――――おかしい。何かがおかしい。
普段なら安心して眠れる、お兄さんのベッド。
いつもの洗剤と、お兄さんお気に入りのちょっとハーブの香りのするシャンプー。ちょっぴりの汗のにおい。
普段なら幸せの気持ちのままぐっすり眠ってしまうスズカだが、どういうわけか心臓はレースの時のように早鐘を打っているし、背中に回されたお兄さんの手がくすぐったいやら心地よいやらで眠るどころではなかった。
(………どうしてかしら)
抱き着くのも、頬を擦り付けるのも。何故だか恥ずかしくてたまらない。
そう、キスについて考えてからだ。
漫画でも、ドラマでも。恋人とか、好きになった人たちはキスをする。
なのにお兄さんはキスしてくれない。ちょっと困った顔で『大人になったらな』とだけ言うのだ。……漫画とかのことを思えば、私の方が大人だと思うのだけれど。
だから、キスしてみたかった。
逆に言えば、キスすれば大人ということなのでは? 大好きなんだから、いいんじゃないだろうか。けれど、どうしても決心がつかない。
もしも嫌がられたら、というのもあるけれど。
ただ唇を触れ合わせるだけなのに。それがどうしようもなく恥ずかしくて―――でも、どうしてもしてみたかった。
「……お兄さん? 寝てますか?」
返事は無い。
なんとなく幸せそうに眠っているお兄さんに悔しくなる。
(わたしはこんなにドキドキしてるのに……)
本当に寝てるか試してしまおう。
そっと頬に唇を寄せて―――そっと触れる。
特段なんてことはないはずの肌の感触。でも、なんとなく特別なことをしているような――――もしかするとお兄さんの味なのかな、なんてことを考えて。
「……お兄さん」
私だけの……。
とはいえ、なんとなく自分だけこんなに幸せでドキドキしてむず痒い気持ちなのに、お兄さんはぐっすり眠ったまま。
やっぱり起きてるお兄さんがいい。
お兄さんにキスしてほしい。
……むしろ起きてくれないだろうか。そんな思いでさっきより大胆に頬に唇を当てて――――。
「……ワキちゃん」
「ひぅっ」
心臓が飛び跳ねたように思えて、尻尾も飛び上がる。
恐る恐る顔を上げると、ちょっとだらしない顔をしたお兄さんは目を瞑っていて。
「……うまぴょいは……まだはやい……」
「……………お、お兄さん…?」
ね、寝てる…。
一体何の夢なのだろうか。でも、起きちゃったのかと思った…。
心臓の鼓動は痛いくらいで、恥ずかしさと緊張と安堵と。ほんのちょっぴり残念な気持ち。
「……寝ましょう」
こんなに緊張していたら身が持たないかもしれない。
でもやっぱりチューしたい気持ちと戦いながら、目を瞑って――――。
(………ウソでしょ。眠れない)
お兄さんの匂いを嗅いでいるとなんだかドキドキしてきて、眠れなくなってきた。
そんなはずは。とムキになってみたものの―――。
………
……
…
「スズカ…?」
「……あ。おはようございます……」
目が死んでる…!?
目の下にくっきりと隈をつくったスズカは、とんでもなく眠そうな顔で抱き着いてきていた。
「ど、どうした。何かあったのか…?」
「……その、眠れないんです」
「……なんで?」
「……………………だって」
だって何さ。
とはいえ辛抱強く待っていると、拗ねたようにスズカは唇を尖らせた。
「お兄さんが………チューしてくれないから」
「………えぇ」
どんだけキスに興味があるんだ…。
キスにもうムチュー……いや、これはルドルフと話す時のために取っておこう。
仕方ない。こうなったら荒療治だ。
「キスしたら寝る?」
「………え? ……………ぁ、その、えっと………はい」
お前キスされる想定してなかったのか。
とりあえず動かないように顔の横に手を突き。ぎゅっと目を瞑ったスズカのおでこにキスをした。
「はいキス」
「…………お兄さん。私、子どもじゃないです」
一瞬すごく微妙な顔になったものの、耳と尻尾はご機嫌みたいである。
そのままゆるやかに頭を撫でてやると、よほど眠かったのかすぐに寝息を立て始めて。
穏やかに眠るスズカに安堵のため息をひとつ。
原因は、なんとなく分かる――――走れないせいだろう。普段ならとりあえず近くに誰かいて、あと走っていれば満足だったのに、捻挫したばっかりにスズカが欲求不満に…!
先頭欲、食欲、睡眠欲。
先頭欲が満たされないので、代わりの欲でも出てきたのかもしれない。
「……流石に不味いな」
この機会に寝室別にできないだろうか。
なんでコイツ無防備に寝てるんだよとか、満足そうな顔しやがってとか、いろいろと言いたいことはあるが……ここはスズカに倣って――――走ってくるか。
「煩悩退散…!」
これ以上此処にいたら何をしでかすか分からないので、逃げるように着替えて部屋を出る。幸いにも、スズカの指導をする上で走りのフォームなど基本的なことは全て勉強してある。結局ウマ娘は走りたいフォームで走るのが一番だったが。
可能な限りスズカにやってもらう前にトレーニングを確認していることもあり(あとスズカが一緒に走ると喜ぶので)、それなりに体力もある。
そんなわけで、河川敷近くのランニングコースを走っていると。
「――――あら」
「あ」
どっかで見たことあるような葦毛。スズカほどではないがスリムなそのウマ娘は……めじょまっきーん……メジロマックイーン!
なんとなくお嬢様な雰囲気でランニングしているその姿に、つい悪戯心が。
「昨日のユタカ――――」
「――――最高でしたわね! 最終回フルカウントからのカーブを掬い上げる芸術的な――――はっ」
「いや分かる。ユタカ最高だもんな」
「わ、忘れて下さいましっ!」
控えめに言っても面白すぎるのである。ゴールドシップがやたらとマックイーンに構いたがるのも分かる気がする。
「というか、スズカさんはどうしたんですの?」
普通にセット扱いなのか…。
まあ確かに別行動する方が珍しいが。
「アイツは寝てる」
「……すみません、お怪我をされているのでしたわね」
いや、一緒に寝たら寝不足になっただけだが……。
待てよ。もしかしなくてもメジロ家なら何かスズカの欲求不満を解決する方法があるのでは。
「ところで相談なんだが――――走れないスズカのストレス発散に良い方法知らない?」
「えっ。………貴方がやれば何でも喜ぶのでは…?」
……いやまあ。うん。
でもほら、最近ちょっと色々問題もあるし。
「………最近キスを強請ってくるんだ」
「はぁ。して差し上げればいいと思いますが――――」
何だかんだと言いながらも考える素振りを見せてくれるマックイーン。やさしい。
「ユタカ以外で頼む」
「分かってますわよ!?」
「やはり此処は――――スイーツ食べ放題」
「スぺちゃんならともかく、スズカだぞ…?」
また私ですか!?
と叫ぶ脳内スぺちゃん。あげません!は実際に見てみたいがテイオーほどうまく想像できない。スぺちゃん良い子だし。
「では……デート、とか」
「デートとか絶対キスしたがる流れじゃん…」
「――――むむむ。仕方ありませんわね、正直あまり得意な分野とは言えませんが。スズカさんのためなら助力も惜しむべきではありませんし」
と、スマホを取り出しコール。
出たのは聞き覚えのある特徴的な高い声―――テイオーだった。
『マックイーン、珍しいね。どうしたのー?』
「テイオー、少し知恵を貸していただきたいのです」
というわけで事情説明。
ちょっとジト目になったテイオーは、こちら(画面通話になっている)を見ながら言った。
『大体さー、トレーナーが悪いよね。あれだけ普段から甘やかしてるのに、恋人でもなんでもないんでしょ? 普段から勘違いしそうなことばっかり言ってるし』
「うっ」
だって……スズカが寂しがるから……いや、確かにいつかは突き放すべきだったのかもしれないけれど。本当なら全寮制のトレセン学園に入った時点でそうなるはずだったのかもしれないが、トレーナーだし。一応あれでも最近はスぺちゃんとか、タイキ達同期組とは仲良いみたいだし。
「………いっそ俺が恋人でも作れば―――」
「ユタカにバントさせるくらい愚策ですわ」
『もし本当にやったらゴルシに絶対秘密にしてね、って言っとくよ?』
それ即座に知れ渡るヤツ!
別に浮気じゃないのに浮気男扱いされそうな気しかしない。
「別に恋人じゃないのに……」
『別に、スズカに不満があるわけじゃないんでしょ?』
そんなものあるわけない。
胸がもうちょっとあったら言う事ないが、でもスズカはあれが一番似合うと思うし。つまるところ問題なのは
「年齢」
『………ふーん』
俺だって男なので、やりたいことの一つや二つある。
なのでそんな汚物を見るような目で見ないでください。マックイーンはなんとなく分かってなさそうだが。
「……年上好きですの?」
「いや、未成年がアウトなだけ」
「男の人は学生を好むと聞いたような覚えもありますが―――」
「でもそれ犯罪だからね」
「では、婚約してしまえばいいのでは?」
「………えぇ」
めっちゃ名家な発想来た。
確かに保護者と本人の同意は簡単に得られるだろうが、結局のところ現役の間は―――いや、まあ色々手はありそうだけど。
『というか、今はスズカの気分転換の話でしょー?』
「そうだった。なんかこう、ウマ娘的にストレス発散できそうなことは無いかな」
ヒトミミならカラオケとか、酒……はダメだが、プールとかゲームセンターとかか。
『カラオケかな』
「ショッピングはどうです?」
「カラオケは俺もちょっと考えてたけど、ショッピングか」
女子ならではかもしれない。
スズカとショッピングだと確実にシューズとか蹄鉄になるが、そのへんはスポンサーが提供してくれてるし。
「何を言っているんですの、洋服ですわよ」
『まぁトレーナーに褒められたら機嫌良くなりそうだよね』
「えー。だって冬服持ってたぞ?」
「はぁ」
『全っ然ダメだね』
そんな馬鹿な。
いや確かに男女で持ってる洋服の数は違うだろうが。でもアイツ基本的に俺があげたコートとか、後は二人で選んだ服ばっかり……あっ。
「……もしかしてもっと買ってあげるべき?」
「今更ですの?」
『まあ、スズカいつもジャージだし分からなくもないケド』
ジャージの理由はもちろん走りやすいからである。
アプリの私服スズカのあのお嬢様みたいなブラウスは凄まじく似合うと思っていたので、この前買ってあげたのだが。言われてみればお出かけ着は絶対足りていなそう。
給料はかなり貯めこんでいるし、ちょっとやそっと買ったくらいなら痛くはない。
あげた服をスズカが着てくれるのは正直見たいし。
「ありがとう、二人とも! とりあえず誘ってみる!」
「頑張ってくださいまし~」
『変な服選ばないでよねー』
そんなわけで走って帰宅すると――――玄関で笑顔の母親と出くわす。
猛烈な悪寒に襲われつつ、スルーしようとするが。
「お嫁さんを放って出かけるとはいいご身分ね」
「いやワキちゃんは嫁じゃないし……」
とりあえずもし結婚することになったとしても嫁姑問題の心配はいらなさそうである。
代わりに俺の立場は消えそうだが。
「ワキちゃん、お兄さんに置いていかれたって悲しんでたわよ」
「うっ」
起きるの早くね…?
とはいえ、一応忠告には感謝。ワキちゃんの機嫌に注意しなくては。
というわけで、扉を開けて――――。
―――めっちゃ左旋回する布団がリビングに。
「……ワキちゃん?」
「お兄さん……?」
ガバッ、と投げ捨てられる布団と、満面の笑顔――――が萎れるワキちゃん。
「………お兄さん、女の人と会ってきたんですか」
「ん? ああ、ランニングしてきたらマックイーンとばったりな。それよりワキちゃん、今日の午後暇?」
「…? えっと、はい」
「じゃあデートしようぜ」
「…………でーと?」
でーと、デート……と何度か咀嚼している間に耳と尻尾が元気になっていくワキちゃんは、最終的にちょっと心配そうな顔で言った。
「……お兄さん、何か変な物を食べたとか…?」
「無いよ?! ちょっとお前と買い物に行きたくなっただけだ。……行かないなら別の――――「行きます」―――はい」
一瞬、レース中のスズカみたいな
ともかく、そういうことになった。