――――皐月賞を終えて、NHKマイルCが近づいた頃。
私はいつものようにお兄さんと一緒に過ごしていたのだけれど―――。
(最近のお兄さん、少し変では…?)
ハグしようとしても避けないし、むしろお兄さんからぎゅーっとされるせいでなんだか恥ずかしい。それ以上に嬉しいけれど。
チューだって、お兄さんからしてくれはしないけれど、ダメとは言われないし。
そう、つまりなんというか……。
(………前のお兄さんに戻った!?)
そう! トレーナーさんになってから意地悪だし構ってくれないしお風呂もトイレも寝るのもダメだしあーんもしてくれないしお出かけもできないし……という状況が1年半くらい続いたので感覚がおかしくなっていたけれど、これが元々だった気がする。
……なのに。
(……どうしてこんなに胸が苦しいんでしょうか)
いつも、これで満足していたのに。
これ以上なんて考えられないくらいに幸せだったのに、もっと、もっとと際限なく湧き上がってくる。“好き”って気持ちだけあればそれで満足だったのに、今はその気持ちに駆り立てられるように、もっともっとずっとお兄さんのことを求めたくなる。
でも、それはなんとなく恥ずかしいような……。
というか流石にお風呂でぎゅーっとするのが恥ずかしいくらいのことは分かってきた。お兄さんにならいいかな、とも思うけれど――――……うん、いっっっぱいチューしてくれるくらいじゃないと、ちょっと無理かもしれない。
でも、やっぱりお兄さんといるのは嬉しくて、楽しくて。安心して、でもドキドキして――――やっぱりいつまでもこうしていたくて。
「お兄さん、今日の放課後は――――」
「悪い、スズカ。そろそろNHKマイルがあるから、グラスの練習をみないと。後、最近走りすぎだから今日は休養日な」
………。
正直なところ、働いているお兄さんは好き。いつも頑張っているし、真剣な横顔や、仕事中に目が合った時のちょっと「仕方ないなぁ」という顔も好き。
でもそれを我慢できるかというと――――。
「お兄さ―――――んっ!?」
「代わりと言ってはアレだけど、明日の金曜の夕方からデートしよう」
急に抱きしめられたかと思うと、耳元で囁かれる。
おまけでそっと耳を撫でられると、この前の耳かきを思い出して顔が熱くなる。
「………お、お兄さんっ、イヤーキャップをしてる人は耳が敏感なんですよ…?」
「知ってる。というかワキちゃん前から耳弱かっただろ」
そのまま耳に手を掛けたお兄さんから逃げ―――…なくてもいいかな。
くすぐったいのは嫌だけれど、それはそれとしてあの心地よさには抗えなくて。
「……だから、その……もっと、優しくしてください」
「―――――えーとだな。よし、また今度な」
「お兄さんっ!?」
逃げた!?
そのままグラスのところに行ったお兄さんに、火照った頬とすごくドキドキしている心臓とともに放っておかれた私は、すごく釈然としない気持ちを抱えたまま、頬を膨らませてスぺちゃんに会いに行くことにしたのだった。
「あっ、スズカさーん! いらっしゃいー!」
「スぺちゃん!」
ひしっ。
体操服姿のスぺちゃんと抱き合うと、仄かに香るにんじんソース。……スぺちゃんらしいですね。なんとなくスぺちゃんも「スズカさんらしいですね」という顔をしていたのでスピカの皆に自慢しておく。
「昨日はお兄さんと寝る前にプロレス?したから、お兄さんの匂いがするでしょう?」
「……えっ!? プロレスしたんですか。いいなー、楽しそうですね!」
「へぇー、いいなー楽しそうじゃねぇか」
「そうね。もしやるなら絶対負けないけど」
「ツッコミ不在ですの!?」
「いやー、ちょっとアレは止められねぇわ……」
お兄さんは擽ってきたり、負けそうになるとチューで気を逸らしてきたりするのでとっても卑怯だったり。最終的には寝技でお兄さんが降参したけれど。
「でもお兄さん、NHKマイルがあるからーってグラスばっかり……」
「えっ、普段はスズカさんのことばっかりのような…?」
「それは分かっているけれど……」
仕事でもお兄さんが他の子のところにいるのは、やっぱり寂しくて。
でもなんとなくここに来るのを知っていたような反応から考えて、スぺちゃんにあらかじめ話をしてくれていたらしいお兄さんに、ちょっぴり嬉しくなる。
「でもありがとう、スぺちゃん。お兄さんに聞いていたのよね」
「え゛っ」
「あーっ、そ、そうですわ! あらかじめスズカさんが寂しくないように、と!」
「おう、歓迎してやるぜ!」
「そ、そうそう! 全然怪しくなんてないからな!」
「も、ももももちろんよ!」
……?
なんとなく隠し事をされているような気はするけれど、お兄さんの浮気に協力はしないと思うし…。
「と、ところでスズカさん! お兄さんがスズカさんにって部室にお菓子を用意してくれたんですよ! 手作りのいちご大福とか!」
「―――――行きましょう、スぺちゃん!」
半分くらい本気でスタートダッシュを決め、スピカの部室へ。
スぺちゃんのことだから残してくれているとは思うけれど、お兄さんの手作りお菓子だけは譲らない…!
特別お兄さんのお菓子が上手というわけではないのだけれど。
でもやっぱりお兄さんの手作りなら嬉しいし、食べれば分かる。そんなわけで絶対にいちご大福だけは一番たくさん食べるつもりだったのだけれど。
「いやあの、スズカさん? お兄さん、私たちにもたくさん用意してくれていますから…」
「そんなに焦らずとも……」
でも、もしかしたら「このいちご大福美味しいですわ! これで決まりですわ! パクパクですわ!」とか「こんなおいしいいちご大福、あげません!」ってなるかもしれないし……。
「流石にそこまで野暮だったらアタシが蹴っ飛ばしてやっからよー」
「って、ゴールドシップさん!? その手の……いちご大福!?」
言われてみれば、ゴールドシップ先輩もいちご大福を持っている。
が、凝り性なお兄さんがいつも使っているいちごじゃなさそう。
「普通の市販品、ですよね?」
「………うわぁ。やべえぞスぺ、トレーナーガチ勢だ」
「最初から知ってますから、変な悪戯仕掛けないで下さいっ!?」
「ふふふ、スぺちゃん達も好きな人ができたら分かるわ」
「「「………」」」
(いや、分かると思うか?)
(無理じゃないかなーと)
(そんなになるのスズカ先輩くらいでしょ)
(だよなぁ)
「そういやトレーナーの初恋っていつなんだろうな」
「………はつ、こい」
ちょっと待って。
確かに私は小さい頃、お兄さんが中学生、高校生の時は離れ離れの時間がけっこうあった。
つまり、実はお兄さんには好きな人がいた可能性が――――?
「――――ちょっとお兄さんに聞いてきます」
「「「!?」」」
「ちょ、ちょっと待って下さいまし! 今は――――」
「は、はい! ちょっと待って下さいスズカさん!」
「?」
何故か引き止められると、猛烈にお兄さんに会いたくなってくる。
もしかしてお兄さん、何か企んで――――。
「あ。そうだ、お菓子のお返しくらいはあった方がいんじゃねーの」
と、ゴールドシップ先輩の言葉にちょっと眉を顰める。
確かに、いちご大福のお礼は用意したい。せっかくだからお兄さんには喜んで欲しいし、ならお兄さんの好物を作るしかない。
「――――ちょっとパイを焼きます。生地から作らないと…」
「すごい本格的…!?」
「材料の用意は手伝いますわ」
「スズカ先輩ってけっこう凝り性なんだな…」
「きっと集中力があるのよ。ウオッカと違って」
「なんだとぉ!?」
「なによ!?」
………
……
…
そんなこんなでアップルパイを焼いて、お兄さんに振る舞い。
喜んでくれたお兄さんに満足して色々と忘れた次の日――――の、放課後。
「――――デート…!」
そう、今日はなぜかデートの日…!
お兄さんが(特に何のご褒美でもなく)誘ってくれるのはかなり珍しい。
こんな時のために義母さんと新調したお出かけ着を着て、お化粧もいつもより真剣に。
しっかり準備して家を出ると―――既にお兄さんが車で待っていて。
「………お兄さん?」
「スズカ、今日は一段と綺麗だな」
「………」
「あれ、スズカ?」
一段と綺麗……?
褒められたらしい、と認識するのに若干の時間がかかってしまった。
新手の意地悪だろうか、と疑いつつも頬が熱くなる。
「お兄さんも、かっこいいですよ…?」
「ありがとう、スズカにそう言ってもらえると嬉しいよ」
「…!? だ、誰ですか…!?」
「いや、スズカが間違えるわけないだろ……」
それはそうですけど…!
匂いもお兄さんだし、ちょっと困った時の笑い方もお兄さん。
だけど、なんだかその……。
「お兄さんが恥ずかしがらない…!?」
「お前にだけは言われたくないんだよなぁ……でもほら、恥ずかしがるスズカを見るのは正直楽しい」
「……おにーいーさんっ!」
お兄さんのことは大好きだけれど、意地悪なのは……あんまり好きじゃない。
でもなんとなく、お兄さんらしいな、とは思う。
………お兄さんが意地悪なの、私にだけですし。
というか、お兄さんもけっこう私のこと大好きですよね…?
なんとなくじとーっとした目を向けると、お兄さんはおもむろに手を伸ばして。
「じゃあ、行こうかスズカ」
「……はい」
何気なく手を繋いでくれるお兄さんに、いつもこうしてくれたらいいのに、と思いつつ。車に乗って何故か学園へ。
「忘れ物を取りにな」
「……珍しいですね?」
お兄さんでも忘れ物するんだ、とちょっと新鮮な気持ちで、二人で部室に入り。その瞬間。
「「「「「お誕生日、おめでとーう!」」」」
「え?」
パンパンパン、とクラッカーが鳴り響く。
思わずお兄さんの背後に全力で隠れてしまい、横からこっそりのぞくと、スぺちゃん、グラス、テイオー、タイキ、フクキタル、ドーベル、ブライト、スピカの皆と見知った顔の友人たち。
壁を中心にしっかり飾り付けられていて。
机には大きなケーキもおかれて、ちょっと癖のあるお兄さんの字で『スズカ、誕生日おめでとう』と書かれていて。
「さあさあスズカさん、どうぞ!」
「こちら、プレゼントですっ!」
「おめでとー!」
「おめでとうございます」
「おめでとう」
「おめでとうございます~」
「おめでとうございますわ」
「おめっとー」
「「おめでとうございます」」
「……お兄さん」
「どうした?」
やりきった顔で眺めているお兄さんに抱き着いて、初めて私から―――起きてる時にはだけれど―――チューする。
「ありがとうございます。大好きですっ」
――――帰り道。車が止まったのは家の前じゃなくて。
トレセン学園の近くにある、ランニングコースにもなっている小高い丘の上だった。
星空の代わりに輝く、無数の建物の灯り。
「本当は、もっと高級なところにしようかと思ったんだけどな――――なんというか、こっちの方が俺たちらしいかな」
「……お兄さん?」
どうしたんだろう、と思ったところで大きくため息を吐かれた。
「お前、気づいてなかったのか……」
「え、何をですか? ……今日あんまり走ってない、とか…?」
「もちろん違う」
「むぅ」
なんとなく悔しい。
なんだか小動物でも見るような目で見られるけれど、私はもっと、こう……お兄さんをドキドキさせたいのに。
「じゃあ、お兄さんが私を大好きなこと…?」
「なわけ――――あるけど」
「……え?」
「スズカ、これが俺からの誕生日プレゼント―――俺の気持ちだ」
小さな箱。
そこに光る緑の石と、銀色の指輪。
すごく綺麗で、もっとよく見たいのに。
どうしてか視界が滲んでよく見えなくて。
「………泣くなよ」
「……………だって」
あんまりにも普段と変わらなくて、夢だったんじゃないかなって。
そんな風に怖くなることもあって。お兄さんのことだから、意地悪でいつまでも引き延ばしたりしそうですし…。
「……待たせすぎだと思います」
「ごめん」
「――――でも、大好きです」
これが、私の欲しかった景色。
一緒に走り抜けて、私たちの走りを皆に認めて貰って。
誰よりも傍で、一緒に歩んでいきたいから。
「……結婚式のチュー、楽しみにしてますね」
「…………結婚式は、BCの後かなー。JCか有マ、どっちか出てくれって頼まれそうだけど」
………あれ?
「お兄さん、もう結婚ですよね?」
「……スズカ、これ婚約指輪」
「……? 結婚指輪ですよね?」
「だから婚約指輪」
こん、やく?
あれ、この前告白してもらって、婚約したような?
指輪渡してなかったから、これだけくれたの…?
「――――どうして結婚してくれないんですか!?」
「お前が生徒だからだけど…」
うそでしょ……お兄さんに騙された!?
「じゃあ私生徒やめます」
「辞めるな。レース走るんだろ」
「私の将来の夢はお兄さんのお嫁さんなので、レースなんて知らないです」
「俺たちの夢だろ、レースは」
お兄さんに抱きしめられる。
チューくらいじゃ譲らないですよ、とお兄さんを睨んで――――。
そう、それこそいっぱい、ずうっとチューしてくれないと。
そんな気持ちでいたのだけれど。
唇が合わさった時、そのまま舌が入ってくる。
目を白黒させている間に、いいように弄ばれて――――でもお兄さんをこれまでにないくらいに感じられて、気持ちよくて。頭がぽわぽわしたまま、お兄さんに優しく頭を撫でられた。
「…………へふぇ」
「スズカ、レース頑張ろうな?」
「………ふぁい」
「結婚式、今年の冬な」
「………はい」
「じゃあ明日からも練習頑張ろうな」
「……あの。もう一回……チューして下さい」
「ダメ」
うそでしょ……。
その後、どんなに強請ってもお兄さんはさっきのチューはしてくれなくて。
でも、左手の薬指の指輪を見ると、自然と笑みが浮かぶのだった。