ヒリつく空気。
GⅡにも関わらず押し寄せた観客たちが求めているのは、伝説。
菊花賞に続く伝説を見守るために、あるいはその伝説を打ち破るものを見るために。
だが、そんな異様な熱気の中でも異彩を放つウマ娘が一人。
今年最大の夏の上りウマ娘がいるとすれば、彼女しかいないだろう。
「スズカさん……今日は、勝たせていただきます!」
「………フクキタル。こうして走るのは、ダービー以来かしら」
「むむむ。あの時は手も足も出ませんでしたが………前と同じと思ってもらっては困ります! 私の運勢は今が大吉! 例えスズカさんでも逃がしません!」
「逃げ切って見せるから」
『さあ、注目すべきはやはりこのウマ娘でしょう! 7枠8番――――4戦4勝、無敗の二冠ウマ娘! “異次元の逃亡者” サイレンススズカ!』
『菊花賞前のステップレース、ここでも圧倒的な走りを見せてくれるのでしょうか』
『さあ、大歓声に迎えられて11人のウマ娘がゲートに集います! 無敗の三冠に挑むサイレンススズカがその強さを見せつけるのか、はたまた夏の上りウマ娘が待ったをかけるのか! GⅡ 神戸新聞杯――――今、スタートです!』
………
……
…
(シラオキ様の導きによると……私は、私のレースに徹します!)
ダービーでは好位につけて、そのまま前には引き離され。後ろからは差された。
が、それはあくまでもあの時の実力。夏で更に本格化したと言ってもいいフクキタルは、普通のウマ娘に負けはしないとトレーナーも太鼓判を押してくれている。
そう、普通の相手には。
明らかに尋常ではない気配の、無敗の二冠ウマ娘。レース前になり、ビリビリと肌が粟立つようなプレッシャーを放つサイレンススズカに勝てるとすれば―――。
(本番は、菊花賞! ―――今は、どこまで迫れるか――――運試しです!)
ゲートが開き、一人だけ既に一歩先に出ているサイレンススズカのスタートの良さ。
内から競りかけようと試みるナムルキントウンをものともせずに引き離し、早くも大逃げ態勢に入る。
『さあ行った行った! やはり行きましたサイレンススズカ! 今日も大逃げ! 二番手をぐんぐん引き離して4バ身、5バ身とリードを取った!』
『菊花賞に備えてペースを落とした走りを試してくるかと思いましたが……このままのペースで行ってしまうのでしょうか』
『注目の二番人気、マチカネフクキタルは最後方から! 先頭サイレンススズカと二番手のナムルキントウンとの差は早くも7バ身くらいはあるでしょうか。1000メートルを通過してタイムは……58秒4! これは、今までのサイレンススズカよりややペースを抑えているのか!?』
『速いことに変わりはないですが、少し余裕を持って走っているように思いますね』
(くっ、スズカさんのペースの落とし方が上手い!? これだと前が―――)
なまじ最初は普段と変わりない超ハイペースだったために、じわじわと速度を落としたサイレンススズカにつられて全体のペースが普通のハイペースに戻ってきている。それによりむしろ掛かったナムルキントウンを見て、後方はスローに近づいてすらいるかもしれない。
『さあ行った行った、ナムルキントウンがサイレンススズカとの差を詰める! だがこれは掛かってしまっているのでしょうか!? 5バ身、4バ身と詰め寄って第三コーナーのカーブに入る! 後方は大きく離れている! 後ろの娘たちは間に合うのか!?』
(くっ、仕掛けないと――――けどこれは)
スローになり、バ群が詰まったことで外に広がり。
先に外を捲っているシルクジャストもいるために道が無い。
(いえ、今こそシラオキ様のご加護を!)
『サイレンススズカが最後の直線に入る。詰め寄ってきたナムルキントウン、外からシルクジャスト!』
「――――先頭の景色は、譲らない!」
『サイレンススズカ、ここで更に引き離した! 強い強い、4バ身、5バ身と再度リードを取る! さあ拍手に送られてサイレンススズカが先頭! これは強い! 後方ではシルクジャストが上がってきている。――――おおっと、バ群を割って内からマチカネフクキタルが強襲! 凄まじい加速!』
「―――――まだです!」
『サイレンススズカ、脚色は衰えない! だがマチカネフクキタルも凄まじい勢いで差を詰めに掛かる――――リードは4バ身、3バ身――――今、ゴール! やはり強い、サイレンススズカ! しかし最後一気に詰め寄りました、マチカネフクキタル! これは菊花賞が楽しみです!』
『そうですね、今回はサイレンススズカが大逃げから比較的自由にスローなペースに持ち込みましたからね。本番、競りかけるウマ娘がいれば勝負は分かりません』
「……スズカさん」
強い。超ハイペースを封印し、あくまで長距離に合わせた走りでこそあるものの、本来の持ち味であるマイペースの速さを活かした攪乱。この展開なら後方に勝ち目はないと思わされるが――――。
「次は、私が勝ちます」
強い戦法。けれど、怖さはない。
本来ステイヤーでないスズカさんが勝つためには妥当な戦術なのだろう。トレーナーのために妥協したのかもしれないけれど、長距離で常識的な走りならば――――今の私の方が強い。
――――――――――――――――――――
「スズカ、脚の調子は?」
「はい。それほど飛ばしてないですから……その、少し走ってきても…?」
菊花賞に向けての抑えた走り――――やっぱり欲求不満になったらしいスズカは、なんとなくすっきりしない顔で。もう少し詰め寄られればトップギアになって多少満足したかもしれないが。
本音を言えば、レースを走ったのだから少しでも休ませたい。
いつもの大逃げほどは消耗していないとはいえ、汗の量だって凄いし体温も高い。
「そうか。別にいいけど――――大阪デートは」
「デートにします」
と、間髪入れずに笑顔でスズカは言った。
「あ、うん」
いいのか……。
半分冗談だったので、ちょっとそうあっさり選ばれるとなんというか……もにょる。
「いいのか、走らなくて」
「いいんです。今走ってきましたし……今は走るより、お兄さんと一緒に歩いて、知らない景色を見たいので」
「じゃあシャワー浴びてこい」
「お兄さん、一緒に――――」
「捕まるわ! レースに出たウマ娘用のシャワールームなんだし自重しろ。あとウイニングライブ忘れるなよ」
「はい」
…………
……
…
『―――――さあ、遂にこの日がやって参りました。クラシック最終戦、菊花賞! 京都レース場には多くのファンが詰めかけています。果たしてシンボリルドルフ以来、無敗の三冠ウマ娘は誕生するのか!? これまでのレースを全て大逃げで制覇してきた異次元の逃亡者、無敗の二冠ウマ娘! 5枠10番 5戦5勝! サイレンススズカ! 一番人気です!』
『前走の神戸新聞杯ではいつもよりペースを落とした走りでレースを支配していました。あの走りが長距離でもできるのであれば十分に勝利を狙えますよ』
大歓声に迎えられ、パドックに現れるスズカを見守る。
なんとなく観客席に目をやっているので、手を振ると笑顔で振り返してきて。先ほど控室で顔を合わせた時の言葉が脳裏を過る。
『―――――お兄さん。私、思ったんです』
『スズカ…?』
『いつもトレーナーさんにお世話になっているのに、何も返せていないなって』
『いや、俺は十分すぎるくらい――――』
『だから、このレースで勝てたら。私からもご褒美があるんです』
『この評価は少し不満か!? この夏最大の上りウマ娘、2枠4番。マチカネフクキタル! 二番人気です!』
『今最も勢いのあるウマ娘ですね。サイレンススズカの三冠を阻むとすればこのウマ娘ではないでしょうか』
『そして実力は負けていません、三番人気 7枠14番メジロブライト! ここ最近勝ち切れていませんが長距離の名家、メジロ家の意地を見せるのか!?』
『誰もが未知の距離である3000メートルですが、彼女ならば恐らく問題にしないだろうという予想が人気に影響していそうですね』
無事にゲートインしていくウマ娘たち。
毛並も、トモの張りも、絶好調と言っていいスズカ。
だから、トレーナーにはもう祈ることしかできはしない。
これまで積み重ねて来た全てで、彼女が夢を掴むことを信じる。
『GⅠ菊花賞―――今、スタートです!』
………
……
…
心は落ち着いていた。
勝負服を着てレース場に立つ“サイレンススズカ”の隣には、いつだってトレーナーさんがいる。
背中を押されるようにスタートを切り、後続を引き離して逃げに入る。
他の逃げウマ娘が競りかけようとする気配を感じるものの、すぐにトップギアに入った加速に追いつけずに引きはがされていく。
煩わしい何もかもを振り切って、ぐんぐん加速する。
『さあやはり行った、サイレンススズカ! 今日も大逃げ、後続との差を4バ身、5バ身と取りましたが後続も食らいついていく! マチカネフクキタルは先団4番手、メジロブライトは中団から!』
『ここまでは神戸新聞杯と同じ展開ですね。ですがスローペースにさせないよう後続が早めに上がっていきます』
『二番手はテイエムトップラン! サイレンススズカとの差を詰め――――詰まらない! むしろ離されています! 後続集団も戸惑った雰囲気! サイレンススズカ、これは掛かってしまったのか!? 7バ身8バ身とリードを広げていく!?』
『これは……大変なことになりましたね』
『1000mのタイムは57秒9!? 神戸新聞杯よりも早い超ハイペースです! さあオーバーペースを悟ったウマ娘たちが徐々にペースを落とそうかというところ』
『ですが既に相当な体力を消耗しているでしょう。サイレンススズカに限らず、最後まで持つのでしょうか』
―――――――――――――――――――
会場を包むどよめきの中で、祈るようにスズカを見つめる。
既にバ群は消耗した体力を無駄にしたくないために迷うウマ娘と、少しでもペースを取り戻したいウマ娘とで分かれてめちゃくちゃになっている。それに巻き込まれてズルズルと後ろに下がっていくマチカネフクキタルとメジロブライトを見て、ひとまず作戦が成功したことに胸をなでおろす。
けれど――――間違いなく一番苦しいのは、この長距離でなりふり構わぬ大逃げを繰り出したスズカだった。例えそれがマイペースでも、3000mという距離はそう甘いものではない。
『さあサイレンススズカが悠々の一人旅! 現在のリードはおよそ15バ身くらいあるでしょうか!? まだ広がっているようにも見えますが、本当に最後まで持つのか!?』
『隊列が乱れ切っていますね。この超ハイペース、長距離が初めてのウマ娘にはかなり厳しいものになりそうです』
『さあそのリードに焦ったウマ娘たちが数名上がっていきます。掛かってしまったか!?』
『これでは無理もないですね。メジロブライト、マチカネフクキタルは落ち着いているように見えますが離れています』
『さあ前半終了してタイムは1分29秒5! なんと1分29秒台です! サイレンススズカ、少しペースを落としているか。ですが依然として超ハイペース!』
『先ほどまでよりは落ち着きましたが……』
それ以上に最初の大逃げに付き合ってしまった先団の消耗は激しいのかペースダウンを悩んでいたウマ娘たちは失速し、差はずるずると開いていく。
「さあ坂を登って、これから下っていきます! 依然としてサイレンススズカと後方の差は15バ身以上あります! 早く追いかけなければいけない! メジロブライト、マチカネフクキタルが後方から追い上げてくるが大きく外に持ち出しています!」
ズルズル後退する垂れウマを回避するべく、普段よりも大きく外に出るしかなかったブライトとフクキタルにも余裕はない。
しかし完全にペースを壊し、他の逃げウマを潰し、それでもなお止まらない。
『さあ無敗の三冠を、シンボリルドルフ以来の称号を賭けてサイレンススズカが、サイレンススズカだけが早くも最後の直線に入ろうかというところ! だが後方一気に詰め寄ってくるのは――――マチカネフクキタル、マチカネフクキタルだ! さらにメジロブライトが後方追走! シルクジャストは既に一杯か!?』
―――――――――――――――――――――
どれだけ走ることが好きでも、限界はある。
いつまでも好きな速度で走れるから、マイルから中距離が好きだった。
だからきっと、サイレンススズカに長距離は走れないのだろう。
好きな速度で走っていれば体力が持たない。
抑えて走れば、結局力を発揮できない。
結局、サイレンススズカというウマ娘は走ることが好きだから、好きに走れるから強い。けど、だからこそ。
乱れた呼吸を整える。
いつも通りの大逃げで走った1000mから、トレーナーさんと走った“流し”のペースへ緩やかに移行する。
原付を使って並走してくれたお兄さんの、真剣なまなざしを思い出す。
苦しくは――――ない。
息を入れる。
お兄さんと走るのが、苦しいはずがない。
走るのが好きなのと同じように、どちらか選べないくらいに好きなのだから。
それでも肺は限界を訴えて、脚は重くなる。
後方からは足音が聞こえないくらいに離れているけれど、きっとフクキタルは来る。
酸素が足りないからか、耳が少し遠くなる。
視野は多分いつもよりも狭まっている。
隣にいるお兄さんを置いていかないようにペースを維持する。まだ、まだだ。
『サイレンススズカに詰め寄ってきたのは外、外! 白とブルーの勝負服! マチカネフクキタルが差を詰めていく! メジロブライトは伸びが苦しい! さあ最後の直線勝負! サイレンススズカ、リードは残り4バ身、3バ身!』
風を切る音、芝を抉るほどの踏み込みの音がすぐ背後まで迫ってくる。
それでも――――。
「――――フンギャロォォォッ!」
「譲らない――――」
苦しさにフォームが崩れそうになる。
それでも顔を上げて見据えたゴール、その間近で叫ぶ姿が見えた。
『――――スズカッ!』
「私の、私たちだけの――――景色ッ!」
だからきっと、これは証明だ。
お兄さんがいたから勝てたのだ、と胸を張っていうための。
サイレンススズカでは届かない勝利を、胸に灯った想いを燃やして駆け抜ける。どんなに長い距離でも、貴方がいれば駆け抜けて見せるのだと。
『―――――サイレンススズカ、ここからリードを開いていく!? 2番手マチカネフクキタルだがリード3バ身! メジロブライトはまだ来ない!』
全く酸素を取り込んでくれていないようにすら思える肺に必死に空気を送り込みながら、ただひたすらに脚を動かす。視界に映るあの人に、最高の走りを見せるために。
そんな余裕なんてないはずなのに、どうしてかトレーナーさんが泣いているのがはっきり見えて。もうどこにも残っていないと思っていた力で、力強くターフを蹴った。
『サイレンススズカだ、サイレンススズカだ! マチカネフクキタル届かない! ――――――三冠達成ッ! シンボリルドルフ以来、史上二人目となる無敗の三冠が此処に誕生しました! タイムは3分0秒8! 破格のレコードタイムです! まさに異次元の逃亡劇! 3000mを超ハイペースで逃げ切りました!』
――――――――――――――――
「スズカ、よく頑張ったな」
そう言って抱きしめてくれるお兄さんに、ようやく勝った実感が湧いてくる。
優勝トロフィーを掲げて撮影したときより、ゴールした瞬間よりも、こうして久しぶりにお兄さんから抱きしめてもらうのが一番うれしいことに、自分でも少し可笑しく思う。
「お兄さん、私―――勝ちました。ずっと一緒に頑張ってくれた、お兄さんのお陰です」
「莫迦、お前そんな――――くそっ、このタイミングでそれは卑怯だろ」
また泣いているこの人に、胸にあたたかなものが込み上げてくる。
その熱に押されるように、あらかじめ考えていた『ご褒美』のため、そっと顔を寄せて。
勝利の女神、ではないけれど。
その頬に、万感の想いを込めて口づけた。
「ワァオ」
「あら」
「ふむ」
「……スズカ」
「ハァ……」
思いっきりお祝いに来てくれたリギルのメンバーの目の前だった。
手で口元を抑えているタイキ、アルカイックスマイルのグラス、シンボリルドルフ会長にエアグルーヴ、そしてナリタブライアンさん。おハナさんは見なかったことにしてくれるつもりなのか、視線を逸らしていたけれど。
「ス、ズカ……?」
「
きっと、これまでで一番の笑顔ができて。
そうして無敗の三冠ウマ娘として、取材やらなにやらに追われる日々が始まるのだった。