40kgの重りを手渡され、放置しておくわけにもいかない為、汗まみれになりながらも、奇異の目が突き刺さる感覚に怯えながらも移動、自身の車へ投げ入れ、ガタガタの体を引きずりながらトレーナーが観客席へ戻ってきた時には、すでにレースは終わり、場内は歓声の嵐に包まれていたのであった。
彼女は膝から崩れ落ちそうになるのを我慢しながら、息ひとつ乱さない様子で声援を身に受ける担当の元に駆け寄り、声をかけようとし__
「……」
しかし、遠くを眺めるような視線で、麗しくながらも、無味乾燥とした表情で割れんばかりの観客席を眺めていたアサナトスを見て、その感情は急速に萎えていった。
目の前の赤い瞳が、トレーナーの惚けた表情に射程を定めた。
「おい」
「ヘッ……あ、は、初勝利おめでとう……」
「……おーう」
赤い瞳は、興味を失ったように、視界からトレーナーを排した。
そして、立ち尽くす若輩者をおいて、腰まで伸びた白銀の髪を靡かせ、観客席に背を向けるのであった。
「……」
今のトレーナーに、この深く広い谷を渡る術は無かった。
「わがんないぃ……」
「悩んでるなぁ!」
「ヘッ!?先生!?っつあっちっ!!」
天気も相まって、まさしく青天の霹靂。木の葉のさざめきが優しい雰囲気を醸し出す、トレセン学園の正面玄関前の広場。そこのベンチにワイシャツ姿で腰掛け、缶コーヒー片手に黄昏ていたトレーナーの指先にコーヒーが襲いかかった。
「すまん!隣失礼するぞ!!」
「失礼ですよほんとに……」
トレーナーの苦言を受け、軽く笑った豪胆な男。彼は、トレーナーが大学時代に講師として訪れていた、トレセン学園でも指折りのベテランである。そして、彼女がこの学園で唯一、謙遜したり怯えたりせず、自然体で会話できる杞憂な存在でもあった。
「ともあれだ、担当の初勝利おめでとう。とは言っても、素直に喜べてはいなさそうだな」
隣を見れば、そこには大学時代と変わらない、丁度空に浮かぶ太陽のような、無駄にガタイのいい先生がいた。
未熟さと自己嫌悪が湧き上がる。しかし、胸の奥底に灯った少しの安心感。気がつけば、トレーナーは彼に対して口を開いていた。
「だって、完全におんぶに抱っこなんですもん……トレーナーであるのに……」
「……」
「……なんか、自分が金魚のフンみたいで……あの子、きっと私じゃなくて、先生みたいなトレーナーがつけば、三冠ウマ娘だって夢じゃない才能を持っているのに、……私じゃあの子にとって、足手まといにしかなれないんじゃないかなって……ど、どうしたらいいんですかね……」
心の底からヘドロを吐き出し、ため息を吐いたトレーナーは、
「わぶ」
次の瞬間、頭をぐりぐりやられている感覚に襲われる。無論、その元凶は、彼女の先生である。
ゴツゴツな手で頭を撫でくりまわした彼は、あいもかわらず笑顔であった。
そして、その瞳に、真剣さが伴った。
「まずな、トレーナーをトレーナーたらしめている能力ってのは指導能力だとかなんだとか、そういうのはあるが、それは後からでもついてくるもんだ。一番は寄り添ってやれる力、これだよ。まずはウマ娘を気兼ねなくレースに送り出せることが、トレーナーにとって重要なことなんだよ。お前は担当をレースに出場させて、そのウマ娘は一着をとった。今回はそれで及第点だろ」
「……」
「でだ、今のお前らにまず足りないのは“信頼関係”!ちゃんとコミュニケーションとってんのか〜?」
茶化すように呈された質問に、トレーナーは思わず目を背けた。
「ぜ、全然練習に来ないし、……」
「恐るな、周りを見ろ。何かターニングポイントがあるはずだからな。別に信頼ってのは、相手の一から十まで知らなきゃ成り立たないものでもねえんだ」
その瞬間、トレーナーの頭に電流が走った。
まさに、天啓を得た、それを実感したのである。
それを見届けた彼は、すくっと立ち上がり、
「気張れよ、お前の目指すものはすぐそこだ」
と捨て台詞を残して、その場を後にするのだった。
「……」
一人残されたトレーナーは、勢いよく立ち上がり、バシンと両頬を叩いた。そして、ジンジンと痛む頬に急かされるように、すっかりぬるくなったコーヒーを流し込んだ。
次の行動指針は決まった。あとは行動に移すのみである。
「サナについて教えてほしい?」
そして、訪れたのは赤に染まった夕刻のターフ。そこならば、金色の瞳の世代最強__スフィダンテがいるからである。
思い立ったが吉日。トレーナーは早速、アサナトスと浅くはない関係にあると思われるスフィダンテを当たったのである。
「ということは、折れないということですか。てっきり契約解除でもしちゃうんじゃないかと思っていました」
「ひ、酷いこと言うね……」
半分あたりのようなことを言われて胃が痛いトレーナーに、汗が滲み出てくるのを袖で拭ったスフィダンテは悪びれることもなく笑みを浮かべた。
「そうですね……ただのバカです」
「バカ?」
そう聞き返したトレーナーの瞳には、愛おしそうに語るスフィダンテの姿が映っていた。
「自分を縛って、それが周りにとって良いことだと思っている。その実、自分を守っているだけなのですよ」
「課した縛りが、自分を守っている?」
ふわり、と微笑んだスフィダンテは、目を細め、
「これでおしまいです。あとは自分でやってください」
「ヘッ!?」
予想外の返答に驚きを隠せないトレーナーに対して、スフィダンテはさらに笑みを深め、
「ライバルに塩を贈ったのですから、感謝してほしいぐらいです」
「……ヘッ?」
トレーナーの思いも虚しく、満足したように踵を返して去っていくスフィダンテの後ろ姿を、彼女は眺めることしかできないのだった。
「自分に縛りを課して、自分を守る……?」
トレセン学園に所属するトレーナーは、その激務から専用の寮に住むことが推奨されている。無論、それは彼女も例外ではない。
もやもやを抱えたまま帰宅、釈然としないまま粗末な食事を済まし、湯船に浸かって飛び出た言葉がそれである。
キュ、と手を握り、その波紋が水面を伝う。
『別に信頼ってのは、相手の一から十まで知らなきゃ成り立たないものでもねえんだ』
「……」
結局、これで絶対に、と言う結論を、彼女は見出すことが出来なかった。
「やっぱりここにいた。アサナトス」
「……あぁ、アンタか」
しかし、初めてであった空き部屋。ソファーに寝っ転がり、ゲーム機から片時も目を離さずにいる白銀のウマ娘、アサナトスの目前に、トレーナーは足を運んだ。
「あなたが次に出場するレースを決めたの。“ホープフルステークス”。ジュニア級で3つしか無いのGIレースのひとつ。あなたならば勝てると思うから」
「……」
「もし、あなたがレースに出るなら、必ず“縛り”をもうけるでしょ?」
何故ならば。
「その縛り、
賽を投げなければ、どの目が出るか、判別しようがないからである。
その瞬間、ゲーム機から流れていた音に変化が訪れた。その画面には、“クエストクリア”の文字が表示されたのである。
電源を切り、テーブルの上にゲーム機を投げたアサナトスの表情は、レース場の時とは違う無表情であった。
「普通よ、止めるぜ?こういうことしてるのはよぉ」
「契約内容が内容だもの。だから、協力させて?私はあなたのトレーナーなんだから」
無機質に言い放たれたアサナトスの言葉に、トレーナーははにかみながら答える。
すると、アサナトスは反動をつけ、勢いよく起き上がり、トレーナーの目の前に立って見下ろした。
「半端な縛りはナシだ。面白みがねぇからな」
彼女の言葉に、初めて熱が乗った。