──悪い
「今回も、ダメだったか」
ロンドンにある魔術協会の本拠地、《時計塔》。
その一室でアルドルがそう呟いた。
彼の目の前には同じ一族の構成員にして歳近い幼馴染み、フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアがベッドに横たわっている。
……
フィオレがその優秀さが故に産んだ弊害、魔術回路の変調による脚部の不随……それを治すためにアルドルが知人の人形師の伝を使った結果、こうして《
アルドルが見舞いに来たのは、その効果を確認するため。
──結果は残念ながら口にした通りであったが。
「魔術回路ではなく、肉体の方を強化すれば或いはとも思ったが。不随の原因が魔術回路にある以上、やはり根元からの解決で無ければ意味が無いか。無理矢理動かしたところで一足一足に激痛を産んでしまうなら、それは治療とは言いがたい」
「…………」
アルドルに続いて《時計塔》に入学して以降、魔術師としての鍛錬や研究の傍らアルドルは度々、フィオレの足の治療のために彼女に付き合っていた。
彼は、この時期より既に一族を背負って立つために各方面への顔出しや根回しに飛び回っていたことに加え、カルマグリフに共同研究者として登用されたことによって世界各地の史跡や遺跡の調査への同行、さらに来たる聖杯大戦を見通しての聖遺物収集など、信じられないほどに多忙であった。
普通であれば同じ組織の構成員とはいえ、一個人の私情のために回せる時間など絶無だった筈だが、それでも僅かな自由時間を潰して度々、フィオレの足の不随を治すために様々な手段を考案し、試していた。
「或いは強化と無痛を同時に行うか……しかし強引な挙動で動かせばそれはそれで別の弊害を起こす可能性もある。であるならばやはり、根本的な解決……魔術回路の変調それ自体を正す必要があるか」
「…………」
彼が、ここまでしてフィオレ個人の治療に付き合っていた理由は三つ。
理由の一つは勿論、来たる聖杯大戦のためである。
彼の反則的な視点。未来を想定するアルドルの視点において、フィオレはその足の不自由さがため、とある事情で敵対することとなる
無論、アルドルが“黒”のアサシンのマスターになる以上、そのような展開はあり得ないことではあるが、
そして理由の二つ目は単に
尤も──それらの理由は大した物では無い。
聖杯大戦へあらゆる手を尽くすためという理由も。
幼馴染みに対する友情も、単に理由の一つというだけ。
彼がフィオレに手を貸す理由はもっと単純かつ明解だ。
「今回の結果は残念ではあったが……まあこの程度の手間は大した物では無い。ダメなら次だ。可能性が一つ潰れた分、手段がまた一つ絞れた、そのように考えれば良い」
「…………」
先の見えないフィオレの治療……肉親さえも匙を投げた不治の障害を治すための方法を模索する──アルドルにとってはその難題すら、
彼の具眼、彼の展望……千里眼とも未来視とも違う異端の視点はこの世界には何らかの治療法があるだろうと欠片も疑わず信じていた。
根拠など無い──ただこの世界を信じていた。
たったそれだけの理由で彼は正答が何処かにあると信じており、正答があるならばいずれ辿り着くだろうと、そう考えていた。
だから治療のたびに突きつけられる失敗の結果は彼にとって無駄手間などでは決して無かった。寧ろ、これで可能性がまた一つ絞れたと、失敗の結果を成功への近道であると楽観していた。
──これこそがアルドルの持つ後付けでは無い最大の異常であろう。
たどり着ける道筋があるならば、
それがアルドルの持つ基本思想である。
過程で生じるだろう苦痛も苦労も彼には関係が無い。
方法として、確立されたモノであれば実行し、成功させる。
難易度すら、一顧だに値しない。
不可能でさえ無ければ、或いは未知でさえ無ければ……。
方法さえ分かっていれば、アルドルはあらゆる条件を無視して過程を辿る。
傍から見れば難行に挑み、不可能を打倒せんとする様も、彼からすれば過程と答えの分かっている挑戦だ。そして分かっているなら越えられる、それがアルドルにとっては
……別段、未踏を進む冒険家の道を辿っているわけでも、先行きの見えない未来を切り開く偉人のような航路では無い。
既に誰かが踏破した道を辿っているだけ。
だから、自分の成すこと成したことは本当に大したことでは無い。
彼は──心の底からそのように考えていた。
「状態としては魔術刻印の過剰適合……イスタリの令嬢の病例が類似例か。要は高い才能がため、それに身体の方が追いつけていない状態というものだ。ならばアプローチとしては分野は違うが調律師への働きかけを試すか……あまり、気は進まないが。幸いこの時期ならまだ彼はⅡ世と呼ばれるまでに至っていない。ウェインズに接触しても弊害は少ないだろう。……いやこの際、アッシュボーンを探るか」
「…………」
ダメなら次を、その次を。
可能性が潰しきられるその時までアルドルは平然と繰り返す。
余人であれば徒労に手折れ、諦めるのが普通の状況であっても。
まだ手段が残されているならば試し続ける。続けられる。
その果て無き希求の情熱こそがアルドルという人物が持つ最大の異常性。これがあるからこそ彼は遂に神域へと至り、正義の味方を打倒して、運命すらも捻じ曲げて見せたのだ。
「フィオレ、今回はダメだったが問題ない。また他の手段を試してみれば良い。時計塔での修学期間はまだ年単位で残っている。そう気落ちせずともきっと君の足は──」
「……──もう、良いです」
「なに?」
……だからこそ、彼には一つの常識が抜け落ちていた。
否──この場合は忘れていた、という方が正しい。
普通の人間は重ねてきた努力や苦労が徒労に終わるのに耐えきれず。
今までの努力を投げ捨てて平然と居られるほど強く在れないということ。
「これだけ試して、どんなリハビリをしても治らなくて……痛くて……貴方にだってこんなにも迷惑を、手間を取らして……」
何よりもフィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアという少女は。魔術師として天才と持てはやされ、才能だけで比べればアルドルにすら引けを取らない目の前に居る才女は……。
「だから……だから、もう……良いです……もう、嫌……頑張って、頑張って、痛みだけが伴うのは、もう嫌……なん、です……」
「──────」
アルドルはこの時、全く考えて居なかったのだ。
「そうか……」
瞑目する。
──ああ、そうだった。すっかり忘れていた。
フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニア。かつて同胞として同じ道を往くとはにかんで笑った少女は魔術の天才であって魔術師の天才では無かった。
そんなこと当の昔に識っていた。
そう誰しもが気高く強い
幼年期に
“盲目的に
相手は肉体を持ち、心を持った一人間。
余分な
此処には無い
我も人なり、彼も人なり──。
自分も相手も……
「分かった、通常の
「──え」
「本来の方針に戻すという話だ。……現段階ではまだ詳しくは話せないが、いずれユグドミレニアは大きな選択を行う。その際には君の足を完治させうる手段も確立できることだろうからな。君の足は、その時にでも治せば良い」
切り替えは一瞬だった。今までかけていた時間も苦労も努力も……傍から見れば徒労に終わって無駄に潰えた。
しかしアルドルの目には落胆も諦観も存在しない。
──ダメだったら次へ、その次へ。
手段が残されているならば問題ない。
常に先を見据えている視点はこの程度では手折れない、倒れない。
平然と、今まで積み上げて来た積木を崩して、何度でも積み直すのだ。
故にまた──アルドルは忘れていた。
己の異常性は、己にとって平常であるものだから。
それを他人が……傍から見るとどう見えるか。
アルドルはそれを考慮していなかった。
「あ……」
切り替わる。少なくない時間、少なくない金銭、様々な人々に借りを作ったり話を付けたり、手間をかけさせて、同じ以上の苦労をかけて、あんなにも一緒に頑張ってくれたのに。
フィオレの言葉一つでアルドルは全ての
彼女を弾劾する言葉も、徒労を嘆く言葉も無く。
スイッチを切り替えるように、
……いっそ愚痴の一つでも聞ければ良かった。
……罵声の一つでも浴びせられれば良かった。
或いは、共に仕方ないと一緒になって嘆くことが出来れば良かった。
だが、この時、彼は捨てた、捨てたのだ。
かけた時間も苦労も……此処まで積み重ねて来たあらゆる過程。
それらをフィオレの一存、ただ一言で、彼はあっさりと捨てた。
「あ……待って……私、やっぱり」
「ん……ああ、気にするな。別に責めんよ。気遣って無理に続けようとしなくてよい。君の判断を私は尊重するとも」
フィオレが言いかけた言葉を気遣うようにアルドルが微笑む。
そんな彼の気遣いが、胸を襲った恐怖を何より加速させる。
……分かっている、止めると言い出したのは自分で。
彼は本当にそれを尊重しただけだと分かっている。
でも、しかし……本当に身勝手な被害妄想としか言えない不安だが。
あんまりにも彼が、平然と普通のまま、あっさりと捨ててしまったものだから。
フィオレは、思ってしまったのだ。
今の言葉で彼は……。
アルドルは、自分を見限ってしまったのでは無いか、と。
時計塔での日々だけでは無い。
例え短くとも穏やかに過ごした幼き日の日々も。
共にユグドミレニアを支えていくと誓った約束も。
……いつかの未来を予見させるように。
二人で、あの犬と一緒に楽しんで、笑い合って、語り合った、あの胸がいっぱいになるような幸せな時間すらも。
その全てを──無かったことのようにしたのではないか。
あんまりにも平然と今までの時間を切り捨ててみせた彼を前に、フィオレはそう思ってしまった。
「あのアルドル……わたし、は……」
怖い……怖い、怖い、怖い。
聞きたい、分からない、恐くて不安で、問いたくない、問いたい。
貴方は本当は、何を考え、どう思って、何を見ているのか。
フィオレは初めて、アルドル・プレストーン・ユグドミレニアという兄のような■■のような人物が分からなくなる。
「む、どうした? 何か、聞きたいことでも?」
「────…………いえ、何でもありません」
──無機質に、平然と、そう応える。
声音に震えは無い。
声音に
──いつの日か、あの子を目の前で殺された時のように。
柔和な微笑を浮かべながら、優秀な魔術師のように応える。
「……ふむ、そういうことなら良いが」
「はい、それから今まで苦労をかけてこのような結果になってしまい、申し訳ありませんでした。貴方も、あんなに一緒になって協力してくれたのに……」
「なに、さっきも言ったが気にすることは無い。君のご両親が手を掛けてもどうにもならなかった問題だ。後から私が出てきて、あっさりと解決……などと容易く行かないのは当然の話だ。寧ろ、謝るとしたら要らぬ期待をさせておいて結果を出せなかった私にこそあるだろう」
「……そんなことは、ありません。貴方にはとても苦労をかけてもらいました」
フィオレは言いながら深く頭を下げる。
その謝罪を──アルドルは軽く笑って受け流した。
「そう言ってくれると助かるな。……と、すまない。もう時間だ。この後、『
「『
「ああ。前々からヴォーダイム家を挟んで話はしていたが、ようやくロードの興味を引くことが出来てね。ユグドミレニアの先を踏まえ、少々会談させて頂くことになっているんだよ。これで何とか伏線は張れそうだ。本当ならば後はバリュエレータかトランベリオにも話を振ってみたかったんだが……人物像を考えれば、どちらにしても難しい相手だからな。まあ、三分の二を抑えられたことに満足するべきだろう」
何てことの無いように発言するがアルドルの言葉は驚嘆すべき内容だった。時計塔でも頂点に君臨する十二のロード。
普通の魔術師であれば顔を合わせる機会など一生に一度あるかないかの頂点にこれから会ってくるとアルドルは散歩の予定を話すように言い切ったのだから。
「ロードを相手の交渉ですか。流石、というしかありませんね。仔細は分かりかねますが叔父様の指示でしょうか?」
「……んん、まあ、そのようなものだ。ユグドミレニアのためであることは間違いないよ」
フィオレの問いに少しだけ歯に物が詰まったかのような言い回しをするアルドル。恐らくは身内とはいえ話せない事情もあるのだろう。
ならば深くは追求しない方がいいとフィオレは判断した。
「そうですか……本当に、貴方は頼りにされているのですね」
「さて、どうかな。まあ期待されているのは間違いないだろうな。とはいえ、それは私だけの話では無いだろう。君とて叔父上の望む次代に他ならない。お互い、頑張らなくてはな」
「そう、ですね。ええ、本当に」
少しだけ、アルドルの言葉に動揺しかける。
不安の目が顔を出しようになる。
しかし、それが表面に出るよりも先に、彼の多忙さに救われた。
「っと、此処までだな。折を見てまた顔を見に来る」
「はい、またいずれ。無用な心配でしょうがアルドルの方もお気を付けて」
「ああ」
軽く手を振り、アルドルは部屋を後にしていった。
……急くように進むアルドルの足取りに迷いは無く、振り返る事は無い。ユグドミレニアのために、一族の未来のために、彼はいつだって前だけを見ていた。
──見えなくなった背中に手を伸ばすように、虚空を少女の手が泳ぐ。
「──……アルドル。…………私、は──」
──これ以降、彼と彼女は幾度か顔を合わせたものの、何れも昔のように親しく話す事は無かった。
……歳を経て関係が変わることなど珍しい話では無い。
いつかの幼馴染みは同じ一族の者として、当主足るダーニックの下、一族の将来のために魔術師としての研鑽を積む日々に明け暮れることになる。
或いは、あの日。胸に抱いた疑問を明かせば関係はもう少し違ったのかも知れない。しかし、
少女は立ち止まり、少年は進んだ。それだけが真実である。
伸ばした手は、未だ虚空に。
少女は道に迷って立ち止まり、今もただ、迷うのみ。
………
………………。
「──……はッ……ぁ……くっ……は、あ……」
目覚めは最悪だった。
動悸で胸が痛む、身が竦む。
荒い呼吸を数度、繰り返し、フィオレはようやく現実を自覚した。
「あ──今のは、夢……ですか」
時計塔に入学してから最初の数ヶ月。
まだアルドルとの関係が拗れきれる前の記憶。
懐かしくも思い出したくない悪い夢に、思わず嘆息する。
「……本当に、悪い夢ね」
今見た夢のことか、それとも今ある現実の話か。
振り絞るようにフィオレは呟く。
色々と疲れ切って、ベッドで休んだ。
しかし、悪夢という奴は何処までも何処までも追ってくるものらしい。……いや、そもそも悪夢とは眠りについている時に見るものなのだから、こちらの方が正常であると言えるのか。
だが、現実の方も中々に悪夢としか言いようのない事態だ。
何故ならばユグドミレニアの希望、他ならぬ次代の当主が……今まさに、死に体なのだから。
「……ッ……!」
寒さに震えるように、少女は自分の両肩を抱く。
脳裏に思い浮かぶのは、思い出したくも無い幼馴染みの言葉。
『ああ。嘘でも無ければ偽りでも無い。件の少女、ルクスの言は正しい。彼女は私の協力者だからな。ユグドミレニアの縁者に騙りを入れる人物で無い事を他ならぬ私が保証しよう──この聖杯大戦こそが、私に残された最後の時間だ』
……吐き気がする。
目と耳を塞いで何もかもを聞きたくないと現実から逃げたくなる。
死ぬ。死ぬ。誰が。彼が。死んでしまう。
「嫌……」
何に対しての嫌悪なのか、何に対して拒むのか。
分からない、もう何も分からない。
分かりたくも無い。
今すぐ何もかもを投げ捨てて、忘れてしまいたい。
だってそうじゃ無いと耐えられない。
耐えきれない。
今まで頑張って頑張って、頑張って耐えてきた。隠してきた。優秀な魔術師なんだって。両親が、周りが期待するように振る舞ってきた振る舞って見せた。
けれど、今回のは無理だ。限界だ。取り繕う事なんて出来はしない。
あの子が死んで、彼も死んでしまえばもう無理だ。
これ以上は、どうやっても頑張れない。
「どうすれば、いいの? どうすれば、良かったの?」
弱々しく、問いかける。
無論返ってくる言葉なんて無い。
この場に居合わせるのはフィオレだけ。
答えを出すことが出来るのはフィオレだけ。
けれど、容易く道を定められるほど、少女は強くなくて、迷って揺れて、本当は誰かに縋り付きたくて仕方が無くて。
それがフィオレだ。フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアの本性だ。
優秀な魔術師なんて、とんでもない。
何処にでもいる普通の少女、それがフィオレなのだ。
「私はただ、昔みたいに笑い合えるようになれたら良いなって……今度こそ一緒に頑張れば昔みたいに戻れるって……そう思って、来た、のに」
聖杯大戦で今度こそ逃げずに立派に戦い抜く。
ユグドミレニアとして“黒”の陣営として共に戦う。
そうすれば昔のようになれると思った。
そうすれば昔のように戻れると思った。
でも現実は残酷で、あの日の時間はもう二度と戻らなくて。
彼は既に、もう、戻ってこれない場所にいて。
「……どうしよう……本当にどうすればいいの、アルドル……」
死んだものは蘇らない。
無くした物は、もう戻らない。
如何な奇跡といえど、変革できるものは生きているものに限られる。
それは魔術に限らぬ、現実における絶対法。
あの子を失った時に、嫌というほど突きつけられたルール。
それが今度は、彼に適応される。
彼が該当する。
「ぅ……あぁ……」
想像しただけで心臓が砕けてしまいそうだ。
考えただけで無様に絶叫したくなる。
だけれど分からない分からない。
どうすればいいのか、どうしたらいいのか。
少女では、その答えを出すことが出来ない。
「……わたし、彼を、失いたく──ない」
口から弱音が漏れる。
優秀な魔術師に偽装した少女の地金が顔を出す。
誰だって、大切なモノを失いたくなんて無い。
そんな人間らしい感情が思わず外に漏れる。
だが、それを聞き止める者はいない。
少女に手を差し伸べ、救い上げるものはいない。
「だれか……たすけて……」
助けを求める声に応じるものは此処には居ない。
この事態を解決できる人間も、英雄も、この城にはいない。
──コンコンコン。
「──誰?」
『──姉ちゃん、今、ちょっと良いか』
しかし──一緒に悩み、支えてくれる相手が、此処に一人だけ居た。
「…………」
「…………」
重い沈黙が両者の間に降りていた。
思い立ったが吉日と即座に行動を起こし、カウレスは姉の部屋を訪ねたが、思えば何を話すか何を言うかなど欠片も決めていなかった。
だからこそ掛ける言葉を決めかね、何より姉も姉で中々に参っていることを早々察してしまったからこそ、何を話せば良いのか分からなかった。
“…………つか、もしかして泣いてた……?”
チラリと横目でカウレスは姉の顔を見る。
表情は厳しいが悲しんでいる様子は無く、一見して涙の跡なども見受けられない。だが、この内心を伺わせないように無表情を見せる様に、カウレスは覚えがあった。
昔、大切にしていた犬を目の前で失ったとき。父が降霊魔術の失敗例の実例として、姉がペットだと思っていた犬を目の前で殺してしまった時、笑いながら降霊魔術の危険性を忠告する父を前に、姉は確かこのような表情をしていた。
自身の弱さを取り繕うとき、姉は優秀な魔術師然とする。
“……まあ、そりゃあそうだよな。姉ちゃんの方がだいぶ義兄さんに懐いてたし、なまじ義兄さんは普通に振る舞ってる分には一族の誰よりも人間らしい人だし、姉ちゃんとは波長が合うんだろうな”
一言で評せば姉と義兄は絶望的に相性が悪かったのだ。
魔術師らしく振る舞える人間らしい姉と。
人間らしく振る舞える魔術師らしい義兄。
歳近く身分も近く、誰よりも境遇の似通った両者だが、その実対極に位置する関係。
寧ろ幼き時分に親しかった時間の方が例外で。
本来であれば両者はかけ離れた関係にあったのだ。
“義兄さんなら薄々察せた筈だけど……あの人、偶に変な所でズレてるからな”
一族の誰よりも先を見てあらゆる状況を想定する義兄の事だ。
こういう事態になれば一族に動揺が広がることだって想定できたはずだ。
にも拘わらず、義兄らしからぬこの身内が混乱している状況。大方、自分の存在の大きさを見誤っていたのだろう。いいや、見誤ったままか。
自分の喪失が一族に与える影響を、過小評価している、そんな所だろう。
“自分以外は信用してないとばかりに、独断専行を好む癖して変な所で身内を信頼しすぎるきらいがあるんだよな、あの人。凄く色々見ている分、足下は割と疎かっていうか”
或いは色々と見えすぎてしまうからこその弱み、とも言えるのかも知れない。
その内、とんでもないしっぺ返しを受けてしまう。
そんな危うさが義兄には垣間見える。
……というか、この状況が、それに該当するのかも知れないが。
“いや違うだろ。今は義兄さんの話は良い。……現実逃避してないで覚悟を決めろカウレス”
コン、と軽く握り拳を額にぶつける。
何のために此処に来たのか。
今更、怖じ気づいて、躊躇っている暇など無い。
「──……それでカウレス、私に何の用事? 黙っていては、何も分からないわ」
不意に、口を開いたのは姉だった。
いつもの声音、歳上ぶった、それでいて人間らしい親しみを込めた声。
ふぅ、と息を吐き出す──そして。
「……なあ、姉ちゃん。結局、姉ちゃんはどうしたいんだ?」
意を決して、カウレスは一線を踏み越えた。
「──何のことかしら」
「アルドルさ……
「ッ──そんな、ことは……分かってるわ」
「……あの人は自分が決めたことを簡単にひっくり返す人じゃ無い。やり通すし、やり切る。ダーニックが言う大聖杯を用いた時計塔への復讐も、新しい秩序の創世も、あの人は本気で成すと思う。例え自分が死ぬんだとしても結果が伴うなら、平気でその選択をする」
「ッ──! そんなことは分かってる! カウレス! 貴方何が言いたいの!?」
カウレスの言葉に苛立ち、珍しいほど声を荒げるフィオレ。
これほどまでに動揺し、感情的になる姉の姿は本当に珍しい。
……カウレスの知る限り、あの犬の亡骸を前に泣いていた時ぐらいか。
だからこそ──。
「義兄さんを止めるなら、分水嶺は此処しか無い──そう言いたいんだよ、
「……え」
──この問いの答えだけは絶対に聞かなければならなかった。
「アルドルを、止める?」
「そうだ」
呆然と呟く姉の言葉に頷く。
……ああ、全く。口にしたら手足が震えてきた。
だってその選択は最悪だ。
一族最強の魔術師、あのアルドル・プレストーン・ユグドミレニアの決定に反旗を翻すという意味なのだから。彼を止めるという事はそういうこと。
彼を止めるということは、彼の願いを潰すという事と同義なのだから。
恐ろしさに震えが止まらない。
けれど──。
「……ダーニックなら、話を聞いても多分止めない。動揺はするかも知れないけれど、アイツは誰よりもアルドルのことを信頼している。だから、アルドルの選択なら、奴は止めない」
信じがたい話だが、ダーニックはアルドルを信頼している。
……あの稀代の政治屋、『八枚舌』のダーニック・プレストーン・ユグドミレニアともあろうものが、甥のアルドルに対しては絶大とも言える信頼を置いている。
それは一族の中でも唯一血縁といえる関係が生んでいる関係なのかも知れないが、それを踏まえて尚、カウレスから見てダーニックとアルドルの関係は特別だ。
恐らくそれは同じ場所を見て、同じ場所を目指しているからこそのもの。唯一、同格の熱量で同じ方向を突き進むが故の一体感。
魔術師にとっては何とも馬鹿らしい表現だが、『絆』とも言える縁があの二人にはある。
だから、カウレスはダーニックならばアルドルを止めないと判断した。
期限があるならば寧ろ、彼の望む通り、全霊を掛けて駆け抜けると覚悟するだろうと考える。
「そして、俺も止められない」
「……カウレス?」
「実力がどうこうっていう話じゃ無い。
「カウレス……そんな、どうして……!?」
「どうして、じゃない。姉さん、
「────」
そう──義兄が犠牲となる義兄の計画。
考えれば考えるほどに義兄はどうしようもなく手遅れだ。
何せ、義兄が犠牲になる彼の計画こそユグドミレニアにとっては最善なのだから。
けれど夢に見たあの光景、あの言葉が真実なら──。
義兄のやろうとしていることは文字通り、世界をひっくり返す大偉業だ。
聖杯さえ手に入れてしまえば、この戦いに勝利できれば、恐らく、ユグドミレニアは新たな秩序を創世し、あの時計塔とさえ渡り合える存在へと昇華される。
ユグドミレニアの魔術師として、最善を考えれば考えるほど。
義兄に協力することこそ最善であると結論づけられる。
だからこそカウレスには義兄を止められない。止める理由が無い。
よって──。
「
「……そんな、の、ユグドミレニアの、魔術師として……アルドルに」
「それは今関係ないだろ。ユグドミレニアも、魔術師も、全部関係ない。姉ちゃんは、どうしたいんだよ」
ダーニックは止めない。
カウレスには止められない。
ロシェは無関心だろうし、ゴルドは逆らう選択を持たない。
だったら一族で義兄の生死に待ったを掛けられる相手は一人だけだ。
……協力する、と姉がいうのであればこれまで以上に手を貸そう。
義兄が寿命を燃やすその時まで、全力で協力する所存だ。
けれど、もしも、もしも姉さんが義兄を止めたいと願うのであれば。
「……なあ、姉ちゃん。姉ちゃんは、さ。多分、魔術師には向いてないよ」
「そ──んなこと……」
「だって、好きだろ。義兄さんのこと。兄っぽい人とかじゃ無くて、単純に異性として」
「なっ──!!」
さらっと告げたカウレスの言葉に姉が口をパクパクさせながら絶句する。
面白いぐらいに動揺している。
顔も真っ赤だ。思わず苦笑する。
「ああ。やっぱり姉ちゃんには魔術師なんて向いてないよ。だから、姉ちゃんが好きに決めれば良いと思う。俺はそれを尊重するし、協力する。……元々、聖杯になんてあんまり興味は無かったし、思い返すと特にやりたかったことも無かったしな。うん」
魔術師として、聖杯に対する知的好奇心はあった。
だが、それは優先されない事情だ。
事ここに至って一番大事なのは勝つことや正しさなんかじゃない。
自分がどうしたいか、何をしたいと望むのか。
「……カウレス」
「何だ、姉ちゃん」
「魔術師として正しいのは、アルドルに協力すること、よね」
「ああ。そんで、ユグドミレニアとして正しいのも、多分そっちだ」
「そうしたら、アルドルは死ぬ、のに……」
「そうだな。でも、死を怖がるほどあの人は普通じゃない」
「──……」
「…………」
──結局、俺の望みって何なんだろうな。
不意に降りた沈黙にカウレスは思う。聖杯に託すほどの大望は無く、義兄やダーニックほどに一族への執着は無い。言葉にすれば何とも魔術師らしく情に疎いとカウレスは自分を分析する。
けれど、その癖、今姉に対して告げる言葉はおよそ魔術師らしい合理からは外れた人間らしい言葉だ。内心では魔術師としての正しさを肯定しているのに姉には違う感情を向けている。
“なんて──矛盾”
いや──難しく考える話でも無いか。
要するに俺は──姉ちゃんには幸せにあって欲しい。
ただそれだけなのだろう。
“こういうの、どうなんだろうな”
もう少し時代が進めば或いはこの感情を形容する
なら、良い。それだけで良い。
「カウレス」
「姉ちゃん」
「──……わたし、アルドルに死んで欲しくない」
「──……そっか…………なら、仕方が無いな」
「……怒るかな」
「多分、怒んないんじゃないか? でも、止まりもしない。そういう人だ」
「じゃあ、どうしたら、良いと思う?」
「止めたいなら、止めるしかないだろ。なんたって俺たちもマスターなんだから。自分の願いは自分で叶えて見せろって奴だ」
「……カウレスは……手伝ってくれる?」
「当然だろ。姉ちゃんが、そうしたいなら協力するさ──弟は姉貴の後をついて行くもんだからな」
そう言って、笑う。
全く、とんでもない事態になってしまった。
怖いし恐ろしいし、不安だ。
けれど、不思議と、何故か胸が高揚している。
“そうか──俺はようやく”
聖杯戦争に参加するに足る、戦う理由を見つけたのだ。
「カウレス──ありがとう」
「礼は早すぎるぜ、まだ大仕事が残ってる──義兄さんを止めよう」
姉の望むその
端役であると、そんな諦観も自嘲も今はもう必要ない。
この手に令呪がある以上、己もまた主演が一人。
“黒”のバーサーカーのマスターなのだから。
聖杯大戦を勝ち抜く理由が出来た以上、たとえ裏切り者の誹りを受けようとも──勝ちに行ってやる。
泣きそうな、それでいて嬉しそうに笑う姉の笑顔を見て、カウレスはそう誓った。