領主館の居住区画、その一室の前でセシルは静かに壁にもたれかかっていた。外はまだ朝日が昇ったばかりで、早いと言った方がいいだろう。そこで存在を思い出し、セシルはインベントリから時計付きの杖を取り出してみると時刻は六時を指していた。
これが正確かどうか怪しいが、その辺りの時間ではあると思う。この世界では時間より日照時間で物事は動くのだ。
セシルの耳に静かな音が聞こえた。部屋の中にいる人間が、気を遣って音を立てないよう扉を開けてきたのだ。平服を着たケラルトが出てきたが、扉を閉めるまで黙って見守った。
「容体は?」
「少しは良くなってきています。睡眠も少しは取れるようになってきて、ホッとしているところですよ」
「そうか。自然と治るなら〈
部屋から少し離れたところでセシルとケラルトは話し合った。内容は先日の交流試合で、炎への恐怖を思い出したカルカのことだ。
彼女は今、不眠症のようになっている。夢見の悪さと、目が覚めた時に足と顔が崩れているのではないかという不安からくるものである。
根幹となった事件当時にセシルはいなかったため、軽々しく慰められない。今は夜にレメディオスとケラルトにセシルの交替制で、寄り添っている。
最初はセシルの魔力で最大化させた〈
あちら側の世界にいた時は単なる状態異常だった睡眠が、現実化するとこれほど難しい問題だとはセシルも思っていなかった。
「PTSDか……歴史で習ったが、確かにこれは厄介だ」
「ぴーてぃー……?」
「単なる素人知識だ。気にしてくれるな」
あちら側の世界ではPTSDなどは、投薬や電子介入などでとうに克服されている問題だ。まぁ問題としないことが問題視されていたが、それは関係のない話だ。
「ともあれ、休める環境を整えることが第一だ。カルは仕事をしていないとかえって自責する
「そのあたりはお任せを。得意分野ですから」
「頼む……が、ケラも少しは眠れよ?」
「毎日夜が白む頃には起きてる人が、ちゃんと寝たら考えましょうかね」
セシルは頭をかいた。
マジックアイテムの中には疲労感を無視や減衰できるものがあるので、さほど問題にならないのだが……確かに違和感を覚えることかもしれない。
「レイナースが守備兵を引き続き、指揮してくれて助かったな」
「まぁカル様がああなると姉様は引きませんからね。と、噂をすれば影というやつですね」
真っすぐにカルカの部屋へ向かう途中のレメディオスとかち合う。彼女はカルカが完治するまで、側に侍るつもりらしい。
相変わらずだが、それでこそのレメディオスという認識がケラルトとセシルにあった。どうせ書類仕事には使えないというのもある。
「二人とも! 今日のカル様の調子はどうだ!?」
「大声を出さないで下さい姉様。丁度今、お休みになられたところです」
「むぅ……では部屋を警備するとしよう。お前たちは仕事をして来い。カル様の安全は私が保証する! というわけでだな……」
「そのお願いはレイナースに言え。本来のお前の役職をやっているのは彼女だからな……」
「なら問題は無いな!」
レメディオスは意気揚々とカルカの部屋に向かってしまう。周囲の人間は時々レメディオスがレイナースのことを部下扱いしている気がしてならない。
それにしてもあの調子では聖騎士団団長だった頃、副官はえらく苦労しただろうな。などとセシルは思ってしまう。
さて仕事である。ソーントンたちが来るまで、少し間がある。それまでに領主印を待つだけの書類に目を通しておくことにした。内容を見ないまま印だけ押すとエライことになると、流石にセシルも弁えている。カルカやケラルトにも散々忠告も受けている。
実際、差し戻しも二件あった。交流試合のために仕事を前倒ししたせいで、精密度が下がっているようだ。仕方のないことなので、注意も一言添えるだけでいいだろう。セシルもケラルトもあまり怒るのに向いていない。ケラルトは裏から追い詰めることは得意だが。
一通り溜まっていた仕事を終わらせると、文官たちが出勤してきて新しい仕事の始まりだ。
「……多いな」
「何がでしょう」
「移住希望者の人数。俺たちがいない間に新しい鉱脈でも見つかったのか?」
「特にそういう話は聞きませんが……」
「カル様がいないので、私が持ってきましたが、こっちも多いですよ」
ケラルトが執務机に一塊の束を置いた。書類とは異なり厚い……所謂、手紙というやつだった。また面倒ごとじゃないだろうな? と思いつつ、開いて見ると。
「ああ? 夜会の誘い?」
「魔導国では滅多に見ないものですね……」
他を開封していく。お茶会の誘い、季節の挨拶、催し物への招待状。これではまるで、普通の貴族になったかのようではないか。
セシルはこの世界では珍しく、姓すら持たない。地位は一冒険者で、役職はエ・ペスペル領主の代理。誘われることはないはずだ。
そもそもを言えば、魔導国の者を招きたいと思うような人間や亜人などいるはずがない。現にアインズですらそういった普通の催しに誘われることはない。派遣されるにしても表向き人間に近い形のアルベドなどになる。
「訳が分からない。俺はマナーとか知らないし、王国の貴族で知り合いは……ザナック王子くらいだ。いくら塩が出てからもこんな誘いはなかったし」
「うっふっふ、こんなのも来てますよ」
ケラルトがたまに出す不気味な笑い。それを直接向けられながら、紙を見れば肖像画のようなものが描かれていた。電子教科書の偉人のページを思い出させる。
「なんだこれは? 履歴書か?」
「所謂、釣書。縁談ですね」
なんだってそんなものが、そう思う前にセシルは身の危険を感じた。三人に知られたらただではすまない。そして逃げる権利もない。そして、もう知られている。
「まぁ落ち着け。応じる気はないし、なんならその手の書簡はお前の好きにしてくれ! なので一方的な被害者である俺を責めるのはやめろ」
「……まぁ冗談ですよ。今まで来なかったこれらが来るようになった理由も分かりますし」
「契機は俺にも想像がつくぞ。交流試合だな?」
これまで届かなかったものが来るようになる。その間のイベントなどそれぐらいだ。問題は彼らの狙いだろう。
「魔導国に対抗できる人間がいた。それだけで彼らは踊っているのですよ。元々、王国は王権が絶対というわけでもありませんからね」
「迂遠すぎるだろ。馬鹿なのか貴族って」
お茶会やパーティーでの縁ぐらいで、助ける義理にはなりはしない。だが、ただセシルが人間種であるという点だけで価値観を共有できると思っている。
大虐殺のことを知って魔導国に所属しているセシルは、その点で言うと、まさに人でなしなのだが、そんなことは他人には分からない。
「これは魔導国に爵位が無いことも作用していますね。とりあえずつついてみた、というところでしょう。まぁ確かに現段階で釣書を送ってくるのは大馬鹿か最高の賭博師ですが……この貴族たちの名前はエ・ランテルに報告しておきましょう。後から厄介なことになりかねませんし」
「そうだな。なぁこれはもしかして……仕事が増えたのか?」
「お茶会や夜会の招待にはお断りの手紙を、季節の挨拶には無難な返事を。手紙を書くという仕事が増えますね」
セシルは頭を抱えた。まさに貴族の仕事だ。
そういえば釣書にはどう対処しろというのだろう。見ればソレらは全てケラルトが抱えて邪悪な笑みを浮かべている。とりあえず結婚はしなくて済みそうだった。結婚……今まで避けてきた話題でもある。
既婚者の知り合いがいれば相談してみようかな、とセシルは考えた。
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