カルカの物となってしまった市長室だったが、意外にも書類が積み上がっていたりはしない。生き残っていた文官が印を押すためだ。方向性を決めて各所に伝える。それがカルカのやっていることだ。部外者として記録を残すわけにはいかない。
それでも、虜囚からの突然の解放で混乱する人々にとっては、指示をくれる人物というのは希望の光と言っても良かった。
「おかげでセシル様と過ごす時間は無かったわけですが……」
それも今日で終わりだ。合同葬儀を見守り、やって来る討伐軍に引き継がれる。文官の適性を見て、それぞれにやるべきことを伝えてあるのでいざというときも大丈夫だろう。
それではここから離れるかと足を踏み出した時、文官が息を切らして扉を開いた。
「大変です! カル市長代理! ビーストマンの大軍がこちらに向かってくる模様です!」
「思っていたより早かったですね……私も防衛隊のところまで行きます!」
城壁から見る敵軍は蟻が大挙してやってくるようだった。彼らがやってくることは予想の範疇だったが、その速度は予想外だった。
なにせこの都市を占拠していたビーストマンは
「
城壁の上でセシルは先入観というのは恐ろしいと嘆息した。これまで見た全てのビーストマンが戦士だったが、
「壮観だな……兵士たちの配置は済ませたぞ」
「レメ。扉は塞いだか?」
「できるだけ重いものをひたすら山積みにしただけだがな」
「よし。あとは俺次第か。城壁を飛び越えて来る連中がいたら頼む。“虹”と連携すればかなり保つだろう。ケラとカルも来るだろうしな」
お前は? などという馬鹿な質問をレメディオスはしなかった。人間種を食らおうとする亜人種。そこについては意見が完全に一致したわけではないけれども。少なくとも今この時は、立場も心情も揃っている。彼を己が聖剣と見込んだのは彼女なのだから。
「では、行ってくる」
城壁から飛び降りるセシルの姿は一般兵には身投げに見えたかも知れない。だが、これから落ちるのは敵だ。全くいつも非常識で計算外で馬鹿馬鹿しいから……心配など無用だと信じることにしたのだ。
「ふざけているように聞こえるだろうが、敵軍はアイツがどうにかする。漏れ出た敵の処理が最優先だ。弓に頼りすぎるなよ」
残り少ない軍隊の指揮官としてレメディオスは振る舞う。“虹”は念の為市内の守りについてもらっている。城壁を乗り越えた敵がレメディオスの相手だ。カルカとケラルトもそこに加わるだろう。それぐらいはしてのけるのが、彼に対する友愛だろう。
「こっちの覚悟はできている……だから思いっきり無茶をしろ」
女がつぶやいた言葉が聞こえたのか、聞こえていないのか。軍隊を一人で相手にするのに、セシルは真剣に考えていた。どこから攻め入れば目立つだろうか。目立つのはこうした時非常に重要だ。できるだけ自分に集って来てもらわねば困るのだ。
「やはり中央かな。端を攻めても端には聞こえないかも知れないし……いや走り回るか?」
敵軍おおよそ二万を前にセシルは狂ったような計算をしている。一撃ごとに十人倒せるから二千回ほど剣を振ればいいなと。
しかし、この世界においてセシルはそうした存在だ。
「さて、始めるか」
ゆっくりと駆け出す。ビーストマンの相手はこれで三度目だ。敵は人間とは相容れないが独自の文化を持つことも知っている。誇りがあることも知った。人間を食いながら家に帰れば良い父親だったりするのだろう。ああだから……もう悩むことは
セシルを見ながら笑っていた、狼に似ている先頭の戦士に突きを叩き込む。剣風に巻き込まれて後ろの敵も穴が空いた。
次の瞬間には直刀を回転させてすれ違った敵を、適当に切りながら左翼に向かって斬りつける。横薙ぎは五体ぐらいしか巻き込めなくて非効率的だな。そう思いながら取って返して、右翼へ向かう。
そう。ビーストマンの相手は
「なんだ、ありゃ……」
「アダマンタイト級冒険者ってここまでのものなのか……」
弓矢を準備しながら、その機会はまだ回ってこない兵士たち。城壁の上に配置された彼らは黒い塊が波打ちながら苦しんでいるのをただ見ていた。黒い塊に見えるものは一体一体が自分たちを恐れさせる兵だと知っているからこそ、信じられない。
「流石に同じとは言えないな。あれが我々“金鎖”の切り札だ。あればかり見てないで、しっかりと敵を見張れよ……しかし、アイツ本当に一体も通さないつもりか?」
過保護な、と苦笑したレメディオスだったが兵士たちが再び騒ぎ出した。見れば別の兵の塊がこちらへと向かってくる。計算が狂うにも程がある! 叫び出したい気分だったが、騒ぎは次第にざわめきへと変化した。
「おい、あれ。槍を持ってるぞ!」
「そうだ。あっちの方向は王都だ! ってことは……」
「味方だ! 援軍が間に合ったぞ!」
レメディオスもほっとしていた。もしものときはセシルの真似事でもする羽目になるところだった。確かに個体で差がある亜人種のビーストマンではない整列した軍隊だった。
そこから一集団抜け出たのが見えた。
「うおおおおぉ! “クリスタル・ティア”のセラブレイトだ!」
血走った目の男が戦場に加わろうと疾駆していた。