―――――心を占めていたのは怒りだ。
誰に何を言われようとも変わらない、私たちの走り。
それを乱しそうになる自分への怒り。
(私の走りは、お兄さんと作ったものだから――――)
勝つことこそが、証明になる。
掛かりそうになる心を抑えつけ、全て走るための力にする。
なんとなく、挑発して全力でこさせようという意図も分かってはいる。けれど、それはそれとして。
(私とお兄さんだけの景色――――見せてあげます)
『――――さあ、いよいよ始まります。GⅠ、ジャパンカップ。1番人気はやはりこのウマ娘です! ――――6戦6勝。全てのレースを大逃げで勝利してきた異次元の逃亡者、サイレンススズカ! 今日は果たしてどんな逃亡劇を見せてくれるのか、また参戦した海外勢との熱戦にも期待です! 日本の総大将として、見事な走りを見せてもらいたいところ!』
『2番人気はこのウマ娘! GⅠを5勝、凱旋門賞2着2回! ピルサドスキー! 果たして海外ウマ娘の実力を見せつけるのか!?』
『3番人気は秋の天皇賞を制覇した女帝、エアグルーヴ! 10戦7勝、GⅠを2勝した樫の女王は、再びオークスの舞台でその力を見せつけるのか!?』
『さあ、ゲートに入って体勢整いました。――――今、スタートです!』
………
……
…
ゲートに漂うのは、重苦しい緊張感。
かのシンボリルドルフはその威圧感故に併走すら嫌がるウマ娘が続出したとされているが、GⅠを勝つほどのウマ娘でも辛いものなのか―――その答えは分からないものの、同じ無敗の三冠ウマ娘であるサイレンススズカの威圧に、凱旋門賞2着すら経験したピルサドスキーでさえ背筋に冷たいものを感じていた。
(――――全く、性格が変わりすぎだろう!)
来日前にレース映像を見た限りでは完全に気性難ウマ娘。無敗の三冠ウマ娘になり、やる気を失っているのかと思いきやとんでもない。
レースの時だけ研ぎ澄ました牙を剥く、猛獣……怪物……魔物とでも言うべきか。
(麗しの女帝陛下といい、この国のトゥインクルシリーズも最高だな―――ッ!)
ゲートが開き、真っ先に飛び出したのはサイレンススズカ。冗談のような加速で、スプリンターの如く飛び出して行く。いや、“ような”ではない。もはやスプリンターと遜色がないようにしか見えない。
『――――これが、私たちだけの景色!』
(
誰もいない草原。
果て無き星空に輝くただ一つ、孤独な星。
その星に向けてサイレンススズカが疾走する。光の尾を引く流れ星のように。
ごく一部のウマ娘が到達する一つの頂。
卓越した走りと想いが周囲に見せる一つの幻想。無論、欧州中距離の頂点を競ってきたピルサドスキー自身も出した経験、出された経験がある。所謂“勝ちパターン”である。
自分の得意とする形だからこそ、周囲に風景を幻視させるほど圧倒することができる。最終直線で先頭に迫るとか、先頭で終盤のコーナーに入るとか、厳しい条件があるのが常だ。
それを、こんな序盤で。
序盤の時点で既に勝ちパターンがある、という恐ろしすぎる現実に笑みがこぼれる。
(そうだ。私はこれと――――こんなウマ娘と
ゾーン自体に周囲を委縮させる効果は(基本的に)ない。
ただ、ゾーンが発動しているということは発動者がベストな走りをできているということだ。良い走りがゾーンを見せるのか、ゾーンによって最高の走りが出るのか、どちらが真実かは分からない。だが、ゾーンを見せられるというのは敗北を意識させる。
銘を付けるのならば、<Silent Star>。
限界以上の加速を得たサイレンススズカに追従できるウマ娘は無く――――逃げウマ不在の後続が惑う中、エアグルーヴとピルサドスキーが飛び出す。
(掛かり気味、だから垂れるだろうなど。そんな希望的観測が通じる相手ではない!)
(同感だな、女帝陛下! ここで行かなければ勝機など無い!)
『―――――サイレンススズカ! なんというハイペース! 序盤から一気に差を開いて先頭! まだ開く! 一体何バ身開いているのか――――本当にこれで持つのか!?』
猛追するエアグルーヴとピルサドスキーも意に介さず、7バ身以上は引き離してなおも加速するサイレンススズカ。
もし此処に通常の大逃げウマ娘がいれば、それさえ引き離して先頭に立つサイレンススズカがいただろう。それほどまでの走りに歯を食いしばってペースを調整するエアグルーヴと、それをマークするピルサドスキー。
(くっ、いいように使ってくれる!)
(何分この国に慣れていないものでね! 便乗させてもらう!)
恐らくは対策を立てているだろう、サイレンススズカに詳しいエアグルーヴが差しに行くのに合わせてまとめて差し切る。一番可能性のありそうな戦術を取るピルサドスキーだが、エアグルーヴからすれば失笑ものである。
(あんな暴れウマを相手にする想定などしているものか! せめて大人しくしているスズカならやりようもあったものを!)
基本的にスズカのたわけトレーナーはスズカの健康を第一に考えている。だから、スズカが望まなければ無茶などさせないだろう。独りでのタイムアタックを楽しんでいるところを一息に差す。それくらいしなければスズカには勝てない。
だが、離されすぎれば差す以前の問題だ。
『サイレンススズカが先頭で1000mのタイムは―――――ご、56秒4! これは本当にオーバーペースではないのか?! 先行した二番手エアグルーヴまでおよそ10バ身くらいは離れているでしょうか!? ぴったりマークしているピルサドスキー、そこから更に10馬身ほど離れてツバサシンフォニーらが固まっています! バブルドムフェローは5番手! シルクジャストは最後方2番手!』
『さあサイレンススズカ、向こう正面の中間点を通過していく! ここで詰め寄ってくるのはエアグルーヴ! エアグルーヴだ!』
………
……
…
いつもの楽しそうな様子は鳴りを潜め、不気味な沈黙とともに走るスズカに詰め寄る。
極端な大逃げ策は、バ群を嫌うから。普段の性格からして恐らく間違いでないその推測が当たっていれば、詰め寄られたスズカは本来の力を出せないはず。
スパートの力を残す余力はない。
スズカに張り付き、スリップストリームで僅かでも回復できなければ勝機などない博打に打って出たエアグルーヴはしかし、大欅の向こうを回ったところでスズカが踏み込みを替えたことに気づいた。
『―――――誰にも、譲らない…っ!』
(領域だと―――!?)
スタートの時に見たものとほぼ同一。
やはり星空が広がるだけの光景にわずかな違和感を覚える。
恐らくは領域の中心にある孤独な星の光が強くなっている――――。
(二連星か)
答えを得たのは、すぐ背後にいたピルサドスキー。
領域で会話できることがあるのかすら不明なので、本当にそうなのかは不明だが。
(やれやれ、なんとも情熱的だ。こうまで一途でなければ、私もアプローチしたいところだが)
(言っている場合か。もはやどうにもならんぞ)
勝負であるから、死ぬ気で食らいつく。
が、それはそれとして状況が絶望的すぎた。
恐ろしいことにあのスズカは超ハイペースにしておきながら『自分は脚を溜めて』『息を入れて』『今まさに加速しようとしている』のである。
――――<Silent Stars>
二連星を抱きしめ、碧い輝きを纏ったスズカが加速する。
恐らくはスタートで加速し、詰め寄られるまでの時間が長ければ長いほど息を入れて力強く踏み込む領域。
2400のレースの終盤まで詰め寄れなかった今、その加速は“逃げて差す”と言われるに相応しいものとなっている。
『さあ大欅を越えて―――――サイレンススズカがスパート! エアグルーヴ届かないか!? しかしその後方からピルサドスキーだ、ピルサドスキーが来た!』
(私にも意地がある! このまま終われるものかよ!)
『ピルサドスキー、凄い脚だ! エアグルーヴを一気に交わして二番手! だが差が縮まらない!? ピルサドスキーの伸びが苦しいのか!?』
前、およそ5バ身くらいだろうか。
超ハイペースでありながら平然と加速する栗毛に、笑い出したくなるような気分になる。
(ハハハ、このペースでその加速だと!? どんな脚をしているんだ!)
スローペース、せめて平均ペースであればまだ追いすがれたかもしれない。
だが超ハイペースで磨り潰されたスタミナが、重く鈍い脚が、苦しい呼吸がそれを許さない。欧州では、いや世界でも類を見ない絶対的で、孤独な走り。
『サイレンススズカ、サイレンススズカだ! やはり無敗の三冠ウマ娘は強い! サイレンススズカ、圧勝で今ゴールイン! 2着はピルサドスキー、3着エアグルーヴ!』
『タイムは――――2分20秒6! レコードを1秒以上縮めての勝利、これは……世界レコードです!』
『2着のピルサドスキーも従来のレースレコードを更新しています。凄まじいレースになりましたね…』
レースを終え、大歓声に――――というか、己のトレーナーに向けて手を振ってはにかむサイレンススズカに近寄る。
降参のジェスチャーで手を挙げながら向かったピルサドスキーに、サイレンススズカはちょっぴり自慢げに微笑んだ。
「これが、私とお兄さんの景色です」
「参ったよ。後で改めて彼にも謝罪させてもらう」
「はい」
「……いやしかし、あれ程のトレーナーになるとむしろデートでも頼んでみたいな」
「えっ」
「付き合っている、というわけでもないんだろう?」
ちょっぴり意地悪く微笑むピルサドスキーに、スズカはムッとした顔を見せると言った。
「……ダメです。お兄さんは譲りません」
「だろうね。まあ、女帝陛下よりは先着できたことだし、ダメ元でデートでも頼んでみるとしよう」
「……デート」
なんとなく観客席の方に視線を向けるスズカに肩をすくめ、ピルサドスキーもウイニングライブの準備に向かう。
「まあ、引退レースとしては上出来かな。勝てこそしなかったが――――自慢になる敗北、というのもあるようだ」
レースは欧州の方が優れている、と思われているし欧州の人間にはレース発祥の地としてのプライドがある。
だが、そこに風穴を開けかねない化け物が……いや、夢の存在が生まれた。
一人のトレーナーと、一人のウマ娘が願った理想のカタチ。
「勝てよ、サイレンススズカ」
敗者すらも夢を賭けたくなる、そんな圧倒的なウマ娘に出会って。
欧州のウマ娘たちが右往左往する姿を想像してピルサドスキーは穏やかに笑った。