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ひとまずケンを軽く〆た後、信長も景虎も知らない千代女の話を聞くこととなった。立香から呼び出されてやってきた千代女は、ひとまず赤くなった顔はもとに戻せたようである。
「お館様。望月千代女、ここに。」
「あっ、ごめんね!今大丈夫かな?」
「お館様、拙者の事を考慮する必要などないでござる。所詮忍は消耗品、あなたのなさりたいようになさってくだされ。」
「然り。忍は刃の心と書くように、武器と同じように扱うもの。段蔵もそのように扱ってくださればと。」
「………。」
そう言っている段蔵は、胡坐をかいたケンの膝の上にちょこんと座っている。だが段蔵の身長は165cm、普通ならそんなことが出来る身長ではないのだが、自分の絡繰の足を取り外す事で座っていた。
「……じゃあ、とりあえずケンさんの膝から降りて?」
「な!?そんなご無体な!どうかマスター、段蔵をこのままにしてくださいませ!」
「代わりにほら、千代女さん乗せるから。」
「マスター!?私の膝は空き地か何かですか!?」
「お、おおおお館様!?拙者はそのような、破廉恥なことは……!!」
「ノッブもお虎さんも乗せたんでしょ。じゃあ今更じゃん。」
「先輩そろそろ下品です!」
渋々膝から下りた段蔵は、『ご堪能あれ』と千代女にサムズアップし、部屋のスペースを取らないように天井裏へと引っ込んでいった。千代女はかなり迷った挙句、しずしずとケンの膝に座る。段蔵より一回りほど小さいためか、ちょうどいい感じにフィットした。顔を真っ赤にしつつ、彼女は生前の話を始めた。
拙者、望月千代女は、甲斐の信玄公に仕えたくのいちでござる。もっとも、拙者の来歴など大したものではござらん。忍が己のことをペラペラと語るのもおかしな話でござるからな。
……その、ケンと出会ったのは。お館様の指令で、この男をさらった時の事でござる。当時、こやつは未知の方法を用いて戦を勝ちに導いたり、不可能と思える交渉を成し遂げたりと、甲斐では危険視されていたのでござる。そのため拙者に命令が下り、こやつを誘拐したというわけです。
拙者も決行の際には、細心の注意を払ったのです。相手はかなり大柄な男の上、何かわからない術を使う。それこそ、拙者の動かせるだけの忍を使いました。ですが、こやつは警戒心というものを知らないのではないかと思えるほどに、あっさりと捕まりました。
「なんで抵抗しなかったの?」
「全員殺せる自信がなかったからです。もし誰かに逃げられて織田と武田の関係が悪化したら事ですから。忍の一人とて、大事な部下でしょうし。」
「……忍が何人死のうが、当然のことと気にもかけないのが普通の時代であるというのに。お人好しな奴でござる。」
ただ、一つ問題があったのでござる。捕獲したケンをお館様のもとへと連れて行く際、忍の内の一人が倒れたのです。体が資本の仕事というのに情けないことにござるが、仕方なく拙者たちは休憩にしました。その間、ケンは何やらもぞもぞやっていたのですが、これがケンの運命を変える業だったのです。
「もう読めたよ!何か作ってたんでしょ!」
「お館様も体験済みでしたか。それなら話は早いでござる。こやつが作っておったのは、いわゆる薬膳という奴でした。」
「現代と違って、探せばそこら中に食材がありましたから。捕まっている身ではありましたが、あれこれ採っておいたのですよ。」
薬膳を食べ、その忍が回復していくのを見ていた馬場殿……えっと、重臣の一人でござる。その人が、ケンにお館様の料理を作らせてはどうかと考えたのでござる。城についてから試してみれば、食欲のなかったお館様が、『美味』と呟いたではありませんか。この時点でケンの扱いは、『なんか怪しいやつ』から『なんか怪しいけど役に立つからとりあえず使えるだけ使う奴』になったのでござる。
そこからお館様は、少しづつですが肉付きがよくなってきたようでござった。顔色に関しては明らかに違ったもので、皆よかったと喜んでいたのを覚えておりまする。そして同時に、ケンの料理を食べてみたいと思う者も増えてきたのでござる。
拙者はそれを、少し離れた物陰で見ておりました。あくまで任務はケンの監視でござったが、寝るとき以外ほとんど誰かに囲まれていたので、特にやるべきこともなかったでござる。ですが、少しだけ羨ましくもありました。拙者も奴も、共に諜報員のはず。なのに奴は明るい白の中を歩き、拙者は今も黒の中にいる。……どうして、拙者はああではないのか。この身に消えない呪いを背負い、夫を戦で喪い、汚れ仕事を請け負いながら、誰かに感謝されることもない。
その日もまた、拙者には勅命が下されました。
『料理人のケンを、篭絡して武田の人間にせよ』
……まあ、殺しよりは楽な任務でござる。拙者はいつもの装束を纏い、奴の牢に向かったのでござる。
―――――――――――――
「………。」
「その、千代女さん。もし話しにくいのなら、飛ばしても……」
「オウオウオウ!人の夫をたぶらかしておいてそれは通らんと思うんじゃが!?きっちり話してもらわないかんじゃろうなぁ!?」
「ヤンキーいるじゃん。」
「まあ私も信長に賛成です。場合によっては毘天八相行きますよ。」
「そ、その……こ、この装束がその時の装いでござる……。」
「……。」
真っ赤になる千代女と、静まり返るオーディエンス。やがておもむろに信長が立ち上がったかと思うと、千代女の体を纏う帯をおもむろに解いて……
「って何してるでござるかぁ!?」
「うおっマジじゃ!これ全部一本の帯になっとるぞコレェ!」
「だから色仕掛け用って言ってるじゃないですかぁ!もう嫌い!信長なんて嫌いです!!」
「せ、先輩!とにかく急ぎ霊基再臨を!」
「ごめん種火切らしちゃった!ひとまずケンさん脱いで!」
「ちょっ、何脱がすの慣れてきてるんですか!」
あっという間にまた上半身を裸にされてしまったケン。ひとまずその上着を千代女に着せ、何とか話を再開することが出来た。
……そ、それで。拙者は牢に入ったのでござるよ。
――――――――――――――――
「……おや、あなたは。確か、私をさらった方でしたな。何か、御用でしょうか?」
「………。」
何も言わず、千代女はケンに倒れ込む。ケンは何とか受け止めつつ、どうされましたかと驚いて声をあげる。一度目の驚きは倒れたことに対してだったが、二度目の驚きは別の事に対してだ。黒い帯を体に巻き付けただけのような、露出の多い装いをしていたからだ。
「ケン……。」
「は、はい!ケンはここに!」
「体が、熱いのだ……。お主を、見た時から……。」
「……!」
「どうか、お主のモノで……鎮めてくれ……。」
言いながら、ねっとりと蛇のようにケンの体にまとわりつく千代女。その手がケンの股間に伸びようとしたとき、ケンが叫んだ。
「いけません!う、浮気になってしまいます!」
「落ち着かれましたか。」
「……済まぬ。……はは、こんなもの、お笑い草だ。どこに篭絡しようとした相手の前で泣きわめき、挙句その相手に慰められる忍がいるというのか。……ああ、情けない。情けないなあ、私……。」
「……そのようにご自分を卑下されてはいけません。よろしければ、私に事情をお聞かせしていただけませんか?ほんの少しでも、心が軽くなるやもしれませぬ。」
普通なら、そんな話に乗るわけがない。情報戦とはつまり、出来る限りの情報を相手から得、こちらの情報を渡さないのが肝要。まして忍が、自分の弱みになりかねない話を部外者にするなどと。……だが、千代女はなぜか話す気になった。自分の人生で、唯一気の安らいだあの時間の事を。自分の呪いを含めて愛してくれると言ってくれた、あの人の事を。
「……そうでしたか。あなたもまた、喪った人だったのですね。」
「……
「はい。……私もまた、大切な人をたくさん喪ってきましたから。森殿に、浅井殿。……沖田総司。」
――――――
「コフッ!」
「沖田さんが!沖田さんが倒れた!なのに何だろう、この幸せそうな顔は……」
「もうコイツこのまま死んどったほうがいいんじゃね?生き恥さらさんで済むじゃろ。」
「ノッブは部族一のブーメラン使いかな?」
「……話を続けます。」
―――――――
二人は月の明かりが降る夜に、お互いの傷を共有していた。誰よりも深くその痛みを理解する二人は、ただお互いをしばらく憐れんでいた。何よりも無駄な時間で、何よりも尊い時間だった。
「……望月殿。」
「何だ?」
「明日、私の作る料理が決まりました。どうか、明日もう一度来てくださいませんか?」
「―――何?どういうことだ。」
「秘密です。ですが、後悔はさせません。」
ケンは何かとてもいいことを思いついたような微笑を浮かべた。千代女はその顔に、あの人を重ねずにはいられなかった。夜はゆっくりと更けていき、千代女は報告に戻らなくてはならなかった。
「―――して、首尾は?」
「はっ。いつものように仕掛けましたが、思いのほか意志が強く……。ですが、明日の約束を取り付けました。どうか、もう一度機会を。」
「―――ふむ。
「ッ!?な、何故ですか!もう一度行えば、必ずや……」
「……確かにか?次はないぞ、千代女。」
「はい!必ずや、成し遂げて見せまする!!」
お館様……つまりは信玄公のもとを発ち、千代女は自分の仕事に戻った。ケンはいつものように何かを作り、信玄公のもとに運んだ後は家臣らにも配っていた。マメな男だと思いながらそれを見ていると、あっという間にまた夜が来た。
千代女は再び、あの牢に足を運んでいた。だが、その装いは昨日のようなものではなく、上に羽織を着たような格好だ。わかりやすく言えば第二再臨である。
「……ようこそ、いらっしゃいました。お待ちしていました、千代女さん。」
「……ああ。だが、何も料理など出来ないだろう。なにせ、ここでは火も使えないのだぞ。」
「いいえ。今回お出しするのは、冷製の料理ですので。」
そう言ってケンが取り出したのは、容器に入った、みじん切りにした野菜たちのように思われる料理だ。ひんやりとしたそれを皿に取り出すと、ケンは果実を絞ってそれにかけた。
「それは?」
「柚子です。本当はレモンがよかったのですが。まあ、柚子にあうように仕上げましたから。」
呟きながら盛り付けを終えたケンが、ゆっくりと千代女の前に皿を差し出す。
「―――お待たせしました。“ラタトゥイユ・ブラン”です。」
見れば、刻まれた野菜がさっぱりとした雰囲気を漂わせている。千代女は忍として、食べられるなら何でもいいと思っていたので、少しも躊躇することなくそれを口に入れた。
「―――!」
その瞬間、口の中が芳醇な香りでいっぱいになる。野菜はしっとりとした食感になり、噛むたびに中からうまみの汁があふれ出す。じゅわっと出てくるうまさがすぐに次の口の動きを促し、あっという間に野菜たちは咀嚼され、食道を通って胃の中へ送られる。その時にも最後の抵抗とばかりに舌にうまみを乗せていき、千代女の手は止まらなかった。
「―――気に入っていただけましたか?」
「……美味い。これは、どういう料理なんだ。」
「ラタトゥイユとは、フランスの家庭料理です。本来はトマトを使って真っ赤になるスープなのですが、今回は手に入らなかったため、代わりに塩と日本酒でうまみをつけています。赤に対する白として、ブランとつけさせていただきました。」
「……お前のよくわからない言葉に関してはもう気にせぬ。だが、ここまで美味くなるものか。特にこの胡瓜に茄子などは……!!」
そこで思わず、千代女は息をのんでしまった。この料理に込められた、本当の意味に気づいたからだ。
「盛時様……」
涙がふたたびあふれ出す。胡瓜と茄子と言えば、盆の精霊馬の材料だ。ケンはそれを見ながら、自分の意図が伝わったことに安堵しつつも驚いていた。精霊馬の風習は江戸時代に広まったものとされている。そのため、最悪自分の住んでいたところの風習と話そうと考えていたのだが、同時に盆の風習には地域に差があるともされている。ここ甲斐ではたまたま、そういう風習があったようで一安心である。
「……精霊馬は、今年も豊作であることを先祖に伝えるために茄子や胡瓜を使うのだと言います。であるならば、あなたがこうして元気にやっていることを伝えること。それこそ、盛時様への供養であるでしょう。」
「……よ?」
「え?」
「どうすれば、いいのよ……?元気に、元気にやってるなんて、無理に決まってるじゃない!だって、だって、私!呪われてるのよ!?」
半狂乱になって叫びながら、千代女は乱暴に来ていた羽織を脱ぎ捨て地面にたたきつける。それどころか体の帯すら取り払い、完全な全裸になってしまった。ケンは慌てたが、止めるより前に息を呑んだ。千代女の薄く細い体には、あまりに不釣り合いな痛々しい蛇の痣。その蛇は体に巻き付き、今にも全身の骨をめちゃくちゃにして絞め殺してしまいそうだ。
「……見ろ。しっかりと、見ろ。これが!これがお前が、生きろと抜かした女の体だ!こんな体になって、やっと、やっと見つけた大切な人も!この世にもう、現れるわけがない私を受け入れてくれた人もなくしたっていうのに!!」
ケンは、言われた通りに目を離さなかった。そこに男女の情など介在しようのない、まるで宗教画のような光景だった。やがてケンは、ゆっくりと口を開く。
「……それは、誤解でございます。あなたを受け入れてくれる人は、この世にたくさんいることでしょう。」
「勝手な、ことを……!!」
「なにせ、ここに一人いますから。」
「なっ――!?」
ケンは、何よりもまっすぐな目で語った。千代女が面食らっている間に、言葉を続ける。
「私はあなたが呪われているかどうかなど、気にはしません。私は、あなたの心を見ましたから。―――私は忘れていません。私を拘束したとき、痛まないように緩く縄を結んでくださったこと。倒れた忍の方を情けないと言いながら、心配してあれこれと世話を焼いていたこと。……あなたの心は、今でも澄んでいます。呪いの有無で、それは何も変わりません。」
「美食の世界には、『ワインの樽に一滴の泥水を垂らせば、それは樽一杯の泥水である』という言葉があります。これは、ワインという素晴らしいものに泥水という汚いものを混ぜれば、全てが台無しになってしまうという意味です。」
「……ですが、日本の料理界には、『灰汁も味のうち』という言葉もあります。日本には、欠点を受け入れる度量の広さがあるのです。――盛時様も、きっとそのようなお方だったのでしょう。」
「………。」
千代女はただ、ケンの話を黙って聞いていた。この男が、嘘をつけるとは思えない。誰の料理にも毒を盛らず、ただ誰に対しても正直で誠実であろうとしたこの男が。ケンはなお続ける。
「……きっと、現れます。盛時様のように。おこがましいかもしれませんが、私のように。あなたの事を受け入れてくれる人が、きっと現れます。だから大丈夫です。どうか、御身お大事になさってください。」
言いながら、ケンは自分の上着を脱いで千代女に着せた。そこになってようやく、自分が裸であることを恥じ、千代女は赤面した。だが彼女の体温が上がっているのは、決して恥ずかしさのせいだけではないだろう。火照る頬を仰いで冷ましながら、彼女は自分のやるべきことを思い出そうとしていた。
(そ、そうだ!私、こいつをたぶらかさないといけないんだった!)
一度目は浮気だからとして、最期まで成し遂げられなかった。だが、だが!
(―――ここに、いてほしい。)
これは使命感なのか。それとも男を求める女の情なのか、それもわからない。……しかし、一つだけはっきりしていることがある。こいつを、逃がしたくはないということだ。
「……なあ、ケン?」
「はい。――って、千代女さん!?」
千代女はケンにしなだれかかり、もう一度抱き着いた。ひどく震える体を、その体温で温めるかのように。
「……お前は、ここにいるつもりはないか?」
「……はい。私の居場所はここではありません。俺は織田の……いえ、信長様の料理人ですから。」
「ノブッ!」
「ブーメラン着弾確認、ヨシ!」
「ハ、ハートが……ワシのハートが本能寺……ガクッ。」
「……こいつのもとに帰したの、失敗だったかもしれぬでござる。」
それを聞いて、千代女は決意をした。自分のこの何が何だかわからない、この男を求める心は、墓場まで持っていこうと。この想いに蓋をして、知らないふりをして生きていこうと。大丈夫、大丈夫だ。だって生きていく力は、目の前の男がくれたから。
「……ではケン。拙者についてまいれ。」
「千代女さん?いったい……」
「
「!!」
はっとした顔になり、すぐに頷いたケン。物音を立てないようゆっくり戸を開き、二人はあるところに向かった。
「―――着いた。ここでござる。」
「ここは……?同じ、牢にしか見えませんが。」
「……ただの牢であればよかったのでござるがな。」
呟きながら、千代女はゆっくりと扉を開いた。中を見れば、ひとりの少女がうずくまっている。光のない目を見て、ケンは驚く。武田はこんな少女にも手心を許さないのかと憤慨しかけた。だが、次の千代女の言葉に更に驚くことになる。
「―――加藤段蔵、起動。」
ブゥンという音と共に、少女の瞳に煌々とした光が戻る。すぐに膝まずく姿勢になり、声を発した。
「加藤段蔵。ここに起動。入力を求めます。」
「ち、千代女さん?これは一体……?」
「何やら妖術を用いて作られたという、絡繰人形でござる。―――こやつを、お主の護衛につける。よいな?段蔵。」
「主命にございませぬ故、お断りいたします。」
「それはわかっておる。だが、お主もまた処刑を待つ身。それはお主の存在意義にも関わるであろう。お主がこやつに手を貸すというのなら、お主を見逃してやろう。」
「……承知しました。それでは、あなたの事はなんとお呼びすれば?」
「あ、ああ。ケンとお呼びください。」
「承知しました。それではケン、ここを脱出しまする。着いてきてくだされ。」
「よ、よろしくお願いします。」
そこまで話したところで、二人は出口へと走ろうとした。しかしそこで、ケンはあることに気づきハッと振り向いた。
「―――千代女さん!あなたは、こんなことがバレたら……!」
「……バレないようにすればいいだけでござる。もう二度と、会う事はないであろう。……達者で暮らせ。」
「――ありがとうございます!どうか、お元気で!!」
そう叫ぶと同時に、段蔵はケンを抱えて走り去った。やはり忍というべきか、風のように消えていった二人。千代女は薄暗い闇の中、はらはらと涙を流していた。
「……馬鹿者。そんな風に叫んで、バレてしまったらどうするつもりだ。それに、この服も返していないのに。」
千代女は自分にかけられた上着の両の襟を掴み、自分の体を抱きしめるように包んだ。いろんな食材の匂いが混じり合ったその服は、これがケンの匂いなのだと感じた。いつまでそうしていたかはわからないが、いつの間にか窓から朝日の光が差し込んでいるのが見えた。光が作る、白の四角形。千代女はちょうど、その中に立っているのだった。
翌朝。千代女はすぐにお館様への報告へ向かった。
「お館様。あの料理人が、例の絡繰を伴って逃げ出してござる。」
「……詳しく話せ。」
「はっ。拙者が篭絡に成功したと思えば、いつの間にか朝になっていたでござる。……おそらくは、何かしらの術を使ったものかと。」
「……そうか。追わなくてよい。」
「御意に。ではこれにて――」
「なにせ、お前にまで逃げられてはたまらないのでな。」
その瞬間、部屋の気温が下がったのを否応なく感じた。千代女は今、自分が蛇に睨まれた蛙であることを自覚せざるを得なかった。
「……お気づき、でしたか。」
「あの料理人が、段蔵の価値に気づくとは思えぬからな。あれは危険すぎる。故に、牢の中で飼い殺しにするつもりであったが……まあ、台無しよ。どうしてそういうことするの?」
「申し開きのしようもございません。……どうか、厳正なる処罰を。盛時様のところへ送ってくだされば幸いです。」
そう言いながら、首を差し出すように頭を下げる千代女。これで終わりだ。ケン、どこか遠くへ逃げてくれ――そう思いながら、千代女は目をつぶっていた。
「阿呆。お前まで失って、困るのは我らであろうが。悪いと思っているのなら、働きで返せ。」
「……! ありがとう、ございます……!!」
「それに、だ。」
「はっ……?」
そこで一息入れた信玄公は、にかっと笑ってみせた。
「生きておれば、また奴に会えるやもな。お前が幸せになるのであれば、儂の甥も喜ぶというものよ。」
「は……は、はあ!?そ、そそそそのようなことは……!!」
「ふはは、あそこまで露骨に想っておいてか!自分のこととなると鈍い奴だったのだな。」
随分と元気になって笑う信玄。思わず千代女の頬も緩んでしまう。ケン。こちらは何とかなったようだ。……もし、もしかしたら。また会えるかもしれない。やはりお前の言うように、生きてみよう。そう思いながら、千代女は優しく痣を服の上から撫でた。爽やかな風が、西北の方から吹いてくるのだった。
「か、加藤殿!?このような道を行かなければなのですか!!?」
「ここが一番の近道です故。しゃべると舌を噛みますよ。」
「し、舌はまずいです!」
「あっ、飛びますよ。歯にも注意してくださいね。」
「!? うわああぁあぁああぁあああぁああぁ!!」
―――一方その頃、加藤段蔵とケンは逃亡珍道中を過ごしているのであった。
―――躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)
???「見た?あの千代女。なあ見たかあのがっかりの仕方。絶対脈ありだよね?」
「はっ!今までお館様の命に逆らおうとしたことなどありませんでしたからな。拙者、相当ぞっこんと見ました!」
???「あやっぱり?これ次そのままいったりしてな?―――盛時も、喜ぶだろうな。」
「……あの方は、千代女が幸せになるのならそれでよいと言っておりましたからな。本当に、惜しい方を……。」
???「言うな。生き死には武士の定めよ。だがだからこそ、遺された者が気にしてはならぬ。生きている間はもてはやされ、死ねば居なかった者として扱われる。これぞ武士の理想よ。儂らの死を悼む者は、遠ければ遠いほどよいのだからな。」
「……はっ!胸にしかと刻みました!」