雪景色は好きだ。
冬は寒いけれど、お兄さんも寒くなると心配してくれて、手を握ってくれるし。くっついても何も言われない。
雪景色に並ぶ、自分とお兄さんの足跡が好きだ。
今でこそお兄さんと私の走りは独りではないと思えるけれど、あの頃はまだ走っている時は自由と孤独をどちらも感じていて――――それでも、一周は並んで走ってくれるお兄さんの足跡と一緒なら一人じゃないと思えた。
どこまでだって走れる。
もっと速く、もっと先に――――。
二人なら、誰よりも速くなれた。
二人だから、誰より長く走れた。
(私、見てみたいんだ。一緒に駆け抜けた景色を――――その先を)
無敗の三冠。
喜んでいるお兄さんを見た。
信じて待ってくれているのを見た。
泣いているのを見た。
――――シンボリルドルフ会長が成し遂げたことを、私とお兄さんも駆け抜けた。けれどジャパンカップは皇帝でも勝てなかった。
誰にも届かない記録を―――ターフに、私とお兄さんだけの足跡を残す。
私とお兄さんにしかできないことを。そして、私の感じているこの気持ちを、お兄さんも感じてくれていればいいと思う。
(もっと一緒にいたい。もっと、触れていたい。もっと貴方を感じていたい)
最近のお兄さんはトレーナーだからと意地悪なので、全然構ってくれないけれど。
だからこそ手を繋ぐと幸せだと感じる。お兄さんに抱き着いて眠るのはとても安心するし、キスは……どきどきする。
そのためにも、走る。
誰もいない景色を、私だけの景色を、その先で待つお兄さんに見せるために。
私だけを見ていて欲しい。
(――――だから)
『スズカ、有マ記念はお前に任せる。脚のコンディションは見ているし全力を尽くす―――だから、お前の走りたい景色を見てこい』
私は、お兄さんを。
お兄さんと、サイレンススズカを信じる。
「お兄さん――――私、出ます。有マ記念に」
………
……
…
ジャパンカップから二週間、駄々をこねるスズカを女子寮に戻し―――ついでに布団を持っていかれた。もともとスズカのヤツなので別に惜しくはないのだが、戻ってきた俺の布団がなんか……完全にスズカの匂いになってたが。
なんか最近、スズカの密着度が高い。
原因は菊花賞でキス(頬)してきたことだと思うが、胸は当ててくるし脚は絡めてくるしやりたい放題である。
身長も伸びて美人としか言えなくなってきたし、妙な色気もあるのでいい加減にしてほしいのだが。なんなの? 新手の拷問なの?
『お兄さんの匂い…』とか言いながらふにゃっとした笑顔をされるとなんかこう……うん。やっぱり危機感足りないわアイツ。
そんなわけで有マ記念の控室。
何故か応援に来ているリギルの面々は来ない。薄情、というか妙な気を使われているのかもしれない。
「お兄さん、寒いです」
「暖房ついてるだろ…」
わざわざ人の膝の上に座り、寄りかかってくる。
重……くはないが。
「やっぱりこっちの方が……」
「おい何してんのお前」
よいしょ、と言いながら向きを変えて抱き着いてくるスズカ。
座高で言えばそんなに凄い差があるわけではないので、顔が近い。肌は白いし瞳の色も吸い込まれそうな蒼色。
「お兄さん、あったかいです」
「暑いんだけど」
「えー」
「あー、清楚で美人な女の子が好きだなー。恥じらいのある子とか最高だなー」
「………お兄さん、私そんなに単純じゃないですよ」
「そうかぁ?」
スッ、と自分の席に座り直し。
それでも我慢できずに手は繋いでくるが、まあそれくらいは必要経費。
「恥じらいの無いお子様は恋愛対象外だから」
「………前にもいいましたけど、恥ずかしくないわけじゃないです」
ムスっとした顔だし、耳も絞ってるので不機嫌なんだろうが頭を撫でるとすぐ機嫌よく動き出すあたり単純ではありそうである。
「有マに勝ったら、クリスマスデートな」
「………デートっ」
「どこか行きたいところとかあるか?」
「……イルミネーション、見に行きたいですね」
「そっか。じゃあ少し遠出するかな」
「あと、景色の良いところでご飯を食べて」
「ま、偶には贅沢もいいな」
「後はお兄さんとお風呂に入って、お兄さんのベッドで寝ます」
「風呂は一人で入れ」
「じゃあ寝るのは一緒に、ですね」
まあ、無事に帰ってきてくれるのならそれでもいいが。
「………ゴールで待ってる」
「見ていて下さい、私たちだけの景色」
――――――――――――――
『さあ、遂にこの日がやって参りました――――年末の中山で争われる夢のグランプリ! 有マ記念! 3番人気はエアグルーヴ! ジャパンカップでは惜しくも3着となりましたが、果たして雪辱を果たすことができるのか!?』
『恐らく前回よりも対策を練っていることかと思います。そこに期待したいですね』
『2番人気はマーベラスサンデー! ここまで14戦10勝、今年春のグランプリ宝塚記念で優勝し、その実力を証明したウマ娘です!』
『まだサイレンススズカとの対戦経験がないですが、その分だけ可能性があるとも言えますね』
『そして注目はもちろんこのウマ娘でしょう! ファン投票1位、無敗の三冠にしてジャパンカップで堂々の四冠目を掲げた異次元の逃亡者が、前人未踏クラシック級での無敗五冠に挑みます! 7戦7勝――――1番人気、1枠1番、サイレンススズカ!』
『綺麗に1が並びましたね。実力は間違いなく抜きんでています。表明している海外遠征に向けて更なる夢を見させてもらいたいですね』
割れんばかりの歓声を浴びて、スズカがターフに現れる。
軽く手を振って応援に応えると、落ち着いた様子でゲートに向かい。
その近く、ケガから復帰したサニーブライアンがスズカに声を掛ける。
「――――スズカに勝つためだけにこの半年を過ごしてきたんだ。今日は、勝たせてもらうから」
「ええ。いい勝負にしましょう―――――けど、負けないから」
半年なんかでは足りない。
きっとそれは二人の共通認識で。それでも言葉はもういらない。
努力が足りないのなら、死力を振り絞る。
怪我の恐ろしさを知って、それでもなおターフを駆ける―――それだけの理由が、ここにはある。
ファンファーレが鳴り響き、ゲートに入る。
西日に照らされた中山レース場を舞台に、今年最後のグランプリが。
『GⅠ、有マ記念―――今、スタートです!』
――――――
ゲートが開き、スタートする。
最高のスタートを切れたと確信したにも関わらず、それより半歩前にいるのがサイレンススズカ。
何もない星空、冷たい星の輝き。
それを切り裂くようなサイレンススズカの輝き―――領域だ。
もうダービーのようにハナを譲る気はないのか、ブレーキが壊れたように、あるいは燃え尽きようとする流星のように速度を上げていく。
その理不尽さに嘆きたくなるが、同時に「そうでなくては」と思う。
私がなんとしても勝ちたいと、そう思ったのは誰も追いつけない異次元の逃亡者なのだから。
『4番のローゼンカナリー、あまり良い出ではありません。そして当然行く、1番のサイレンススズカ! 続いて競りかけていくのがサニーブライアン! 果たしてダービーの再現となるのか!? その更に外からカナミクロス! 激しい先頭争い!』
ペースは速い。
あの菊花賞ですらハイペースの逃げを見せたのだから、それより短い有マがより熾烈な走りになることくらいは予測できている。
『四番手にタイキブリザード! エアグルーヴは中団! その後方、アウトコースにメジロドーベル! マーベラスサンデーは後方5番手くらい、その横にシルクジャスト!』
『さあ先頭のサイレンススズカが差を開く、そこから1バ身、2バ身くらい離されてサニーブライアンが必死に食らいついている! そこから更に4バ身ほど離されてカナミクロス! その更に3バ身ほど離れてタイキブリザード、エアグルーヴと続いています!』
ここから少しでも早く詰め寄って、息を入れさせない!
それしかサイレンススズカの逃げ差しを止める方法はない。走れ! 速く、もっと速く!
既に呼吸は苦しい。
肺が少しでも息を入れたいと悲鳴を上げるが、まだこんなものじゃない。練習の方が、もっと辛かった。トレーナーに訴えて、勝つために限界に挑んだ。
(もっと、もっともっと前へ! 一歩でも、0.1秒でも早く!)
『さあ向こう正面に入って――――サイレンススズカの後方1バ身ほどにサニーブライアン! そこから7バ身ほど離れてカナミクロス! カナミクロスとタイキブリザード、エアグルーヴの差が縮まってきているぞ!?』
『さあ、ここでサニーブライアンがサイレンススズカに迫る! エアグルーヴも徐々に上がってきているぞ!?』
(息なんて入れさせない――――私が、勝つ! 人気も、ダービーの栄冠も、海外の栄光もどうだっていい! ただ――――勝ちたい!)
―――――『唯、必然の勝利だけを』
瞬間、世界が変わる。漠然とそれが自分の領域なのだという理解があった。
鈍い灰色の世界に広がるのは、不屈の意志を秘めた夕焼け。
ターフを貫くような斜陽の輝きを踏みしめて、燃えるような力を感じる脚を踏み抜く。
『サニーブライアンが並んだ! 第三コーナーでサイレンススズカに並びかけたのはサニーブライアン! 両者一歩も譲らぬ熾烈なデッドヒート!』
「―――――私たちの景色は、譲らない…!」
瞬間、二連星を抱き寄せるようにしてサイレンススズカが想いを力に変える。
加速したサイレンススズカに、しかし領域の加速を得たサニーブライアンが追従する。
――――――『Silent Stars』
『サイレンススズカ、ここで加速! サニーブライアン僅かに離れたが食らいついている! さあ最終コーナーを回って直線に入る! エアグルーヴとマーベラスサンデー、シルクジャストが一気に差を詰めているぞ!?』
瞬間、踏み込んだスズカが僅かに体勢を崩した。
『ああっと!? ――――サニーブライアン、先頭! サニーブライアンが先頭! エアグルーヴ、マーベラスサンデーが差を詰める! 内からシルクジャスト!』
(何が――――)
バ場状態の悪い芝に左足を取られた、らしいのはなんとなくわかった。
僅かにそれに気を取られた瞬間―――。
ぞくりと肌の粟立つ感覚とともに、見慣れた栗毛が並びかけてきた。
『――――内から再びサイレンススズカ! サイレンススズカだ! 僅かに足を取られたように見えましたが食らいついていく!』
『サイレンススズカとサニーブライアン、完全に並んだ! エアグルーヴとマーベラスサンデーは離れている! 外からシルクジャスト! シルクジャスト追いすがる!』
(――――っ、勝てる! ―――勝つんだ、此処で!)
脚色では劣っていない。
若干左足を庇うような不自然な走りになっているスズカと速度が同じというのは心底嫌になるが、それでも今しかない。
ヒューヒューと空気が漏れるような音がする。ガンガン頭を打ち付けるような痛みも止まらない。なんでこんなに苦しいのに走らないといけないのか――――勝てば、その意味も分かるのだろうか。
――――――『先頭の景色は――――譲らない!』
(な、んで――――)
領域――――二つ目。
どこまでも続く芝と、何処かへつながっている道。
庇っていた左足をターフに叩きつけて、サイレンススズカが加速する。
「ま、だだ――――ァッ!」
それでも、食らいつこうと前へ。
そこがゴールだった。