ジャン・ハボック氏の恋 作:迷綴の錬金術師
翌朝、俺は友人から借りた燕尾服に身を固め、自宅玄関前でアームストロング家の迎えの車を待っていた。
着慣れない服を着ているせいで落ち着かないが、それよりもルイーズが俺のプレゼントを喜んでくれるかが心配でたまらないのだ。
俺は彼女にとって一番欲しがっているもの見つけられたと思う。
少佐が言っていた「ルイーズの満たされない想い」が何かわかった気がしたのだ。
彼女の心を満たすものを俺は彼女にプレゼントする。
もし俺の考えが勘違いだったとしても、それでも彼女はきっと喜んでくれるはずだと自分に言い聞かせているうちに黒塗りの高級車が俺の前に停まった。
「もう少しだけ我慢しろよな」
俺は籠の中に入れておいた箱の「中身」に声をかけてから蓋を閉める。
そして籠を抱えて後部座席に乗り込んだ。
すでに乗っていたマスタング大佐に挨拶をするが、その洗練されたスマートな姿と堂々とした態度に俺は少し怯んだ。
「ハボック、お前もそういう格好をするとそれなりに見えるじゃないか。東の国には『馬子にも衣装』という言葉がある。つまり服装によって人は変わるという意味だ。それが見かけだけでなく中身にも表れるといいのだがな」
「…中身ならルイーズに会って変わったっすよ」
「そうだったな…。最近のお前は今まで以上にやる気を見せている」
「大佐のために働けって彼女に言われたもんで。俺にできることって他にないっすからね」
「できることなら彼女が元気なうちに彼女の望む国を見せてやりたかったな」
「そうっすね…でも彼女の病気だってもしかしたら ──」
俺はそこまで言いかけて止めた。
そんな奇跡が起こるはずがないとわかっていて言うのは虚しいだけ。
大佐もそのことはよくわかっているので、俺の言葉を無視するかのように窓の外の景色に目を移した。
俺も反対側の窓から外の景色を見つめる。
そしてふたりとも無言のままアームストロング家の門をくぐったのだった。
メインダイニングルームに案内された俺とマスタング大佐。
大佐は動じなかったが、庶民でこういう世界とは無縁の俺にとっては脚の竦む光景がそこに広がっていた。
煌びやかな夢のような世界…俺の想像力をはるかに超える豪華さだ。
俺にだってその部屋のインテリアのひとつひとつが選び抜かれた高級品であることくらいわかる。
マホガニー製のテーブルや椅子にシルクの真っ白なテーブルクロス、その上の食器類は北方の有名な陶器メーカーのもので、銀食器はすべてピカピカに磨かれていてそのすべてにアームストロング家の紋章が刻印されている。
それらだけでもビビるのだが、部屋の奥にいる正装した一団に俺は思いっきりビビった。
そこにいたのはアームストロング家の家族で、北方司令部にいるはずのオリヴィエ・ミラ・アームストロング少将は胸と背中が広く開いた真っ赤なイブニングドレスに身をまとい、軍服の時とはまた違った威圧感がある。
他家へ嫁いだという次女も招かれていた。
ルイーズをもっと大人にして彼女よりもおっとりさせた感じの女性だ。
キャスリンはフリルのいっぱいついたパステルピンクのドレスを着て両親と一緒に何かを楽しそうに話していた。
超がつくほどの華やかな家族の前では俺のちっぽけな存在など部屋の隅の塵に等しい。
自分がいるべき場所ではないなと考えていると、アームストロング少佐に車椅子を押してもらってルイーズが登場した。
彼女は純白のロングドレスを身にまとい、その姿はまるで花嫁のように見える。
ベールとブーケ、そして相手がいれば間違いなくこれから結婚式を挙げる新婦そのものだ。
もし俺がもう少し勘のいい人間ならその意味がすぐにわかったはず。
しかし俺はまだ彼女のドレスの意味がわからなかった。
主役が登場したことでパーティーは始まった。
アームストロング退役将軍の挨拶の長さに辟易したが、俺はその間ずっとルイーズの顔を見ていた。
いつもは素顔のままなのに今日は薄化粧をしている。
正装しているからなのか、それとも具合が悪くて顔色をごまかすためなのかはわからないが、彼女の美しさを引き立てていることは確かだ。
ただその美しさが朝露のような儚げな美しさであることがとても哀しい。
乾杯をするとすぐに俺はルイーズのそばに向かった。
立食式のパーティーなので自由に動けることがありがたい。
しかし俺が彼女のそばに辿り着く前にその行く手を阻まれた。
アームストロング少将が真っ先にルイーズに駆け寄り、ひとり占めしてしまったのだ。
その姿は「ブリッグスの北壁」の異名を持つ軍人ではなく、年の離れた妹に久しぶりに会って喜んでいるひとりの女性の姿だった。
彼女が北方司令部勤務になってからずいぶんと経つらしいが、そうそう簡単に会いに来られる距離ではない。
それに“次”がないとわかっているのだろうから、少しでも長く一緒にいたいと思うのは当然だ。
そのうちに家族だけで輪ができ、俺とマスタング大佐はその輪から少し離れた場所でその様子を眺めていた。
「華やかだけど哀しいパーティーっすね…」
俺は大佐に話しかけた。
「ああ」
「今日のルイーズはいつにも増してきれいっす。まるで花嫁さんみたいっすよ」
「フッ…花嫁、か。たしかに彼女のドレスはウェディングドレスだな」
大佐の表情は「自分は何もかも知っている」みたいな感じで、昨日の態度といい何か企んでいるにちがいない。
「大佐、なんか怪しいっすね。少佐と打ち合わせでもして何かしようとしているんじゃないっすか?」
「まあ、今にわかるさ。…それよりもお前のプレゼント、あれは何だ?」
「今にわかるっすよ」
俺はそう言うとシャンパンのお代わりをもらうために大佐のそばを離れた。
「客人を粗略にするつもりはなかったのだが…吾輩もつい夢中になってしまった。すまなかったな、少尉」
アームストロング少佐は大きな身体を小さくして恐縮している。
「いいっすよ。久しぶりに家族全員がそろったんすから積もる話をしたいはず。俺なんて他人っすから後回しでかまわないっすよ」
そうは言ってみたものの俺も早くルイーズと話がしたいし、プレゼントも早く渡したい。
なにしろ「生もの」なのだから。
俺が少佐と話をしていると、そこのアームストロング少将がつかつかとハイヒールの靴音を立てながら近づいて来た。
「ジャン・ハボック少尉…だったな。マスタングはともかく貴公のような男のどこがいいのか…ルイーズの考えていることはまったくわからぬ」
「はあ…」
「おまけにアレックスまでもが貴公の肩を持つ。…まあ、3年前の合同演習の時に比べれば逞しくなったといえなくもない。それに目の輝きがまったく違う。あの時とは別人のようだ」
「ルイーズのおかげっすよ。俺の弛んだ魂を引き締めてくれたのが彼女っす」
「貴公もマスタングと同じか…。どうもルイーズはへたれ男を立ち直らせる力があるらしい」
「へたれ男っすか、俺?」
「違うのか? キャスリンにふられてへこんでいたのはどこの誰だ?」
「うっ…」
「ともかくルイーズは貴公とマスタングを気に入っている。不本意ではあるが、今は彼女の意思が最優先となる。まあ、今日は楽しんでいってくれ」
そう言い残してアームストロング少将は立ち去った。
彼女はルイーズのところには戻らずに両親のいる方へ歩いて行き、今がルイーズと話をする絶好のチャンスだ。
しかし同じことを考えていた男がもうひとり…いつもは前髪を下ろしているというのに今日にかぎってオールバックにしてカッコつけている我が上司殿が先に彼女の元へたどり着いてしまった。
仕方がないのでふたりの話が終わるまで待つとしよう。
それにしてもルイーズと大佐はお似合いだ。
美男美女で、庶民であっても大佐は品があるから貴族のように見える。
親しげに話している様子はまるで一枚の絵のようだ。
俺の入る隙なんてないように思えたが、急に大佐が彼女の車椅子を押しながらこちらにやって来た。
「ハボック、そろそろ彼女へのプレゼントを渡そうかと思う。お前も早く渡したいのだろ?」
「まあ…たしかに」
「先にお前が渡してやれ。私はその後でいい」
「そう…っすか? じゃあ俺、取りに行って来るっす」
これでやっとルイーズと話ができると安堵したが、大佐の態度が妙に気になる。
しかしそれよりも早く彼女に喜んでもらおう。
彼女の喜ぶ顔が俺は見たいのだから。
俺は預けてあった籠を受け取るが、ずいぶんと静かなので少し不安になって蓋を開けた。
すると綿を敷き詰めた箱の中央で蹲って眠っていた。
呼吸をするたびに小さく動いているので生きているとわかる。
俺は再び蓋を閉めると起こさないように静かに歩を進めた。
ルイーズのいる場所に戻った俺はそこに彼女と大佐だけでなくアームストロング家全員が集まっていて、俺と大佐がどんなプレゼントをするのかを興味津々で待っているという感じでいる。
大きく深呼吸をひとつして俺はルイーズの前に立った。
「ルイーズ、22歳の誕生日おめでとう。俺からのプレゼントはこれだよ」
俺は籠を彼女の膝の上にそっと載せた。
「ありがとうございます。開けてみてもいいですか?」
彼女は目を輝かせて俺を見つめる。
「ああ、もちろんだよ。でも驚かさないように静かに開けてくれ」
「驚かさないように?」
俺の言葉に不思議そうな顔をするルイーズ。
俺は微笑みながら軽く頷いた。
彼女は静かに箱の蓋に手をかけ、ゆっくりと蓋を開けた。
そして中を覗き込むと一瞬驚いた表情になり、続いてとても優しい微笑みを俺に返してくれた。
「可愛い…これをわたしに…?」
「ああ、そうだよ。君へのプレゼントを考えていた時にこいつが俺の前に現れたんだ」
そう言うと、彼女は視線を箱の中に落とした。
「おおっ、これは…キビタキの雛ですな」
少佐が箱の中を覗き込みながら言った。
すると周りを囲んでいた少将やキャスリンたちもルイーズの後ろから覗き込む。
「はい、そうです。昨日の昼休みに中庭で休憩している時…こいつが親と逸れてしまったのを見つけて、このまま放っておけば死んでしまうと思って保護したんですよ。本来なら俺が責任を持って巣立ちまで面倒を見てやるべきなんですが、俺はこいつをルイーズに託したいと考えました」
「どうしてですか、ハボックさん?」
彼女が俺に訊く。
「理由はふたつです。ひとつは俺がこいつを育てられないからです。こいつはまだチビだからしょっちゅう餌を与えなければならない。毎日司令部へ連れて行くこともできないし、家に置きっぱなしにしておくこともできない。それから…ふたつ目は、君が探しているものがこれなんじゃないかって気がしたからなんだ」
「わたしが探しているものですって?」
「ああ。君は自分が幸せであると言いながらも何か満たされない想いでいる。それは少佐からも聞いているし、俺もそう感じた。…これは俺の考えだから間違っているかもしれないけど、大きく外れてもいないと思う。君は自分が何のために生れてきたのかを探していたのではないかな? 生まれてからずっと自由に動くこともできず誰かに助けてもらわなければ何もできない。自分の生まれてきた意味は何なのだろうと考えるとこの恵まれた暮らしを素直に享受できない」
「……」
「人は誰もが自分に与えられた役目を果たすために生きている。その役目は人によっていろいろだ。それが畑を耕して野菜を作ることだったり、学校で子供に勉強を教えることだったりする。軍人として市民の暮らしを守るというのが俺の役目だ。それなのに自分にはそういう役目が見当たらない。それどころか人に迷惑をかけながら生きるしかない。そんな自分に君は苛立ちを覚えていたんじゃないかな?」
みるみるうちに彼女の瞳に涙が溢れてきた。
それが頬を伝って流れ落ちる。
「君にこいつを巣立ちの日まで育ててもらいたい。君がこの世に生れてきた理由はこの小さな命を慈しみ育てるためなんだと考えれば毎日が充実するはずだ。そしてこいつが無事巣立つには少なくとも2ヶ月はかかる。それまで君はこいつのためにも生きなけりゃならないんだ」
そう…俺は彼女に生きる理由をプレゼントしたのだ。
彼女が雛鳥を受け取った場合、彼女は何が何でも巣立ちの日まで生きなければならない。
彼女がこの小さな命を見捨てるはずはない。
だから彼女はまだ生きてくれる。
「ハボックさん…わたし…」
彼女は涙を流しながら籠を抱きしめ、そして俺に向かって言った。
「ありがとうございます、ハボックさん。わたし、この子をきちんと育てます。ですから安心してください」
「礼を言うのはこっちだよ。小さな生き物を育てるのは大変だろうけど、君ならきっとできるさ。君の愛情をこいつに注いでもらいたい。俺の分まで大事にしてやってほしい」
「はい!」
ルイーズの喜ぶ顔を見られた俺はそれだけで十分幸せだった。
「では、次に私のプレゼントを受け取ってもらいましょうか」
マスタング大佐は上着の内ポケットから小さな箱を取り出して彼女の手のひらの上に載せた。
「私のプレゼントはこれです。開けてみてください」
そう言われたルイーズは箱を開ける。すると中には指輪が入っていた。
「きれいな指輪…」
彼女は雛鳥を見つけた時とはまた違う感じで目を輝かせている。
やはり女性には宝石を贈られた方が嬉しいのだろうか?
「これはブリッグス山の山麓で採れる希少な月光石の指輪です。月光石はあらゆる災難から持ち主を守るといわれ、北方ではこの石を贈るということは特別な意味を持っています。…ルイーズ、私と結婚してください」
「ええーっ!?」
俺を含めてその場にいた人間 ── マスタング大佐と前もって事情を知っていたと思われるアームストロング夫妻と少佐以外 ── は大きな驚きの声を上げた。
ルイーズの両親は黙りこくり、彼女自身は突然のプロポーズに声もなく固まってしまっている。
しかし大佐はそんなことにおかまいなく続けた。
「私は6年前のあの日からあなたのことをずっと愛しています。この私の気持ちを受け取ってはもらえませんか?」
「そ、それは…」
ルイーズは視線を逸らして大佐の目を見ようとはしない。
その様子から彼女の戸惑いが伝わってくる。
「マスタング! 貴公は自分の言っていることの意味がわかっているのか!? アームストロング家のメインダイニングルームで行う宴席は公式なもので、この場での発言は冗談や戯言では済まぬものなのだぞ!」
アームストロング少将の剣幕にマスタング大佐は動じない。
「冗談などではありません。私は本気で彼女に結婚を申し込んでいるのですよ」
「貴公は我が妹に邪まな感情を抱き続けていた上に、さらに愚弄するつもりか!? …貴公も彼女の身体のことを知らぬ訳ではあるまい」
「もちろんです。しかし彼女には残された日々を私の妻として生きてもらいたいのです。私はこの胸の中の熱い想いをずっと秘めたままでいるつもりでした。しかし自分にもルイーズにも嘘をつくことはできない。私は自分の本当の気持ちを知ってもらい、それを受け止めてもらいたいのです。…ただ私のこの純粋な想いを邪まなものと決めつけるあなたを私は許せません」
「ほう…どうする気かね?」
アームストロング少将もマスタング大佐の堂々とした態度に一歩も引かない。
腕を組んで「来るなら来い」という感じで向い合う。
「いい機会ですから合同演習の際の決着をつけさせてもらいましょうか?」
大佐はジャケットのポケットから発火布でできた手袋を取り出してそれを右手に嵌める。
「このわたしに挑むからには無様な姿を見せることはないだろうな?」
「当然です。恋に身を焼く焔の錬金術師を甘く見ないでほしいものです」
「よかろう。こちらも本気で相手をしてやる。アレックス、剣を持て!」
少佐に剣を持って来させようとするアームストロング少将。
このままでは「ブリッグスの北壁vs焔の錬金術師」という決闘が行われることになる。
見てみたいという好奇心はあるが、今はそれどころではない。
誰かが止めに入るのではないかと思ったが、誰もふたりを止める気配はなかった。
「マスタングさん、お姉様、バカなことはやめてください!」
俺はルイーズがこれほど大きな声が出せたのかと驚くほどの声でふたりの間に入った。
「なぜおふたりが…わたしの愛する人たちが闘うのですか? わたしの誕生日にわたしを悲しませるようなことはしないでください」
ルイーズの哀しそうな表情と声に、少将は彼女のそばに駆け寄って手を握った。
「すまぬ、ルイーズ。しかし、あの男が愚かしいことをするからいけないのだ。お前を慕う気持ちはわからぬでもないが、結婚などできるはずがないというのに」
「…ええ」
「ああいうバカな男は言葉で納得させることは不可能だ。だからわたしが ──」
アームストロング少将がそこまで言いかけたところで、マスタング大佐が割って入った。
「ルイーズ、許してください。私はあなたと結婚したいだけで、あなたの家族を傷つけたいのではないのです。あなたがYESと言ってくれるだけですべては丸く収まるのですよ」
「それは…できません。これはお返しします」
ルイーズは指輪の箱の蓋を閉めて大佐に返そうとする。
「どうしてですか? ハボックのプレゼントは受け取って、私のプレゼントは受け取ってもらえないのですか?」
哀しそうな声でルイーズを責めるようなことを言う大佐。
「そんなことはありません。…でも、わたしはあなたの奥さんにはなれませんから」
「なぜそんなことを言うのですか? あなたは私のことを嫌いなのですか?」
「いいえ…嫌いなんてことは決してありません。むしろ好きだっていえます。でもわたしにはもう時間がないんです」
「それはわかっています。ひと月、いや半月でいい…私の妻になってはもらえませんか? 私はあなたのそばにいたい、それだけなんです」
「……」
「あなたが離婚したいと言えばすぐにでも出て行きます。だからあなたが許してくれる間だけでもそばにいさせてほしい」
「マスタングさん…わたし…」
「愛しています…あなたのことを誰よりも深く強く愛しています、ルイーズ」
「わたしもあなたのことが好きです。でも…」
彼女はそう言うと俺の方をちらりと見た。
ここで大佐の手を取れば俺に申し訳ないとでも思っているようだ。
だから俺は彼女に微笑みながら言った。
「俺は君が大佐と幸せになることを望んでいるよ。遠慮なんかすることはないんだ。自分の本当の気持ちに素直になりなよ」
「ハボックさん…ありがとう」
ルイーズの目から涙が零れた。
これは間違いなく嬉し涙だ。
やはり彼女はずっと大佐のことが好きだったのだ。
大佐がライバルでも俺は戦うつもりだったが、彼女自身が大佐のことを好きなのであれば俺は退くしかない。
そうなると問題は彼女の家族の承諾を得ることだけとなる。
しかしアームストロング家の娘との婚姻となれば当人同士の意思よりも優先させなければならないものがある。
出自や家柄が大事とされ、いくら愛し合っていても身分が釣り合わなければ結婚することはできないという。
おまけにアームストロング少将はマスタング大佐を嫌っているし、自分の家柄をあれだけ自慢する現当主とその夫人は簡単に許すとは思えない。
味方になってくれるのはアームストロング少佐だけだ。
いや…ルイーズがあの純白のドレスを着ているということは、マスタング大佐がなんらかの手を打ってあるとも考えられる。
俺は黙って様子を見ることにした。
「マスタング君、君はルイーズを妻としたいようだが、何ゆえ今頃になってそんなことを言い出したのだ?」
アームストロング退役将軍が近寄って来てマスタング大佐に詰め寄る。
「君もアームストロング家との繋がりが欲しいのかね?」
「違います。私が欲しいのは彼女自身です。彼女がアームストロング家の娘であろうとなかろうと、私は彼女と結婚がしたい。できるかぎりそばにいて彼女の支えになりたいのです」
「具体的に何をしてやるというのだ?」
「私は医者ではありませんから彼女の身体をどうかしてやるということはできません。しかし彼女の運命の半分を背負って共に歩くだけです。できることなら全部背負ってあげたいのですが、それは彼女が許さないでしょうからね」
大佐はそう言ってルイーズに視線を向ける。
すると彼女は黙って頷いた。
「私は彼女と同じ時間を過ごしたいのです。ですからどうか結婚の許可をください、お願いいたします」
大佐はアームストロング退役将軍に深く頭を下げる。
俺は大佐が本気で他人に頭を下げる姿を初めて見た。
気に入らない上官に対して忠誠を誓うふりをして頭を下げることはよくあるが、その時とは目の色と輝きが違う。
仕事の時にも見せたことがないような真剣な表情で、それだけ彼がルイーズと結婚したがっているかがよくわかった。
「お父様、わたしもマスタング大佐と同じ時間を過ごしたいんです。…わたしのこの身体では結婚なんて無理なこと。だからわたしはずっと我慢してきました。わたしを愛してくれる人に負担をかけるだけで何もしてあげられないんですから。それでも彼はわたしと結婚したいと言っています。わたしに何を求めるのでもなく一緒にいたいという理由だけ。それも短い時間だとわかっていてそう言ってくれているんです」
「ルイーズ…」
「わたしの最後のお願いです。どうかマスタングさんと結婚させてください」
ルイーズも大佐同様に頭を深く下げた。
最後のお願い…とても哀しい響きだ。
結婚といっても公式なものではなく、子供のごっこ遊びの延長のようなものに違いないだろうが、ルイーズと大佐にとってはとても真剣なもの。
許してやってもいいじゃないかと俺は心の中で叫ぶ。
いくら大佐のことが嫌いだといっても自分の愛する妹のささやかな幸せを考えればアームストロング少将も許してやろうという気になるだろう。
大佐とルイーズを囲んで静まり返ったアームストロング家の人々。
その静寂を破ったのは少佐だった。
「父上、もういいでしょう。マスタング大佐の決心は固いものですし、ルイーズも自分の意思をはっきりと口にしたのですから。母上だってご自身で彼女のドレスを用意してあげたのですから、ふたりの結婚を許しているのでしょう? 父上に言ってやってください」
その言葉から、すでにアームストロング少佐は両親にマスタング大佐の気持ちを伝えてあったものだと思われる。
そして母親は彼女の幸せを願いウェディングドレスを用意していた。
父親の方も娘の気持ちを理解してはいるが、娘を他の男にとられるのは寂しいのだろう。
彼らだってルイーズの残された少ない日々を少しでも一緒にいたいのだろうから。
「では、マスタング君に我が家の婿となってもらおう。アレックスがルイーズの伴侶として相応しいと認めた男ならアームストロング家の一員になる資格はある。…こんな娘だがよろしく頼む」
アームストロング退役将軍はその堂々たる態度を一変させてマスタング大佐に深々と頭を下げた。
彼のような人物が頭を下げる姿など、一生に一度見ることができるかどうかのものだ。
いや、今の彼はかつての勇猛果敢な大将軍ではなく、愛する娘を信頼できる男に託すひとりの父親の姿だ。
本気で好きになった女性が別の男のものになるというとても悔しくてつらいはずなのに、俺はとても清々しい気分でいる。
相手がマスタング大佐だからなのかもしれないが、ルイーズが本当の幸せを掴むことができるということが嬉しくて、俺の心は今日の空のように広く澄み切っているのだ。
ルイーズとの結婚の許可をもらったマスタング大佐は彼女の前に跪くと指輪をつまんで彼女に言う。
「ルイーズ、私と結婚してくれますね?」
「はい…喜んで」
涙声のルイーズの左手薬指に指輪を嵌める大佐。
そしてそのまま彼女の唇に自分のそれを重ねた。
それは結婚式における誓いの口づけのようで、俺はその光景に胸がいっぱいになった。
今の俺にはふたりの幸せを心から祈ることができる。
そんな俺にしてくれたのはルイーズで、俺のことを信じて部下にしてくれた大佐。
そのふたりの幸せが一日でも延びるのなら、俺はその代価を支払ってもいい。
俺の寿命を削って彼女に与えることができるのなら、俺は惜しむことなく何年分でも与えたいと心から思う。
その後のパーティーはふたりの結婚祝いのパーティーに変わった。
アームストロング少将は不満顔だが、それでもルイーズの幸せそうな笑顔を見ると表情を和らげ、妹の幸せを祈る姉の顔になっていた。
俺は感激して咽び泣くアームストロング少佐のそばに近づいた。
「少佐、初めっからこうなることを知ってたっすね?」
「あ、ああ…マスタング大佐から相談を受け、吾輩が両親の説得をした。ルイーズに大佐との結婚の意思があるかどうかはわからなかったが、大佐が本気で求婚すれば心動かさぬはずがないからな。問題は両親の承諾を得ることだけだった。母上はすぐに理解を示してくれたが、父上はなかなか認めてはくれなかった。それは大佐の出自が我が家に合わないということではなく、彼が多くの女性と浮ついた付き合いを繰り返してきたことにあった」
「たしかに大佐の女たらしの噂は遠くまで届いていて、セントラルの人間なら知らないはずがないっすからね」
「しかしそれは大佐がルイーズのことを忘れようとして他の女性と付き合ったということで、いつまでもルイーズのことを忘れられないから大勢の女性と交際したことになっただけだ。それに彼が出世に熱心なのは女性にもてたいためだということにしておけば、彼の野望を察して邪魔する連中も出て来ない」
「なるほど…」
「だから吾輩は父上にそのことを説明し、大佐の人柄や何を成そうとしているかを理解してもらった。…しかし娘を他の男にとられるのは悔しいやら哀しいやらで自分に納得させるのに時間がかかったのだろう。それでもルイーズの涙を見て心を動かされたようだ」
「俺も彼女の涙が胸にじんときたっす」
「彼女が勇気を出して大佐の胸に飛び込んでいったのは貴公のおかげでもある」
「俺っすか?」
「貴公が彼女に生きがいを与えてくれたからだ。自分の存在意義を探して悩んでいたということに吾輩たちは気づくことがなかった。それを貴公だけが察してくれた。雛鳥を守り育てるという目的ができたおかげで彼女は自分が生きたいと心から願うようになったのだ。だから大佐の求婚を素直に受けとめることもできるようになった。…感謝しているよ、少尉」
「俺のやったことが彼女のためになったってことが嬉しいっす。それだけで俺の彼女への想いは報われた気がするっすよ。それにあんな嬉しそうな笑顔、初めてみたっす」
「吾輩もだ。あまりの愛らしさに我が妹ながら惚れてしまいそうになる」
そう言って少佐はルイーズの方を真っ直ぐに見つめる。
元気な彼女の姿を自分の目にその姿を焼きつけておきたいという彼の意思が伝わってくる真剣な目つきだ。
「俺も心に刻みつけておくっす…今日の彼女の姿を」
俺はまだこれが彼女との今生の別れになるなんて想像もしていなかった。
ルイーズの誕生日&結婚パーティーは夜まで続いた。
俺はアームストロング家の車で家まで送ってもらったが、マスタング大佐は屋敷に残った。
まあ、それは当然のことだ。婿入りしたのだから屋敷で暮らすのは当然で、しかも今夜は初夜となる。
初夜!?
つまりルイーズと大佐はあんなこととかこんなこととか…するはずがない、か。
彼女の身体のことを考えたら無理はさせられないのだから夫婦の夜の営みはありえない。
だから彼女は永遠の処女のままということになる。
それが幸せかどうかわからないが、俺としてはほっとしている。
大佐であっても彼女の純潔だけは渡したくないからだ。
そして満たされないこの想いを振り払おうと、一晩中酒を浴びるように飲んだのだった。
翌日から大佐の仕事ぶりが一変した。
いつもならデスクワークを嫌がる大佐が朝から真面目に資料のチェックをしている。
その様子は部下たちを驚愕させるもので、天変地異の前触れではないかとさえ言われるほどだ。
市内巡察へ出ても女性からの手紙やプレゼントを一切受け取らず、まるで人が変わったかのようだ。
終業時間までにはその日の仕事をすべて終わらせ、終業の合図とともにオフィスを出て行く。
事情を知らない人間は不思議に思っているが、俺はわかっている。
ルイーズと少しでも長く一緒にいたいから真面目に仕事をやって残業にならないようにしているだけなのだ。
それに彼は俺に頼み事をしてきた。
それはルイーズが生きている間は宿直勤務を代ってほしいというものだ。
俺は快く…とはいかないがその頼みを受諾した。
もちろん代価はいただく。
その代価とは彼女の様子を毎日教えてもらうというものだ。
俺だって彼女の具合は気になる。
医者の見立てではあと1ヶ月ちょっとしか残されていない彼女の命。
ハタチまで生きられないと言われた彼女が22歳になるまで生きてこられたのは奇跡だ。
俺は彼女に生きてもらいたくて雛鳥を巣立つまで育ててほしいと彼女に託した。
彼女も巣立つまで育ててくれると約束してくれている。
俺は二度目の奇跡を信じることにした。
季節は初夏から本格的な夏へと変わっていった。
あの日以来大佐は毎日任務に励んでいるが、最近はその仕事ぶりが以前と少しだけ違ってきた。
初めのころは残業すれば彼女と一緒にいられる時間がなくなるからという理由で必死になっていたのだが、ここ2・3日は様子が違うのだ。
まるで何かを忘れようとして仕事に打ち込んでいるといった感じで、表情が暗く沈んでいる。
もしかしたらルイーズに何かあったのかもしれない。
大佐から彼女との生活についてある程度は聞いている。
大佐は屋敷へ帰るとアームストロング家の家族と一緒に夕食をとり、その後はルイーズと夫婦ふたりだけの時間を過ごす。
大佐が彼女のために本を読んであげたりとか、紅茶を飲みながら会話を楽しむといった極々平凡なものらしい。
もちろん大佐のことだからそれだけで満足するはずはないのだろうが。
そして寝る時には同じベッドを使うという。
夫婦なら当たり前のことだが、ふたりの間に性的交渉は一切ない。
ただお互いを抱きしめキスを交わすだけでそれより先には進まないのだそうだ。
キスによって互いの愛情を確認し、安らぎに満ちた眠りにつくのだと大佐は幸せそうに教えてくれた。
そんな大佐の様子がおかしいと思っていたのだが、とうとう今日になってそれが明らかに変だとわかるほどに変わってしまった。
朝からずっと何かを我慢しているような感じで、誰も彼に声をかけることもできないほど沈痛な面持ちでいるのだ。
俺は思い切って昼休みに大佐を中庭へと連れ出した。
「大佐、ルイーズに何かあったんすか?」
「……」
「彼女…元気にしてるんすか?」
「心配することはない…と言ってもお前は信じないのだろうな」
「当然っすよ。大佐の態度から判断すれば彼女に関して重大な変化があったとしか思えないっす。まさか具合が ──」
「いや、彼女の具合はそう悪くはない。いいとも言えないが、普段通り昼間は温室で寛いでいるよ」
それを聞いて俺はほっとした。
容体が悪化して寝たきりにでもなってしまったのかと思ったほどだったからだ。
しかし続いて大佐の口から出た言葉は驚きと共に彼女の覚悟を思い知らされたのだった。
「昨日、お前の拾ってきたキビタキが無事巣立ちをした。彼女と一緒に庭で飛び立つ姿を見送ったよ」
「そうっすか、それはよかったっす」
「その時の彼女の笑顔をお前にも見せてやりたかったよ。私はその時の彼女の顔を一生忘れることはできない。これでもう思い残すことはないという清々しい笑顔だった。…そして私は彼女から離婚を宣告された」
「離婚…っすか? 冗談っすよね、離婚だなんて?」
「そうだったらどんなによかっただろうか…」
大佐は上着のポケットから指輪を取り出した。
それはルイーズの指に嵌められた月光石の指輪で、それを大佐が持っているということは彼の話が本当であるということを示している。
「これを自ら外し、私の手に握らせて言ったのだよ…別れてほしいと」
「……」
「これは彼女との約束だったからな。彼女が離婚したいと言ったならば出て行くということで結婚をした。彼女が別れてほしいと言ったのだから私にはもうどうすることもできない」
「でもどうして彼女はそんなことを言い出したんすか? 大佐が嫌われるようなことでもしたんじゃないっすか?」
「…いや、そんなことはない。ただ彼女は隠しているが半月ほど前から彼女は痛み止めの注射を打ちながら全身に及ぶ苦痛から耐えていた」
「まさか…それって彼女の…」
「もう身体は限界にきていたのだろう。しかし自分に与えられた役目を果たすまではと気丈にも耐えていたにちがいない。キビタキに巣立ちをさせたことで彼女はもう自分の責任を果たしたと考え、私に離婚を申し出た」
「だけどそんな彼女を放っておいていいんすか? 最後まで一緒にいてやるのが夫婦ってもんじゃないっすか!」
「私だって最後まで彼女のそばにいてやりたい! しかし彼女は自分が苦しみやつれていく様を私に見せたくないのだろう。彼女の意思を無視しては余計に彼女を苦しめるだけとなる。肉体の苦しみだけでなく魂にまで苦しみを与えることはできない」
「それはそうっすけど…」
「昨日、荷物をまとめて出ていく時、診察に来ていた主治医に話を聞いた。ここまでもったのは彼女の意思の強さと神のご加護だそうだ。もうどんな名医にもどうすることもできないと言っていた。そこで北方司令部のアームストロング少将には連絡をしたそうだ。たぶんあと2日…それが彼女に残された最後の時間だ」
「そんな…」
「4年前、
「…はい」
「あの時、私も彼らように賢者の石を探す旅に出ようかと真剣に考えた。賢者の石さえあれば彼女の病気を治すことができるかもしれないと思ったからだ。しかしそんなことをすれば彼女との約束を果たすことができなくなる。リオールで
「俺だって自分が錬金術師だったら同じことを考えたっす」
「きっと彼女は自分の命が人の犠牲の上に成り立っていると知ったら私を軽蔑するだろうがね」
「軽蔑されようが拒絶されようが、俺なら賢者の石を使うっす。彼女にはもっと生きてもらいたいから」
「…ああ、そうだな。しかし私は賢者の石を手に入れることができなかった。そして時間切れだ」
「……」
賢者の石さえあれば…大佐の気持ちが痛いほどよくわかる。
等価交換の原則を無視した絶大なる力を発揮する賢者の石は古くから多くの錬金術師たちが求め続けてきたものだ。
軍では以前から賢者の石の研究をしていて、東方内戦の際には大佐たち国家錬金術師が賢者の石の試作品である紅い石を使って戦いを終結させた。
その時、大佐たちは紅い石で人の命を奪った。
もしその石があれば今度はルイーズの命を救うことができるのではないかと思うと無性に悔しい。
俺でさえこれほど悔しいのだから、大佐ならば身を引き裂かれるような苦しみを感じているだろう。
それが大佐の哀しみの原因だったのだ。
彼女から離婚を宣言されたことではなく、彼女を救えなかった自分の無力さに苛立ちを覚え苦しんでいたのだろう。
彼女と結婚できたことで俺よりもずっと幸せだと思っていたが、大佐はその分苦しんでもいた。
きっとそれも等価交換なのだろう。
大佐は黙って空を見上げている…零れ落ちそうになっている涙を堪えながら。
「今日の日差しは強いっすね。目が痛くて涙が出そうっすよ」
「…ああ、そうだな」
俺たちは昼休みが終わるまでずっと空を見上げたまま頬を伝わる涙を拭きもしなかった。
2日後、アームストロング少佐は司令部へ出勤して来なかった。
そしてその翌日、少佐からマスタング大佐宛に電話が入り、それを受けた大佐の表情でそれが最悪の報せだということはすぐにわかった。
俺は胸をぎゅっと締めつけられ、心臓が止まってしまうかと思った。
俺は大佐に何もかける言葉はなく、また大佐も俺に何も言わなかった。
言わなくてもわかっているからだ。
受話器を置いてしばらく彼はそのまま立ちすくみ、身体の内から溢れ出てくる何かを堪えているようだった。
そして数分後、ぽつりと呟くような声で言った。
「休暇願を書いて提出しろ。葬儀は明日だ」
「…了解っす」
俺は震える手で書類に必要事項を記入する。
理由の欄には知人の葬儀と書き込んだ。
マスタング大佐は何と書くのだろうか?
セントラル郊外にある墓地…ここは裕福な家柄の人間たちだけが埋葬されている。
墓碑銘を見ると俺でも名前を知っている人間ばかりだ。
アームストロング家の一族も代々この墓地に埋葬されている。
新たな墓穴が掘られ、そこでルイーズは永遠の眠りにつくのだ。
もう二度と苦しむことも悲しむこともない世界に彼女は俺たちよりも先に行く。
参列者の多くはアームストロング家との関わりがあるだけで、ルイーズ本人にあったことすらない人間ばかり。
娘の死を悲しむ両親にお悔やみの声をかける行列ができている。
俺はマスタング大佐と一緒に参列者の集団から離れた場所でその様子を眺めていた。
「あの中にどれだけルイーズの死を悲しんでくれる人がいるんですかね…?」
「あいつらはアームストロング家との取引相手かここで親しくなっておこうと考えている屑共だ。人の不幸までも自分の益にしようとするなんて…連中には人の心というものがないのだろうな」
「でも俺たちはアームストロング家の娘の葬儀ではなくルイーズの葬儀に来ているっす。俺たちがいれば彼女も哀しくはないっすよ」
「ああ。…それにしても彼女のあんなにやつれた姿を見るのは初めてだ。妹の死がそれほどダメージを与えたということだろうな」
大佐の視線の先には棺の前で泣き崩れるアームストロング少将の姿があった。
普段の勇ましい姿からは想像もできない様子で、参列者もそれが少将であることに気がつきもしない。
「少佐の話によると、彼女はルイーズを子供の時からずっと溺愛していたそうっすからね。親が死んでもあれほど哀しみはしないでしょうね。まあ死に目に会えただけでもよかったっす。軍人ともなると親の死に目に会えないことって多いっすから」
「…そうだな。彼女の最後の言葉を聞くことができただけでも幸せだ」
「大佐…」
本来なら夫として最も近くで彼女の最期を見守ることができただろう。
しかし彼女から離婚を言い出され、彼女の最期を看取ることができなかった哀しみは俺にもよくわかる。
「そろそろルイーズに会いに行こう。今のうちに彼女に別れをしておかなければな」
「はい」
俺は大佐と一緒に彼女の棺に近づいた。
高価な棺の中に彼女は安らかな寝顔で眠っている。
白いカーネーションで埋め尽くされた棺の中にいる彼女はウェディングドレスを着ていた。
それはバースディーパーティーの時に着ていたもので、彼女が一番輝いていた時の思い出のドレスだ。
彼女がマスタング大佐と結婚したことは家族の中だけのことなので参列者は誰も知らない。
だから結婚を夢見てその願いが叶わなかったからせめてドレスを着させているのだろうと思っているはずだ。
でもルイーズはちゃんと女としての幸せを得ることができた。
短い時間ではあったが、きっと大佐と一緒にいられて幸せだったはずだ。
「マスタング大佐、ハボック少尉…妹のために来てくれたこと、感謝する」
アームストロング少将がゆっくりと立ち上がって俺たちに頭を下げた。
彼女が頭を下げる姿など一生に一度見られるものかどうかと考えており、まさか自分に向けて頭を下げることがあるなんて想像もできなかった。
「いえ…私たちこそ葬儀に呼んでもらえるとは思っていませんでした。ルイーズの最期の顔を見ることができ、こちらこそ感謝しております」
「短期間であったとはいえ貴公は彼女の夫だったのだからな。それにハボック少尉は彼女の親友だ。葬儀に呼ばぬはずがなかろう。彼女は言っていたよ…貴公らに出会えて自分は幸せだったと。決して得られることがなかったであろう大切なものを与えてもらって感謝しているとも言っていた」
「じゃあ、俺たちがしたことは無駄ではなかったってことっすね?」
「ああ、そうだ。…見よ、彼女のこの安らかな寝顔を。自分の生きてきたことに悔いがなかったという清々しい顔であろう」
「そうっすね。…俺、哀しいけどなんだか嬉しくもあるっす。好きな女性のために何かできたこと…俺にとっても幸せだったと言えるっす」
「私も彼女の夫となることができ、それだけで十分満足している。これでもう思い残すことはない、私は彼女との約束を守るために真っ直ぐ進むだけだ。ハボック、ついて来てくれるな?」
「もちろんっす。俺も彼女と約束したっすから。大佐のために働くことで彼女が喜んでくれると思えばどんなこともできるっすよ。…ルイーズ、大佐のことは俺に任せてくれ。どんなことがあっても約束は必ず守るからな」
俺は彼女に改めて誓った…ロイ・マスタングという男をこの国のトップに押し上げて、彼女の望んだ優しい国をつくるのだと。
ルイーズの葬儀はしめやかに行われた。
若くして天に召される彼女のことを誰もが憐れみとても哀しい葬儀であったが、これで彼女がもう苦しまなくてもいいのだと思うと気分が楽になった。
痛み止めの薬を打ち続けていたというが、その薬とは麻薬のようなものであって身体をぼろぼろにするものだということだ。
彼女は大佐と離婚してからはその注射を止めた。
そのために全身を襲う苦痛は想像を絶するものだっただろう。
彼女は心に苦痛を受けるよりも身体の苦痛の方を選んだのだ。
それはとても彼女らしいと思える。
もし大佐との結婚やキビタキの雛のことがなかったら痛み止めを使うこともなかっただろう。
彼女は自分の役目を果たすために仕方がなく薬を使い、その必要がなくなったので薬を止めた。
言いかえれば俺たちが彼女の苦痛を長引かせたとも言える。
でも彼女の顔はとても安らかで、そのおかげで俺は罪の意識から解放される。
彼女は最期まで俺の女神だった。
深い穴の中に下ろされていく彼女の棺を見送っている時、頭上を一羽の小鳥が舞っていた。
もしかしたらそれはあの時のキビタキだったかもしれない。
それを確認することはできなかったが、俺は自分の育ての親との別れのために来てくれたのだと信じている。
葬儀が終わって参列者が去ってしまうと、彼女の墓の前にはアームストロング少佐と俺とマスタング大佐だけが残った。
葬儀の最初から最後までずっと泣いていた少佐もやっと落ち着いたようだ。
俺たちのそばに寄って来て静かに頭を下げた。
「お忙しい中、今日は葬儀に参列していただき誠にありがとうございました。本来なら父が挨拶すべきなのですが、先ほど気分が悪くなったと言って今は車の中で休んでおります。よって吾輩がアームストロング家を代表してお礼申し上げます」
アームストロング家の嫡男らしい立派な挨拶だ。
愛する妹を亡くしてつらく悲しいだろうが、それを耐えて父親に代わって参列者に礼をしていた。
最後に俺たちの所に来て挨拶をし、これで嫡男としての役目を果たしたということになる。
「少佐、お悔やみ申し上げます。覚悟はしていたといえども、ルイーズを失ったことで私は身体の一部分がもぎ取られてしまったような気分です。魂の一部が欠けてしまったと言ってもいいでしょう」
マスタング大佐の気持ちは俺にもよくわかる。
胸の中にぽっかりと大きな穴ができてしまったようで、この穴を埋めるだけの女性が現れることはきっとないだろう。
「ルイーズは最後におふたりに宛てて手紙を書きました。手が震えていたので文字が読みにくいでしょうが、彼女の遺言ですから読んでやってください」
少佐はそう言うと俺と大佐に手紙を1通ずつ寄こした。
「それから少尉にはこれを渡すように頼まれています。さあ、受け取ってください。…では、吾輩はこれで失礼します」
俺に紙袋を押しつけるとその場を立ち去った。
俺はまず紙袋の中身を確認するが、その中には緑色の手編みのマフラーが入っていた。
それを見たマスタング大佐が俺に教えてくれた。
「それは彼女が毎日少しずつ編んでいたものだ。私が屋敷を去る時にはまだ完成していなかったから、あの後急いで編み上げたにちがいない」
よく見ると、最後の方は目が揃っていない。
きっと彼女は痛みに堪えて無理をしながら編んだのだろう。
「お前に何かお礼がしたいと言っていた。私にも編んでくれると言ったが、私はたくさんのものを彼女からもらったからいいと答えたよ。それにもう時間がないとわかっていたしな」
「…俺のために無理したってことっすね」
「しかしそれでも彼女はお前のために編んだのだ。大切にしてやれ」
「わかってるっすよ」
俺はそう言うと季節はずれのマフラーを首にかけた。
肌触りのいい軽いマフラーだ。冬になったら大事に使わせてもらおう。
続いて手紙を読む。
“親愛なるジャンへ
あなたに託されたキビタキの雛は無事巣立っていきました。ロイと一緒に高く飛んでいく姿を見送り、これでわたしが生きてきた目的を果たしたという気分です。これもあなたのおかげです。どうもありがとうございました。
そろそろわたしの身体も限界がきたようです。もうお会いすることはできそうにありません。今までのあなたのご厚意に感謝します。そのお礼と言ってはなんですが、マフラーを編みましたのでお受け取りください。
あなたのご多幸をお祈り申し上げます。
いつまでもお元気で
ジャンと名前で呼んでくれたことが嬉しかった。
でも乱れた字が彼女の苦しみながら書いたことを示していて胸が痛い。
「ルイーズ…ありがとう」
俺は空に向かってそう呟いた。
彼女が空の上から俺たちを見守ってくれているような気がしたからだ。
「大佐のことは俺に任せてくれ。必ず大総統にまで押し上げて君の望んだ国を実現してみせるからな」
俺は言葉には出さず胸の中でそう彼女に誓った。
横にいる大佐を見ると彼もまた何かを誓うかのように空を見つめている。
「大佐、彼女に何を言ったんすか?」
「うん? それはだな…私に幸せになれと手紙に書いてあったのだが、もう私は一生分の幸せを得てしまったから無理なのだよと言った。それに私の望みはすべてを終えてこの墓地の…彼女の隣で眠ることだ。すでにアームストロング家の許可はもらっていて、この場所も私のために空けておいてくれるそうだ」
「まさか大総統になってやることをやったら死ぬ…なんて言わないっすよね?」
「当然だ。自ら命を絶つようなことをすれば彼女から軽蔑され、胸を張って会いに行くことはできない。それに彼女の望む国をつくるのはそう簡単なことではない。私だけでつくり上げるのは無理だ。私の意志を継いでくれる者に未来を託すことになるだろうな」
「そうっすね…大総統になるまでも長く険しい道のりだし、それからこれまでの国のあり方を根本からひっくり返すのだから簡単なことじゃないっす。それでも俺は大佐について行きますよ」
「ああ、頼むよ」
ルイーズの墓前で誓ったことを俺も大佐も覆すことはできない。これは神との契約なのだから。
あれから20年が経った。
今でも俺はロイ・マスタングの部下として毎日を忙しく生きている。
相変わらずデスクワークが嫌いな彼のフォローをするのは大変だ。
おまけにあの頃に比べると決済をしなければならない書類の量も格段に増えたのだから。
ホークアイ首席補佐官も苦労が絶えない。
今日だって大切な会議があるというのにそれを抜け出してしまったのだから、彼女がその後始末をしてくれているはずだ。
もっとも今日という大事な日に会議の予定を入れてしまった俺に責任はあるのだが。
「ジャン・ハボック秘書官、今日がどういう日か忘れていたのかね?」
俺が運転する車の後部座席で不機嫌な顔をしている我が上司が嫌味っぽく言う。
「そんなことはありません、ロイ・マスタング
「…が、ついうっかり忘れていたのだろ?」
「はい、申し訳ありませんでした!…でもちゃんとホークアイ大佐の監視網を掻い潜って抜け出せたのは俺のおかげっすよ」
「お前が会議の予定を入れなければそんなことをする必要もなかったのだぞ。…ったくお前は昔からそうだ。それでは首席秘書官の座を他の奴に譲ることになるぞ」
「それだけは勘弁してくださいよ。俺は彼女との約束を果たすために生きてるんすから」
「私だってそうだ。しかし理想の国には程遠い。私があと何年大総統でいられるかわからないが、できるかぎりのことをしてからでないと彼女に会いに行けないのだぞ」
「俺だって彼女に胸を張って会いに行くにはもっと頑張らなけりゃいけないって思ってるっすよ」
そう…ルイーズとの約束を守るために俺たちは20年間走り続けてきた。
ロイ・マスタングは大佐から大総統になるまで約10年かかり、俺はその間に少尉から少佐にまで駆け上った。
今では大総統とその首席秘書官という関係になっているが、それからの10年がまたそれまで以上に厳しいものだった。
大総統になったからといって独裁を敷くことができる訳でもなく、国民の選挙によって選ばれた議会と意見の対立なんかもあって思うようにことは進まなかった。
特にイシュヴァール政策については長い時間がかかってしまった。
それでも努力の甲斐あって、今ではイシュヴァール人は元の土地に戻って暮らすことを許されたし、5年ほど前からは自治権が与えられ独自の文化や宗教を守って生きている。
各地に散らばっていた難民たちの殆どは故郷に戻ったが、経済的には恵まれているとは言えない。
アメストリス人とイシュヴァール人の生活格差は歴然としている。
しかしそれが彼らにとって不幸であるとはかぎらない。
自分たちで自分たちの生き方ができるようになったし、圧政を受けることもなくなった。
貧しくとも家族や親戚たちと穏やかな暮らしがある。
それは幸せなことだとルイーズは微笑みながら言うだろう。
俺もそう思うし、イシュヴァール人たちも同じ思いのはずだ。
そうでなければ彼らがあんなに笑顔でいるはずがないのだ。
お忍びでイシュヴァールへ視察に行った時、彼らが心からの笑顔で楽しそうに生きているのを見た。
錬金術や最先端の技術なんてなくても彼らには信仰と文化がある。
それで十分だということだ。
昔の俺なら理解できなかっただろうが、彼女と出会って俺は変わったのだ。
花束を抱えて俺とマスタング大総統は墓地をゆっくりと歩いて行く。
この20年間俺たちは毎年ルイーズの命日に墓参りをしている。
不思議なことにこの日は必ずいい天気になり、雨の日が苦手な大総統にとってはありがたい。
それもきっと彼女の加護のおかげだと俺は思う。
今でも大総統はあの指輪を身につけている。
当然のことながら彼はまだ独身でいて、それが今でもルイーズのことを忘れられないでいる証拠だ。
俺もまだ結婚しないでいる。
できないというのではない。
あれから何度も恋人をつくるチャンスは巡ってきた。
俺にその気があればとっくに結婚して子供の2・3人はいただろう。
しかし俺は恋人をつくらず結婚もしなかった。
俺も彼女のことを忘れることができなかったのだ。
忘れるために他の女性と付き合うことにしても、そのたびにルイーズの素晴らしさを思い知らされるだけだった。
自分の欲求を俺に押しつけ、デートやプレゼントの金額で俺の愛情を測ろうとする浅ましい女たちばかり。
ルイーズは与えることを喜びと感じ何の代価も求めてはこなかった。
それは彼女が天上から舞い降りた女神だったからだろう。
その女神は美しい魂と身体を保ったままで天上へと還って行った。
きっと今でも空の上から俺たちの行動を見守っているはずだ。
だから俺たちは彼女に対して恥ずかしいことはできない。
きっと今日の俺たちを見たら苦笑しているにちがいない。
彼女の埋葬されている場所までやって来ると、彼女の墓前にひとりの若い女性が佇んでいた。
じっと何かを祈っているようで、その背中に天使の羽根が見えた気がした。
俺たちが近づくと彼女はその気配に気がついて立ち上がった。
「こんにちは、ルイーズ様のお参りですか?」
彼女は親しげに俺たちに声をかけてきた。
俺は彼女に近づいたが、大総統は顔を見られたくないのか少し離れた場所にいる。
「ああ。君はずいぶん若いようだけど彼女の縁者なのかい?」
「わたしの母が彼女に仕えていたもので。本来なら母が自ら参るのですが、数日前から風邪で伏せっていますのでわたしが代理で来ました」
「もしかして君のお母さんってアンナさん?」
「はい。よくご存じですね? あ、でもルイーズ様のお知り合いなら知っていても不思議はないですね」
「まあ知っているといってもアームストロング家の屋敷で少し口を利いたくらいだ。…そうか、アンナさんの娘さんか」
ルイーズ付きのメイドだった頃のアンナは未婚だった。
その彼女が結婚してこれほど大きな娘がいるというのだから、20年という歳月の長さを思い知らされた。
「母はルイーズ様のことをとても尊敬し愛していたそうです。自分よりもはるかに若いのに人間的に優れ、天使か女神のように清らかで美しかったと今でも言っています。わたしのレイという名前もルイーズ様のミドルネームをいただいたそうです。わたしは彼女のことをまったく知りませんが、お名前をいただいたことでとても近しく感じています。わたしが医者になろうと決めたのも彼女のように病気で苦しむ人をひとりでも減らしたいためなんです」
「君は医者志望なんだ?」
「はい。わたしの祖母も病気で亡くなっています。母がアームストロング家で働くことになったのも祖母の治療費を稼ぐためでした。伯母はそのために身売りをして若くして亡くなり、また叔父は戦争で亡くなりました。わたしはそういう人たちのための医者になりたいと思っています」
「そうなんだ…」
「今は医大の学生です。本来ならわたしみたいな貧乏人が医大に通うなんて経済的に無理なんですけど、大総統閣下が奨学金制度を充実させてくれたおかげでわたしもその援助を受けることができました。卒業後、国の指定した病院で一定期間働けば奨学金も全額返済しなくて済むんですよ。わたしにとってはとてもありがたい制度です」
奨学金制度というのは、貧しいからという理由で上級学校へ通えない子女のためにマスタング大総統が定めたものだ。
国家錬金術師制度を縮小してその財源を奨学金基金へと回し、その基金をアームストロング財団が運営している。
国家錬金術師制度も形を変えて存在している。
大衆のためにあるべき錬金術を国家国民のために使うということを原則とし、国家錬金術師は国の管理下に置かれ、国民が錬金術師を求めている場合 ── 例えば大掛かりな土木工事や鉱山で新しい鉱脈の発掘など ── に国が錬金術師を派遣するという形をとっている。
「マスタング大総統になってアメストリスは大きく変わりましたね。以前は国内での内乱が各地で起きていたようですけど、今では国境を争う外国との紛争くらいなものですから。軍人さんたちの仕事も災害や大きな事故があった場合の人命救出など国民のためになる仕事って感じです。これからもっと住みやすい国になっていくことでしょう」
レイは目を輝かせながら未来の国を胸に描いている。
彼女はルイーズの生まれ変わりなのかもしれない。
「そっか…今の大総統は君にとって希望なんだ?」
「はい! アームストロング家は現当主アレックス様を含め代々軍と国家に忠誠を誓ってきました。アレックス様とマスタング大総統はとても親しい間柄にあったそうです。さっきお話した奨学金制度の基金運営もアームストロング財団が行っているんですよ。それはアレックス様が大総統から信頼されている証拠です。だからわたしは大総統閣下のことが大好きです」
「大好き、か」
俺はマスタング大総統の顔をちらりと見た。すると彼は少々困惑気味の表情で、俺の視線を感じるとそっぽを向いた。若い女性に好きだと言われて恥ずかしいのだろう。
「でも、大総統閣下ってもうすぐ50歳だというのにまだ独身なんですって。わたしは会ったことがないのでよくわからないですが、話によると結構ハンサムなんだそうです。若い頃はとても女性にもてたそうなんですけど、どうして結婚なさらないのかしら? 男性にしか興味がないっていう噂もありますけど、実のところはどうなんでしょうね?」
「そんな噂があるんだ?」
「はい。なんでも主席秘書官の男性がお気に入りで、いつも一緒にいるのでふたりはあやしい関係にあるって言う人もいますよ」
「……」
俺と大総統がそういう関係にあると思われているなんてまったく知らなかった。
もっとも四十男が独身でいればあやしまれるのも当然だ。
「でもわたしは違うと思います。きっと若い頃に愛した女性のことが忘れられなくて、その想いを今でもずっと胸に抱いているんじゃないでしょうか」
「俺もそう思うよ。結婚しないからといって男色趣味だと判断するのは無理がある。俺も独身だけど、昔愛した女性を今でも愛しているからさ」
「そうなんですか…。でも、それだけ愛されている女性って幸せですね。わたしにもそういう男性が現れるといいな…」
「きっと現れるさ。君が今の気持ちを忘れずにいれば、想いを同じくする男が現れるはずだ。魂の清らかな女性は絶対に幸せになれるから」
「そう言われるとなんだか本当になりそうな気がしてきます。でもまずは立派な医者にならなくてはいけないので恋愛はお預けです。…あっ、そろそろ学校に戻らなきゃ。午前中休講だったのでお参りに来ていたんです。午後からは実習があるので欠席は絶対に許されないんですよ」
「俺たちを待ってくれれば車で送って行ってあげるよ」
「お気持ちは嬉しいですけど遠慮させていただきます。おふたりもゆっくりとルイーズ様とお話したいのではありませんか? わたしなら大丈夫です。15分も歩けばバス停があります。そこからバスに乗れば市内まで30分とかかりませんもの」
「そうか。じゃあ、気をつけて」
「はい、ありがとうございます。失礼します」
そう言って一礼すると、彼女は走って墓地を出て行った。
その後姿を見送ると、大総統は俺のそばに近づいて来た。
「アンナに娘がいるとは聞いていたが…立派な考えを持つ賢い女性になっていたようだ。医者になろうとは…頼もしいかぎりだ」
「そうっすね。俺たちだけではできないことを彼女たちがやってくれる…。ルイーズの想いは彼女に受け継がれているみたいっすね」
「ああ。ルイーズもきっと喜んでいるだろうな。…しかし、私が結婚しないことで妙な噂が流れているのはどうも我慢ならない。私がお前と関係があるなどと不愉快だ」
「俺だってそうっすよ。だいたい大総統ともあろう者がいつまでも独身でいるからいけないってことっす。そろそろ誰かと ──」
「私の妻はルイーズだけだ! それよりもお前が結婚しろ」
「俺の心の恋人もルイーズだけっす!」
「私の妻に横恋慕するな!」
「心の中で慕うくらいいいじゃないっすか!」
「……」
「……」
彼女の墓前で何をバカなことをやっているんだ、俺たちは。
きっと彼女は呆れているにちがいない。
大総統も同じことを思ったらしく、黙ってしまった。
そして手にしていた花束を墓前に捧げて言った。
「すまないね、ルイーズ。愚かな口論をするつもりはなかったのだが、こいつがいけないんだ。あなたの夫は私だけなのだからね」
俺も花束を捧げると彼女に声をかけた。
「騒がせて悪かったっす。でも俺だって君のことが好きだってことはあの時から変わっていないんだ。今の俺があるのも君のおかげさ。俺の人生観を変えてくれた君のことを忘れられないのは当然だよな?」
すると空の彼方から彼女の声が聞こえた気がした。
「おふたりともわたしのことをいつまでも忘れないでいてくれるのは嬉しいですけど、あなた方には果たすべき義務があるんですよ。それは国のために働くことだけじゃなく、想いを未来に繋ぐこと。あなた方も結婚して子供をつくり、その想いを子供たちに伝えてください。レイのように明るい未来を待つだけじゃなく自分でつくっていこうとする人材をひとりでも多く輩出することも大事です。いつまでも過去を振り返っていては未来など見えないですよ。この20年間ずっと走り続けていたんですから、これからは自分たちのことも考えてください。人がこの世に生を受ける最大の理由は命を次代に繋いでいくことです。わたしにはその義務を果たせませんでしたが、あなた方ならまだ十分に間に合います。素敵な女性を見つけて結婚してください。おふたりの周りにはあなた方を心配し見守っている女性がいるのですから、その方と幸せになってください」
「「ルイーズ…」」
俺と大総統は同時に彼女の名を呼んだ。
もしかしたら大総統にも同じ声が聞えていたのかもしれない。
俺たちは顔を見合せて笑った。
「そんなことを言われても、彼女以上に素敵な女性なんて簡単に見つかるもんじゃないっすよね?」
「ああ、当然だ。彼女は女神なのだからな。地上に彼女より素晴らしい女性がいるはずがない」
「でも、ホークアイ大佐なら大総統にお似合いっすよ。昔からずっとそばにいて見守ってきたんだから」
「それよりも、秘書課のマルドゥ大尉がお前に気があるようじゃないか。付き合ってみろ」
「大総統は国民の象徴っすよ。その象徴がいつまでも独身というのは外交関係でもマイナスになるっす。マジで結婚を考えるべきっす」
「お前こそプライベートで支えてくれる女性がいないから今日みたいなミスをするんだ。早く身を固めて仕事に専念しろ。でなければクビにするぞ」
「それはないっすよ! クビにされたら俺は彼女との約束が果たせないっす。…俺はずっとあんたのそばにいて守り支えるって約束したんすから、死ぬまで離れないっすよ」
「それなら結婚しろ」
「それもできない相談っすね。俺の心は俺のものであって、いくら大総統閣下でもどうすることもできないだから。俺の幸せは俺が決める。彼女には悪いけど、俺の気持ちは変わらないっすよ」
そうだ…彼女は結婚して幸せになれというが、結婚すれば幸せになれるとはかぎらない。
俺はいつまでも彼女のことを思い続けることで幸せな気持ちでいられるのだ。
そんな俺が誰かと結婚してもその相手に対して申し訳ないと思う。
俺はその相手をルイーズ以上に愛せないのだし、いくら大事にしても俺の心にルイーズがいるかぎり相手の女性も幸せにはなれないだろう。
「ルイーズ…俺って君が考えているよりずっと未練がましくて思い込みが激しいんだ。この世界に君より魅力的な女性はいないって信じ込んでいる。君には悪いけど、俺は結婚できないよ」
俺は彼女の墓石に触れながら言った。
すると大総統が墓前に跪き、中世の騎士が主に忠誠を誓うように言う。
「私はあなたに永遠の愛を誓いました。あなたがいなくなって他の女性に気を許すくらいなら永遠の愛なんて誓いませんよ。私は他の女性を愛さない。それに今さら家族なんて必要ありませんよ。この国の国民すべてが私の家族なのですから」
へ理屈に聞こえるがそのとおりだとも思う。
家族がいないからこそここまで国民のことだけを考えてこられたのだ。
もし彼に妻子がいたら今の国はなかっただろう。
彼にとって失うものがなかったということが彼の強さだったと思う。
守る者がいたらブラッドレイに一騎打ちを仕掛けたり、ひとりで北方へ赴いたり、また正体不明の敵にひとりで挑んで行ったりはしなかっただろう。
そして今の彼の強さは守るべきもの ── イシュヴァール人を含めたアメストリス国の国民すべて ── がいるからだ。
「私たちはあなたに魅せられてしまっ たのですよ。20年経った今でも忘れられないどころか愛し続けている私たちは罪人だとでも言うのですか? 罪人なら裁いてもらってけっこうですが、そうでないのならいつまでもあなたを愛することを許してくれてもいいはず。ハボックだって同じ気持ちのはずです」
「そうっすよ。俺の気が済むまで好きにさせてください」
「困った人たちですね…。死んだ人間を想い続けていても不毛なだけだというのに。でも、わたしがおふたりにそれだけ愛されていると思うと幸せです。生きている間にもいろいろなものを与えてもらい、死んでからも愛されているなんてこんな果報者は他にいないでしょう。おふたりがそれでいいというのならお好きになさってください。ご自分で納得する人生を送って、十分満足したらこちらへいらしてください。途中で投げ出したり後悔なんてしないでくださいね」
ルイーズの声が聞こえる。
これは彼女と魂が繋がっている俺と大総統だけにしか聞こえない声だ。
「後悔なんてするはずがないっすよね、大総統閣下?」
「ああ。私は毎日後悔などする暇などないくらい忙しいのだからね。やるべきことが多すぎてここへも年に一度しか来られないくらいだ。あなたの隣で永遠の安らぎを得るまでまだしばらく時間がかかりそうだが待っていてくれ、ルイーズ」
「わかりました。おふたりがこちらへいらっしゃるのを一日でも遅くなるよう祈りながらお待ちしております」
爽やかな風と共にルイーズの声が耳に届いた。
「大丈夫だよ、ルイーズ。俺が大総統を守ってできるだけそっちに行かせないようにするから」
俺は空の彼方に彼女の幻を見た。
その笑顔は安らぎと慈愛に満ちた女神の表情で、俺の心に新たな力を与えてくれたのだった。
俺にとって彼女との出会いは人生を大きく変えた。
彼女とは結ばれることはなかったが、魂の強い結びつきは永遠に変わることはない。
俺の生き方は他人から見たらバカバカしいものかもしれない。
他人と結婚し、そして死んだ女性をいつまでも思い続けているのだから。
でも、それが俺にとっての幸せだ。
幸せや不幸せなんて誰が決めるものではない。
俺自身が決めるものだ。
これからも俺は彼女だけを愛し続け、彼女への愛に殉死したいと願っている。
いつか彼女に笑顔で出迎えてもらえることを願いながら、俺は今日を精一杯生きるだけなのだ。