「――――お兄さん、おにいさーん。おはようございます」
ゆさ、ゆさ。
遠慮がちではあるが、断固として走りにいきたい。そんな意志が見え隠れする誰かの手。しかしながら菊花賞で大逃げキメるウマ娘のスタミナと付き合う人間が疲れないはずもなく。というかまだ朝日が昇ってなくない?
「……昨日はあんなに元気だったのに」
むすっとした言い方に申し訳ない気持ちはまあ、ある。
でも元気だったからこそ今疲れているわけで。
「お兄さん、今日もいいお天気ですよ」
そうかな。まあスズカからすれば走りにいければいい天気だろうけど。
「一人で走ってきちゃいますよ?」
それは……まあ心配ではある。
でもワキちゃんの場合、勝手に出てかないとは思うけど。
「…………おーきーてー」
「……スズカ、今何時…?」
「だいたい4時です」
それ多分4時前だよね!?
ヒトミミ、というか俺は5時間睡眠じゃ足りないんだよ…。
「もうちょっとだけ寝たい……」
「だから早く寝ましょう、って言ったのに」
だって……そう言いつつ甘えてくるし……いいかなーって思うじゃん…。
「スズカだって最高の景色があったら疲れとか気にせず走りたくなるだろ…?」
「それはそうですけど。………お兄さん、そんなにうまぴょい好きなんですか」
じとっとした目で見られてるんだろうな、と分かってしまうくらいには冷たい声音。
「なんて仕方のない人なんだ」みたいな感じだが、それ一人でトイレにすら行きたがらないヤツに言われたくないんだが!?
「夜どころか昼もトイレに付き添いが必要なくせに……」
「だってお兄さんがいないと寂しいですし」
さらっとそういうことを言う…。
こんなだからゲートを潜ったりするんだろうな、と思うが。
「俺だって、大好きな女の子には甘えたくもなるんだよ……」
「…………」
いやあの、黙らないんで欲しいんだけど。
何か不味かったかな、と思って薄目を開けると。目を見開いて耳を立ててスズカがほんのり頬を赤くしていた。
「スズカ。スズカさん? ワキちゃん?」
「………あまえて、たんですか?」
うっ。
いやその、じっくり噛みしめるように確認されると流石に恥ずかしいというか……。好き、って言ってくれるしちょっとだけならいいかな、みたいな感じは正直あった。ちょっとで収まってない? まあそれはそう。
へにょりとウマ耳を垂れさせたワキちゃんは、ごろりと左に寝転がったかと思うとこちらの頭を胸元に抱き寄せて来た。むぎゅっと。ぎゅぅーっと。
胸骨の固い感触を主に感じつつ、どこか甘く感じる匂いに包まれて。
「…………スズカさん? ワキちゃんさん?」
「…………………どうしましょう」
「どうした」
「………すみません、もうちょっとこうさせて下さい」
そりゃいいけど。
と思ったら脚も絡みついてきて。尻尾がこっちの脚に巻き付いて。
こっちの頭を抱えたまま吐息を脳天に感じる。
いやに早いワキちゃんの心音を聞きながら、ぬくもりに包まれて――――ねむ……。
「お兄さん、その………えっと。わたし………したいな……って」
「…………………ぐぅ」
「……………………………………おー! きー! てぇぇええ!」
「ぐはぁ!?」
ぺしーん!
と荒ぶるスズカの尻尾がふともものあたりを叩いた。
めちゃめちゃストレスを感じてる時の仕草であり、痛みもあって慌てて跳び起きると顔を真っ赤にしたワキちゃんが尻尾を振り回しながらポコポコ叩いてきた。
「お兄さんのばかー! 唐変木! すけべ! うまぴょい星人!」
「なんで!? ごめん、寝落ちしてたのは悪かったから! 何があったんだよ!?」
「―――――……」
ワキちゃんは顔を真っ赤にしてぷるぷる震えると、よほど腹に据えかねたのか首筋にがぶがぶ噛みついてきた。
「いでででっ!? 待って、本当に何したの俺!? ごめん何でもするし許してくれとは言わないからとりあえず話をしてくれ!?」
どうやったら温厚なワキちゃんをここまでキレさせるんですかね。
とりあえず落ち着かせるべく強めに抱きしめること暫し、やっと落ち着いたのか絞っていた耳を倒したワキちゃんは頬を膨らませつつ言った。
「……なんでもしてくれるんですか?」
「うん」
「じゃあ――――…………むぅ~っ」
なんで顔赤くして黙り込むの?
恥ずかしがってるように見えるが、脈絡が無さすぎるし。耳を見ようとしたら誤魔化すようにピコピコと動かされた。……まあ機嫌は直った?
「………なあ、ワキちゃん」
とりあえず落ち着かせるつもりで目を覗き込んで――――恥ずかしそうに逸らされた。えっ。何その反応。
いつもならふにゃっと微笑んでキスでも催促してくるところなのに。
「いいんだよ、ワキちゃんの一番してほしいことを言って」
「……………っ。…………は、走りに行きましょう…っ」
「うん。じゃあとりあえず走りに行くか……」
「……行きましょう」
ぎくしゃくと、まるで緊張しているみたいにぎこちない。
というかいつもズバッとパジャマを脱ぎ捨ててすっぽんぽんになるところ、何を思ったか布団を被ってその中でもぞもぞ着替え始めた。
……え。なに。ほんとに何したの俺……。
これは鋼の意志でワキちゃんを甘やかすべきなのかもしれない……。
―――――――――――――――――――
「――――どうすればお兄さんを夢中にできるかしら」
「あのー、スズカさん?」
「うん、どうしたのフクキタル」
「――――もう既に夢中なのでは…?」
「もっと夢中にしたいの」
「もっと…?」
ある日の休み時間。
トレセン学園特別顧問としての業務(走ること)を終えたスズカは、ちょうど進路関係の活動をしていたフクキタルを捕まえ……見つけて声を掛けた。
なんやかんやで3年間を駆け抜けた同期たちと授業を一緒に受けることもなくなり寂しい気持ちもちょっぴりあり。
「お兄さんがね」
「はい」
「やっぱりスズカの胸はいつも通りがいいなって」
「………な、なる…ほど?」
そのコメント自体は嬉しかったのだけれど。
すぐ慣れられたというか、まあともかくなんとなくモヤっとするわけで。まるで走りに行ったのに天気が悪かったからあんまり走れなかったみたいな気分である。
「男の人はおっぱいが好きって聞いたのに……」
「そ、そうなんですか……ところであの、私はまだ彼氏などいないのですが」
「大丈夫よ、フクキタルの男性経験には期待していないから」
「スズカさん!?」
「フクキタルには占いがあるじゃない」
「……はっ! そうでした! お任せください、スズカさん! それでは何を占いましょうか」
「お兄さんが何をされたら喜ぶか、かしら…?」
「ではこの水晶玉で占いましょう! はんにゃか、ふんにゃか――――むむむ、出ました!」
フクキタルは水晶玉をじっとみつめて、それからたっぷり十秒くらい黙り込んだ後言った。
「―――服装ですね!」
「ふくそう」
「可愛い水着とか、夏服とか……」
「他には?」
そのあたりは既に試しているので次を促すと、フクキタルは難しい顔で30秒くらい悩んだ末に言った。
「……浴衣、とか………巫女服、とかでしょうか…?」
「浴衣はお祭りにいくから……みこふく」
「ありがとう、フクキタル。他の人にも聞いてみるわね」
「いえいえ、どういたしまして!」
頼りになりそうな子は、と脳内に数人思い浮かべる。
タイキ……たぶん露出が凄い。ちょっと恥ずかしい。
エアグルーヴ……たぶん固い。お兄さんをドキドキさせたい。
テイオー……たぶん私と大差ない。
スぺちゃん………スぺちゃんはそのままでいいものね。
できればフクキタルよりもお兄さん、というか男の人に詳しそうな人がいいのだけれど。
おしゃれ、せくしー、モテモテ……。
と、そこで凄く見覚えのある栗毛が見えた。
「あ、ファルコン先輩」
「え、スズカちゃん!? どうかしたの? あ、そうだ! この前の金メダルおめでとう!」
「ありがとうございます。えっと、実は困っていることがあって……」
「うんうん、任せて! ファル子にできることならなんでも! ドーンと協力しちゃう!」
「実は……お兄さんをメロメロにしたくて」
「うん……うん?」
「お兄さんが喜びそうな服を探していて……」
「――――あ、なるほど!」
「フラッシュさんにアドバイスを貰いたいなーと」
「任せ――――スズカちゃん!?」
「……? あ、えっと。ファルコン先輩はメロメロというよりは、可愛い感じなので……今はお兄さんをノーサツしたいというか……」
「ぅぅ……無邪気な本音が突き刺さるよぅ……でもファル子もフラッシュさんの水着選んだよ?」
「―――そんな。ウマドルって服のセンスまであるんですか…?」
「え? えへへ、そんな褒められちゃうと照れるよ~」
ということは、やっぱりファン一号さんとはラブラブになれないわけじゃなくて……ならないだけなのね。
押せば押し切り勝ち、恋の逃げ切りが成功しそうだと思っていたけれど、浅はかだったらしい。
(……ぅぅ。やっぱりお兄さんのことくらいしかよく分からない……)
そんなお兄さんも、まあ分からないことばっかりだけれど。
あれだけ、うまぴょい! うまぴょい! って感じだったのに最近はなんというか……掛からなくなったというか。
不安というか、不満というか。
知らないお兄さんの顔を見れるのは嬉しかったのに…。
「でもスズカちゃんに似合う服装かぁ……」
「お兄さんが掛かってくれるようなのがいいです」
「えっ」
「お兄さんがこう、我慢できなくなるような……」
「あの」
「そわそわして目ん玉ギラギラしてハチャメチャになる感じがいいです」
「それうまぴょいだよね!?」
「うまぴょいですね」
スズカちゃんが真顔で凄いこと言ってるよー!? と叫ぶファルコン先輩だけれど、でもやっぱり、好きな人には私に夢中になってほしいと今は素直にそう思えたから。
最終的に、フラッシュさんに「ありのまま、素直が一番かと…」とちょっと言葉を濁された。
………すなお。
素直に甘えて、いいのだろうか。
嫌われないかな、なんて思ったりして。
躊躇って、躊躇して、それでもどうしても気になって――――。
やっぱり、私は…。
――――――――――――――――――――
走る時のスズカの髪型は割とその時によって違う。
「髪の毛でも風を感じられるような気がするので」とか言ったりする時もあるが、風の具合によっては邪魔だからポニーテールにすることもある。
のだが。
しばらく走ったかと思うとチラチラこっちを見てきて、憂鬱そうに溜息なんて吐いてみるスズカさんとか絶対おかしいよ。
お、おかしい。
確かに俺は今生をスズカさんのために費やしたと思うし、奇跡的に好かれているという自覚もある。
が、走りを疎かにするとかスズカさんがするか?
そんなわけで動揺しつつも、怪我すると危ないので引き上げてくるように合図を送って。
いつもなら喜んで駆け寄ってくるのに、躊躇いがちに近づいてきたスズカを落ち着かせるように頭を撫でて。
「大丈夫か、スズカ?」
「………その、あんまり大丈夫ではないような……?」
「病院行くか?」
「いえ、体調というか、なんというか……」
「走ってても、楽しくない?」
「……(こくり)」
これはどう考えても重症では。
気持ちいつもよりも密着してくる気がするし。熱が無いか額を合わせて確認すると、やはり顔が赤い気がする。
「……ぉ、お兄さん……?」
「大人しくしてろ」
「は、はい……きゃっ」
鍛えていても人一人抱えるのは重い――――が、流石に口に出さないだけの常識はある。
いわゆるお姫様抱っこでなんとか抱え上げて歩き出し。何か言いたそうだったスズカがやっぱり何も言わずに黙って抱き着いてきたので少しペースを上げる。
熱中症? いやでもまだそこまで熱くないし……なるべく揺らさないように気を付けつつ、なんとか家に到着。そのままスタミナを振り絞ってスズカをベッドに―――近かったので俺の部屋で寝かせて。
「とりあえず冷やすか…。何か食べられそうか?」
「……えっと、お腹はあんまり…」
とりあえず部屋に常備してる冷却シートを一枚スズカの額につけて。
ダッシュで持ってきたのは好物であるバナナ。あとスポーツドリンク。
皮を剝いて差し出すと、遠慮がちにもごもご食べ始めたのでちょっぴり安心する。
でも熱はないし……脈はちょっと早いけど。
じぃっとこちらを見つめてくるのに、目が合うと逸らされる。
尻尾はばっさばっさと動いているし、耳も挙動不審。
布団で顔を半分くらい隠して目線で窺ってくる。
(――――まずい。全く心当たりがない……けど、いやそんなまさか)
「……あの、お兄さん」
「どうしたスズカどこか悪いか!?」
「その………一緒に、寝てくれますか?」
「ああ」
それはもちろん―――と、そこで服を脱ぎ始めたワキちゃんにちょっと反応に困る。
「汗、かいちゃったので……」
「お、おう?」
布団で身体を隠したまま、ランニング用のシャツを脱いでベッドの脇に落とす。
ショートパンツと、あと下着も。
………パジャマ取ろうか? と言う暇もなく。
ベッドのスペースを開けたワキちゃんに促されるがまま、並んで向かい合う。
妙にワキちゃんの表情が艶めいていて。
潤んだ瞳がやけに切なげで。いつも以上に魅力的に見えてしまって。
「お兄さん、わたし――――その」
「体調は、平気そうか?」
「………はい」
いつも以上に密着するように、放したくないと言わんばかりに抱き寄せてくるのはきっと勘違いではないのだろう。
「ごめん、甘えて良いか?」
「…………はいっ」
――――――――――――――――――――
「―――――朝、か」
寝苦しい夜だった。
熱い夜で、汗でぐちゃぐちゃになったシーツは仕方がないのでそのままに、幸せそうな顔で寝ているワキちゃんの熱を感じながら痺れた腕をほぐす。
昨日は、そう……色々あった。あった、けれども。
やっぱりワキちゃんはレースが大好きで、先頭の景色が好きだ。うん。そういうことにしておこう。
いやそれだとなんか語弊があるか。
だから、この物語はそう。
とんでもない寂しがり屋でトレーナー大好き勢の精鋭になったウマ娘と。
うっかり妹分なウマ娘を変態にしてしまったトレーナーの話。
どこにもないかもしれないし、どこにでもあるかもしれない。
恋と、俺の抱いた夢の話。