スズカはBC後の調整のために軽めの負荷にしてはいるものの、それでもトレーナーの仕事が減るわけではない。グラスのマイルCSのために着々と準備を進めつつ、テイオーの脚の状態も確認、ケアもして……その後に諸々の雑務をこなしていたので、遅くなってしまった。
「……お兄さん、お仕事終わりましたか?」
「終わってない……けどまあ明日でもいい仕事だな」
「じゃあ、ご飯。作っておきました」
「お、ありがと」
簡単な調理場があるリギルの部室の豪勢さよ…。
というわけで、魚の煮つけに、ほうれん草の和え物、みそ汁、ご飯――――って昨日の料亭のヤツじゃねぇか!?
「いやあの、スズカ…? これ大変だったんじゃ……」
「だってお兄さんがあんまり走っちゃダメって言うので」
暇だったのか…?
いやでも何となく耳の動きがこちらの反応を窺っているあたりけっこう頑張ったのは間違いない。元々料理はそれなりにやっているし、凝り性なので少なくとも俺よりは上手いが。
とりあえず手を合わせていただきます。
できたてなのか温かい、とりあえず昨日話に出た和え物から……うまっ!? 優しい塩加減、適度な酸っぱさに、出汁がしっかり効いているこの感じ……料亭と遜色ない!?
「う、美味い……何、どうやったんだスズカ…!?」
「……えっと、サインを書いてお願いしたらレシピをくれました」
そういえばコイツ現役なら世界最強のウマ娘、大スターだった…。
スッとスズカが掲げたスマホを見ると、SNSでスズカがサインと一緒に映っている写真がバズりまくっていた。宣伝効果高そう。
でもまさかレシピをくれるとは…。
「“私たち”の走りのファン、なんですって」
「………そっか」
そういうことなら有難いことこの上ない、美味しく頂かせてもらおう。
うわー、魚も美味い……みそ汁はいつもの味にアクセントを加えたのか、絶妙に好みの味だ。今ならスズカが嫁に来るとこの料理まで付いてくるんです?
「……嫁に来てください」
「もうお嫁さんですよ?」
どやぁ、と左手の指輪を見せられるがそれくらいは衝撃的だったということで。
でもそうか、婚姻届出したからもう嫁か…。結婚式がまだだからか、若干の違和感はある。
「確かに……なあ嫁」
「なんですか、あなた?」
「ハニー」
「……えっと、ダーリン?」
「………ワキちゃん?」
「お兄さん」
「スズカ」
「………旦那様?」
ぐはっ、可愛い…。
そんなバカップルでしかしなそうなことをしながらもご飯を食べて。いつの間にか無くなったところで二人で洗い物を片付ける。
スズカに割烹着とか着せて旦那様呼びをしてもらいたい。髪色は栗毛だけれど、何故だか無性に似合う気がする。まあ、お兄さん呼びが一番慣れてるが。
「……はぁ、美味かった……」
「ふふっ、お兄さんもうそれ三回目くらいですよ?」
だって美味かったし。
ニコニコと嬉しそうなスズカに目をやりつつ、何かスズカが喜びそうなことがあっただろうか。
「スズカ、ご褒美とか―――」
「お風呂で洗いっこ―――「ダメ」―――うそでしょ……まだ言い終わってないのに」
そんなことしたら襲う自信があるぞ。
水着着せてお風呂一緒に入るのも辛いのに…。
「水着引っぺがすぞ」
「……むぅー…お詫びはチューでいいですよ?」
更に燃料投下してどうする。
基本的に本気で嫌がることはされないと思っているらしいコイツにどうやったら危険性を分からせることができるのか。
「よし、帰るか」
「誤魔化された…?」
外へ出ると季節的にもう暗くなっている。
もう11月だからな、と思っているとスズカが身体を密着させつつ手を絡めてくる。基本的に体温が高いスズカがくっついているとこの時期はありがたい。
そんなわけで歩いていると、スズカの耳が動いた。
トラックの方を気にしているらしい。
「スズカ、何か聞こえたか?」
「……誰か、走ってるみたいです」
腕時計を見ると門限ギリギリ。実のところスズカのレコードブレイカーっぷりに無茶な練習をするウマ娘が出ているとトレーナーの間でも話題になっており。その影響でデビューが遅れているウマ娘すらいるらしい。
少し心配なのが顔に出たのか、目線を合わせるとスズカも頷いてくれたので二人でトラックへ。
月明りと照明に照らされて、走っているのは鹿毛のウマ娘。
息が切れたのか、末脚は鈍く、息も荒い。それでも光るものを感じさせるのは、後のダービーウマ娘だからこそか。
「はーっ、はーっ……くっ…」
何か追い立てられるように走り、星を見上げる。
その何処か儚い姿に、スズカは小さく呟いた。
「貴女も……独りなんですね」
「え? ………貴女は、サイレンススズカ……さん」
「………」
「……あの?」
無言になったスズカは、なんとも言えない微妙な顔で俺の方を向いた。後は任せた、ということらしい。とはいえ天才肌なスズカの所感は多分あってる。
「悪いが俺の担当もオーバーワークになりがちだから気になってな。はっきり言ってそのままで走り切れるほどトゥインクルシリーズは甘くないぞ」
「………平気。いつもやってることだから」
なら、沖野先輩の台詞を拝借するとしよう。
「……君の夢は?」
「…………そんなことを語るほどの関係もないでしょう?」
「別に語る価値も無い夢ならいいぞ」
凄い嫌そうな目で見られた。
無言のアドマイヤベガに、スズカが一歩前に出て。気圧されたように一歩下がったアドマイヤベガは、少し大きく息を吐いてから言った。
「………私は、走れなかった妹の分まで走る。それだけだから」
「――――そうか。ならまた今度、話がある」
今日のところはこのくらいにしておくべきだろう。妹の分まで脚を駄目にする気か、なんて言って納得する雰囲気もない。
挑発されてお世辞にも機嫌が良くなさそうなアドマイヤベガを置いて、スズカの手を引いて家に帰る。
―――――――――――――――――
そんなわけで。
俺はスズカにグラスの併走を頼み、タキオンの研究室の“隣”に来ていた。
「――――…何の用ですか。顔も見たくないと伝えたはずですが」
………当たりが、めっちゃ強い…っ!
漆黒の髪、琥珀色の瞳。不思議な雰囲気のマンハッタンカフェのスペース(タキオンと半分ずつ空き教室を占拠している)に乗り込んだ俺を出迎えたのは、絶対零度の視線だった。
「………実は、お願いしたいことがありまして」
「私は都合のいい霊媒師ではありませんが」
「いやあの、亡くなった妹さんのメッセージとか届けてあげられないかなって……ダメ?」
「帰って下さい」
ダメだった。
だがまだだ…! アメリカで買った本場の豆! マンハッタン!
そんな賄賂をそっとお茶菓子とともにテーブルの上に出す。
「つまらないものですが……」
「………物で釣ろうと?」
いやまあそうなんだけど……取りつく島もねぇ…。
仕方なくうっすら見えてる『お友だち』の方に視線で助けを求めるが、肩を竦めて「いや無理だろ」的なニュアンスを伝えてくれる。
「実は毎日オーバーワークしてるアドマイヤベガがな、死んだ妹の分まで走るって言ってて……このままだといつか破綻すると思うんだ。止めるにはやっぱり、妹さんの言葉しかないかなって……」
と、カフェが『お友だち』の方に目線をやる。多分「叩き出して」的な意味だと思うのだが、『お友だち』は心底嫌そうな仕草とともにコーヒー豆をかっぱらって淹れ始める。
「……ちょっと」
「わ、わー。コーヒー楽しみだなー」
「はぁ………飲んだら帰って下さい」
「いや、その………今回だけでも助けていただけないでしょうか……俺じゃなくて妹想いのウマ娘を助けると思って」
「嫌です」
「じゃあ『お友だち』だけでも……」
返答はめちゃめちゃ不機嫌そうに耳を絞った顔だった。
お友だちも『俺を巻き込むな』とでも言いたげなジェスチャー。
くっ、こうなったら……。
やけくそでカフェの頭に手を置き、スズカで磨いた撫で技術を……いや、スズカは耳の中に突っ込まれるのが好きなのに対して、カフェは耳の裏が好きだったか。
「……勝手に撫でないで欲しいのですが。蹴りますよ?」
「すみませんでした」
ダメでした。
誰だ、撫でればなんとかなると思わせたのは。スズカだけだよそんなチョロいの。
が、あまりのバカバカしさに怒りもどこかに行ったのか、深ぁーい溜息とともにカフェの耳も元に戻り。いいタイミングでコーヒーとお菓子を持ってきてくれたお友だちのお陰でひとまずテーブルには着けた。
お友だちの謎の技量により芸術的に淹れられたコーヒーを一口。
「…………おいしい」
「うまっ」
お茶請けに用意した人気のフルーツタルトも一口。
ウマ娘が好きそうという印象は間違いではなかったらしく、カフェも口に運ぶと久方ぶりに見た気がする笑顔が―――。
「……何を、見ているんですか?」
「笑顔がいいな、と」
誤魔化しても通じそうにないので素直に答えると、更に深いため息。
「……もういいです。協力はするので帰って下さい」
「すまん、助かる……ありがとう」
ちらりとお友だちの方にも目線で礼を伝えようとしたのだが、中指立てられた。
何故…?
……………
「―――――何か、用?」
「併走しに来ました」
昨晩現れた失礼な、というよりはお節介そうなトレーナー。
関係のないものに興味はないけれど、私は走れなかった妹のためにもっと、もっと走らないといけないから。口うるさく言われるのは御免だった。
のだが。まさかの担当の方が先に来た。
この笑顔で何とも言えないオーラを放つ先輩……最早生ける伝説とも言っていい九冠ウマ娘にして、凱旋門賞、BCクラシックウマ娘。芝とダートの世界最強がどういうわけか併走を挑んでくるというのは理解しがたかった。
………一応、この人がトレーナーと恋仲どころか夫婦なのは知っている。失礼なウマ娘をぺしゃんこにしてやる、というような性格には見えないが……。何故か連れてこられた、朝日杯FSを勝利し毎日王冠ではエルコンドルパサーに勝利したグラスワンダーも合わせて、普通は併走したくても叶わない最高の相手なのは分かる。
「あの~、スズカさん? 私もでしょうか?」
「ええ、お願いね。距離は好きに選んで」
都合はいい。とはいえ、私もこの人たちも中距離から長距離まで問題なく走れるが……それなら、一番得意な距離で。
「……芝2400で」
横並びになり、スタートを待つ。
サイレンススズカさんがコインを持ち、指で弾く。落下した瞬間がスタート――――。
その瞬間、私は呑まれた。
銀世界、満天の星空。果てのない、どこまでも冷たい景色。けれど、そこに感じたのは、猛烈なまでの“熱”だった。
“誰か”のために走る――――。
この人は、私と全く共通の目的で走っている。
―――――羨ましい。
どんどん離れていく背中に感じてしまったのは、そんな言葉だった。
私だって、妹のために走って……それで、笑顔になってくれたらどんなに良かっただろう。でも妹はもういない。残ったのは、彼女がくれた身体で、彼女が手にするはずだった栄光を代わりに奪って立つ私だけ。
ならもう、走って、走り続けて……たとえ身体が壊れたとしても、相応しい末路にたどり着くのが私のあるべき姿だと思った。
決死の覚悟で飛び込むグラスワンダーさんを見ても、心は動かない。
力の差と、想いの差を見せつけられて、大差をつけられてゴールを通過した私を待っていたのは、二人の併走相手とお節介なトレーナー、そして見知らぬ青鹿毛のウマ娘と、ルームメイトのカレンチャンだった。
「……何を、しに来たの」
「いや、ちょっと話の続きをしようと思ったらスズカが走ってたから……」
「惚気話は後にして下さい。もうすぐ黄昏時……「混ざり」やすくなるので最適な時間帯です」
「何を……」
スッ、と青鹿毛の子が指さした先にあったのはいつも見る赤い星。
妹を感じられるその星を何故知っているのか――――疑問に思う暇もなく、その気配が感じられないことに気付いた。
「――――え?」
「『………お姉ちゃん』」
カレンチャンが言ったのはそんな言葉だった「ふざけないで」と口に出そうとしたのに、何故か出てこない。感じているのは、いつも知っている気配とは違う――――けれど、いつだって傍に感じていたものだったから。
「『お姉ちゃんが、がんばり屋さんなのは知ってるけど。ちゃんと身体は大事にしてね? 辛そうなお姉ちゃんを見るの、嫌だよ』」
「………嘘。嘘よ、そんな―――」
「『楽しそうに走るお姉ちゃんが好き。勝って嬉しそうなのも、星を……私の方を見て、やさしく笑ってくれるのが好き』」
一歩踏み出す、穏やかに笑う、カレンチャンではない“誰か”。
ガラス細工に触れるようにそっと手を伸ばし、抱きしめる。言葉も、涙も、意識するまでも無く勝手にあふれてきていた。
だって、ずっと想っていたから。
ずっと悔やんでいたから。
ずっと、会いたかったから。
「……ごめん。ごめん、なさい………走りたい気持ちも、楽しさも、貴女のものなんじゃないかって思って……私の代わりになって、こんなことになってしまったんじゃないかって……」
「『……いいよ。でもその代わり、私の分までめいっぱい楽しんでね? 辛そうなお姉ちゃんを見ても、楽しくないもん』」
涙と一緒に、心に溜まっていた悪いものが流れ出たような。
抱きしめた『妹』から流れ込んだ“熱”が、それを溶かしてくれたような不思議な感覚があった。
めいっぱい泣いて、泣き続けて。
いつの間にかお節介なトレーナー達はいなくなり。そして元に戻っていたカレンチャンに『絶対喋るな』と口止めしつつ寮に戻り。……そして結局のところ、問題だけ解決して現れなくなったお節介なトレーナーからは、特にスカウトも何もなく。
なんとなく、ものすごく機嫌が悪かったあの青鹿毛のウマ娘の気持ちを察したアドマイヤベガだった。