アンノウンエスは模擬レースを終えて、クールダウンを行っていた。
模擬レースでは入着を逃してしまった。
目ぼしいトレーナーも見つけられず、彼女には少し不満があった。
何故、私は結果を残せないのだろう。
アンノウンエスはこう思っていた。
”結果を残せなければ、存在する意味がない”
それは彼女自身に重くのしかかる言葉だった。
水道で頭から水を浴びる。頭を冷やして、次のトレーニングに備えようとした。
「おい、春だからってそんなことしてると風邪ひくぜ」
後ろから、男性の声がする。
ぶるぶると頭を振るって水滴を払い、アンノウンエスが振り返ると、そこには用務員と思わしき男性がいた。
「……気にしないで下さい」
「アタマを冷やしたって足が速くなるわけじゃねぇよ」
「体が冷えちまう」
彼なりの親切なのだろう。その言葉には優しさがこもっていた。
アンノウンエスはその場所を後にした。
足元にはマルボロの殻が転がっている。
彼もタバコの袋を懐から引き出していた。
おそらく、ここは、喫煙者というはみ出し者たちの、最後の居場所なのだろう。
そう思って、アンノウンエスはこの場所を去った。
ここは私の居場所ではないから。
アンノウンエスは走り込みを終えて、寮に帰るところだった。
その際、河川敷でタバコを吸っている人を見た。
アンノウンエスは覚えていた、彼がトレセン学園の用務員で、それで……
彼がこちらに気づいた。手を振って手招きしてくる。
アンノウンエスはタバコのにおいが嫌いだったが、彼のこと自体は嫌いではなかった。
「針山さん、ごきげんよう」
彼女は彼の名札を見ていた。彼の名前は針山というらしい。
「機嫌なら、悪いことが起きなきゃいつでも良いぜ」
彼はタバコを踏みつけながらアンノウンエスを見る。
「泣いたんだな」
「泣いてません」
アンノウンエスは嘘をついた。
彼女は最近、走り込みをしていると涙が出てくるのだ。
こんな自分が、ここに居ていいのだろうか?
そんな疑問が風と共に彼女の身体を突き抜けていく。
湧き上がる疑問と不安で、涙が出てくるのだ。
結果が残せていない人間が、ここに残っていていいのだろうか?
「おい」
アンノウンエスはいつの間にかまた疑念でいっぱいになっていたようだ。
針山はハンカチを投げた。
「新品だから返さなくていいぜ」
アンノウンエスはそれを受け取って、鼻をかもうとした。
「返さなくていいからってそれは……」
「……冗談です」
彼女は溜まった涙を拭きながら答える。
「あれか? やっぱりトレセンに居るのがつらくなってきたか?」
「この時期はそういう学生が増えるからねぇ」
「あなたにわかるほど簡単な事ではないです」
「オレ、トレセンに勤めて長いから、若いウマの考えることなんて全部ココに入ってんのよ」
針山は頭を指でつついた。
「ぷっ」とアンノウンエスは笑った。
「あなたの頭は空っぽに近いじゃないですか」
「アタマは空っぽの方が気楽でいいぜ」
「その分言葉が響く」
アンノウンエスは笑った。
針山は手品のように缶コーヒーを袖から取り出した。
それをアンノウンエスに渡す。
「秘密だぜ?」
アンノウンエスは笑う。
「秘密にしておきます」
「じゃ」と針山は帰るようだった。
アンノウンエスはカシュっと缶コーヒーを開ける。
金色の、微糖のコーヒーだった。
「不思議な味」
なんだか、そのコーヒーはしょっぱかった。
はるふり - ナンセンスの塊