タイダロスとティアメープルの再会から3日後。
ティアメープルの
遠き神話、或いは近年の演劇にすら有るように。
悪役が契約を順守する事は無く、正義が無法を許容する筈も無い。
それは世の理とでも言うように、2人の間には殺伐とした空気が流れ────
「ほら、メープル。もう朝だよ。いい加減に起きなって」
「んんー……眠いですわ……すごく眠いですわ……あと2時間寝かせて欲しいですわぁ」
「それは構わないけどさ、朝食のホットケーキが冷めるよ? バター乗せのダブルだよ? いいの?」
「うぅ……食べたいですわ……。でも眠いのですわ……」
「仕方ないなぁ。それじゃあ、僕が食べさせてあげるから口開けなよ。ほら、あーん」
「あーん……もぎゅ……おひひいれふわぁ」
「おいおい、頬に食べカスが付いてるじゃないか。ほら、取るから動かないで」
「わぁい────って、何なんですのコレ!? これはいけませんわ!!」
布団で幸せそうな顔をして眠っていたティアメープルは、2口目のホットケーキを飲み込んだ辺りでようやく飛び起きた。
そんな彼女を、ほのかに湯気を纏うホットケーキが乗った皿を手に持ち、枕元で正座をした姿勢で見上げているのは、金髪の少年────タイダロス。
「ん? どうしたのさ、美味しいだろ?」
「おいしいですわ! おいしいですけどっ!?」
「ならいいじゃないか。ほら、あーん」
「あーん……ハッ!? だから違いますわ! いけませんわ! どうしてこんな事になっていますの!?」
タイダロスを幸せにする。その契約が結ばれて3日。たったの3日である。
その僅かな期間で、ティアメープルの部屋は随分と様変わりしていた。
まず、山積みにされていた衣服と物品の山が綺麗に消滅している。
衣類は季節と色柄毎にタンスや衣装ケースに収納され、物品は適切に配置された上に、収まりきらなかった物も再利用不可能な状態の品を除いて整理され、整然と並んでいる。
また、この部屋は物品が多い割に飾り気がない────それこそ、カーテンすらもなく、せいぜいカレンダーがある程度であったのだが、捨てるべき物品を上手く組み合わせ、テーブルクロスやクッション、果てはタペストリーまでが実装されている。
ビールとつまみと食べられる野草しか入っていなかった物寂しい中身の冷蔵庫も、今やまっとうな食材に加えて各種調味料が整えられた。
あの物品の山が────忖度を抜きにして表現すれば、ゴミの山が。
物品の分母こそ多いためにゴミひとつ無いとは言い難いが、他人に見られて恥ずかしくない部屋と言える程度に改善されたのである。
そして、それを為したのは部屋の主たるティアメープルではない。
「いいじゃないか。単に部屋が綺麗になって、何もしなくても美味しい料理が出て来るようになっただけさ。さあさあ、細かい事は気にせずにもう少し寝ておこうよ」
『怠惰』のタイダロス。
この少年が、たった一人でこの大掃除を成し遂げたのである。
羽織っていた軍服を脱いで、髑髏マークの入った黒いシャツとジーンズを着込み、その上にエプロンを掛けたその姿は、一見して単なる家庭的な少年にしか見えない。
親切そうな笑顔で、友人の様に優しく、家族のように親身に。
何も知らない者であれば、コロリと騙され絆されて、唯々諾々とその献身に酔っていく事だろう。
だが、彼と対峙しているのは、彼の宿敵である魔法少女である。
「その手には引っ掛かりませんわよタイダロス! 私を堕落させて欲望のエネルギーを吸い取るつもりですわね!?」
タイダロスの献身の目的を、ティアメープルは良く理解していた。
メリーバッド帝国の魔人であるタイダロスは、人の欲望が生み出すエネルギーを喰らう性質を持つ。そして、その欲望のエネルギーは、理性との落差が激しければ激しい程に上質に膨大になる。
それが故に、魔人は人間を己好みの『味』である欲望へ向けて堕落させようとするのだ。
タイダロスであれば、その二つ名である『怠惰』へと到るように、人を惑わせるのである。
その手段の最たる物が、かつてマジティア達と戦っていた際に用いていた、強制的に人間の感情を操作する魔獣『バッドン』であるが……バッドンを用いずとも堕落させる事さえ出来れば、エネルギーを生み出し喰らう事は可能である。
そして、闇の力こそ使えないが、再会の日の公園で不良達を骨抜きにした事から判るように、欲望を喰らう力は未だタイダロスの手から失われていない。
「この私、そんな見え透いた手には引っ掛かりませんわ!」
ビシリと指差し、堕落への誘いを拒絶する見事な啖呵。
まさしく正義の魔法少女に相応しい毅然とした態度である。
「……いや、布団に戻ってホットケーキ食べながら言われても。あと、熱いから僕を抱き枕代わりに引きずり込まないでくれるかな」
「嫌ですわ。離しませんわ」
だが、言葉と態度は立派でも、その体は欲望の沼にズブズブと両足を突っ込んで、絶賛沈没中だった。
布団に引き込まれかけたが、体をじたばたと動かす事で何とかティアメープルの拘束から逃れたタイダロスは、ピカピカに磨き上げられた台所に立ち、フライパンを洗い出しながらティアメープルに尋ねる。
「ハァ……そもそも、何が不満なのさ。君は僕に普通の幸せってヤツを与えたいんだろ? だったら、生活能力が壊滅してる君の身の回りを僕が世話をして、勤労意欲を失くした君の怠惰への欲求を僕が喰らって美味しい思いをするってのは、どちらも得をする良い関係じゃないか」
「生活能力の壊滅なんてしてませんわ!?」
「僕がゴミの山を片付けて君の服のパジャマの見繕いまでしてるのに、どの口が言うのさ」
「そ、それは偶々ですわ。深い理由があるのですわ。私、こう見えて忙しくて」
「君、無職じゃないか」
ティアメープルは布団を頭から被って沈黙した。
「……そもそも、一般的な幸せというものは損得では測れませんの。自然に生まれる感情の中から」
「うんうんそうだね。ところで掃除機かけたいからそこどいてくれるかい?」
「あっ、ごめんなさいですわ」
布団の虫状態から復活して説教を垂れようとしたティアメープルを掃除機であしらいながら、タイダロスは思う。
こいつ……チョロいな。と。
強制的な同居を始めて2日程は、ティアメープルが自分にどんな策謀を仕掛けようとしているのかと訝しみ警戒していたタイダロスであったが、直ぐにそれは杞憂だとの結論に達した。
何せ、タイダロスが驚く程に、ティアメープルという女は素直であったからだ。
タイダロスがティアメープルの私物を掃除する事にも文句は言わず、買い出しに行くと言えば疑いもせずに大金を渡し、送り出した。
推定無職であるというのに、金と家の管理をタイダロスに任せ、逃がさないと言ったのに気楽に買い物を頼む。
現状、金も戸籍も住居も力も無い故に行動に移さなかったが、もしもタイダロスが僅かでも闇の力を使えるのであれば、口約束など知った事ではないと判断して早々に逃げ出していた事だろう。
そんな事にすら思い至らないのか、或いはそんな事はしないと思い込んでいるのか。
箱入りのご令嬢かと言いたくなる程の警戒心の低さを見て、タイダロスは、このままティアメープルを堕落させてエネルギーを収穫し、1ヶ月を何事も無く過ごすのも良い手かもしれないと、そう思い始めていた。
「ああ、そうですわ。タイダロス、明日は遊園地に行きますわよ」
「……は?」
けれど、嵐と災害は忘れた頃にやってくるもので。
冷蔵庫からビールと漬物の胡瓜を取り出しつつ、ティアメープルは気軽にそんな事を口にした。
「あら、聞こえませんでしたの? 遊園地ですわ、遊園地。メルヘンゴクドゥーランドに2人でお出かけですわ!」
「……嫌だけど?」
「私、気付きましたの。ここ数日、貴方に家事と掃除をして貰ってばかりで、何もしてあげられていないと」
「ねえ、聞いてる?」
「本当は料理も家事も全部到れり尽くせりで私がする筈でしたけど、ビールとチーカマは料理ではないと仰るし、家事も少しだけ貴方の方が上手ですし、このままでは私、貴方から貰ってばかりになってしまいますわ!」
「そう思うなら返事を返して欲しいんだけど?」
「だから明日は、私が遊園地でいっぱいいっぱい甘やかして差し上げますわね!」
「だから嫌だって言ってるだろ!」
無視され続けて、怒鳴るタイダロス。
そんなタイダロスに、ティアメープルはビール缶のプルタブを引き揚げながら笑顔を向ける。
「ふふふ、拒否権は認めませんわ!」
「君、聞いた上でスルーしてたな!?」
やけに上機嫌なティアメープルによる強引な外出要請を受けたタイダロスは、今の時点で嫌な予感しかしていなかった。
生活力皆無な無職元少女と、戦闘能力皆無な悪役が行く遊園地。
絵面と字面からしてもう、ロクな結果にならないであろう事を察したからだ。
タイダロスは、冷蔵庫からビールのつまみとして筑前煮を出しつつ、恐らく拒否が出来ないであろう無力な自身に溜息を吐くのであった。