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男は涙を流しながら、龍に別れを告げようとしました。自分は焔の傍で育ったから、そこに帰らなくてはならない。あなたと過ごした日々は本当に楽しかった。この御恩は、一生忘れません。男は多分そう言っていたのですが、龍の耳には届きません。
「え……なん、なんで……。」
「秀吉さんからの書状が来たのです。信長様の機嫌がいよいよマズイから早く帰ってこいと。その上、食事を碌になさらないため頬がこけてきたようだともあります。……私は、ついここの居心地がよすぎたので、自分の仕事を忘れてしまっていました。急ぎ戻らなくては。」
「い、いや、でも!!それはきっと、誇張した表現で……!!」
「……いいえ。私にはわかります。信長様は頑固なお方ですから。きっと、一度作ったものを不味いと言った料理人の料理は、二度と食べようとしないことでしょう。」
「それに、その……思い上がりかもしれませんが、私がついていないと、いけないような気がするのです。」
やめろ。
照れくさそうに話すな。私の前で、私以外の女の話を嬉しそうにするな。やめろ、やめろ、やめろ。
龍神の心は、いつの間にか闇に覆われていたのです。男をその体で押し倒すと、澱んでしまった目で言いました。『お前は誰にも渡さない。お前は、わたしのものなのだと。』言葉は湯水のように口からあふれ、されど心を温めはしません。両手を押さえつける手には思わず力がこもりみしりと嫌な音を立てます。龍神はこのままでは、悪龍に堕ちてしまいます。心という、不確かなものを得たからです。愛という、得難いものをもらったからです。
「お虎、さん……?」
「………のに。」
「え?」
「あなたが、必要なのは!!私だって同じなのに!!」
「――――!!」
――――されど、希望はまだ残されていました。合理しか知らなかった龍は、今では無駄だと思えることもするようになったのです。自分の弱音、本音。龍は心のままにすべて話しました。そして男は、それを無下にできるような人間ではありませんでした。
「いかないで………」
「お虎さん……。」
「いかないで、ください……。わたし、わたしだって!あなたがいないと、生きていけません!!」
「そんなことは!」
「ないわけないじゃないですか!!あなたのおかげで心を知ったんです!そしたらわかったんですよ!!
「―――ッ。」
龍は、それでもよかったのです。戦いをするのは好きでした。お酒を呑むのは好きでした。だから、戦いとお酒さえあれば、龍はそれでよかったのです。それを変えてしまったのは男です。だというのに、男は龍から離れるというではありませんか。龍は怒り、かつての姿を取り戻しました。戦いしか知らなかったあの荒々しい姿。心を閉ざした哀しき龍。そのこぼれた涙は男を打ち、男は一つの決意をしました。
「わかりました。お虎さん。」
「―――じゃあ!」
「ですが、やはり私は織田の料理人です。その在り方を曲げることは出来ません。」
「……どういう、ことですか。」
「私は料理人、ならば料理こそが本領でしょう。いつかこんな日が来ると思い、用意していたものがございます。少々お待ちください。」
その背中を見やりながら、景虎は寂しさと共に安心感を覚えていた。ああ、やはりこの人はケンなのだと。景虎が何度も甘えたあの広い背中。そして厨房に向かう彼からは、何をしてくれるんだろうと期待をせずにはいられない。それもみな、もうすぐ失われる。どうすればいい?私は、どうするべきだ?景虎の心は、これまでにないほどかき乱されていた。
男は涙を流す龍を見て、いつものように『何か作りましょう』と言いました。龍はそんなことはいい、ただわたしのそばにいてくれと言おうとしましたが、途中でやめてしまいました。言うのが恥ずかしかったのではありません。ただ、男なら何とかしてくれる気がしたからです。
何分、何時間がたったのでしょうか。私は時間なんて見ていませんでしたが、本当に永遠のように感じられました。やがてケンが障子を開け、私を呼びました。その体に縋りつきたい気持ちを必死に抑え、ケンの前を歩きます。後ろから聞こえる足音が、私を慰めてくれているような気がしました。
どうぞ、とケンがいい、襖を手で示します。おそらくは、中の部屋で料理が待っているのでしょう。私は意を決し、勢いよく襖を開きました。
その瞬間、目にしたのは。こちらを見つめる、家臣たちの目でした。今までとは明らかに違います。だって、“私”を見ていますから。家臣たちは私の姿を認めると一斉に手をつき、頭を下げました。
「景虎さま!我々は、目が覚めました!!」
「あなたは!いえ、あなたも人間であったことに!私たちは、目を反らしていたのです!」
「あなたの事を理解しようともしなかった!我々は命じられれば、腹をも切る所存にごさいます!!」
口々に私に謝罪する家臣たち。ですが私は謝られている意味が分からず、思わず聞いてしまいました。なぜ、そんなことをするのかと。家臣の中でも一番強かった柿崎が代表して口を開きます。
「実は、そこなる料理人のケンに、我ら皆頼まれたのです。『どうかあの方の本質を見てほしい』と。私は本当に、顔から火が出る思いでございます。誰よりも長くあなたに仕えていながら、あなたの事を少しも理解していなかった。いえ、理解しようとしなかった!! ……故に、こうして集まったのです。改めて、あなた様にお仕えする決意表明のために!!」
誰も彼もが力強く頷きました。それを見た時、私は確信したのです。ああ、今の上杉家が一番強いと。誰もが私を見て、私に歩み寄ろうとしている。わかりますか?私たちは、この瞬間全てがかみ合ったんです。
人の心がわからなかった私。そんな私を、遠くから見ているだけの家臣たち。バラバラだった私たちは、今この瞬間、ようやく一つになれたのです。それを為したのはやはりケンでした。
「―――さあ、それでは食事にいたしましょう。景虎さま、こちらを。」
そう言ってケンが差し出してきたのは、木のおたまです。ケンの目の前では優しくてほっとするような、いい匂いのする鍋がありました。
「今日は、豆乳鍋をご用意させていただきました。豆乳も血圧を下げるのによい食材ですので、ぜひご完食いただければと。そして、景虎さま。」
ケンがまっすぐにこちらを見据えます。なんと透き通った、力強い目をするのでしょうか。
「こちらを、家臣の皆様によそっていただけますか?ご心配なされずとも、十分な量をご用意していますので。」
言いながら、何か意味深に片目だけをつぶります。私がそれをウィンクという行為だと知ったのはサーヴァントになってからですが、そこに込められた意図ははっきりわかりました。
「―――なるほど、面白い。では、各々器をとって並ぶがいい。私の手で配るとしよう。」
「な、か、景虎さま自らが!!」
「そのような、恐れ多い……!いやしかし、歩み寄ると決めたのだから……!!」
「で、では殿!!この柿崎、一番槍をいただきまする!!」
そう宣言し、柿崎が私の前に出てきました。よく見てみると手が細かく震えていましたが、それは恐怖からでしょうか。
「――よく、仕えてくれた。これからも頼むぞ。」
「―――!! はい、はい!!この柿崎、どこまでもお仕えいたします!!」
ああもう、そんなに泣いていたら、せっかくのケンの料理の味が分からなくなるじゃないですか。他の家臣もそんな調子で、全員に行きわたったころには、皆ボロボロと涙をこぼしていました。
「……ケン。」
「はい。」
「我が器には、お前がよそえ。……しばらく、会えなくなるのだから。」
「!! ―――はい、ありがとうございます。」
いつの間にか、私の目からも涙がこぼれていました。止めようと思っても止まらない、滝のような涙でした。家臣たちがいなければ、みっともなくしゃくりあげていたことでしょう。そんな私の涙は豆乳鍋の中に溶けて、それでも優しい口当たりで、私の体と心を温めてくれました。
男は龍神の周りに住む人々を集め、龍と彼らのためにたくさんのご馳走を作りました。人々は今まで龍神のことを真に理解しようとしてこなかったことを恥じ、龍を神様として扱うことをやめました。
男はゆっくりと口を開きます。
『龍よ。あなたは私といるときは、いつも頭を近くに持ってきてくださった。誰かに理解されたいと願うのならば、あなたは人になりなさい。両の足で大地を踏みしめ、彼らの近くで物を見なさい。あなたは頭の位置が高いから、大切なものを見落としてしまっていたのです。』
龍は言われた通り、人間になりました。雪のように白い長髪に、秋の月を思わせる黄金の瞳。龍は、なんとも美しい女性になりました。するとどうでしょうか。人間の目から見れば、人々の顔がより鮮明にわかりました。笑っている人、泣いている人、涙をこらえている人。鼻の高さ、目の大きさ、耳の形。龍であったころには気づかなかったことでした。
そして、龍は男の顔を真正面から見ました。震える両手で男の頬を撫で、間違いなくそこにいる事を確かめます。龍には、そこにいる誰よりも男が恋しく思えました。泣きながら男を抱きしめ、ただそうしていた。『行かないで』とはもう言えなかったのです。
食事会を終え、私とケンとは部屋に戻りました。そこで、帰る条件を突きつける必要があったのです。
「……まず、私はケンを信長のもとに返します。ですが、これにはいくつか条件を付けます。」
一. 年に一度、一か月の間ケンを景虎のもとに派遣すること。
二. ケンは織田家、上杉家の両方の情報を相手に漏らさないこと。
三. 信長はケンの身柄、命を最優先に考え、死なせるようなことがないよう努めること。
四. 以上の事が守られなかった場合、上杉家が織田家を滅ぼしてでもケンを預かること。
「……これらが守られなかった場合、私は再び軍神になりましょう。意志も、心も忘れて。あなただけを求めます。」
「私から断言することはできませんが、おそらく信長様は条件をのむでしょう。……ありがとうございます。」
「……いいえ。ですが、これだけは言わせてください。必ず、私のもとに帰ってきなさい。私が死ぬまで、あなたは元気なままでいなさい。……そのために、これを預けます。」
「―――これは。」
手渡されたのは、黒い布に来るまれた包丁。布には竹に雀の上杉家家紋が縫い付けられている。ケンが了承を得て包丁を手に持つと、冷たい水に濡れているかの如く流麗なその姿には、ケンの驚いた顔が映るかのようだった。
「こ、こんな良いもの、いただけません!私にはあまりにももったいなく……!」
「いいえ、正当な報酬です。信賞必罰、あなたはこれにふさわしい働きをしました。……受け取りなさい。」
「……ありがたく、頂戴します!!」
ケンは深々と頭を下げ、感動に肩を震わせた。自分のやってきたことを、ここまで高く評価されたのだから当然だ。しかも、その相手はあの長尾景虎である。ケンは頭をあげることが出来なかった。
「ケン。顔をあげなさい。」
「……はい。」
「―――ああ、やっぱり駄目ですね。」
「え?」
その呟きと共に、景虎はケンに抱き着き、強引に唇を奪う。ケンは驚き、反射的に抵抗しようとするが、圧倒的に景虎の方が強いため、ただ自分の舌を貪る景虎の舌を感じていることしかできなかった。料理人として常人より舌の感覚が優れていたためか、意外とザラザラしているのだな、と思った。
「ぷぁっ……ふふ、口吸いは初めてでしたが、悪くありませんね。なにせ今までのまぐわいは、ただ子を為すためだけのもの。……月並みですが、愛があるとまた違うのでしょう。」
「景虎、さま……?」
「ふふ、そうとろけた顔をしないでくださいよ……。あの時は思わず噛みついてしまいましたが、今回は正しい意味でいただくとしましょうか。」
呟くと、景虎はケンの着物を乱暴に脱がせる。あらわになった肌には、あの日の噛み傷の痕がまだ残っており、景虎の想いをさらに昂らせた。
「い、いけません!私には既に子が……!!」
「ああ、信長とのせがれですか?別にいいじゃないですか。一人も二人も変わりませんよ。」
「そのような……!」
「―――ねえ、ケン。」
今までの荒々しさから一転して、景虎の声が愁いを帯びたものになる。
「私、初めてなんです。」
「――ッ! そんな、さっきは!そ、それよりも!猶更いけません!」
「嘘をついたのは謝りますが、男の人はそっちの方がいいんでしょう?それにこうして、誰かが欲しいと思えたのは初めてなんです。そもそも、今まで神様扱いされてたんですよ?神様に手を出そうとする人なんているわけないですし?」
「……だから、ですね。寂しいんですよ。それともケンは、私じゃいやなんですか?」
「……私は、あなたにすら嫌われるんですか?」
少しづつ、その瞳が澱みを増していく。景虎はわかっていた。ケンは優しい男だから、自分を見捨てられないことも。その行為は、義に反するということも。
だが、関係ない。率直にいって糞くらえだ。今景虎を突き動かす慕情と衝動の前に、義も神もあったものではない。
「……景虎、さま。」
「―――お虎さんと呼んでくださいと……。ああいや、もっと粗暴に……虎。今だけは、虎と呼んでください。」
「―――虎。」
あ、そんな目も出来るんだ。それが景虎の率直な感想だった。それまで食べられるのを待つのみの、怯えたうさぎのような雰囲気だったのが、いつの間にか肉食獣の目になっていた。ああ、今から食べられちゃうんだ。そう思いながら、虎はうっとりと目を閉じた。ただ一夜の夢だった。
龍は、男と結ばれました。ほんの少しの間だけですが、その時間は2人だけのものでした。男は焔のもとに帰りましたが、龍はもう孤独ではありません。今は龍も人間だからです。龍の周りにはたくさんの人がいて、同じ目線でものを見てくれるからです。
ですが龍は、時折東の方をじっと見つめることがありました。その仕草は、いつの間にか人々の間で季節の風物詩となっていました。青い葉っぱが散って、赤い葉っぱで満ちる頃。料理が上手くて、武芸が達者なあの男。誰よりも優しくて、誰よりも暖かいあの男。彼が東からやってくるのは、いつも秋の事なのでした。
――――――――――――
「の、信長様!!ケンが、ケンが帰ってきております!!」
「何じゃと!はよう連れてこんか!!」
約二か月もの間、ピリピリとした緊張感に包まれていた岐阜城は、この知らせに湧き上がった。なにせ、信長の不機嫌を唯一何とか出来る可能性のあるケンがようやく帰ってきたからだ。特に料理人たちの喜びようはすさまじく、時間さえあればケンを胴上げでもしそうな勢いだった。
信長はいっそ自分が出迎えにでも行きそうな勢いでケンの帰りを喜んだ。ケンがそばにいないことの影響が想像以上に大きく、これからはケンを遣いにする場合でも、すぐに帰ってこられるようにしておかなくてはならないと決意していたほどだ。
いやいや今はそんなことを考えている場合ではない。まずはあの帰ってくる男をどうやって迎えるかだ。ここはやはり、君主として威厳のある姿を見せなくてはならぬ。そう思いながら、信長は胡坐をかいた最後まで威厳たっぷりノッブなポーズでケンを待つ。
そして今か今かと信長が待ち望む中、その人物がやってきた。
「失礼します。ケン、ただいま戻りまし…!?」
「ケンーーー!!!」
……せっかく考えていた威厳ある対応は、ケンの顔を見た瞬間にすべて吹き飛んだ。恥も外聞もかなぐり捨てて、ただケンに抱き着いた。天下布武を唱えた戦国の覇王にして、既に後継を産んだ母の姿か?これが……。
「ワシの事をほ、ほ、ほっといてお前は!ワシがどれだけ、寂しい思いをしたと……!!」
「申し訳ありません。」
「あっ申し訳なさげなケン男前すぎるッ!じゃなくてじゃな! ……あー、越後で何をしとったか聞きたいところじゃが、この手紙を見る限り、それを聞いたらあの軍神気取りが攻めてくるらしいしやめておくか。」
信長の手には、ケンに先んじてやってきた景虎からの条件が書かれた手紙が握られていた。一年の内一か月もケンを要求してくるのには参ったが、この分ではあの女も落とされたのじゃろう。ワシとはまた違った意味でズレとる女じゃったが、ケンにはそういう女に対する特攻があるのかもしれん。そう警戒を深めた。
「そ、それよりも!お体は大丈夫なのですか!?確か、秀吉さんの手紙だと相当痩せられたと……」
「ま、子を産んだ後に増えておった分がもとに戻っただけよ。菓子も食べられなかったし!」
「……なら、よかったです。安心しました。それでは、何かおつくりしましょうか。」
「いやいやお主、何か勘違いしとるようじゃのう。」
「え?」
その瞬間、信長の瞳が妖しく輝く。
「どうせお主、あの軍神気取りに喰われたんじゃろ?そんな上杉かぶれを、ワシの領内に置いておくわけにはいかぬなあ?」
「で、では一体……?」
「クク、お主にしては理解が遅いのう。いや、ワシとお主の事じゃし、既に気づいておるな?その上でとぼけておるわけじゃ。」
信長の口が嗜虐に歪む。現代風な言い方をすれば、Sっぽい顔で笑っている。ケンはやはり、草食動物の顔で怯えていた。信長がケンに覆いかぶさるような格好になっており、逃げられない。
「おっと、逃げようとしても無駄じゃぞ?最悪帰蝶が控えておるからのう。」
「はぁ~い。ケンさん、諦めた方が楽ですわよ?」
「あ、あの、信長様?」
「命乞いなら聞かんぞ?お主から越後の香りが消えるまで、この部屋からは出さないつもりじゃからな。……ま、これもケンの浮気のせいじゃし、是非もないヨネ!」
無邪気な口ぶりとは裏腹に、信長の貌は間違いなく大人の女であった。このような絶世の大和撫子と一夜を共に出来るとは、普通の男なら大歓喜であろう。
だがケンにとっては、ただただ己の心の弱さを呪うばかりだった。
「逃がさんぞ……ケン。一生ワシから離れられないようにしてくれるわ。」
しゅるりという、肌から布が滑り落ちる音がした。夜はまだ、続くのだった。
「ケンさん女の人に弱すぎない?ノッブもこれ使いに出すの向いてなかったんじゃないの。」
「うーむ……ワシの思ったことはきっちり遂行してくるから外せんのよな。代わりに行く先々で現地妻つくってくるんじゃが!じゃが!」