まこと魔法剣士ほど怪物のように恐ろしく、自然に背くものはない。彼らは汚れし魔法と妖術の所産である。高潔も道義も良心もなき悪党にして、殺戮にのみ相応しき真に悪魔的生き物である。善良なる市民社会に彼らの居場所はない。
今こそ、彼ら悪名高き生き物たちが巣くう忌まわしき修行の地ネィワ・シュテンを地表から抹殺し、その跡に塩と硝酸をまけ。
ー作者不詳『
不寛容と迷信は、一般社会の中でもとくに愚昧なる領域であり、決して根絶されることはない。なぜなら不寛容と迷信は愚昧と同様に永遠だからである。こんにち山そびえる場所も、いつかは海になり、こんにち波うねる場所も、いつかは砂漠になるかもしれぬ。しかし、愚昧なるものは永遠に愚昧である。
ーリコサド・ペ・マール著『人生と幸福と繁栄をめぐる瞑想』ー
レギナ・バルバーリスは凍える手に息を吹きかけ、指を曲げて魔法の言葉を呟いた。レギナの去勢馬は即座に魔法に反応し、鼻を鳴らして頭を巡らせ、寒さと風で潤んだ目で女魔法使いを見つめた。
「おまえにはふたつの選択しかないの」レギナは手袋をはめた。「魔法に慣れるか、それともどこかの農夫に買われて鋤を引くか」
馬は耳をピンと立て、鼻から息を噴き出すと、木に覆われた山肌をおとなしく下り始めた。凍った枝が当たらないよう、レギナは鞍に身を伏せた。
すぐに魔法が効いてきた。肘と首すじの刺すような寒さが治まり、悪寒も消え、肩を丸めたり、首を縮めたりするう必要もなくなった。身体を温める魔法は、この数時間レギナをさいなんできた空腹感も抑えてくれた。元気が出たレギナは鞍に座り直し、さっきより注意深く周囲の景色に目を凝らした。
踏みならされた道を離れてからずっと、灰白色の山脈と、太陽が雲の隙間から現れるわずかな時間 ー たいていは明けがたか日没前 ー に金色に輝く冠雪した山頂を目印にしてきた。もうじき山脈だ。慎重に進まなければならない。ネィワ・シュテン周辺の地形は荒涼さと険しさで知られ、よほど慣れていないと、大事な目印 ー 花崗岩に挟まれた裂け目 ー を見つけるのは難しい。無数の峡谷や渓谷をひとつでも間違えると、たちまち身失ってしまう。レギナのように地形と道に通じ、山道がどこにあるかを知る者でさえ、一瞬でも集中力を失うことは許されない。
森が途切れ、目の前に広い谷が開けた。谷中に巨石が散在し、反対側の切り立った山の斜面まで広がっている。谷の中心を流れるのはグウェンシュグラ川 ー 別名〈白石の川〉。川は急流に運ばれた巨石と丸太の間で泡立ち、渦巻いているが、ここ上流域では幅の広い浅瀬にすぎない。ここまで登れば、川越えも楽だ。これがコシャウェン国の中の高地まで下ると、川は深くえぐれた川床にぶつかって暴れ、うねり、かなりの難所となる。
水に入った馬が、早く向こう岸に着こうと歩みを速めたので、レギナは軽く手綱を引いた。水は軽くけづめの深さしかないが、川床の石は滑りやすく、流れは強くて速い。水はさかまき、馬の脚のまわりで泡立った。
レギナは空を見上げた。山中で気温が下がり、風が強くなるのは暴風雪の前触れだ。だが、今夜も小洞窟や岩場の隙間で過ごすのは避けたい。他に手がなければ、風雪をついて旅を続けることもできるし、テレパシーを使って道を探し、魔法を使って寒さを感じないようにすることもできる。いざとなれば。でも、できれば避けたい。
幸い、ネィワ・シュテンはもうすぐだ。レギナはできるだけ平坦な
雨裂を抜け、谷に入るにつれて道幅が広くなり、やがて森に覆われた大きな窪地に出た。森は切り立った巨石の間に広がっている。レギナは歩きやすそうな窪地の縁を無視して森に入り、うっそうとした奥地に馬を進めた。乾いた枝がひづめの下でパリパリと音を立てる。レギナが倒木の幹を超えるようにうながすと、馬は鼻を鳴らし、足を踏み鳴らしつけた。レギナは手綱を引き、馬のふさふさした耳を引っ張って“この役立たず”と厳しく叱りつけた。馬は急に恥じ入ったかのようにあたりを見まわし、さっきよりも安定した、力強い足取りで茂みの中を進み始めた。
やがて開けた土地に出た。涸れ谷の底をちょろちょろと流れる小川に沿って馬を進めながら、レギナは周囲に目を凝らし、目的のものを見つけた。涸れ谷の上方に一本の太い木の幹が巨石に支えられるようにう横たわっていた。黒い剥き出しの幹は苔に覆われ、緑色に変わりつつある。レギナは馬を近づけ、確かめた。たしかにここは《修練道》だ。さっきの木も、強風で偶然、倒れたものではない。念のためにレギナは、細くて分かりにくい小道を目で追った。道は森の奥まで続き、ネィワ・シュテンの古城をぐるりと囲んでいる。間違いない。ここは、《修練道》 ー 魔法剣士が脚力と呼吸の制御法を訓練するためのさまざまな障害物が置いてある道 ー だ。《修練道》と呼ばれるが、レギナは若い魔法剣士たちがこっそり《殺人道》と呼んでいるのを知っていた。
レギナは馬の首にしがみつき、ゆっくりと幹の下をくぐった。そのとき、石のこすれる音がして、次にタッタッタッと軽やかに走る音が聞こえた。
レギナは鞍の上で振り向き、手綱を引いて、音の正体が丸太の上に走り出てくるのを待った。
予想通り、ひとりの魔法剣士が現れた。だが丸太の上では止まらず、矢のように丸太の上を駆け抜けた ー 速度も落とさず、腕でバランスを取りもせずに。素早く、滑らかで、信じられないほど優雅な動きだ。魔法剣士は近づいたり、隠れたりしながら、枝一本揺らさずに森の間を走り抜けたレギナは大きくため息をつき、信じられないと言うように首を振った。
あの身長からすると、せいぜい十二歳くらいだろう。
レギナは手綱を緩め、かかとで馬に合図すると、上流に向かって歩き始めた。《修練道》は、《
急ぐ必要はない。細い《殺人道》は森の中をくねくねと周回している。少年がガレットにたどり着くには、近道を通るレギナよりはるかに時間がかかる。でも、ぐずぐずしてもいられない。ガレットを越えると《修練道》は再び森に入り、まっすぐネィワ・シュテン城に続いている。ガレットで行き違えば、もう二度と会えないかもしれない。ここには何度も来たが、魔法剣士たちは見せたいものしか見せない。彼らが見せるのはネィワ・シュテンのほんの一部だけ ー それに気づかないほど、レギナは
石だらけの小川に沿ってしばらく行くと、ガレットが見えてきた。育生の悪い、ねじれた木々が生い茂る苔だらけのふたゆの巨石の間に挟まれた、小さな渓谷だ。レギナが手綱を放すと、馬は嘶き、巨石の間をちょろちょろと流れる水に顔を近づけた。
待つまもなく岩の上に少年の影が現れ、猛スピードで飛び降りた。着地する柔らかい音。しばらくして石のこすれる音と、どさっと何かが落ちる音がして、小さな叫び声 ー というより、悲鳴が聞こえた。
レギナはさっと鞍から飛び降り、毛皮を肩ごしに払いのけると、枝や根につかまりながら、猛然と山肌を駆けだした。慌てて駆けのぼった勢いで、針葉樹の葉で足を滑らせ、気がつくと、石の上でうずくまる少年の隣に膝をついていた。少年はレギナを見るなりバネのように飛び上がって後ずさり、背中にくくりつけた剣を握った途端 ー つまづき、ネズミサシと松の木の間に倒れた。レギナは膝をついたまま少年を見つめ、驚いて口をぽかんと開けた。
少年ではなかった。
ぎざぎざに切った灰金色の前髪の下から、エメラルド色の大きな目が見つめていた。細いあご。上向きの鼻。小さな顔の中で、目だけがやけに大きい。その目に恐怖が浮かんでいた。
「怖がらないで」レギナはおそるおそる声をかけた。
少女はさらに目を大きく見開いた。息を切らしてもいなければ、汗もかいていないところを見ると、《殺人道》を走ったのは今日が初めてではなさそうだ。
「ケガしなかった?」
少女は答えずにぱっと起きあがると、痛みに息をのみ、左足に体重をかけて身をかがめ、膝をこすった。
「怖がらないで」レギナは膝をついたまま繰り返した。「あなたが落ちる音と悲鳴が聞こえて、それでここまで走って ー 」
「足がすべったの」少女が呟いた。
「ケガは?」
「大丈夫。あなたは?」
レギナは笑い、立ち上がろうとして足首を押さえ、痛みにうめいた。腰を下ろし、そっと足を伸ばして、またしてもうめいた。
「ここに来て、手を貸してくれる、おチビさん?」
「あたしはおチビじゃない」
「そうね。じゃあ、何?」
「
「そうか! じゃあ起きあがるのに手を貸してちょうだい、マギア」
少女はその場から動かず、そわそわと足を動かし、指先のない羊毛の手袋をはめた手で剣帯をいじりながら疑わしそうにレギナを見た。
「心配しないで」レギナは笑みを浮かべた。「追い剥ぎでもなければ、侵入者でもないわ。わたしはレギナ・バルバーリス。これからネィワ・シュテンに行くの。魔法剣士の知り合いよ。そんなに驚かないで。警戒するのはもっともだけど、考えてみて。知らない人間がここまで来られると思う? これまで一度でも《修練道》で誰かに会ったことがある?」
ようやく少女は近づいて、手を差し出したが、レギナはほとんど助けなしに立ち上がった。本当は手を借りたかったのではない。近くで少女を見たかっただけだ。そして触れたかった。
緑色の目に突然変異の兆候はなかった。手に触れても、魔法剣士特有の心地良い、かすかにピリピリする感覚は伝わってこなかった。背中に剣をくくりつけて《殺人道》を走っていても、この少女はまだ《月の試練》も《変化》も受けていない。それだけは確かだ。
「膝を見せて、おチビさん」
「おチビじゃない」
「ごめんなさい。じゃあ、名前は?」
「あたしは………ディア」
「わかった。もう少し近づいてよく見せて、ディア」
「このくらいなんでもない」
「
「怖がってなんか………いたっ!」
レギナは笑い声を上げ、魔法を使ったあとのひりひりする手を腰でこすった。ディアは身をかがめ、膝を見て叫んだ。
「うわあ、痛くなくなった! 穴も開いてない………今のは魔法?」
「ご名答」
「あなたは魔女?」
「またしても正解ね。できれば“魔法使い”の方がいいけど。勘違いされないように、名前で呼んでくれる? レギナ。ただのレギナよ。さあ、ディア。馬が下で待ってるわ。一緒にネィワ・シュテンに行きましょう」
「あたし、走らなきゃ」ディアが首を横に振った。「急に走るのをやめたら筋肉にミルクがたまるからよくないってロベルトが ー 」
「城にロベルトがいるの?」
ディアは顔をしかめてさっと口を閉じ、切り下げた前髪の下からちらっとレギナを見た。レギナはくすくす笑った。
「わかった。きかないわ。秘密は秘密よ。あなたが正しいわ、ディア。出会ったばかりの人に秘密をばらしちゃだめよね。いらっしゃい。お城に行けば、誰がいて、誰がいないか分かる。それから筋肉のことは心配しないで ー 乳酸の対処法は知ってるから。ほら、あれがわたしの馬よ。さあ、手を出して ー 」
レギナは手を伸ばしたが、ディアは素早く軽々と ー 勢いもつけずに ー 自分で鞍に飛び乗った。馬が驚いて脚を踏み鳴らすと、さっと手綱を取ってなだめた。
「馬の扱いには慣れているみたいね」
「あたしはなんでもあつかえる」
「前へ寄って」レギナは片足を鐙に入れ、手綱をつかんだ。「もう少し場所を空けてちょうだい。それから、剣でわたしの目を突かないでね」
レギナが拍車をかけると、馬は川床に沿って並足で進み始めた。別の涸れ谷を越え、山腹をまわりながら登ると、石の断崖を背に密集するネィワ・シュテンの廃墟が見えてきた。ところどころ壊れた台形の防壁………物見やぐらと城門の残骸………太くて先の丸い地下牢の柱………。
馬は鼻を鳴らし、頭を振りながら、濠にかかる壊れかけた橋を渡った。レギナは手綱を引き、川床に散らばる朽ちかけた頭蓋骨と人骨を淡々と見つめた。これを見るのは初めてじゃない。
「ひどい」突然、ディアが言った。「どうしてこのままにしておくの? 死者は土の中に埋めなければならない。塚の下に。そうでしょう?」
「そうね」レギナが静かに答えた。「でも、魔法剣士たちは………忘れないためにこうしているの」
「何を忘れないため?」
「ネィワ・シュテンは襲撃されたの」レギナは壊れたアーチつきの通路に馬を進ませた。
「ここで凄惨な戦いがあって、魔法剣士のほとんどが死んだわ。生き残ったのは、そのとき城にいなかった者だけだった」
「誰が襲撃したの? どうして?」
「さあね」レギナは答えをごまかした。「遠い昔のことよ、ディア。魔法剣士に訊いてみたら?」
「きいたけど教えてくれなかった」不満そうな声だ。
そうでしょうね ー レギナは思った。魔法剣士の修行をしている子供に ー しかもまだ変異していない少女に ー 話すべきではない。大虐殺の話を聞かせてはならない。かつてネィワ・シュテンに狂言者たちが押し寄せ、魔法剣士たちに浴びせた言葉を聞かせ、怖がらせてはならない。
「彼らとて、こんなふうに打ち捨てられたくはない」突然、ディアが別人のような口調で言った。「呵責警告の象徴にはなりたくない。かといって飛ばされる塵にもなりたくない」