放課後。
緊張を紛らわすために打ち込んでいた備品発注の仕事だったが、トレーナー室の扉が開いた音で完全に手につかなくなる。
こそこそと入ってくるのは珍しいが、時間的にも扉の開け方的にもスズカっぽい。
何気ない風を装って背後を振り返り――――何故か怒られる寸前みたいな情けない顔のスズカと目が合った。多分、俺もそんな顔をしていたと思うが。
「……その、ごめんなさい。朝、寝坊してしまって……」
「そ、そっかー。まあ寝坊くらい誰にでもあるから気にするな」
言いながら、何で家に来なかったのか聞きたくなったものの――――元々一緒に寝ていたのも、なし崩しでそうなっていただけで、こっちから言い出したら普通に事案なので口を閉じた。
「あの、お兄さん……お昼は…?」
「あっ」
そりゃあ普段一緒にお昼食べてるのに、何も言わずにいなくなったら心配するに決まっている。……ちょうど朝にスズカがやったのをやり返したような構図である。
「ごめん、ちょっと焦って連絡忘れてた」
「そうですか…!」
心底安堵した様子のスズカに申し訳なくなると同時に、自分も安心する。
まさか寝坊一つでここまで大騒ぎすることになるとは……。
いやしかし、俺と寝てくれと言うのはあんまりにもアレである。間違いなくアウトである。
煩悩に悩まされずに済むと思った方がいいのだろう。
……散々別に寝ろと促していたのは俺だったし。
――――原因、俺だわ!
安心したような、気が抜けたような。
勇み足で用意してしまった指輪が重い……。
「あの、お兄さん……?」
がっくりと肩を落とした俺に心配そうに近づいてくるスズカ。
触れそうで触れない、そんなもどかしい距離に負けて、スズカに手を伸ばした。
細い腰に腕を回し、抱きしめるようにソファに引き寄せる。
流石に驚いたのか尻尾が飛び上がったものの、さしたる抵抗もなく胸に収まったスズカの重みを確かめるように、抱きしめる力を強くして。
「………あ、の……お兄さん…?」
走るために特化したような、しなやかで細くて、でも不思議と柔らかいスズカの身体を勝手に堪能していると、流石に困惑したようにスズカが顔を上げた。
「嫌じゃなければこのままハグさせてくれ」
「……嫌じゃ、ないですけど………」
なんとなく煮え切らないスズカだが、ピコピコとせわしなく動いている耳を見るに機嫌は悪くなさそう。
「お、お兄さん。私、走ったばかりですし……お風呂入ってないですし……」
「………えー。いい匂いだし大丈夫だろ」
いつものシャンプーと、尻尾リンスの香り。あとまあ芝の匂いと、謎の甘い匂いがするようなしないような。
「どうして嗅ぐんですか…!?」
「お前にだけは言われたくない」
「うそでしょ……そんなイメージなんですか、私」
それはそう。
ジャケットとか、ワイシャツとか、隙あらば嗅いでるし…。
そのまま触り心地のいい尻尾を撫でたり、反対の手で耳元を擽ったりすると、うっとりと力を抜いて心地よさそうなスズカが可愛い。
なんとなくイヤーキャップを外してみると、スズカにジト目で睨まれる。
「お兄さん、たとえばですけれど。勝手に靴下脱がされて、素足を擽られたら嫌じゃないですか?」
「そっか。……外していい?」
スズカの耳はフサフサで触り心地がいいので。
勝手にモフモフこりこりと耳を弄ると、尻尾で腕を叩かれる。
「…っ、くすぐったいのでダメです!」
「………ほんとにダメ?」
惚けた顔のスズカは正直かなり可愛いので、擽りたい。
そんなに押されると思わなかったのか、ちょっと悩んだ末にスズカは勝ち誇った顔で言った。
「チューしてくれたらいいですよ―――――むぅ!?」
油断していたスズカの唇に触れ、そのまま直に耳を撫でる。
顔を真っ赤にしたスズカは、拗ねたような顔のまま機嫌よく耳を動かして言った。
「………お兄さん、どうしたんですか…? 寂しくなっちゃいました?」
「そうだな」
「…………本当にお兄さんですか?」
なんか疑われている。
スンスン、と胸元の匂いを嗅いだスズカはなんとなく納得していなさそうな顔で言った。
「お兄さんがこんなだと、嬉しいですけど……ドキドキしすぎて死んじゃいそうです」
「お前が言うとシャレにならないから止めて」
即座にスズカを引き離して丁寧にソファに座らせる。そのまま離れようとすると、今度はスズカが背中に張り付いてくる。
「お兄さんだけズルいです…! 私だってお兄さんの匂いを嗅いだり、耳をくりくりしたり、ぎゅーってさせて下さい…!」
「え、ヤダ」
「……やっぱりお兄さんですね」
「なんかその納得の仕方は釈然としない」
耳元に息を吹きかけたり、囁いてきたりするスズカをやり過ごしつつ、とりあえず仕事でもするかとパソコンを開いて――――。
「あむっ」
「――――っ!? お、おまっ!? 耳!」
「んゅぅー…」
「降りろぉ!」
人の耳を咥えてもごもごしたり、舐めたりしてドヤ顔するスズカの尻尾を引っ張ってソファに降ろし。そのまま取っ組み合いになった。
「お兄さんだけズルいと思います」
「舐めるのは反則だろうが…! お前の耳も舐めるぞ」
「だ、ダメです! お風呂入ってないから絶対ダメです…!」
「俺だって入ってないぞ」
「「むぐぐぐ…!」」
尻尾を持って、マウントを取っている分だけ体勢有利なのだが。本気を出されると勝ち目はないが、じゃれあいなので互いに本気でもない。
で。扉が開いて、頬が引きつるおハナさんと目が合った。
「「あ」」
「……ちょっと貴方達、何してるのかしら…?」
傍から見ると押し倒しているように見えなくもない。まあスズカもめっちゃ笑顔だが。
二人で顔を見合わせ、とりあえず手を離して並んで座る。
なんとなくスズカが腕に抱き着いてきたので耳にイヤーキャップをもどした。
「……えーと。じゃれあってました」
「お兄さんが寂しくなったので、二人で遊んでました」
俺のせいか。……俺のせいだな。
おハナさんは頭痛がする、と言いたげに額に手を当てた後言った。
「とりあえず、誰が来るか分からないトレーナー室では止めなさい」
「「はーい」」
お咎めなし…!?
二人で顔を見合わせていると、溜息をついたおハナさん。
「ちなみに毎年責任を取らされて結婚する男性トレーナーがいるのは知ってるわよね?」
「……はい」
「…! お兄さん、チューしましたよね。しましたよね…!」
責任とって! と満面の笑みのスズカに、おハナさんと顔を合わせて苦笑する。キスで責任取らされるのは何処から仕入れた知識なのか知らないが、まあ可愛らしいもんである。
人間は物理ではウマ娘に勝てないので。
「……私のはじめて……」
「のキスな」
もっと言えば大人のキスことディープなキスもあるが。
まあそうでしょうね、とばかりにあきらめ顔でコーヒーの用意を始めるおハナさん。
「もう貴方達は諦めたから、とりあえずバレないようにやって頂戴」
「わー、諦められてる……」
「チューってバレちゃいけないんですね……」
いやまあ心配されてるのはもっと別のことかもしれないが。プロレス的な。
おハナさんの目線が「とりあえずアンタが責任もって監督しなさい」と熱く語っている。まあ当然、アウトな行為はアウトなわけだが、まあスズカの場合は妙な行為に走ることもないだろうし…。
「貴方達の場合は犯罪行為にならなくても、他への悪影響は考えるように」
「「はーい……」」
「あとスズカが嫌がるような行為は慎むように」
「はい……」
「……お兄さんなら何でもいいですよ?」
ぽわぽわした顔でそんなことを宣うスズカに、おハナさんと顔を見合わせる。
「貴方がしっかり監督なさい」
「はい」
「……? お兄さんにされて嫌なこと……浮気?」
それはそうだろうね…。
「浮気したら本気で蹴っていいぞ」
「死んじゃうからダメです」
真顔で返された。
まあ確かに万が一浮気したとしてもスズカにそんなことさせちゃダメだな。自らしめやかに爆発四散すべき。
「………浮気しても、死んだりしちゃダメですよ…?」
いやそこは死んでいいんじゃないかな、とおハナさんと目を見合わせて通じ合う。
とはいえあんまりスズカを追い詰めてもアレなので、頭を撫でて誤魔化しておく。
と、だんだんスズカの耳が絞られてきた。
「………お兄さん?」
あ、やばいこれはガチで怒ってるやつ…。
「そもそも浮気しないぞ」
「………」
ちょっと口元が緩んだ。
「むしろ俺としてはスズカが可愛いからモテそうで心配なんだ」
「………むぅー」
ちょっと顔がにやけてきた。ついでに耳も戻ったので機嫌も直ったらしい。
「俺なんていつでもチューしたいくらい――――」
「え?」
「ん?」
「………いいんですか?」
無言で見つめ合い、だんだん喜色に染まるスズカに、ちょっと顔が引きつっているだろう俺。ふにゃっとした顔で目を瞑って顔を近づけてくるスズカに――――。
「ちょっと、そこの二人! 人前では止めるように言わなかったかしら…?」
「じゃあお兄さん、トイレに行きましょう」
「なんでお前そこでトイレ!?」
ぐいぐい引っ張ってくるスズカに引きずられて、トレーナー室のトイレ(リギルのトレーナー室は豪勢なのでトイレがある)に連れ込まれそうになり。
おハナさんに目線で助けを求めた。
(すみません助けてください)
(失言の責任くらい取りなさい)
そんなご無体な。
で、馬と綱引きするようなものなのでウマ娘に勝てるわけも無く。
この後めちゃくちゃチューされた。
いやまあ、一回で満足されたのだが。
―――――――――――――――――
「~~~♪」
妙な言質を与えてしまったことで、隙あらばチューしてくるようになったスズカであるが、お陰でご機嫌ではあった。特にこっちが寝ている間はタガが外れるのか朝起きたら頬とか唇とかにチューされてたりする。
しかし可愛い。チューして恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうにふにゃふにゃしているスズカを見ていると、もうなんか癒し効果が高いのでこれはこれでいい気がしてきた。でも耳とか舐めてくるのはウマソウル的なあれなのか……?
スズカでこれだと、ベロちゃんことエアグルーヴは………。
「皐月賞かぁー、僕も早く走りたいんだけどなー」
「この熱気を感じると、やはり感じるものがありますね~」
テイオーはまあ、憧れのシンボリルドルフを追いかけるという目標があるからな…。
グラスは本来なら怪我をしているハズだが、プールで余分な力を削ぎ落とす作戦は成功したらしく、無事に怪我無くここまで来れていた。
「……あっ、サイレンススズカのお姉ちゃん!」
通りがかった幼女が声を上げると、ご機嫌なスズカは笑顔で手を振り。
サインを強請られて快く応じていた。
まあ、そんなことしたらサインの要望が殺到するわけだが。
「サイン下さい!」
「次のレースも応援してます!」
「ドバイ凄かったです! タイキシャトルさんと海外初GⅠおめでとうございます!」
「スズカさんの走り大好きです!」
「お兄さんと結婚はいつですか!?」
「いつですか…!?」
「お前も乗るな」
緊迫した顔で迫ってくるスズカだが、ファンサービスに集中して欲しい。
そう伝えると渋々サインに戻ったスズカ。なんやかんやでこのくらいなら一人で行動できるようになってきているので、テイオーとグラスと一緒に並んで見守る。
「すみません、そろそろレース始まるので……」
見れなくなると困るので、ほどほどで切り上げて観客席へ。
子どもにだけはオマケでサインするスズカだが、まあ民度が高いのでそれは許された。ウマ娘の血が混じったおかげで人間も穏やかになってる説。
「さすが、無敗の六冠ウマ娘だよねー。あと一勝でカイチョーと同じだもんなー」
会長はその頃には無敗ではなかったわけだが、つっつくと喧嘩になりそうなのでそっとしておこう…。
「そうですね。私たちも、スズカさんのように皆さまの夢になれるウマ娘になりたいものですね」
闘志を燃やすテイオーとグラスだが、そのスズカはいつものポヤっとした顔でスペシャルウィークの心配をしていた。
「スぺちゃん、大丈夫かしら……」
「まあ、沖野先輩もいるし大丈夫だろ」
レース結果は大丈夫じゃないかもだが…。
まあ史実通りセイウンスカイが勝つのか、あるいはちょっぴりダイエット成功したスペシャルウィークが勝つのか、はたまたキングヘイローか。
担当がいないので気楽でいい。
『クラシック三冠の第一関門、皐月賞。グレードⅠのファンファーレが中山レース場に響きます。注目はやはりスペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイローでしょうか。展開はどう予想されますか?』
『そうですね、内枠を取ったコウエイテンカイが逃げ宣言をしているので、セイウンスカイは二番手に控える形になるんじゃないでしょうか』
『さあゲートインを嫌っていたセイウンスカイがゲートに入って、最後は大外スペシャルウィーク、落ち着いていますね』
『気合十分、期待できそうですね』
「お兄さんは、どう思いますか?」
くいくい、と袖を引きながらスズカが問いかけてくる。
いや、予想しろと言われても……ある意味カンニングしてるようなものだからな。ウンス、キング、スぺの順になる。が、スズカにカッコつけて妙にハードルをあげられても困る。
「セイウンスカイ、スペシャルウィーク、キングヘイローで」
「………お兄さん、それペアチケットですよね?」
そう。3連単ペアチケットなので、当たればスズカと二人で最前列。
是非ともスぺちゃんにはアンクル+プールトレーニングの力を見せて欲しいところだが…。まあ外れたら外れたで別にいい。
と、スズカも見せてくれたのはスぺちゃん単勝のペアチケット。応援チケットかな。
別にJRAと違って関係者が買っちゃいけないルールはないので問題ない。
「二人はどうしたんだ?」
「僕はねー、スぺちゃん、キング、セイちゃん」
「私はスぺちゃん、セイちゃん、キングちゃんですね」
「もし当たったらはちみー奢るぞ」
「ホント!? スぺちゃーん、頑張れー!」
「あらあら」
『さあ、体勢整って――――スタートです! さあ先行争い。やはり行きましたコウエイテンカイ、外の方から少し掛かったようにセイウンスカイが二番手。その後方からキングヘイロー、スペシャルウィークは後方三番手くらいにつけています』
なかなかハナを取らせてもらえないセイウンスカイだが、上手く控えている様子。
そのまま脚を溜めたまま最終コーナーに差し掛かり――――。
『さあセイウンスカイ交わして先頭に立つ! その直後にキングヘイロー、キングヘイローが取りついた! 大外からスペシャルウィーク、スペシャルウィーク来た!』
領域――――大海原で待ち構えるセイウンスカイが、大物を釣り上げるイメージとともに最終コーナーで先頭を奪って加速する。
クラシック初戦から領域、かなりハイレベルな戦いである。が、その後方から今度は別の領域――――流星を力に変えてスペシャルウィークが一気に加速して先頭を目指す。
スズカの時はフクキタルと神戸新聞杯で戦った時が初の領域対決だっただろうか。
後に黄金世代と言われるだけはある、と戦慄する。
『セイウンスカイ逃げる! 逃げ切るかセイウンスカイ! キングヘイロー追う! スペシャルウィーク猛烈な追い上げ! さあスペシャルウィーク、キングヘイローに並んだ、並んだ!』
(くっ、負けるものですか――――ッ!)
(根、性ぉっ!)
(ま、だだァ――――ッ!)
『先頭三人の猛烈な争い! セイウンスカイ逃げ切りか、二人が差し切るのか――――並んだ! 大接戦でゴール!』
「「「………」」」
全く結果の分からない大接戦に、思わず四人で――――というか、レース場が静まり返る。小さなざわめき、「誰が勝った?」「いや、分からなかった」というような声がやけに大きく聞こえる中、表示された『写真』の文字に喧噪が戻ってくる。
「え、トレーナー分かった?」
「俺に聞くな……微妙にセイウンスカイ有利か?」
「私はスぺちゃんが少し有利に見えましたけど…」
「私が見る限りでは、キングちゃんとスぺちゃんは同じくらいでした」
ここで胸差でキングヘイローかな、と言ったら袋叩きに遭いそうだな…。
とはいえ、分からないものは仕方ないので結果待ちである。
レース場のウマ娘たちも、観客も固唾をのんで見守る中――――。
一着セイウンスカイ
ハナ差二着、同着でキングヘイローとスペシャルウィーク
僅かながら変わり、大筋の変わらなかった史実。
その運命的な何かに、なんとなく不安になりスズカの手を握りしめた。