ジャン・ハボック氏の恋 作:迷綴の錬金術師
イーストシティで付き合っていた恋人と泣く泣く別れてセントラルへ戻って来た俺。
上司に何度も邪魔されながらやっと掴んだささやかな幸せも中央司令部への異動という残酷な運命によって打ち砕かれた。
これでまた新しいカノジョを探さなければならない。
俺だってそろそろ決まった恋人をつくって結婚をしたいと思っている。
自分で言うのもなんだが、俺は決して見た目は悪くない。
むしろ爽やかでスマートな印象を与えていると思う。
軍人としての将来だって有望だし、上司であるロイ・マスタング大佐が大総統になれば俺は間違いなく首席秘書官にしてもらえるだろう。
マスタング大佐の野望が達成するのはまだずっと先のことだろうが、必ずその日はやってくると俺は信じている。
そういう人だから俺はどんな仕打ちにも負けないで頑張っているのだ。
ただ、今回の異動が大佐の中央招聘に伴うもので、俺としてはちょっとだけ大佐を恨んでいる。
中央司令部へ戻ってからはたくさんの面倒な任務が立て続けに起こった。
南方でのイシュヴァール人の反乱の鎮圧がその最たるもので、俺はカノジョなんて探している暇さえも与えてもらえない。
そんな時、俺に信じられないような話が舞い込んで来たのだった。
話の始まりは俺が仕事に対する熱意を失い呆けていたのをマスタング大佐が心配…というよりも自分の評価に影響するからという理由で、俺に女性を宛がうことで元気を出させようと企んだことからだった。
その話がアームストロング少佐の耳に入り、少佐の妹であるキャスリンとの見合いが設定された。
アームストロング家というのは国内でも有数の名家で、昔から多くの将軍や高名な錬金術師を輩出してきた。
俺にとってこの見合い話は千載一遇のチャンスだ。
うまくいけば逆玉の輿となり、閨閥を利用して軍部での勢力を広げることもできるだろうし、また手広くやっている事業のひとつやふたつを任されるかもしれない。
どちらにしても前途洋々だということだ。
見合い当日、俺は自分の魅力をさらに引き立てるべくスマートなスーツで身を固め、大枚をはたいた大きなバラの花束を手にアームストロング家の屋敷へと向かったのだった。
キャスリンは17歳だが内気なために今まで誰とも付き合ったことがないという。いわば完璧な箱入り娘だ。
他の男に穢されていない純粋培養のお嬢さんと普通に付き合えるとは思えないが、俺色に染めるという楽しみもある。
しかしひとつだけ問題があった。
それは彼女の容姿だ。
少佐曰く「吾輩によく似て美しい」だが、あのごつい少佐に似ているのだとしたら…想像するのも恐ろしい。
アームストロング家の長女にオリヴィエ・ミラ・アームストロング少将という人物がいる。
“ブリッグスの北壁”と呼ばれる女丈夫で、北方司令部との合同演習の際に一度だけ会ったことがある。
彼女の性格や行動には少々問題はあるが見た目はそう悪くはなかった。
できることなら兄にではなく姉に似ているとありがたい。
もちろん性格は兄のような温厚なタイプが望ましいのだが。
屋敷に着いた俺はすぐに少佐に応接室へ案内された。
そこには現当主であるアームストロング退役将軍とその夫人がいた。
そのふたりを足して2で割ったのが少佐だと思うと納得ができる容貌だ。
アームストロング退役将軍から自分の家の自慢話を散々聞かされて疲れてしまった頃、やっとキャスリンが現れた。
その時、俺は神に感謝した。
彼女の容姿は俺が心配していたことを一気に払拭したのだ。
金糸のように流れる美しい髪、緑色の瞳、つんと上を向いた小さな鼻とすぐにでも口づけたくなるピンク色の唇。
その上、ほどよい大きさのバストにきゅっと括れたウエスト、形のよいヒップといったバランスのとれた魅力的なスタイルもしている。
そんな彼女がはにかみながら俺を見つめているのだ、俺の答えはもう決まっていた。
俺は花束を差し出して彼女に交際を申し出た。
しかし、彼女のひと言によってその希望は打ち砕かれたのだった。
「わたしは兄様のようなタイプが好みなの。ハボックさんはタイプじゃないの」…その言葉を聞いた瞬間、俺の中のすべてが音を立てて崩れていくのを感じた。
失意の中、俺は屋敷を出るために玄関へと向かって歩いていた時、壁に飾ってあるいくつかの肖像画に気がついた。
その中のひとつに儚げで寂しそうな表情の少女のものがあった。
キャスリンに少し似ているが、彼女が天使ならこの少女は妖精といった感じがする。
少しウェーブのかかった柔らかそうな金髪にサファイアのような青い瞳が印象的な美少女だ。
「少佐、この人も少佐の妹さんですか?」
俺はとても気になったのでアームストロング少佐に訊いた。
「ああ。彼女はルイーズ・レイ・アームストロング、吾輩のすぐ下の妹でキャスリンの姉になる」
「すごい美少女ですね。でもなんだか寂しそうな感じに見えるんですけど、俺の気のせいっすかね?」
「いいや、そんなことはない。ルイーズは生まれながらに病弱で、この屋敷を一歩も出たこともない」
「ええっ? マジですか?」
「ああ。そして医者にハタチまで生きられないと宣告されていた。しかし彼女は来月22歳になる。これは奇跡と言っても過言ではない」
「そんな…」
「だから彼女は心から笑ったことがない。兄の吾輩が言うのもなんだが、花と音楽を愛する心の優しい子だ。それなのにどうしてこのような残酷な運命の元に生まれてしまったのか…神がいるとすればそれはあまりにも無慈悲だ」
「……」
生れてから一度も屋敷を出たことがないということは、家族や使用人以外と口を利いたこともないにちがいない。
そして心から笑ったことがないというのなら彼女は幸せとはいえないだろう。
いくら金持ちの家に生まれ何不自由なく育ったといっても笑うことができないのであればそれは不幸だ。
そう思うと彼女のことがとても哀れに見えてしまった。
「せめて一度だけでも女としての幸せを味あわせてやりたかった」
少し潤んだ目をしながら少佐がひとり言のように言った。
「どういうことですか?」
「彼女の寿命はあと僅かしかない。たぶん長くて3ヶ月といったところだろう」
「嘘だ…」
「嘘ならどんなによかっただろうか…。しかしこれは現実だ。彼女自身気丈に振る舞ってはいるが、心には相当ダメージを受けている。あれほど好きだった編み物もしなくなってしまい、毎日中庭にある温室でぼんやりと過ごしているだけだ。可哀想だが吾輩にも誰にもどうしてやることもできないのだ。たぶん今日も天気がいいから温室にいるだろう」
「会えませんか? 会って話がしたいっす」
俺はひと目でもいいからルイーズに会いたいと思った。
当然俺にだって何もしてやれないのだが、せめて温かい言葉のひとつもかけてあげたいと思ったのだ。
「ルイーズの加減がいいのなら問題はない。今確認をしてきてやろう」
そう言ってアームストロング少佐は中庭に向かって歩いて行き、その数分後に笑顔で戻って来た。
「30分くらいなら大丈夫そうだ。あまり長く人と話すと疲れてしまうから様子を見て適宜対応してくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
俺はアームストロング少佐に案内されて中庭にある温室へ向かった。
ルイーズの姿を見た瞬間、俺の心臓は止まりそうになった。
肖像画にあった彼女は5年前の姿であり幼さがまだ残る感じであったが、今の彼女はどことなく女の色気を漂わせるような女性になっていたのだ。
ただ線が細く、今ここでその姿が消えてしまってもおかしくないくらい存在が危うげな感じに見える。
車椅子に乗った状態で芳しいバラの花に囲まれている彼女の姿はまさに花の妖精だ。
「ルイーズ、さっき話したハボック少尉を連れて来た。丁重にお相手してやるのだぞ」
「はい、お兄様」
深い森の中に湧き出る泉のように凛として透きとおった声だ。
「では吾輩はこれで失礼する。ルイーズのことをよろしく頼む」
アームストロング少佐はそう言って温室を出て行ってしまった。
俺としては少佐に一緒にいてもらうつもりだったので、ルイーズとふたりきりになる予定はなかった。
だからこの状況は俺にとって想定外のことだ。
突如として初対面の女性とふたりきりになってしまい、俺の思考回路は一時的に麻痺してしまった。
なにしろ相手は今までに会ったことのないタイプの女性で、しかも超がつくほどの清らかな美女だ。
「あの…初めまして。わたし、ルイーズ・レイ・アームストロングといいます」
真っ直ぐに俺を見つめる彼女の瞳に俺は恋をした。
ついさっきキャスリンに交際を申し出たばかりだという俺。
それなのにすぐに別の女性に恋をするなんて浮気性というか気が多いというか、とにかく惚れっぽいのは確かだ。
「お、俺はジャン・ハボック…君の兄さんと同じ中央司令部の少尉です」
俺は慣れない丁寧な言葉で言った。
「ええ、存じています。今日、キャスリンとお見合いをすることになっていたのは知っていますから」
「…そうですか」
「たぶんその様子ですとうまくいかなかったのでしょうね?」
「…当たりです。少佐のようなタイプが好みだと言われて、そのひと言で撃沈でした」
「やっぱりですね。あの子は末っ子で甘やかされて育てられ、特に兄がとても可愛がっていますから、いつまで経っても兄の後を追いかけてばかりなんです。兄もそれではいけないと思ってあなたとお見合いをさせたのでしょう。あの子には困ったものです」
「はあ…」
「ところでわたしとお話がしたいそうですけど、何か?」
「えっと…それは…」
ルイーズに温かい言葉をかけて…なんて思って来てはみたものの、俺が何を言えばいいのかを考えていなかった。
「…お、俺と付き合ってください!」
思わずついさっきキャスリンに言ったことと同じ言葉を口にしてしまった。
その途端、彼女は目を丸くして固まってしまったが、すぐに困ったような顔になって言った。
「ハボックさんっておもしろい方なんですね。でもそういうことは冗談で言うものではありませんよ」
「あ…そ、そうですよね。俺、何バカなことを言ったんだろ。気を悪くしたのなら謝ります」
「いいえ、気を悪くするなんてとんでもありません。兄からわたしの事情を聞いていて、それでわたしを憐れんで慰めようと来てくれたのだと思うのですけど…違いますか?」
図星だ。
「たしかにわたしの境遇は一般的には可哀想なものでしょう。でもわたしは他人から慰めてもらう気はありません」
「でも、俺はひと言頑張れって言いたかっただけで…」
「これ以上何を頑張ればいいのですか?」
「……」
やっぱり気を悪くしたのだろう。
初対面の人間からいきなり付き合ってくれと言われれば冗談だと思うだろうし、それに自分の境遇に対し憐れみをかけられるなどプライドの高いお嬢様には屈辱に感じたのかもしれない。
「本当にすみませんでした。君の言うとおり俺は少佐から話を聞いて可哀想だと思いました。でもそれだけじゃないです。俺、マジで君のことが ──」
「もうお帰りになってください。わたしとあなたには共通する話題などありませんし、こんな場所で無駄に時間を過ごすよりも街へ出てナンパでもした方がずっと意味があります。健康で愛らしい女性を見つけて幸せになってください」
「……」
ルイーズに自分の気持ちを伝えたかったが、やんわりと拒まれてしまった。
彼女の言うように話しをしようにも共通の話題などない。
それに彼女は名家のお嬢様で俺は100%庶民だ。
恋人が欲しいから見合いをしたのだからそれが成就しなければ別の女性を探すのも当然のこと。
彼女の気持ちを掴むよりも街でナンパした方が可能性は高い。
「今、使用人を呼んで車を用意させますからお帰りください」
彼女はそう言うとテーブルの上に置いてあった呼び鈴を鳴らしてメイドを呼んだ。
そして指示をすると俺に向かって言う。
「あなたの優しいお気持ちだけはいただいておきます。ごきげんよう」
それだけ言うと彼女は栞の挟んであった本を開いて読み始めた。
彼女を力づけたくて来たというのに逆に彼女の心を傷つけてしまった。
でも取り繕うとしても余計に彼女を傷つけてしまうような気がして、俺は黙って温室を出たのだった。
翌朝、俺はアームストロング少佐のところへ謝りに行くことにした。
俺はルイーズに対し失礼なことをしてしまったのだから兄である少佐にも謝っておかなければならない。
それにもしかしたらもう一度だけでも彼女に会えるチャンスが得られるかもしれないと思い、僅かな希望にかけてみたかったからだ。
俺は昨日家に帰ってからずっと自己嫌悪に陥っていた。
彼女に会って優しい言葉のひとつでもかけてやれば好意を抱くだろうなんて甘い考えだった。
肖像画を見て魅かれ、その境遇を知って憐れみを抱いた。
彼女を憐れむということは俺自身が彼女のはるか上にいて彼女を見下ろしているということと同じ。
詳しい事情なんて何も知らないくせに頑張れなんて言われたら不快に思うだろうとなぜあの時に気がつかなかったのだ?
彼女は今までずっと頑張ってきたにちがいない。
それなのに赤の他人に言われたら俺でも反発する。
俺の浅ましい考えに彼女はすぐに気がついたのだ。
キャスリンにふられたばかりだというのに、その舌の根も乾かないうちに別の女性に付き合ってくれという俺に対していい印象を持たないのも当然だ。
気が多くて軽い男だと思われたにちがいない。
だから街でナンパした方がいいなんて言ったのだろう。
今さら反省したところでどうにもならないのだが、せめてもう一度会って彼女にきちんと謝りたい。
会うことができないのなら手紙を書いてそれを読んでもらいたい。
このままでは俺はこの気持ちを抱いたままで悶々とした日々を送ることになるだろう。
そんな思いをするよりも当たって砕けた方がはるかにいい。
そう考えながら司令部の廊下を歩いていると、向いからアームストロング少佐が歩いて来た。
「あっ…」
「おおっ…」
目が合った瞬間、俺と少佐の目的が一緒だということがわかった。
「廊下での立ち話という訳にもいかぬだろう。少し付き合ってくれ」
少佐の言葉に俺は黙って頷いた。
俺たちは建物の外に出た。
そして休憩場所としての小広場の芝生の上に並んで腰かけた。
先に口を開いたのは俺だった。
「昨日はどうもすいませんでした。俺、そんなつもりはなかったんですけど、ルイーズを傷つけるようなことになって…申し訳ないと心から思っています」
「そのことなら気に病む必要はない。彼女はそんなことでいちいち腹を立てることもないし傷つくほど弱くもない。それに悪いのは吾輩の方なのだからな」
「どういう意味っすか?」
「吾輩が余計なことをしてしまったということだ。このところふさぎがちだったルイーズになんとか笑顔を取り戻させてやりたいと、できることなら心から笑うことができるようにと吾輩が勇み足をしてしまったということなのだ。彼女は何も言わないが、その寂しげな瞳が吾輩に無言で語りかけているのだ…わたしにかまわないでほしい、と。彼女の病は不治のもので原因すら判明していない。全身の筋肉が衰え歩くことはおろか車椅子を自分で動かすこともできない。家族や使用人以外と接することも殆どなく、彼女自身が自分の寿命がまもなく果てることに気がついてからはますます人を遠ざけるようになっていった。生まれてからずっとカゴの中の鳥のように羽ばたくこともなく、また恋のひとつも知らずに死んでいく彼女があまりにも哀れで、吾輩は兄としてできることをしてやりたいと思ったのだ」
「……」
「しかしそれが余計なことだった。彼女にとって何が一番の幸せかなど吾輩や家族の誰もわからない。彼女は何も求めないし、何かを与えても喜びはしない。表面上は喜んだふりをしているが、それは吾輩たちに気遣っているだけで本人は何も喜んではいないのだ。以前にも同様のことをして叱られたというのにまたやってしまった。したがってすべては吾輩に責任がある。迷惑をかけてしまってすまなかった」
少佐は大きな身体を小さくして俺に謝った。
「少佐…俺、昨日からずっと彼女のことばかり考えているっす。彼女に対して申し訳ないという気持ちはもちろんなんすけど、それ以外にも何ていうか…。こんなことを言うと恥知らずな奴だと思うかもしれないっすけど…俺、ルイーズのこと好きっす!一目惚れっすよ!」
少佐は俺の言葉に息を呑むが、すぐににこやかな顔になって俺の肩をポンと叩いた。
「そうか…そう言ってくれて吾輩は嬉しいぞ。彼女は4人の姉妹の中で一番人格的には優れている。長姉のオリヴィエは貴公も知ってのとおり女だてらに将軍などやっている気の強い女性だ。次姉はおっとりしすぎていて親の言いなりに他家に嫁いだ。自分の意思というものを持っていなかったとも言える。末妹は貴公もショックを受けるほどのブラザーコンプレックスを抱いている。吾輩にも責任はあるが何より内気で外界と接することも嫌う。そんな姉妹の中でルイーズだけは何ものにも毒されず真っ直ぐに育った。貴公も人を見る目があるとみえる」
「はあ…」
「そうそうすっかり忘れていた。これを貴公に渡してくれと頼まれていたのだった」
少佐はそう言うとポケットから封筒を取り出して俺によこした。
淡いピンク色の封筒で、ほんのりバラの香りがした。
「これって…?」
「ルイーズからの手紙だ。朝食の時に手渡されたから昨夜のうちに書いたものだろう」
「今読んでいいっすか?」
「ああ」
俺は封筒を開けて中の便箋を取り出した。そして整った優しい文字の羅列に胸が熱くなった。
”親愛なるハボックさんへ
昨日は大変失礼いたしました。あなたの優しいお気持ちを無にし、きっとご気分を悪くなされたことでしょう。本来ならわたしが出向いてお詫びをしなければいけないところですが、ご存じのとおりわたしは外出のできない身です。ですからこのお手紙にてお詫び申し上げます。今回のことで兄との関係が悪くならないよう心から祈っています。兄や志を同じくする人たちと理想の国を目指して頑張ってください
「…少佐、もう一度でいいから彼女に会えないっすか? 俺も彼女に謝らなけりゃならないっす。俺なんかが彼女を慰めるなんておこがましいことを考えたからこんなことになったんです。それに興味本位っていうのか…肖像画にあった妖精のような美少女が本当にいるのかと思って、それでひと目だけでも見たかったという気持ちの方が大きかったのかも知れないっす」
「それなら吾輩が貴公の気持ちを伝えよう。これは互いの誤解から始まったことだからな、直接会って解決すべきだ」
アームストロング少佐が仲介をしてくれるのなら心強い。
神様が俺にチャンスを与えてくれたのだ。
俺はこのチャンスを最大限に生かさなければならない。
俺は今まで以上に本気なのだから。
ルイーズが俺をデートに誘ってくれた。
まあデートというのは大げさな言い方だが、彼女がアームストロング家に俺を招いてくれたのだ。
俺が会いたいと言っているのをアームストロング少佐が伝えてくれたおかげで、彼女が会ってくれるということになった。
少なくとも俺は嫌われていないということだ。
非番である来週の土曜日に訪問する旨を少佐に伝えてもらい、俺はその日を指折り数えて待った。
そしてその日に緊急の仕事が入らないことを心から祈った。
軍人というものはいついかなる時でも任務優先、そのおかげでどれだけデートがドタキャンとなりカノジョにふられたことか。
だから今回は特に念入りに祈る。
彼女なら軍人の事情をわかってくれるだろうが、このチャンスを逃すと次に会えるのはまた1週間以上も先のことになる。
それにその日にまた仕事が入るという可能性もあるのだ。
だから絶対に来週の土曜日には彼女に会いに行きたい。
普段は神様なんて信じてもいなかったが、彼女に会ってからは信じられるようになった。
ああ、神様…この願いを叶えてくれるのならこれからも信じますから、どうか彼女に会わせてください!
俺の祈りが届いたのか、約束の日は無事やって来た。
前夜は興奮してなかなか寝つかれなかったが、爽やかな朝を迎えると気持ちが嘘みたいに穏やかになった。
例えるなら波立っていた湖の表面が風が止んで鏡のように平らになったという心境だ。
司令部で借りた車を運転してアームストロング家の屋敷に向かっている途中、俺は手土産を忘れたことに気がついた。
慌てて戻ろうかと思ったがそうなれば約束の時間に間に合わなくなる。
どうしようかと考えていると、道端に白く可憐な花が咲き乱れているのを見つけた。
野生のマーガレットだった。
俺はその花がルイーズのイメージと重なり、その花を摘んでひとつにまとめると助手席に置いた。
何度見てもため息の出るほどの大きな屋敷だと感じながら車寄せに車を停めた。
すると前回のように少佐が俺を出迎えてくれた。
「よく来てくれた、少尉。ルイーズは温室で待っている。早く行ってやってくれ」
「はい!」
俺はひとりで温室へと向かった。
そして前回の失敗を繰り返さないよう、どんなことを話すのかを前もって考えておく。
そして彼女の気持ちを大切にしなければいけないと自分に言い聞かせた。
俺は自分の気持ちを押しつけるのではなく、彼女のために何かをしてあげたいのだから。
「いらっしゃい、ハボックさん」
ルイーズは笑顔で俺を迎えてくれた。
しかし笑顔といってもそれは社交辞令的なもので、どことなく無理をしているように感じられる。
「お招きいただきありがとうございます。また会ってもらえるとは思っていませんでした」
「こちらこそ失礼な態度をとってしまったことで怒っていらっしゃるものだと思っていましたから、こうやって来てくださるなんて想像もしていませんでした」
「怒るなんてとんでもありません! 俺の方こそ君に対してとても失礼なことをしてしまったと深く反省しています」
「それならおあいこですね。じゃあ、この前のことはお互いになかったことにしましょう。さあ、そちらにおかけになってください」
彼女は向かいの席を俺に勧める。
「ありがとうございます。あ、これ…君に」
俺は持っていた花束を彼女に差し出した。
「これを…わたしに?」
「はい。これだけきれいな花がたくさんあるのに花を持って来るなんて非常識かもしれませんけど、なんだか君とこの花が似ているような気がして…それで摘んできました」
「ありがとうございます。でもこのマーガレットがわたしに似ているんですか?」
「健気でいて、それでいて凛としている力強さを感じました」
「わたしはあなたが考えているような人間ではありませんよ。でもそう言ってくれるのは嬉しいです」
彼女は呼び鈴を鳴らしてメイドを呼ぶとマーガレットの花を生けるように指示した。
そしてその花瓶をテーブルの中央に置いてもらうと目を細めた。
「こういう野の花を見るのは久しぶりです。この温室には人の手で育てられた花しかありませんから」
「ここは楽園のようですね。暖かくて花に囲まれて…おまけに花の妖精までいる」
「まあ、お世辞がお上手ですこと。まるでどこかの大佐さんのようですね」
「え?」
「ハボックさんはマスタングさんの部下なんですよね?」
「は、はい…そうですけど」
「フフッ…それにその言葉遣いも地ではないのでしょ? 無理をしないでいつもどおりでかまわないんですよ。わたしの前で自分を偽ったり飾ったりしないでください。普段のハボックさんでいいんですから」
彼女には俺の態度がぎこちないことに気がついていたようだ。
「やっぱりばれてたっすね? 別にカッコつけというつもりじゃなくって、単にこういうお金持ちの家なんで緊張して…というか、その雰囲気に合わせなきゃって思った訳っす」
「でもわたしの前ではそんなことをしなくてもいいんです。緊張していてはせっかくのお茶も美味しくはありませんもの。それに今の言葉遣いの方があなたらしい感じでいいです」
「そうっすか?じゃ、安心して地でいくことにするよ」
俺がそう言うと彼女も少し表情を和らげた。彼女も少し緊張していたのかもしれない。
メイドがティーポットとカップを運んで来るとテーブルの上に置いて温室を出て行った。
ルイーズが呼ばないかぎり使用人は絶対に温室には入って来ないし、呼べば十数秒で現れる。
「さあ、どうぞ」
ふたつのカップに紅茶を注いで、そのうちのひとつを俺に勧める彼女。
紅茶のいい香りが俺の鼻腔を擽った。
普段はコーヒーしか飲まない俺だが彼女の淹れてくれた紅茶ならさぞ美味しいことだろう。
俺は紅茶をひと口飲んだ。
「美味しい…これ、美味しいっすよ!」
今まで飲んだどの紅茶よりも美味しかった。
高級な茶葉を使っているからだろうが、なによりも俺のために淹れてくれたということが味を引き立てているにちがいない。
「喜んでいただけてよかったです。おかわりもありますからよろしければどうぞ」
「ああ、遠慮なくいただくよ」
彼女の表情がまた少し和らいだ。
しかしそれが本当の彼女の笑顔ではないという気がする。
俺は彼女の本当の笑顔が見たい。
きっとそれは今までに見たことがないくらいに優しく心に沁みるような笑顔なのだろうと思うから。
「わたし、先日あなたにお会いした時にとても態度が悪かったと、とても反省したんです」
「え?」
彼女が突然懺悔のようなことを言い始めた。
「わたしは自分が他人から憐れみをかけられることを極端に嫌うものですからあんな態度をしてしまったんです。あなたは純粋にわたしのことを心配してくれたというのに、わたしはとても失礼な態度をとってしまいました。お詫びをするにしてもわたしには手紙を書くことしかできないので、手紙を書いて兄に託したんです。きっとあなたはわたしのことわがままで気位の高い嫌な女だと思ったことでしょうね?」
「いや、そんなことは決してないっすよ。俺の方こそ失礼なことをしたと反省していたんだ。君の気持ちを考えずに傲慢な考えでいたんだから。不幸な君に優しい言葉のひとつでもかけてやれば喜ばれるなんて考えたりして、下心丸出しだったし」
俺がそう言うとルイーズは首を横に振った。
「わたしは自分のことを不幸だなんて考えていないんですよ」
「病気で自由に外出したり好きなこともできないというのに?」
「確かにわたしは病気で先のない身の上です。でもそれが不幸って決まっている訳じゃないんです。…たとえばハボックさんが自分のことだったとして考えてみてください。とっても美味しそうな料理が山盛りあってそれをたったひとりで食べるのと、たった一個のパンでも仲の良い家族と分け合って食べるのだとしたらどちらがいいですか?」
「う~ん…食事をひとりでとるのは寂しいな。量が少なくて質素でも家族と一緒の方がいいかも」
「では、あなたはとてもお腹が空いています。今にも死にそうなくらい空腹であった場合、さっきと同じ選択肢であったならどちらを選びますか?」
「そうだな…とりあえず腹を満たさなければならないのだから少しくらい寂しくてもたくさん食べられる方がいい」
そう答えると、彼女は期待していたとおりの答えだというふうに頷いた。
「同じ人間でも状況が違うだけで選ぶ答えも違ってきます。それなら人間がいる数だけ答えもあって、それぞれ状況が変わればまたその分答えも増えます。つまり、見方を変えるだけでずいぶんと違ってくるということです。わたしはとても恵まれた環境にいます。寒さや飢えで苦しむことはありません。使用人に命令すれば何でもやってくれるし、家族もいてわたしに優しくしてくれます。これを不幸だと思えますか? 世間では日々の暮らしが苦しくて、病気になっても医者に診てもらえずにに死んでいく子供や老人たちがどれほどいるでしょうか? そういう人たちと比べるとわたしは決して不幸ではありません」
「……」
俺も多くの貧しい人たちを見てきた。
粗末な小屋に住み、食糧も十分に得られない。
病気が流行るとバタバタと死んでいった。
彼らに比べればルイーズは幸せかもしれない。
でもあと僅かしか生きられない彼女が幸せだと俺は思えない。
俺が彼女よりずっと幸せに生きてこられたからだ。
だから俺は無自覚に彼女を傷つけてしまった。
彼女自身が不幸だと思っていないのに俺が勝手に彼女を不幸だと決めつけてしまったからいけなかったのだ。
「もっとも彼らが貧しいからといって必ずしも不幸だとはいえないでしょう。彼らだって家族全員で仲良く暮らすことができればそれを幸せだと感じているかもしれないからです。幸せとか不幸なんてものは他人が判断するのではなく、その人自身がどう感じるかだと思うんです。とても裕福で地位や名誉のある人は他人からは幸せに見えるでしょう。でも本人がそれで満足していなければその人は幸せだと感じないのではないでしょうか?」
「なるほど…。ルイーズ、君ってすごい人だね?」
「どういうことですか?」
「だって、俺は今までそんなことを考えたこともなかった。俺は健康だし食べていくことにも不自由はしていない。信頼できる仲間や友人もたくさんいる。だけどイーストシティにいた時の恋人と別れてから俺は自分がなんて不幸なんだと落ち込んでいた。そのせいで少佐が見合いの話を持って来てくれたんだ。…今の話を聞いて俺は自分がすごく情けないと感じた。たかが恋人がいないというくらいで自分が世界で一番不幸なんじゃないかって思ったくらいだから」
「ハボックさんは情けない人ではありませんよ。誰だってそう感じる時はあります。わたしだって子供の時には自分だけがなんでこんなにつらい思いをしなきゃならないんだろうって考えてすべてを恨みました。こんな身体に産んだ両親に対して、わたしにはない健康な身体を持っている姉や兄に対して、特にキャスリンに対しては嫉妬心でいっぱいでした。…でもある時わたしは気がついたんです。わたしの不幸は自分を不幸だと思うことなのだと。それに気づかせてくれたのはアンナ…わたしの身の回りの世話をしてくれる女性です」
「それってその呼び鈴を鳴らすとすぐに駆けつけるあの美人なメイドさんかい?」
「そうです。彼女は北方の小さな村の出身で、母親と姉と弟と4人で暮らしていたそうです。彼女の一家はとても貧しくて、彼女は家族を助けるためにセントラルへ出て、この家で働くことになりました。そして数年後、母親が病気で倒れてその治療費を賄うために彼女のお姉さんはノースシティの娼館に身売りしました。でも、それから1年もしないうちに母親は亡くなり、お姉さんも悪い病気にかかって後を追うように亡くなりました。弟さんは軍に入隊し、その後イシュヴァールで戦死しました。ですからアンナのことを思えばわたしは決して不幸ではありません」
「……」
「それ以来わたしは前向きに生きることができるようになりました。それまでずっとわたしは自分の不幸を呪い、いっそのこと早く死んでしまえばいいとさえ思ったものです。今そのことを思い出すととても情けなくて恥ずかしいです」
「ルイーズ…やっぱり君はすごい人だよ。俺の人生観を変えてしまうほどの強い力を持っている。なんだか目が覚めたような気分だ。とても清々しいっていうのか、自分が生まれ変わったっていう気がする」
「ハボックさんたら大げさですね。まるであの時と同じだわ」
「あの時?」
「あなたと同じようなことを言った人がいるんです。『自分は目が覚めた、自分のやるべきことを与えてくれた君に感謝する』って言われました。その人も人生を悲観していて、一歩間違えれば死んでいたかもしれないほど心が壊れてしまっていました。そんな彼を心配した兄がわたしに引き合わせたんです。わたしがその人に何かできるはずもなく困惑しましたが、わたしがさっきと同じ話をしたらみるみるうちに眼に生気が戻って、帰る時には堂々としてとても逞しい姿で帰って行きました」
俺以上に悩み苦しんでいた男がいたのだ。
そしてそれを立ち直らせた彼女は妖精どころじゃない。
彼女は間違いなく女神だ!
「で、その人ってどんな人?」
俺は彼女が懐かしそうな目で遠くを見つめている相手の男のことが気になった。
もしかしたら彼女はその男のことを好きなのかもしれないと思ったからだ。
俺が訊くと、彼女は悪戯っぽい目で俺を見て答えた。
「ハボックさんもよくご存じの方ですよ。マスタングさんですもの」
「マスタング…? それってロイ・マスタング大佐!?」
俺の知っているマスタングとは大佐しかいない。
「ええ。東方内戦で彼は心に大きな傷を負いました。自らの意思ではなく多くの罪のない人々の命を奪ってしまったことで悩み苦しんでいたんです。家にこもって食事も睡眠も満足にとらず、心だけでなく身体まで衰弱していきました。そして人体錬成にまで手を出そうとしていたんです」
「ええっ!?」
「でもマスタングさんを心配したヒューズさんや兄が彼を無理やり外へ連れ出してここへ連れて来ました。なぜ兄がわたしに引き合わせたのかはわかりません。今でも教えてくれないからです。わたしは彼とここで話をしました。といっても彼は何も口を利かず、一方的にわたしが自分のことを話しただけなんですけどね。でもそんな話でも彼にとっては十分に意味があったようです。そしてこれからの人生で自分が何をすれば贖罪になるかをわたしに尋ねました。だからわたしは言ったのです…この国で一番偉くなって戦争のない国をつくればいいじゃないですか、って。死んでも罪滅ぼしにはならない。死ぬことで誰も喜びはしないし死んだ人が蘇える訳でもない。たとえ数人の人を蘇らせたとしてもこの国の状態が変わらなければもっともっと大勢の人が不幸になる。それよりもすべての人が幸せになれるような国をつくるべきだと言ったら、彼は大きく頷いてわたしに約束してくれました。彼は大総統になってこの国のあり方から変えるのだと言いました。肌や瞳の色、信仰や思想によって差別されることのない、そして誰もが健康で平和な暮らしができる国をつくるのだと言ってくれたのです。その時の彼の瞳はすべてを失って死を望んでいた彼とはまったく違っていました。兄もヒューズさんも彼に協力することを誓い、そして今に至るという訳です」
マスタング大佐が大総統になるという野望を抱いて日々その機会を窺っていることを俺だって知っているし、俺も部下として大佐のことを支えている。
そのきっかけをつくったのがルイーズだったとは驚きだった。
軍人ならば誰だってそのトップになりたいと思うものだ。
大佐もそのうちのひとりだとしか考えていなかったが、そばにいるうちに何か信念のようなものを感じ、俺も大佐に従うことに決めた。
大佐は大総統になるのは軍の全女性の制服をミニスカートにするためだなんてマジな顔で言っていたが、やっぱりそれは照れ隠しのようなものだったのだ。
しかしマスタング大佐ほどの人物の魂を救い、新たな道を指し示すことができる彼女はやっぱり女神だ。
俺はそこでふと考えた。
大佐は彼女のことをどう思っているのだろうか?
自分を地獄の底から救い出してくれた女神に対して恋愛感情を抱いてはいないのだろうか?
大佐はハンサムでエリートだ。
誰だって好印象を抱く。
彼女だって若い女性なのだから好意を抱いていてもおかしくはない。
「マスタング大佐とは今でも会っているのかな?」
俺が遠慮がちに訊いた。
すると彼女は黙って横に首を振る。
「わたしが彼に会ったのはたった一度だけです。彼はわたしに会いたがっていたようですけど、わたしは会おうとはしませんでした。その後何度か手紙をもらいましたが返事も出しませんでした」
「どうして…?」
「だって彼の人生にわたしは必要ないからです。彼にとって重要なのは過去を振り返ることよりもがむしゃらにでも前に進むことなんです。それにわたしが彼に与えるものは何もありませんから」
「でも会いたいというのは君のことが好きだから ──」
そこまで言いかけた時、彼女は大きく首を横に振った。
「そんな気持ちを押しつけられてもわたしにはどうすることもできません。わたしの命はわたし自身でどうすることもできないのですから」
「……」
「でも、今でも時々手紙はくれますし、誕生日にはバースディーカードも送ってくれます。それには必ず『来年の誕生日にはぜひパーティーに招待してください』って。来年の誕生日にまだわたしが元気でいるって信じているんですね、彼は」
「少佐から来月22歳の誕生日を迎えるって聞いたよ。やっぱり大佐を呼ぶことはしないのかい?」
「…そうですね、セントラルにお戻りになっているのですからご招待してもいいかもしれませんね。…きっとこれが最後になるから」
「えっ?」
俺には最後の言葉が聞き取れなかった。
哀しそうで呟くような小さな声だったからだ。
しかし彼女はすぐに明るい表情に戻り、話題を変えた。
「それよりももっと楽しいお話をしませんか? どんなお仕事をしているかとか、普段はお休みの日にどんなことをしているのかとか教えてくださいな」
「ああ、そんなことならいくらでも話してあげるっすよ。じゃあ、まず…」
俺は自分のことをもっと知ってもらいたいという気でいろいろなことを話した。
中にはくだらないこともあったが、彼女はそれをにこにこと笑顔でずっと聞いていてくれた。
屋敷から出ることもできない彼女にとって外界のことはどれもみな珍しく興味深いものなのか、それとも客に対しての礼儀なのかはわからないが、俺にとってはとても幸せな時間を過ごすことができたのだった。
しばらくして少佐が温室に姿を現した。
「仲良くやっているようだな、ふたりとも。しかし、今日はこれくらいにしておきなさい。ルイーズもそろそろ部屋に戻って身体を休めなければいけないからな」
少佐の言葉に俺ははっとした。
彼女の身体を疲れさせないためには1時間が限度だったはず。
しかし俺は調子に乗って2時間近く話し込んでしまっていた。
「すいません! 俺、そのことをすっかり忘れていたっす。ごめん、ルイーズ。疲れさせてしまったね」
俺が申し訳なさそうに謝ると彼女は首を振る。
「そんなことはありませんよ。とても楽しかったですし疲れてもいません。でも、兄の言うように部屋に戻ることにします」
「そうだね、ゆっくりと休むといい。じゃあ、また今度非番の日に遊びに来てもいいかな?」
俺は深い考えもなしに軽く彼女にそう言った。
あれだけ機嫌がよく楽しそうだったのだから即OKしてくれるものだと疑う余地はなかったからだ。
しかし彼女ははっきりと俺の申し出を断った。
「ごめんなさい、ハボックさん。わたしはもうあなたと会うつもりはありません。お互いのことを許し合えたのですから、もう会う理由はありませんもの」
「どうして?俺といてつまらなかったのか? それとも俺のことが嫌いだから…?」
「そんなことはありません。でもあなたにはあなたの世界があって、その中にわたしの居場所はありません。あなたはマスタング大佐を支えるという目的があるのですから、そのために余計なことにかまっていないでやるべきことをやってください」
「俺が君に会うことって余計なことなのか?」
「あなたの人生にもわたしは不要です。…さあ、あなたはあなたの世界に戻ってください」
そう言って彼女は呼び鈴を鳴らし、続いて少佐に向かって言った。
「お兄様、ハボックさんをお送りしてもらえますか?わたしは部屋へ戻ります」
「あ、ああ…わかった」
少佐は俺の肩をぽんと叩いて無言で帰るように促す。
「ハボックさん、今日はとても楽しかったです。ごきげんよう」
そう言った彼女の表情は暗く沈んでいた。
そして駆けつけたメイドに車椅子を押してもらって温室を出て行ってしまった。
「少尉…彼女の気持ちを大事にしてくれ。彼女は彼女なりに気を遣っているのだ。貴公につらい思いをさせたくないという彼女の気持ちをわかってやってほしい」
「どういうことっすか?」
「貴公は忘れてしまったのかね? 彼女の命はそう長くはない。そんな彼女に惚れてしまえば傷つくのは貴公だ。愛する者を失う悲しみや苦しみを貴公に味合わせたくはないのだよ」
「…そうだった。じゃあ、大佐に会わないようにしたことも…」
「そうだ。マスタング大佐もルイーズに恋をした。その気持ちを察した彼女は大佐のことを避け、自らの気持ちも封印した」
「それって…彼女もまた大佐のことを…?」
「たぶんそうだろう。彼女は大佐の求愛に戸惑い、そして自分が彼に恋をしていることに気づいた。彼女にとってそれは自分の身体が自由にならないこと以上につらいことだったと思う」
「今でも彼女は大佐のことが好きなんすかね?」
「それはわからぬ。…ただ毎年送られてくるバースディーカードを大事にしているのは確かだ。少なくとも好意を抱いているのは間違いないが、それが恋愛感情なのかは不明だ」
「……」
また俺の前にマスタング大佐が立ち塞がっているのか…
今まで付き合ってきたカノジョたちの何人かは大佐に魅かれて俺のことを棄てた。
大佐が俺の恋の邪魔をするから俺の恋はなかなか成就しない。
その証拠にセントラルに戻ってから付き合っていた花屋のグレイスに冷たく突き放された原因は大佐だった。
大佐とデートしている姿を見てしまった俺は仕事への熱意を失い、それが原因でキャスリンとの見合いになったのだ。
そこで出会ったルイーズまでもが大佐に好意を抱いているという。
それでは俺に勝ち目はない。
しかし俺は退きたくはない。
大佐がライバルであっても俺の彼女を想う気持ちは負けてはいないはずだ。
それにいくら彼女の命が残り少ないといっても、俺は彼女のことが好きで、短い間であっても彼女のことを愛したい。
たとえそのことで苦しむとわかっていても俺は彼女への気持ちを棄てることはできないのだから。
「6年前…吾輩がマスタング大佐をルイーズに引き合わせたのは大佐のためもあったが、本当は彼女の気持ちを大佐に開いてもらおうという気持ちもあったのだ」
「それはどういうことっすか?」
「大佐は女性に対する礼儀を弁えているし、なによりも女性の心を惹きつける魅力を持っている。もしルイーズが大佐に恋心を抱いたのであれば、吾輩は大佐に頼んで恋人ごっこをしてもらおうという浅はかな考えを持っていたのだよ」
「恋人ごっこ…っすか」
「残り少ない人生の中で一瞬であってもバラ色の思い出をつくることができれば彼女も生まれてきたことをよかったと思えるのではないかと考えたのだ。彼女は自分を不幸だと嘆いていたが、あることがきっかけで自分の生き方を変えることができた。しかしすべてが吹っ切れたというのではなく、満たされない想いにいつも沈んでいたからだ。若い女性であるからそれが恋愛ではないかと吾輩は考えたのだよ」
「それで大佐に芝居を…」
「ああ。しかし吾輩の誤算は彼女が吾輩の想像以上に大人だったということ。そして大佐自身が本気で彼女に惚れてしまったこと…この2点だ」
「じゃあ、なんで俺を…?」
「もしかしたら今度こそ…と考えた。そして貴公は何度も別れを繰り返しているから、彼女が死んでも立ち直れると勝手に判断してしまった。貴公に対しても申し訳ないことをしたと深く反省している」
「いや、そんなことはないっすよ。俺も彼女に会ったことを心からよかったと言えますから。…でも哀しすぎるっす。どうして彼女はそこまで心穏やかでいられるのか俺にはわからないっすよ。無理して大人のふりなんかしなくてもいいんだ。子供じみたわがままを言ったって許されるっていうのに。もっと甘えていいはずだ!そう思うっすよね、少佐?」
「ああ…」
「無理やり背伸びして全部自分の中に閉じ込めることなんてないんだ。…少佐、俺にできることってないんすかね?」
「彼女にはその気持ちは届いている」
「気持ちが届いたからって意味ないっすよ!それが彼女にとってなんの慰めにもならないんだから」
「……」
「俺、手紙書きます。彼女に届けてもらえますか?」
「わかった。吾輩にできるのはそれくらいしかないからな」
彼女との絆はまだ繋がっている。
俺はそれを失いたくはない。
彼女が本当の笑顔を見せてくれるのなら、俺はいつかやってくる別れの日とそれに続く悲しみや苦しみを喜んで受け入れよう。
俺は錬金術師ではないが、等価交換の原則くらい知っている。
彼女のためなら俺はその分の代価を支払う覚悟はあるんだ。
翌日の午後、俺はマスタング大佐と市内巡察に出かけることになった。
いい機会なのでルイーズのことを話すことにした。
「大佐…ルイーズ、元気だったっすよ」
俺がそう言うと、大佐は少し驚いた様子だったがすぐに安心したという表情になった。
「そうか、それはよかった」
「大佐も彼女と知り合いだったんすね。それも大佐にとってとても大事な人らしい。今でも大佐は彼女のことを ──」
「何が言いたいのだ、ハボック?」
険しい顔で俺の言葉を遮る大佐。
「何って…あれから一度も会ってないそうっすけど、大佐が女性とマジで付き合わないのは彼女のせいかなって思ったんすよ。毎年バースディーカードを送り続けていることからして忘れられないってことっすかね」
好きなのかと訊く勇気はなかった。
大佐がYESと答えたら、俺は大きな壁を乗り越えなければならなくなる。
「彼女は…私の恩人だ。そして今までに唯一心から愛したかけがえのない女性だ」
「やっぱり…」
「もし彼女が健康な身体であったならば、私は彼女と結婚していただろう。彼女以上に未来のファーストレディとして相応しい女性はいないからな」
「そうっすね。彼女の考えには俺も感動したっす。俺が彼女の立場だったらあんなふうに強くは生きられない。彼女は芯が強い、気高く美しい女神みたいっすね」
「ああ。お前も彼女に惚れた口か?」
「もちろんっすよ。彼女に会って恋に落ちない男は男色か不能者っす」
「そうだな。…そういえば来月の24日が彼女の誕生日だ。しかし今年も彼女は私を招いてはくれないのだろうな」
「いや、そうでもないかもしれないっすよ。セントラルに戻っているのだから招待してもいいかもしれないって言ってたから、今年は大丈夫かもしれないっす」
俺がそう言うと、大佐は喜ぶかと思ったのだが逆に哀しそうな表情になった。
「…そうか。間もなくその日がやって来てしまうのだな」
「長くて3ヶ月だそうっす。でも何でそう思ったんすか?」
「彼女が自分の死期を察して、最後に一度だけ会ってくれるということだ。きっと彼女は会って礼を言いたいとでも考えているのだろう。礼を言うのは私の方なのだがね」
大佐は彼女のことをよく理解しているようだ。
俺なんかよりもずっと前から彼女のことを知っているのだから当然といえば当然なのだが、それが少し悔しい。
「今年で22歳…よく頑張ったものだ。それにしてもあれから6年になる。さぞ美しく成長したにちがいないな」
「ええ。儚げで今にも消えてしまいそうな花の妖精のようだった少女は、天界に住み下界の人間を優しく見守り導く女神になった…ってところっす」
「詩的な表現だな。お前らしくもない」
「そんな気分にさせる女性ですからね、ルイーズは」
「女神に魅せられた男ふたり。この手で触れることもできず、ただ想いを馳せるのみ。その気高く清らかな魂は天界から舞い降り、我々を残して再び天上へと帰っていく。…そういえば遠い東の国にそんな話があったな」
「どういう話っすか?」
「1000年以上昔のおとぎ話だ。竹という植物の中から生まれた女児は常人とは違ってあっという間に美しい女性に成長した。当然多くの若者が彼女に求婚をしたのだが、彼女はいろいろな理由をつけてそれを拒んだのだ。そしてその国の王からの求婚までも拒み、とうとう彼女は月の世界へと帰って行ってしまった。彼女は月の国の姫だったのだ。だから地上の男たちとは結ばれることなく、清らかな身体のままで月の国へと帰らなければならない運命にあったのだよ。ルイーズはその月の国の姫で、私たちのような地上の穢れた男とは結ばれないのではないかな」
「そうかもしれないっすね。俺たちは軍人、命令であれば人の命を奪うことも辞さないという人種っす。そんな俺たちが彼女に触れていいはずがない。初めから叶わぬ恋…ってことだった訳っすね」
「…つらいな」
「そうっすね」
同じ女性を愛した男がふたり、それぞれに胸に想いを秘めて市内巡察を続けたのだった。
叶わぬ恋だと知りながらも俺は諦めきれなかった。
彼女の気持ちを考えればおとなしく身を引くのが当然なんだろうが、俺は大佐のように大人ではない。
会えなくても彼女との絆を守る方法はある。
それが手紙だ。
俺は自分の周りで起きた出来事や街で聞いた面白い話などを2・3日に一度手紙に書いてそれをアームストロング少佐に託すことにした。
もちろん返事など来るはずはないが、それでも俺はこの手紙によって彼女と繋がっていられるのだから。
リオールの街で大規模な反乱が起きているということで、マスタング大佐が鎮圧隊の司令官として派遣されることになった。
当然俺もついて行くことになる。
そうなるとルイーズに手紙を送れなくなってしまう。
派遣が決まった日にすぐ彼女にそのことを告げる手紙を書いた。
すると今まで一度も返事が来なかったというのに、彼女からの手紙が届いたのだ。
『ご武運を祈っております。早くご無事な姿でセントラルへ帰還してください』という短いもので、おまけにマスタング大佐にも同じ内容の手紙が届いていたことが少し残念だが、彼女の優しい文字が俺を力づけてくれた。
リオールというのは東方の外れにある街で、そこの住民たちはイシュヴァール人とかなり近い血筋の民族だ。
3年ほど前にエルリック兄弟が新興宗教の教主を倒したが、それ以降街の中は内乱状態になり軍が介入していた。
それが今になって突如大規模な反乱となり、7000人という軍人を派遣することとなった。
しかしそれだけならマスタング大佐が司令官として赴くことはなかったのだが、連続国家錬金術師殺人犯の傷の男が市内に潜伏しているという噂を聞いて、マスタング大佐が自ら志願したものだった。
自分が後見人になっているエルリック兄弟が必ず現れると信じているからだ。
賢者の石を探して旅をしている彼らは軍の機密事項にも関わりとても危険な状態にある。
彼らを保護したいと考えている大佐が直接現地に向かったのは当然のことだった。
大佐の予想通りにエルリック兄弟は現れた。
しかしリオールの街の中で起きた事件 ── 傷の男によって7000人の兵士を犠牲にした賢者の石の錬成 ── にエルリック兄弟が絡んでいるということで、彼らはお尋ね者になってしまった。
彼らを確保するために大佐や俺たちはセントラルへ戻ることができず、彼らの故郷まで追いかけることとなった。
予定外のことが起きたせいでセントラルへの帰還がずいぶん遅くなってしまった。
その間ずっとルイーズに手紙を送ることができなかったので、帰ったらすぐに無事帰還したことを知らせようと意気込んでいると、司令部のオフィスに彼女からの手紙が届いていた。
それは彼女のバースディーパーティーへの招待状だった。
もちろん同じものがマスタング大佐にも届いている。
俺と大佐は24日に休暇を入れた。
たぶんこれが彼女に会える最後のチャンスになると思う。
だからこの日は絶対に彼女に会いに行く。
大佐も同じらしく、すべての仕事を片づけてしまおうといつもよりも力を入れて仕事をしている。
この分なら突発的なことが起きないかぎり無事バースディーパーティーに出席できるだろう。
ルイーズの誕生日を前日に控え俺は未だに悩んでいた。
彼女に何をプレゼントすればいいのかわからないのだ。
高価なものを贈っても無駄だし、彼女に物欲なんてないと思う。
マスタング大佐に相談しても力にはなってくれないし、何か企んでいるような感じがする。
俺は昼休みに中庭の芝生の上で空を仰ぎながらタバコをふかしていた。
彼女にとって何が一番喜ばれるのか…俺には想像もできないのだ。
中途半端なプレゼントを持って行くくらいなら手ぶらで行ってその場で余興でもしてやろうかと思った。
しかし俺にはそんな芸などない。
今から練習したって間に合うものでもない。
ため息をつきながら俺は2本目のタバコに火をつけた。
「はあ…まいったな」
この時俺は自分の無力さをつくづく情けないと思った。
ガサガサ
ギャッ!
ピーッ!
「な、なんだ!?」
俺のいた場所から10メートルくらい離れた場所に大きなエルムの木があって、その茂みの中から木の葉がざわめく音と鳥の警戒音が聞こえた。
続いて小さな鳥が落ちて来て、それを大きな黒っぽい鳥が鷲掴みにして飛び去って行った。
一瞬のことで何が起きたのかよくわからなかった。
俺は身体を起こすとエルムの木に近づくと、根元には小さな血の跡があって、頭の上にある巣の中ではピイピイと雛鳥が啼いている。
俺は木に登って巣の中を覗き込んだ。
そこには親鳥が必死で敵と戦った名残りとまだ産毛の雛鳥が1羽だけ羽をバタつかせている姿があった。
この弱々しい雛を放っておいていいものか考え、俺は少し離れた場所でその巣を見守ることにした。
するとすぐにさっきの黒い鳥が舞い戻って来て巣のそばの木の枝に留まった。
明らかに巣の中の雛鳥を狙っているのだ。
「このやろう!」
俺は腕を振り上げて大きな声を出した。
それに驚いた黒い鳥は慌てて飛んで逃げて行く。
このままではこの雛鳥はあの鳥の餌にされてしまうだろう。
いや、親を失った雛鳥が一羽だけで生きていけるはずがない。
それも自然の掟ではあるが、俺には助けられる命があるのなら助けてやりたいという気持ちの方が大きかったのだ。
俺はもう一度木に登ると雛鳥を抱えて飛び降り、雛鳥を懐に入れると急いでオフィスに戻った。