていたのだ。
信仰の皮を被って権力を欲しいままにする
積み重ねてきた悪徳に誅罰を!
1791年。押し寄せる時代の波は彼女の暮らす修道院にも直撃し、当時の革命政府によって教会や修道院は、その全てが国有資産と定められて、《彼女》のいた修道院は閉鎖されてしまったのだ。
かくして《彼女》もまた激動の時代に放り出される。
凡庸である彼女にも、かくも残酷に運命は牙を剥いたのだ。
揺れ動く時代に放り出された《彼女》が頼ったのは親類である叔母だった。屋敷での新たな生活のために、叔母は彼女に良くしてくれていたが、修道院を追われ、社会で生きることを強要された時点で、もはや彼女は世情から離れて静かに暮らすという選択肢はなかった。
全てを飲み込む激動は誰も彼もが当事者であることを望んでいる。ならば無関係でなど居られるはずもなく、凡人なりに、舞台に上がらざるを得ないことを確信してしまったから。
だから《彼女》はまず革命を見定めた。落ちたとはいえ貴族の血が為せるものか、或いは元より才に恵まれていたのか、彼女は平均よりも頭脳明晰であり、何よりも冷静だった。
そしてジッと世情を見極める彼女の視線の先で、激動の時代にあって最悪とも言える爆発が起こる。
すなわち──後のフランス革命へと繋がる重要事件『ヴァレンヌ逃亡事件』の発生である。
ただでさえ、生来の血と身分によって社会的な立ち位置が決定される封建的な社会に嫌気がさしていた時分である。そんな中、権力の権化とも言える当時の王政を指揮するルイ十六世とマリー・アントワネットの関わったこの国王逃亡事件があまりにも致命的な爆弾だった。
怒り、怒り、狂えるほどの、怒り。
万の民衆はこれまで積み上げられてきた不平不満を爆発させ、自由を御旗に全ての旧弊を焼き尽くすため、遂にその牙を剥いたのだ。
こうなってはもはや扇動者の言葉などただの後押しにしかならない。掲げた理想も目指す目標も大した意味を持たない。
手段のために目的を選ぶ。
要は、ただ壊したかっただけなのだ。今の時代を。
冷静な《彼女》はそれを察してしまった。
間の悪いことに時期も全てを後押ししていた。元よりこのフランスを中心にヨーロッパでは戦乱の波が起こっており、それに伴う深刻なインフレと食糧難が市井には訪れていた。そこに止めの、権力者による逃亡事件。
もはや何もかもが致命的だった。
資本家階級と労働者階級での溝は修復不可能な所まで深まり、これより多くの血が流れることになることは多少の賢さを有するものならば誰もが悟った。
……彼女はありふれた凡人だ。
静かに生き、静かに死ぬことに満足するような。
そんな、深窓の令嬢。
だが、彼女は善意の人であり、良き凡人だ。
だからこそ思ってしまった。
これより来たる惨劇を止めたい。
全ての怒りに終止符を──と。
かくて彼女は剣を取る。
か弱くも強い、天使の一撃を。
倒さなければならない敵は見定めたつもりだった。
九月虐殺、国王の処刑に関して過激な演説を行い、血に飢えた独裁を目指さんと言葉を振るうあの男。
怒りと破壊の権化のような彼を討つことが惨劇を止める唯一無二の手段だと確信したが故に迷いはない。
叔母には別れを告げた。
これまでお世話になった以上、迷惑をかける訳にはいかないから。
父には手紙を送った。
思う所はあるがそれでも大切な親である。身内に迷惑をかける訳にはいかないと他国に亡命すると嘘をついて、良く知る街を後にした。
目指す場所はパリ。きっともう、戻ってはこれないでしょう。
たった一人、少女は細腕でナイフを握りしめ、全てを終わらせるために乗合馬車に揺られて街を発つ。
……後の顛末は、歴史に語られる通りに。
計画立案から実行に至るまで、あらゆる手順をたった一人で完成させ、奇跡に恵まれながらも敵を討った凡人の名は歴史に刻まれることになる。
無垢なる暗殺の天使。
コルデー・ダルモン家に生まれ、激動の時代を過ごした少女。
マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン。
自らの首を断つ断頭台に在って尚、優しく微笑み、沈着のまま歩を踏み出す彼女を見て、後に彼女の処刑を執り行った死刑執行人のサンソンは語る。
「彼女を見つめれば見つめるほどいっそう強く惹きつけられた。確かに彼女は美しかったが、それは容貌の美しさのせいではなく、最後の最後までなぜあのように愛らしく毅然としていられるのか信じられなかったからであった」──と。
その答えは──きっと、
惨劇に幕を。
愛おしき故国に晴れやかなる
そんな未来を信じて無垢なる少女は
………
………………。
──目が覚める。
どうやら、
少年は思う。諸人は《彼女》の生涯を悲劇と呼ぶのかもしれないが、それ以上に何と強い女性であることか、と。
静かな自身の幕切れよりも民衆の怒りをどうにかしようと一人で悩み、歩み、決したその生き様。独善だったと歴史を以てして言う者もいるだろうが、それでも尚、彼女は自ら信じた道を貫き通したのだ。
見知らぬ誰かのために、愛しい故国の未来のために。
その善性と決断に厳かに敬意を、そしてその強さに憧憬を。
故にこそ。
「かの聖人らを討つアサシン。誰よりもその器たると確信している」
だから魔術師は彼女を選んだのだ。
誰よりも優しく、鋼のような強さを持つ彼女を。
──目が覚める。
どうやら、旧い記録を見ていたようだ。
少女は思う。なんて純粋な人なのだろうかと。
自らが輝くことよりも綺羅星のような他者の輝きをこそ愛する彼。『特別なもの』を愛するからこそ、それらに相応の報いが訪れることを望み、決してそこに自身へと還元される対価を求めない。
物語を識り、彼らを識り、その軌跡こそが宝なのだと一人で満足して、一人で進んでいってしまう。
何処まで行っても誰かのため。
輝く誰かのためだけに、少年は生を消費する。
「きっと──ええ。だからこそ私なのでしょうね」
だから暗殺者は静かに彼を静観する。
誰よりも純粋で、蒼穹のような彼を。
──似た者同士の少年少女は一人、道を往く。
望む輝かしき運命を手にするため、
愚かしくも純粋なる同類の果てを見送るため、
万能の杯へと手を伸ばすのだ──。