名前とは、人間が揮う最も古い神秘の一つだ。
命名という言葉が表すように、名を与えるという行為は命を吹き込むことに等しい。何故ならばこの世界に於いて、生命、無機物、概念に問わず、存在を確立するために名というのは必要不可欠なものだからだ。
人間に認識する知性がある限り、名がないものなど存在しない。
言葉という表現に富んだ迂遠なコミュニケーション手段を是とした人類にとって名が無いことはそれだけで不便となるから。
ただ「青空」と伝える為だけに、外に出て上を仰いだ先にある青い色などと一々目に映る現象を詳らかに語るなど、時間の無駄にもほどがある。
人間は百年ぽっちの命しかないのだ。たかだかコミュニケーションにそんな手間をかけていてはそれだけで寿命を使いつぶしてしまう。
故に人類は、互いの共通認識に名を与えた。
天を仰いだその先にある青色を天空と呼び、足を伝って感じ取れる確たる感触を地面と呼んだ。
他にも肌を撫でる感覚を風、夜の闇を照らす灯を火、身を潤す透明な液体を水、そして有機無機に関わりなく全ての生命の台となるそれを土と呼んだ。
この世が言葉に溢れる限り、名前はその存在を表す最も簡単な表現手法。よって名を与えるという行為が命を与える行為と同意とされ、古来より今に掛けて重要な儀式とされてきたのだ。
そして当然、魔術世界においても同じこと。
例えば全世界に存在するあらゆる呪いの中でも最も簡単かつ最もポピュラーなものは存在の名前を起点として発動するモノだろう。
不吉な呪物に憎む存在の名を刻む、或いは逆に願いを託す存在を祝いの品に括りつける。これらは存在を表す名を起点に発動する最も簡単な魔術と言えよう。
他にも継承を示す「二世」の名乗り、真名を隠す「セイバー」等の偽名、他者から見た己を表す渾名など。
名が生む意味のバリエーションは多岐に渉る。
即ち名前とは全世界において人間が共通して使用して来た、もっとも古く、もっとも単純で、もっとも分かりやすい魔術なのである。
神々ですら名前の原則には縛られる。
名前のない神がどのような末路を辿るかなど、最古の唯一神教者たちが己が仰ぐ神の名を忘れてしまった事例からも読み取れよう。
忘却という機能を人間が有する以上、名がないモノは存在がないに等しく、記される事象は歴史の渦に埋もれていくのみ。
存在を表す上で名前はやはり必要不可欠なのだ。
ならば──。
『名前とは存在そのものであり、名を名乗るという行為は他者の認識に己が何者かであるかを示す行為と言える。であるのなら逆説的に名乗る名前によって人の認識は塗り替えられるということではないか──』
数年前──時計塔。
嘗てこのような考えの下、『名前』の研究に務めた魔術師が居た。
彼は名前によって認識は存在として定まるという理論の下、名を名乗るという行為そのものの魔術的意味をより深堀りしようとしたという。
取り分け、彼の奇人ぶりを時計塔内で知れ渡らせた珍説「神の名を名乗ることで神そのものと同一化できるのではないか」という仮説は当時の魔術師たちにとっては有名な
確かに世には襲名という手段に代表されるように、己に関わる先々代々からの役目や立場を同じ名を名乗ることで自らのモノとする手法や、全く関わりのない逆に偉人や神々の名を借りて術の強化をする手法など、
しかし名を名乗ることで神々と同等の存在になる魔術など思考の飛躍にも程があった。それこそ悪い薬でも飲んだ奇人の発想としか言えまい。
名を利用して術の強度を補強する、程度ならば人々の無意識下による信仰を利用するという意味で有効であるものの、神それそのものの力を行使するには前提として神々の存在がこの世に確立されていなければならない。
だが、地上から神は疾うの昔に去っている。
より分かりやすく言うならば神の名前は死語なのだ。
役目を終えた言葉に力は宿らない。
よって今さら神を名乗ったところで成れるものなど怪しい新興宗教の教祖ぐらいだろう。少なくとも現代魔術を追及する時計塔の中で、それを追及するなど余程の馬鹿か、度し難い間抜けぐらいであろう。
──そんな周囲の憐みと侮りを受けながら、それでもその魔術師は追及を重ねていった。非常識は承知の上、それでも非常識を追及していかなければならない理由が彼にはあったからである。
それも人間や魔術師というものたち以上の、精霊に等しい強力な上位存在に食い込ませられるだけの牙が。
果たして、彼の愚行の果ての答え。それは彼が前哨戦と定めた南米の地で、魔術協会の宿敵たる聖堂教会の監督役の前で開かれた。
後に神父はこう言ったという「彼は神の名を
南米亜種聖杯戦争、最大最強の復讐者を眼前に、神話を憎む大英雄へと魔術師は大胆不敵に名乗りを上げた。
『──神格装填、
☆
「──
幼き少女が口にした言葉は魔術詠唱でも何でもない、ただの名称だった。
フレイヤ──それが意味するところは即ち北欧神話に伝わる美の女神たる存在、フレイヤそのものであろう。
曰くヴァン神族出身で海の神ニョルズの娘。ヴァナディースとも呼ばれる生と死、愛情と戦い、豊穣を司る典型的な女神である。
神話においては愛多く、様々な色恋沙汰と共に語られる女神だが、魔法に長けているともされ、あの全知全能と謳われる隻眼の賢者オーディンも一時彼女に魔法の知恵を乞うたという。
しかし──だから何だというのか。
何故ならばこれは魔術詠唱でも巨大な術式を駆動させる発動呪文でもない。
ルクスはただ単に名乗っただけだ。
まるで己こそがフレイヤであると言わんばかりに。
迫る大英雄を前に名乗りを上げただけ。
そこには何の魔力も力も宿っておらず、幼子がごっこ遊びをするが程度の真似。
であれば残る結末はその戯言を遺言とし、死に落ちるのみである。
である──はずなのに。
彼女が名乗ったその刹那に。
全ての認識が忘我した。
「──────────────」
件の大英雄も、苦悩する弓兵も、気炎を吐く剣士も、経験豊富な死霊魔術師も、空も地面も空気も世界すらも──。
時すらも刻む役割を忘却し、出現した『それ』に見入る。
絶世の『■』だった。
空前絶後の『■』だった。
言葉を重ねることすら無粋。筆舌に尽くしがたいそれは正に美の女神を名乗るに等しい『■』であり、同時に人間の認識など容易く塗りつぶす孔だった。
これを前に自我を保てる知性体など存在しないと。そう思わせるほどの完璧にして究極の『■』。
ものみな全ての行動が止まる。
この場に居合わせた全ての概念が役目を忘れた。
よって少女は命を拾い、同時に得る。
最大にして最悪の敵手の隙という成果を。
「『さあ、行きなさい私の英雄。その猛き刃で私に
「ッ────!!!!!」
吼える。もはや断末魔に等しい壮絶な絶叫を上げて竜殺しが踏み込む。
そうしなければ動けないと悟ったから、そうでもしないと一歩も動けないと確信したから。
如何なものであろうともこれを前には全てが消える。朱に交われば赤くなるとは極東の言葉だが、これは同じ赤に塗り替える所か、全てを全て黄金一色に塗りつぶす認識の暴力だ。
“黒”のセイバーがこの場で動けるのは別段、主の許可があったからだとか身内だから巻き込まれずに済んだとかそういう話ではない。
何故ならばこの『■』は全てを巻き込む。敵も味方も関係ない。彼女を認識したその瞬間に事は全て終わっているのだ。
よって動ける理由は単純に二つ。此処に至るまで一度も彼女を直視しなかったことと、彼女に覚悟するよう言い聞かせられていたから。
大英雄の全身全霊をかけた究極の自制と単に術の掛かりが浅く済んだ。このたった二つの理由を蜘蛛の糸と辿り、竜殺しは絶望を振り切る。
大剣が狙い過たず落ちる。
対象は言うまでもなく最大最強の難敵、俊足の大英雄。
余りにも有名すぎるその弱点を突かんと刃が下る。
回避? ──出来るはずがない。
防御? ──出来るはずがない。
この絶望、この『■』を前に動ける者など居ない。
結果は順当に。
余りにも呆気なく大英雄は、致命の一撃を叩きつけられる。
「──ぁ…………だ、………だァ!!!」
「な……!?」
だが奇跡が起こる。否、奇跡を
憤怒にも似た激情で強引に、大英雄は絶望を引きちぎる。
代償に
竜殺しが自制という鋼の理性で耐えたならば、こちらは燃えるような感情で以て振り切った。
英雄として相応しく生きる──己が願いにして魂とも言うべき理念が敵を前に棒立ちをする己など許容するなど絶対にあり得ない。
『■』を上回る情熱が、大英雄に奇跡を与えた。
「「ッ!!」」
二つの気合が火花を散らす。
剣と槍。共に『■』を上回るため渾身に渾身を重ねた一撃同士はサーヴァントが宝具なしで出力できる最大威力を発揮し、雷鳴の如く響き渡る。
その想定外、予想外とも言える結末を前に
「『流石ね。見惚れちゃうぐらいに素敵よ、
平時の様に悪戯っぽくクスリと笑う。
如何にも少女らしい屈託のない笑顔で
「『でも残念。
そう、何故ならば己は物語るモノ。
必然的に彼も彼女も多くの物語を識っている。
故にこういった
悪いがこれぐらいはやると、
だからこそ何処までも順当に、予想通りに。
彼女は
よって遍く女神の掌の上。
役者では脚本家には届かない。
「『ばきゅん』」
指先を銃の形に、ウインクを交えながら少女は大英雄を射抜く。
それは何て事の無いただの呪い、不吉を呼び込むガンド。
威力としては平凡と言わざるを得ない一撃だった。
それこそ
万全の英雄ならば受けたところで眉一つ顰めないだろう、魔術はしかし着弾箇所のみがあまりにも致命的すぎた。
「ガッ!! ああああああああああああッ!?」
呪いが弾け、大英雄が絶叫を上げる。
アキレス腱が射抜かれ、無敵の加護が掻き消える。
奇しくもそれを契機として、幻想の時間も終わりを告げた。
弾かれるように“赤”の陣営が正気を取り戻す。
「──ぐっ、ああ畜生! 言わんこっちゃねえ! これだから胡散臭い奴の戯言には乗るんじゃねえんだッ!!」
「──……くっ、ライダーッ!」
「ッ──ハ、何が起こった!?」
元より強力な魔力耐性を有するからか、真っ先に“赤”のセイバーが正気を取り戻し、次いでサーヴァントたる“赤”のアーチャーが、最後に獅子劫界離が己の意識を掴み取り、ようやく戦場に復帰する。
相も変わらず周囲の景色は魔法じみているモノの、認識を磨り潰す魔法以上の奇跡の時間は終わりを告げたらしい。
しかし復帰した彼らの眼前に飛び込んできたのは、無敵を失い絶叫する大英雄と余裕の笑みを浮かべる少女の姿。
“赤”の陣営の視線を一様に受けた少女は悪戯がバレたと言わんばかりに、小さく舌を出しながら言う。
「ふふ、お帰りなさい」
「ッ! もう言いたいこたぁねえよなァ! マスターッ!!」
「ねぇな! 問答無用に敵だそいつぁ! 行けセイバーッ!!」
「応ッッ!!」
『魔力放出』、全開。
猛々しく狂い吹き荒ぶ魔力の渦。
赤雷を纏い、稲妻の如く“赤”のセイバーが奔る。
目標は無論、
「あら、こっちも
対して少女の余裕は崩れない。
微笑みながら迫る死の影を恐れることなく見つめ返す。
このまま死ぬのはあり得ない。
されど同じ手段は使えない。
だからこそ少女は少女らしく、言うのだ。
力を持たぬ弱者として、祈りの言葉を。
「──ということで助けて、英雄さん」
「フッ──!」
少女の求めに応じて“黒”の剣士が動いた。
赤い稲妻を打ち払わんと青白い魔力が輝く。
動きを止めた“赤”のライダーを傍目に、“黒”のセイバーは反転。そのままルクスと“赤”のセイバーを結ぶ間に割り込み、“赤”のセイバーの突撃を横合いから切りつけた。
視界外からの一撃ではあったものの、この程度の反撃は予期されたるもの。直感に頼るまでもなく迎撃に動いた“黒”のセイバーの一撃を魔力を乗せた剣で容易くはね退ける。
赤雷を伴う一撃はそれだけで“黒”のセイバーの膂力を簡単に上回り、“赤”のセイバーと比べて長身な青年の身体を吹き飛ばした。
その赤雷伴う一撃は並のサーヴァントであればそれだけでも少なからず損傷を負うはずなのだが、“黒”のセイバーは当然無傷だ。
剣と体捌きで上手く力を逃したのもそうだが、余波程度の魔力で傷を負う程、“黒”のセイバーは柔い体をしていない。
竜の血潮を浴びた肉体は依然無敵。弱点を射抜かれて特性を消失した“赤”のライダーとは異なり“黒”のセイバーは依然健在だった。
いっそ見事とまで思える着地まで決め、ルクスを守る騎士の様に彼女の下に舞い降りた。
「チッ! 邪魔しやがって!」
「ありがとう。助かったわ」
「大事ないなら、何よりだ」
毒づく“赤”のセイバーを傍目に、仮初の主従は短いやり取りを済ます。
この時点で予定の目標は達成されている。
であれば此処から先は余談。
あちらが決まるまでの耐久戦だ。
ルクスが一歩下がり、“黒”のセイバーが一歩前に出る。
「それじゃあ後は任せるわ。見ての通り、何の力も無いか弱い少女だから簡単な援護はするけれど、期待はしないで頂戴な。貴方の力を信じるわ、セイバー」
「……了解した」
流石の“黒”のセイバーも、そのいけしゃあしゃあとした言動に言いたいことの一つも浮かんだが、今は死地。
やるべきことは言葉ではなく剣を重ねることである以上、問答は不要だった。
剣を構え、敵に向き直る。
本来の主からの無言の枷は外れているものの元より、不愛想な性格をしている自覚はある。なので敵手に掛ける一言は端的かつ明快に。
「来い」
「……ハッ、ほざいたな! “黒”のセイバー!!」
“赤”のセイバーが踏み込み、“黒”のセイバーが迎撃する。
此処に、通常の聖杯戦争ではあり得ない、最優のサーヴァント同士の激突が結実した。
死闘が幕明ける。
「それで、今のはどういうことだ?」
油断など欠片もしないと、己が得物たる銃口を“黒”の剣士の背に隠れる少女へと照準しつつ、獅子劫は言葉を投げかける。
悠然と構える少女は、先ごろの現象はともかく、隙だらけだ。
火事場に本当に縁のない存在だったのだろう。多少周囲に気を配っている様子は見受けられるが動きは全く素人以下。
〝赤”のセイバーと相対しながらもこちらに気を向け続ける〝黒”のセイバーさえいなければ、それこそ獅子劫一人で片付けられていただろう。
しかし見た目はともかく、規格外の手札を収めているのは今に体験した事象から明らかだろう。だからこそ油断なく、隙なく、少女の一挙手一投足を満遍なく観察しながら獅子劫は不明の糸口を探りに掛かる。
「さあ、何の事かしら? 全く想像もできないわね?」
「……嬢ちゃん、意外といい性格してるな」
「ふふ、お褒めに預かり恐悦至極……お礼に手品の種を教えてあげるわ」
のらりくらりとした態度に思わず獅子劫が呆れたように揶揄するが、当の少女は柳に風。獅子劫が変に駆け引きするのが馬鹿らしくなってくるほど簡単に言葉を紡いで見せた。
「さっきのは魔術ではなく、簡単な呪術よ。枕詞に魔女の、という単語が付く以外は本当に単純な、ただ名を名乗るだけのお呪い」
「呪い……ああ、成程な。だからその
「ええ。察しの通り、私は魔術回路を持たない身だから。魔力の方は裏技で確保できるのだけれど術式を動かすことは出来ない。だからこそ出来るのは発動条件を揃えることだけ。それなら誰にだってできるでしょう?」
魔術と呪術。一般に同一の現象を引き起こすと認識される両者だが、魔術師たる視点から見ると両者は異なる術である。
魔力を用い、術を練ってそこにある現象をプログラミングして任意の現象を引き起こすのが魔術だとするならば、呪術とは髪や爪、血といった術者本人の肉体を素体として現象を書き換えるプログラム。
要は文字通り魔力と術式だけで発動する魔術とは異なり、物理的要因を介して現象を発動するのが一般的に呪術と呼ばれる神秘である。
このため呪術は魔術とは異なり、純粋な魔力耐性を突破して相手を呪う特性を有するなど魔術とは異なる性質を秘めているのだ。
また呪う、という特性上、何も簡単なものであればそれこそ魔力源すら最低以下で済む。ポピュラーな所でいうなら、極東の藁人形だろう。
呪う対象の肉体部位と時刻と己の憎悪。三種の条件を以て他者を呪うこの儀式こそ呪術の特性をこれ以上なく言い表している。
よってルクスのそれも同じこと。「名乗り」という行為を起点として呪いを起動させているにすぎず、だからこそ魔術回路も余計な詠唱も必要としていないのだ。必要なのは僅か一手順。
それこそ
「しかしさっきのを簡単っていうには流石に無理があるだろ。昔聞いた話にゃ時計塔のイゼルマがさっきのと似た現象を引き起こしたって聞いてるが、あっちは馬鹿にならない手順を踏んでたはずだ」
「……驚いた。貴方の口からその単語を聞くとは思わなかったわ。貴方って顔に似合わず勉強熱心よね。ライオンさん」
「そりゃどうも。だがさっきから言うライオンさんって呼び方は止めろ。真剣に構えているのが馬鹿馬鹿しくなってくる」
「あら? 呪いを扱う私にそれを言う? 渾名も立派な呪いよ。もしかしたらこうして呼ぶことで貴方の気勢を削ぐ攻撃にしているのかもしれないわ」
「いや多分呪いとか関係ないよな。
「あ、分かる?」
「……ホント、良い性格してるぜお前さん」
将来はきっと魔性の女になるぜ、と口の中で続く言葉を飲み干しながら若干痛みを覚えつつ頭を指先で二度ほど叩いて話の主題を戻す。
「で、呪いなのは分かったが、それだけじゃ説明が──」
「──セイズ」
「…………」
「北欧神話は何かと魔法がよく登場する神話なのは知っているわよね? 例えばルーンなんかは有名ね。それから小人やエルフの魔法の道具とか、
「名前だけならな、北欧に伝わる古い魔女術と聞いている」
「流石」
獅子劫の言葉にルクスがパチパチと手を叩く。
相変わらず人を食わせ者な態度だが、ルクスの反応に一々気を荒らされていては見えるものも見えなくなる。
彼女の言葉には適当に応じつつ、獅子劫は必死に思考を巡らせた。
──セイズ。
それは北欧神話──より厳密に辿るならば後期鉄器時代の古代スカンディナヴィア社会において慣習として行われてきた呪術儀式だ。
起源は殆ど不明だが、教会の教えが北欧の旧き信仰を侵す前から存在していたことを考えればかなり古い……それこそ北欧の原始信仰に端を発する技であることは容易に想像できる。
北欧のサガなどでも言及は極めて少なく不明は多いが、北欧神話の女神フレイヤがセイズに長けており、また魔女術と表される通り、使い手の多くが女であったという記録から、基本的に魔女の使う呪術であることが示唆されている。
そんな彼女たちは、人々に
「認識はその程度で間違っていないわね。付け加えるなら魔女術だからといって女しか使えないわけじゃないことぐらいかしら。実際、神話上だとオーディンにも言及されているしね。ああ、殿方が使う際はセイズマズルと呼ぶのが正しいわね」
「……で? その北欧に伝わる古い呪術がさっきのとどう関係してくるんだ? 神秘は古いほど強力になるって言うにも限度があるだろ。まして複雑な手順もなしに神の名を名乗るだけで発動する呪いなんて──」
「聞いたことがないって? それはそうでしょうね。だって掘り起こして改良と改善を施して、新たな基盤として確立した私たちだけの呪術ですもの」
「んなッ!?」
その言葉に平静を装っていた獅子劫は目を剝いた。
下地があったとはいえ魔術基盤を一から創造した、などと言われて仮にも魔術師を名乗るものとしては冷静でいられるはずもない。
だが驚愕する獅子劫に対し、ルクスは意外にも淡白な反応だった。
「そんなに驚くことかしら? ロードエルメロイ……あ、二世の方ね。彼のお弟子さんの方がよっぽどとんでもないし」
「いや、比べる基準が可笑しいだろ……」
時計塔にて名を響かせる新参気鋭のエルメロイ教室の面々と比較すれば魔術基盤を作る程度は確かに簡単なことなのだろう。
そもそも魔術基盤自体作る手間はそこまでではない。
問題は神秘薄れた現代において魔術基盤として確立させ得るだけの効力を有するか否かで、実際確たる以上の効果を発揮するからこそルクスのそれに獅子劫は驚嘆したのだ。
「ふーん、そんなものかしらね? 魔術基盤から一々設計して魔術を成立させて使い捨てる混沌魔術の使い手に比べれば大したことじゃないと思うけれど」
「おい待て! エルメロイ教室にはそんな奴いたのか!?」
「いるわね。帰ったら教授に聞いてみると良いわよ」
面白い反応をする獅子劫に堪らずクスクスと笑いながらルクスは付け加えた。
「──話を戻すと私たちの呪術はセイズを下地にアレンジを加えた呪術よ。セイズとは元々、術者の精神をトランス状態にして神や精霊といった存在に接続する呪術だったの。超常の存在に感覚器官を繋げることで未来視や魔法行使するための起点とした、これが魔女術、セイズという呪術よ」
そうセイズ本来の呪術特性は「道」だ。
舞踊や歌を歌うことで自らの精神を空にし、超常たる存在を己の内に招くという巫女の儀式、それがセイズと呼ばれる魔女術本来の力。
だが彼女──いや
巫女の超常の力を授かるのではなく、超常の存在を間借りする呪術として──神の力を限定的に行使する呪いとして術式を編纂し直した。
「起点となるのは名前。名は体を表す、なんていうように名前とは存在の本質をもっとも端的にかつ明白に表した言葉よ。
ギリシャ神話の主神とされるこの神は遡るとインド・ヨーロッパ語の共通の語源“天空”を意味する言葉に辿り着く。
そしてかの神に限らず、古き時代より信仰されてきた神々の名は天然自然の原始的な意味合いを伴う名乗りばかりだ。
天空神、太陽神、地母神──神々の名は役割を表してきた。
「名前は存在の方向性を定めるもの。なら、名を名乗るということは他者の認識において存在を格付ける極めて重要な儀式と言えるわ」
命名とは、ある意味では究極の呪いだ。
まだ何者でもない無垢なる存在を名によってこの世に縛り、名によってこの世に表すのだから。万の憎悪より、破格の呪いとして機能する。
ならばそれと同じく名乗りとは、自らが何者であるか、どのようなものであるかを世界に宣するが等しいと言える。さらにそこへ功績や生き様、特性や物語を付与すれば他者の認識を誤認させる程度は造作もなく。
「元々は本質に等しいたった一柱の神様に接続するための手段だったのだけれど、途中で手間が省けてしまったからね。今はちょっと応用で神様の名前を借りれるようにしているの。彼らが存在したという証明を地上に流布する詩人として、神話を謳う許可が、私たちにはある」
今のルクスは、
そのためセイズという『道』と『名乗り』の呪術とを組み合わせることで瞬間的ではあるものの、神話の語り手……古の詩人が如き、神話の読み上げが可能。
故に。
「これが私たちの揮う呪術、
「……なるほどな」
遥か古の呪術と、最も強力な原始呪術。
この二つの組み合わせこそが、彼女の力の本質なのだろう。
無論、この二つだけで女神の権能を間借りしているというわけではあるまい。恐らくは複雑な手順や前置きの条件があって起動しているのだろうが、同時にこの呪術の弱点も獅子劫は理解した。
「何の力も無いって言い分はあながち比喩じゃねえことか、その力、使えても効力は長くねえな?」
「あら? どうしてそう思うの?」
「だってお前さんは
「……あはははは、流石ね、そこに気づくのは百戦錬磨なだけはあるわね、ライオンさん」
そうこの呪いの本質は
アレだけの『■』を前にして、時間経過で彼らが正気を取り戻したのも、眼前の相手が
名前というのが存在を定める絶対の呪いであるとするならば、少女がルクスと銘打たれた存在である以上、そこから必要以上には外れられない。
呪術の起点とする名前は逆に術の限界点を縛る呪いとしても機能する。対象がルクスと認識し直すまでがこの呪術の持続時間である。
加えて一度誤認し、再認識したという手順が発生すれば当然、次に誤認する可能性は低くなる。同じ薬を飲めば抗体が出来てしまうように、一度正された認識をもう一度間違わせるのは極めて困難なのだ。
よって初見殺しにして初見終わり。
この呪術に二度目はない。
──ただ一つの例外を置いて、だが。
尤もそっちは彼女の領分ではない。
故に抜け穴。獅子劫の足りない考察をルクスは突くのだ。
「でも一つだけ。足りない部分があったわね」
「何だと?」
「長々と詳らかに私が手札を晒した理由は二つ。一つは語った通り、この呪術に二度目は無いから。もう一つは、一度目の誤認は知ったところで防げないからよ」
この呪術は対象に対し一度限り。
ルクスの名乗りはもう通用しない。
しかし──当然、そんなことは考慮済み。
次手の無い手を用意するほど、この呪術を作り上げたものは甘くないのだ。
「それじゃあ足りない部分を教えましょうか。とても簡単な話よ、この呪術はね。対象を選ばないの。だからこういうこともできる」
そうして少女は目を向ける。
今も“赤”のセイバーと戦う“黒”のセイバーへと。
「まさか……! させるか!」
「遅い。それに無意味よ、彼。初めからこういうつもりで立ち回ってるし」
ルクスの狙いに気づいた獅子劫は咄嗟にルクスに向けた銃口より呪いの弾丸を撃ち込むがそれよりも早く反応した“黒”のセイバーの放つ、剣気によっていともたやすく撃ち落された。
それにルクスは感謝と共に
「貴方に
獅子劫の制止も無情に、
そう、この呪術は単に神の名を借りるというものではない。
超常の現象に接続するというのが呪詛たる本質。
そしてその対象は何もルクスだけに留まらない。
認識を誤認させるに足る因果……物語さえ存在しているのならば、何であろうと繋げ得るのだ。
「“赤”のライダーには三対一で勝てると思っているのか、なんて言われてしまったけれど、その言葉にはこう言い返しましょうか。なら、足りない分は増やして上乗せしましょうか、と」
霊器再臨、霊器向上、霊器拡張、霊器強化。
──つまるところ、これは
しかしただの強化などでは断じてなかった。
“黒”のセイバーの姿が変わる。
鎧はより重厚さを増し、顔つきは何処か若く、瞳は狼のような蒼い色に変色し、手にする黄昏の大剣は黄金剣へ。
「こいつは……!?」
「大陸ゲルマンの伝承に現れる不死身の肉体を携えた無敵の剣士よ。これなら貴方たち全員を相手取ることもできるのではなくて?」
様変わりした剣士を置いて少女が笑う。
無邪気なまま虫を踏みつぶす子供の様に屈託なく。
「それじゃあ盛大に踊り明かしましょうか。仮にも戦士を名乗るのならば、ちゃんとリードはしてくださいね。尤も──」
出来るのならば、だけれど。
その言葉は剣戟に掻き消える。
巫女の歌と不死身の伝承が“赤”の陣営に食らいついた。
主人公君渾身の初期構想切り札。
なお、途中で『本物』に繋がったので不要となった模様。
但しトゥリファス以外の土地だと手札が限られるため、領地外で戦闘行動を取る際には今でも用いる。
能力としては超常存在への接続、同一化。
神や概念に問わず自身に繋がる因果線上にあるものなら何であれ接続してその名の力を己のモノとして取り込むことができる呪詛。
言わば存在を呪う言ノ葉。
対象は自身に限らず任意ならば他者にも掛けることができる。
一回限りで効果も数分と持たないものの、それでもなお現代魔術社会における神秘の深度を考えれば破格中の破格呪術。
これだけで封印指定待ったなし。
例外的にとある一柱を対象とした時のみ、この呪術は無制限に使用可能となる。
またその時のみ『名乗り』の有効時間も無制限となる。