憶持のオーバーロード   作:wash I/O

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最終話 憶持のオーバーロード

 唐突に。

 

 あまりに唐突に何の前触れもなく、<バベルの災厄>は終わった。

 

 流れ込んだ難民を含むエ・レエブルの人々は、半ば呆然としたままその日は暮れるまで、敢えて種族や出自階層が異なる人を探し求めては、

 

「こんにちは、私の言うことわかりますか?」

「すいません、何か喋ってみてもらえませんか?」

「問題です、この町の名前は何でしょう?」

「これはペンです。あれは林檎ですか?」

「今何問目?」

 

と、常であれば頭がおかしいと思われて当然の言葉を互いに交わすことに費やした。

 

 そして一夜明けて、今なお言葉が通じることに気づいて初めて安堵の息をつき、続いてお祭り騒ぎとなった。通りにたくさんの露店が繰り出し、種族も階層も異なる人々が、言葉が通じる、ただそのことを(ことほ)いで、()いで()がれて奢り奢られのドンちゃん騒ぎ。

 

 無論、エ・レエブルの住人すべてがこのように能天気であったわけではない。

 言葉が通じるようになったとて、たちまちに押し寄せた難民が霧消するでなし。

 

 市参事会は緊急会議を開き、引き続きビョルケンヘイムに難民の差配について全権を委ねると共に、今回の事態の悪化を未然に防いだ功を讃え、任期ニ年(にねん)筆頭参事(プレジデント)の称号を贈った。市政に対して優先発議可能な特権で、全会での推挙を要するそれを得たものは過去に三名しかいない、という極めて名誉なものになる。

 

 ビョルケンヘイムは早速参事会にその権を以てとある発議をおこない、同じく全会一致での議決を得た後、早々にこの特権の放棄を宣言した。

 

 

 

青生々魂(アポイタカラ)級冒険者だって?」

 

とキーノが素っ頓狂な声をあげて驚く。

 

 青生々魂(アポイタカラ)とは、金剛(アダマンタイト)よりも更に優れるとされる伝説の鉱石の名だ。八欲王の時代には存在していて他ならぬ八欲王がその鉱物から鋳造したとされる恐ろしい切れ味の刀剣を振るったと語られるが、もちろん現物の存在は知られておらず、普通の人々にとってはお伽噺の小道具(ガジェット)の一つに過ぎない。

 

「ビョルケンヘイムがどうしても、と譲らなくてな。参事会が議決してしまった以上、袖にするわけにもいかんだろう?」

 

 リキウスはそう言いながら、迷惑そうな顔でさきほど参事会から受け取ってきた証書を(みな)に示した。

 

<認定証、青生々魂(アポイタカラ)級冒険者、朱の薔薇、リキウス・アインドラ殿(どの)、ガ・ギン殿(どの)、クゥイア殿(どの)、クゥイナ殿(どの)、キーノ・インベルン殿(どの)。>

 

と恭しく墨書され、朱の市璽が押印されている。

 

(なに)カ実益ノアルモノダロウカ?」

 

とギンが尋ねるが、

 

「それが傑作でな。

 裏書きにはただ<名乗ってお構いなし>とだけ書かれている。」

 

「……アノ参事会ノ連中ニ、ソウイウ諧謔(ユーモア)ガアルトハ()ラナカッタナ。」

 

 ギンは片手で証書を(つま)んで()めつ(すが)めつしている。

 

「なーに、連中の魂胆は見え見えさ。

 ビョルケンヘイムは遠回しに、参事会の自分の席の両隣は空いている、とぬかしやがった。」

 

「どういう意味なんだ、それ?」

 

 今一つ世間知を欠くキーノには、言葉が通じるようになってもその含意がわからない。

 

「……()ケルノカ?」

 

 ギンが、ただ一言そう尋ねる。

 

「まさか!

 隠居するにはまだ早いさ。

 

 が、俺だって、キーノじゃあるまいし、永遠に現役でいられるわけでもなし。

 先々にそういう選択肢もある、ってのをこの証書が言ってくれるのなら、それはそれで有り難いんじゃないかと。」

 

 今回の仕事は存外やり甲斐(がい)があった。

 意外に自分にはそういうのも向いているのかも知れない。

 

 特に、一連の出来事を通して学んだ、言葉というものの重み、はリキウスに強い印象を与えた。エ・レエブル筆頭参事の肩書を得た晩年の彼は、鮮血帝ジルクニフ一世の顰に倣ってエ・レエブル周辺の教育制度の確立に尽力することになるのだが、それが偏にこのとき彼が抱え込んだ使命感(オブセッション)に由来していることを知る者は少ない。

 

 が、それは彼にとってはまだ遠い未来のお話。

 今はまだ、仲間たちと(フィールド)を駆けているのが(しょう)に合う、とリキウスは考えている。

 

「フフ、ソウダナ。

 ソレモ(わる)クハナイ。(おぼ)エテオコウ。」

 

 ギンは、弟子でもあり相棒でもあるリキウスが、また一廻(ひとまわ)り大きくなった感触を得て満足げにニヤリと笑った。

 

 

 

 キーノは今も心のどこかで、<バベルの災厄>にどのような形であれ、傲慢不遜な比類なき骸骨、アインズ・ウール・ゴウンが関与していたことを疑っている。さりとてそれを確認する(すべ)はなく、出会うゴキブリにそれを問うて歩くのもおかしな話だ。

 そう言えば、気紛れで乾酪(チーズ)の欠片をおすそわけして以来、それまで目が合えばすばやく物陰に隠れるのが常だったゴキブリが、一拍何かを期待するかのようにその場で待つようになったと思われるのは気のせいだろうか。

 

 そんなことを道すがら考えながら、キーノは件の商工会議所に元漆黒聖典を名乗った奇妙な新しい友人、クレマンティーヌを訪ねてみた。が、その姿は何処にもない。訊けば、<翻訳の神秘>の回復に気づくやあっというまに姿を眩ませたらしい。

 

「残念ではあるが……(かた)()まれん奴だからなぁ。」

 

 結果的に、彼女から受けた教示は<翻訳の神秘>の回復に伴い無用のものとはなったが、それでもキーノはクレマンティーヌの助言(アドバイス)に深く感謝していた。

 

 彼女から学べることはまだ多くある。いや、そういう実利を抜きにして今少し語らってみたい、と思い立ち、また何か甘いもので誘い出せば相手をしてくれるだろう、と来てみれば、風来坊の姿は既になし。まだそう遠くへ行ったわけでもなかろうから、クゥイアとクゥイナに頭を下げれば探し出して捕まえて来てはくれるだろうが、それは友だちに対する振る舞いではなかろう。

 

 あちらは命限りある存在だから……犬や猫の半人半獣(はんじんはんじゅう)であったとしても、不死者(アンデッド)ではないはずだ……もうこれっきりかも知れない、と少し寂しく感じなくもないが、逆に言えば、縁さえあればまた何処かで会えるかも知れない。出会うことがないとすれば、それは縁がなかったのだから仕方のないことだ。

 

 独りキーノはクレマンティーヌに幸多(さちおお)からんことを祈った。

 

 ちなみに。

 

 その実のところ薄幸極まりないクレマンティーヌであるが、出奔したはいいが食うに困り、北辺の混乱に乗じて暗躍し始めた野盗の一団に身を寄せるが、運悪く漆黒の英雄と鉢合わせて五年ぶり四度目の鯖折りを喰らう羽目になる。その後……といってもこれから二百年ほど(のち)の話になるのだが、某骸骨の気紛れで再び現世に呼び戻され五度目の鯖折りからの復活連続技(コンボ)を経験し、打ち捨てられたところをキーノに拾われてばったり再会、遂に腹を括ったキーノに眷属猫として迎えられることとなり、実に三百年越しでアインズの「美しいままに死ね」の言葉が成就することになるのであるが、これはまた別のお話。

 

 

                    *

 

 

 大丈夫……なはずだよな。

 

 男は腹を括って麦畑越しに見える人影に声をかけた。

 

「あの、もし。そちらのお(かた)!」

 

「ん?」

 

と振り返ったのは、思った通り小鬼(ゴブリン)だった。

 

「見ない顔だな。エ・ランテルから来たのかい?」

 

「ええ、そうです。

 少しお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 

「うーん、オイラは難しいことが苦手だからな。

 少し待っていてくれれば物知りな先生を呼んで()るけど。」

 

「いえ、野良仕事をお邪魔するのも恐縮ですし……」

 

「いいよ、そろそろ昼飯の時間だと思ってたところだし。

 あんた、お昼は?」

 

「ああ、どうぞお気遣いなく。」

 

「……まぁいいや。ちょっとここで待っててよ。」

 

 返事も待たずに小鬼は彼方の城柵の方へと駆け去っていった。

 

 噂に聞いたとおり、ここは一風変わったところだ。

 小鬼と普通に会話したのも初めてだが、まさか昼食の心配をされるとは思ってもみなかった。

 待て、とは言われたがどの程度ここで待っていればよいものだろうか。昼前ではあるが、夕刻まで待たされると帰路が面倒だな、などと考えていると、何かが向こうからふわふわと飛んでくる。

 

 自身魔法詠唱者(マジックキャスター)である男はこれに大層驚いた。

 間違いなく<飛行(フライ)>の魔法であるが、これは一定の速度を出して直線的に飛翔する分には安定するが、存外低速でふわりふわりと飛ぶのは至難の技。男自身、滑らかにそのような飛び方ができる者は見たことがなく、噂に聞く影の魔法省の首領(ドン)アルシェ・フルト閣下が歩行困難になって以降、そのような技をごく近しい者の前に限り披露すると伝え聞くのみだ。

 

「ああ、待っていてくれたか。」

 

 黒い道服(ローブ)を纏った人物が男の前に着地する。

 何の衝撃も感じさせない、草一本揺るがさない滑らかな接地。

 

 これは只者ではない、と息を飲む。

 恐る恐る面を伺ってみるが、やたらと顔色が悪く表情がない。まるで蝋人形のようだ。

 

「ヨタローに届けろと言われて持って来た。」

 

と手渡されたのは、一本のパンと竹筒に入った水。

 

「ヨタロー?」

 

「あぁ、聞いてないか。おまえが最初に声をかけた小鬼の名だ。おまえが随分くたびれた様子なのを気にしていてな。余り物だが届けてやってくれ、と頼まれた。

 

 食うか?終わるまで待つが。」

 

 男は想像外の展開に困惑を隠せない。

 

「……あー、いやありがたく後ほどいただきます。

 貴殿をお待たせしては申し訳ありませんので。」

 

「そうか、オレは別に待っても構わんのだが。

 まぁ、焼き立てでもなし。急いで食う必要もないな。」

 

 男には、この人物の物事の軽重(けいちょう)がまったく読めない。

 

「で、何だ。聞きたいこと、というのは?」

 

 あ、ちゃんと本題に入るんだ!

 

「これは失礼しました。実は私は帝国の魔法省から参りました。」

 

「だろうな。」

 

 どうやら既にこの人物に、自身が魔法詠唱者であることは見抜かれているようだ。最早隠し事をしても益はあるまい。

 

「先だって<翻訳の神秘>が失われた事変に際し、人間、亜人が混じり合って暮らすド・クロサマー王国では大層混乱があったのではないかと、その辺りの事情を伺いに参上した次第です。」

 

「どうも話がよくわからんのだが、何かあったか?」

 

 な!

 

「こちらでは種族や出身地が異なる者の間で言葉が通じなくなる現象は起こりませんでしたか?」

 

 もしや。

 噂の髑髏(どくろ)様の想像を絶する魔法とやらで、あの災厄から逃れていたのか!

 

「ああ、あれな。」

 

「え?」

 

「確かに妙なことになっていたな。

 それがどうかしたか?」

 

「……いや。こちらは人間、亜人が混じり合って暮らしておいでなので、さぞや混乱があったことかと。」

 

「そこがわからん。」

 

「……わかりませんか?」

 

「さっきのヨタローな。」

 

「はい?」

 

「想像してみろ。今も言葉が通じないとするだろ?」

 

「はい。」

 

「ヨタローがおまえを見るわな。」

 

「はぁ。」

 

「多分、同じようにパンを届けてやると思うぞ。」

 

「は?」

 

「おまえは長雨が続くからといって気を病んで狂うか?」

 

「はい?」

 

「野良仕事に出れないのは残念だが、その間に出来る他のことをするだろう、藁縄を結うとか。

 ああ、おまえは宮仕えだからわからんか?」

 

「いえ……それはわかります、わかるつもりです。」

 

「言葉がしばらく通じないのも、それと変わらんだろ?」

 

「……そうでしょうか?」

 

「実際、特に面白いことは何も起こらなかったぞ。

 ……強いていえばアレだな。」

 

「何かありましたか!」

 

「ゲ・ガン、知ってるか?」

 

「はい?」

 

「……知らんか。生者のわりにはかなりやるからエ・ランテルにも名が届いているか、と思っていたが。まぁ、村一番に腕の立つ妖巨人(トロール)だ。そいつがな。」

 

「何かしでかしましたか!」

 

「どうしても作って欲しい料理を頼むために、生まれて初めて絵を()いた。」

 

「……は?」

 

「オレにはそもそもその絵が食い物には見えなかったんだがな。

 ところが、だ。ハルにはちゃんとそれが水嫌牛(イグノニック)の腸詰めの苔桃添え(クランベリーソース)だとわかるんだよ!」

 

「ハル?」

 

「ヨタローの女房だ。」

 

「はぁ……」

 

「ゲは届いた料理に感激してハルに跪拝を捧げたそうだ。

 な、言葉なんぞ通じなくとも何とかなるだろ?」

 

 やはり、と男は思う。

 ここ、ド・クロサマー王国はやはり噂に(たが)わぬ妙なところだ。

 

「で、貴殿は?」

 

「オレか?名乗るほどのものじゃない。

 無駄な長生きを買われて村で教師の真似事をやっている。

 ……そうだな、不世出の三重魔法詠唱者(トライアッド)、とでも憶えておいてもらおうか。」

 

「三重魔法詠唱者!貴殿がですか?」

 

「……疑うなら見せてやろうか?」

 

 道服の人物はニヤリ、と笑うが、帝国の男はその頬に裂けたかの(ごと)く亀裂が入ったように見えたのに気づいて震え上がる。

 

「いえ、結構です。私はこれにて!」

 

と慌てて(きびす)を返した。

 

「ああ、ご苦労さん。帰路、気をつけてな。」

 

 男を見送りつつ、道服の三重魔法詠唱者デイバーノックは、ふーっ、とつく必要もない息をつく。

 

村長(トゥリア・エモット)の言った通りになったな。

 まぁ、これでしばらくは連中も余計な勘繰りはすまい。」

 

 

                    *

 

 

森妖精(エルフ)たちに理想の生活など与えてやる必要はないのだよ。キミの父上のあまりの無為無策に(みな)疲弊しきっているからね。極当たり前の暮らしの(ちゅう)()、あたりを保証さえしてやれば、涙を流して人の子に感謝を捧げることだろう。後は彼ら自身のするに委ねれば、志あるものは国力増強に寄与するだろうし、ないものは勝手に脱落して野垂れ死にだ。いずれにせよ、キミが心煩わせることなど何もない。」

 

 三ヶ月ほど姿を見せなかった名もなき非常勤政治顧問、ナモンは、不意に現れるやそんなことを滔々と楽しげに語った。いつものようにシロクロは、それをうっとり陶酔しながら拝聴している。

 

 あの日……突如として<翻訳の神秘>が失われたあの日、シロクロはその旨を、どのように対処すべきかと困惑しながらお伺いを立ててきた国官から(しら)されていた。問答無用にその首を()ねたシロクロの脳裏を占めたのはただ一つの不安、言葉が相通じなくなってしまえば、利用価値のない自分はナモンに捨てられてしまうのではないか、という不安だった。

 が、次いで姿を現したナモンは、一言も発することなく、シロクロがいくらもうやめてと叫ぼうがお構いなくその体を貪った。度重なる絶頂に振り切れて、遂に意識を失うまでも。

 ナモンが立ち去った後に意識を取り戻したシロクロは、あまりの嬉しさに気が狂わんばかりに泣いた。ナモンは、たとえ言葉が通じなくとも、自分を捨てることはないのだ、と。

 

 それからしばらくナモンが訪ねてくることはなかったが、シロクロはそんなことは気にならなかった。

 

 ナモンが自分を愛してなどいないことは承知している。ナモンの至誠の愛が、彼が至高の(あるじ)と呼ぶところの死の支配者(オーバーロード)アインズ・ウール・ゴウンのみに捧げられていることは百も承知だ。

 

 が、同時にこうも思う。

 

 アインズがナモンにとって無二の愛の対象であるのとは異なり、ナモンはアインズにとっては右腕(みぎうで)ではあろうが数ある下僕(しもべ)の一人に過ぎない。つまるところナモンが捧げるところの愛は、原理的には決して(むく)われることのない愛なのだ。

 

 またこうも思う。

 

 ナモンはこの世界の者を殺めるに何の躊躇もしない存在だが、意味もなく唐突に殺めるような真似はしない。多かれ少なかれその者に関与し、ときに至福の歓びを与え、ときに逃れる術なき自己否定を植え付け、最早その者にとって死以外の出口がないところまで追い詰めてその命を奪うのが常だ。

 

 これもまた、悪魔である彼にとっては、愛の一つの形ではないのか?

 

 ナモンの自身に対して供される性愛が過分に歪んだものであることは早い段階から気づいてはいたが、実のところそれは、自身が己のうちに抱え込んでいたかく犯されたいと乞い願った願望の裏返しであることに気づいたのは、実に無言のまま七度、失神するまで達せられたときだ。

 

 一方的な思い込みであるかも知れない。いや、確実にそうであろうことは承知している。が、シロクロはナモンが自分を愛してくれている、と確信している。そして、ナモンが決して真の愛の対象からは報われぬ存在であることを知っている自分は、決して彼に彼の望む満足を与えることは出来ようはずもないが、それでもナモンに無二の愛を捧げようと誓う。

 

 逢瀬を重ねども未だ懐胎の兆しはない。そもそも寿命八百年に及ぶ森妖精(エルフ)の受胎率はすこぶる低い。子を欲する気持ちに偽りはなく、それが忌むべき父がさらにその母、見知らぬ異世界に流れ付きいずれ尽きる己の命を受け継ぐものを狂ったように求めた祖母から引き継いだ強迫観念(オブセッション)に由来することも、ナモンから示唆されて知っている。

 

 だが、シロクロは自身が真に求めていたものが何であるか既に気づいていた。本当に欲していたのは、呪われた身には縁遠かった自身に愛を欲し求めてくれる何者か、そして自身が無償の愛を捧げる対象だ。前者(実子)はナモンが常々言う通り、授かりもの、であって運命の気紛れに委ねる他ないが、後者は今まさに目前にあって世界のすべてを睥睨する蠱惑の笑みを浮かべている。

 

「今日の講義はここまでだ。何か質問はあるかね?」

 

「いえ、ありません、ナモン。」

 

 シロクロは笑顔で即答する。

 

「では、今日のところはこれで失礼するよ。

 復習と日記への記録は欠かさぬように。」

 

「……はい、またのお越しをお待ちしています、ナモン。」

 

 悪魔はいつものように掌の光る玉を握り割って<転移門(ゲート)>へと消えていった。

 シロクロの肌に指一本触れることなく。

 

 シロクロはその理由を知っている。

 

 今は……少しじらされたい気分だったから。

 

 

                    *

 

 

 大陸北西部、旧リ・エスティーゼ王国貴族が割拠する領域は大混乱の最中(さなか)にある。

 

 ブルムラシュー侯は早くも()を上げ、諸権利放棄と庇護を見返りにエ・レエブル市参事会に自領の吸収合併を打診してきた。参事会は、現時点ではこれを黙殺している。

 エ・レエブル傘下の町村は(みな)徒歩で一日以内の距離にあり、統治体制はそれを前提としている。ここにどれほど健脚であっても最低四日を要するリ・ブルムラシュールを統合するのは容易なことではない。侯は居城に閉じこもったままエ・レエブルから治安回復の援軍が到着することを期待しているようだが、果たしてその期待が満たされるかは微妙なところだ。

 

 リ・ボウロロール、リ・ウロヴァールはいずれも既に城は落ち、侯爵、辺境伯は行方が知れぬ。城下は事後の体制の主導権を巡って、俄に旗幟を翻し市民側に立ったに見える中下級貴族、私兵を囲い込んで軍閥化する豪商、確たる戦略もないままに熱意のみで暴走する市民集団、その他諸々が、それぞれ決め手を欠くまま睨み合いを続けている。

 ただエ・アセナルのみが、最辺境であると共に、支配層から被支配層までの文化多様性が小さかったことが幸いして平穏を維持しているようではあるが、周辺の異変については情報が届いているはずなので、今後どちらに転ぶかは予断を許さぬ状況だ。

 

 このような次第であるから、当然そこには長期的な展望も持たぬまま欲するに任せて略奪をおこなう輩も現れる。今なお新たな支配権を求めて競い合う諸勢力に、そういった(もの)たちを抑える秩序維持の力など望めるはずもなく、長らく当地において一線を越えた悪虐(あくぎゃく)を為す上での心理障壁となっていた<神隠し>の噂も鳴りを潜めた今、非道の前に逃げ惑う無辜の民を顧みる者はいない……。

 

 否。

 

 リ・ボウロロール近郊の小さな閑村に、土地柄に似合わぬ嬌声が一晩中響いている。

 

 村を余所者の略奪から守ることを口実に入り込んだ一団が、たちまちに村の男衆を殺し、女衆は犯して根城としているからだ。この(もの)たちには明日の展望はない。備蓄された食料物品を消費し尽くせば、また別の町か村を襲えばよい、と考えている。それがいつか破綻する愚行である、などという発想はない。かの八欲王がそうであったように。

 

 そして、そのような者たちを大の好物とする身勝手な化け物が目と鼻の先まで来ていることに、狂乱の宴に酔う者たちはまったく気づかない。

 

「ん?」

 

 酔を覚まそうと群れを離れた一人の賊が、目前に一つの甲冑騎士像が屹立していることに驚く。こんな村にあるにしては随分と優れた造りであるし、そもそもさきほどここを通ったときはこんなものはなかったような気もする。とまれ、値打(ねう)(もの)であれば解体して運べるようにした方がよかろう、と思うが、その騎士像がゆっくりと自分に向かって歩み来るのに気づき、驚いて肝を潰した。

 しかも空恐ろしいことには、騎士像は自身の身の丈ほどもあろう両手剣(グレートソード)を左右の手に一振りずつ握って、しかもそれぞれ上段に振り上げている。そんな馬鹿なことがあるか。あの得物を、そんな扱い方が出来る人間などいようはずもない。

 

「おい、おまえら!ちょっと()

 

 振り返って仲間を呼ぶ声は中途で途切れた。本人は知る由もないことになるが、騎士像が振り下ろした大剣が、肩口から入って股下までを引き千切(ちぎ)ったからだ。

 異変に気づいた破落戸(ごろつき)のうち、既に酔いがまわって冷静な判断を欠く者たちが、ばらばらと得物を持って騎士像に向かって行くが、風斬り音が一閃される都度、何かが二つ飛ぶ。引きちぎられたならず者の上半身と下半身、あるいは右半身と左半身。これが三度四度と繰り返されると最早周囲には誰も居ない。正常な判断力を残していたものは、(みな)蜘蛛の子を散らしたように既に逃げ散っていた。

 が、逃げ散ったものの運命も陰惨極まりないものだった。高らかな笑い声を上げながら、およそありえない速度で後ろから追ってくる騎士像に、次々と斬り伏せ……否、叩き潰されていく。

 

「わははははっ、愉快痛快だな!

 次はどいつだ!」

 

「モモン(さま)、最早賊は居りません。どうかお気をお鎮めになって下さいまし。」

 

 いつの間にやら甲冑の背後に現れた夜会巻きの美女がそう告げると、眩い緑色の光を放って甲冑は動きを止めた。まるで物言わぬ騎士像へと戻ったかのように。

 

「……いささか物足りんが、贅沢は言うまい。

 村人を含め生存者があれば、敢えて望む者には治癒を、望まぬ者には安らかな眠りを。」

 

「承知いたしました。

 ルプー!」

 

 夜会巻きの美女がそう呼ぶと、暗闇の中からぷいと現れた赤毛の野性味(やせいみ)溢れるこれまた美女が、

 

「任せておくっす!」

 

と応えて再び暗闇の中に消えた。

 

 漆黒の英雄に続いて現れ、妖艶な笑みを浮かべながら「絶えなき苦難の生と揺るがざる安らかな死、あなたはどちらをお望み?」と問うては速やかにそれを叶えて歩く女司祭(ルプスレギナ)は、生を選んで癒やされた生還者の口を通じ<進退を問う赤女狐(めぎつね)>の異名を得て新たな都市伝説となっていく。

 まかり間違って本人……もとい、本狼(ワーウルフ)の耳に届いたらブチ切れて人間の街の一つや二つは滅ぼしたやも知れないが、幸か不幸かそのようなことが起こったとは伝わっていない。

 

 

 

 とまれ。

 こんなことが繰り返された挙げ句、北辺の民草の間では可怪(おか)しな噂が広まりつつある。

 

 我らの新たな真なる王、<漆黒の英雄>が即位の名乗りを上げる日は遠くない。

 

 とか何とか。

 

 やっている本人、漆黒の甲冑(モモン)を身に纏った(せい)ある者を屠らずには居られぬ死の支配者(オーバーロード)アインズ・ウール・ゴウンその人としては、腹心(デミウルゴス)に勧められた「今なら小悪党(こあくとう)ながら活きのいいのが屠りたい放題」の売り文句に誘われて抑えきれぬ救いがたき衝動を解放しているのみの話なのではあるが、それにしてはいささか派手にやり過ぎた。

 大都市で睨み合いを続けるいずれの勢力に身を寄せるべきか、と様子見していた民草が、実体としては存在していない王の即位待望を口々に叫ぶ(さま)が、当の睨み合いを続ける人々には面白かろうはずもない。ある者は漆黒の英雄を自陣営に取り込まんと捜索の檄を飛ばし、ある者は面白からぬ漆黒の英雄を北辺の民を惑わす不届(ふとど)(もの)と名指ししてその首に賞金を懸けた。

 一方で、好き勝手な場所に<転移門(ゲート)>を開いては気儘に狩りを楽しむ者をそんなことで捕捉出来ようはずもなく、状況は混沌としたまま推移していく。

 

 そんなある日。

 

「ん!」

 

 いつものように十数人の賊を屠ってご満悦だった漆黒の英雄(モモン)ことアインズは、(とも)する戦闘メイド(プレアデス)が一人、首無し騎士(デュラハン)ユリ・アルファと現場の後片付けをしていたのだが、やはり常人であれば決して気づくこともないであろうが、視界の片隅の遥か彼方に、あろうはずもない姿を捉えて驚きのままにそちらへ向かって駆け出した。慌ててユリもその(あと)を全速力で追う。

 

「な、なんてことだ!」

 

「……いったいこれはどういうことで御座いましょう!」

 

 アインズも、ようやく追いついたユリもその場に立ち尽くして絶句するしかなかった。

 

 アインズが視界の片隅に認め、慌てて長駆走り寄ったそれは、全身甲冑に身を包んだ鎧武者。その容姿は色違いなだけでモモンのそれと瓜二つ、ご丁寧にも二振りの身の丈に及ぶ両手剣を背負っているところまで同じではないか。

 

 白金(プラチナ)色の全身甲冑!

 

「……ツ、ツアー?」

 

「え!

 ひょっとしてアインズなのかい?」

 

 しばし演じられた鏡写しの小芝居(コント)のような光景に、ユリも失笑を禁じ得ない。

 

「それ……新しい傀儡なのか?」

 

「そういうアインズこそ、どうしたんだいその格好は?」

 

「いや、まぁ(なん)と言うか。

 オレ……記憶にないんだが、コレ、おまえに見せたっけか?」

 

「いや、キミの記憶は正しい。見せてもらった憶えはないよ。」

 

 アインズもツアーも、双方ともに深い眩暈を覚えざるを得ない。

 よりにもよって、示し合わせたかのように()()()と同じところに堕ちるとは!

 

 (こら)えられなくなったユリが遂に吹き出し、その勢いで頭がころりと落ちた。

 

「どうしておまえが此処に居るんだ?」

 

「評議国の代議員に対岸の様子を見て来て欲しい、と頼まれてね。」

 

 無政府状態に陥り、再生産よりも略奪を大方針に選んだ地域が周辺にどのような影響を与えるか、長い歴史を有するアーグランド評議国の賢人たちはよく承知している。

 

「……おまえも大概お人好しだな。」

 

「デミウルゴスと同じさ。搦手を攻められると弱くてね。」

 

「おまえの搦手?」

 

「キミに話すと絶対に悪用されるからね。これは内緒だ。」

 

 実のところ、評議国は言葉が通じるようになった途端、根が怠惰なツアーに代わって国を挙げて傀儡の素材集めに狂奔し、これを恩義に感じたツアーは、冒険者紛いの依頼を断る理路を持たなかったものだ。

 

「人間たちに話しかける都度、どうして甲冑の色が聞いていたのと違うのか、と訊かれるから何のことやらと思っていたのだけれど……キミだったんだね。」

 

「まぁ……そういうことだ。

 ここしばらくオレ好みの輩に事欠かなかったからな。」

 

 自身、弱肉強食、食物連鎖の枠外にいるツアーからすれば、評議国代議員の懸念は理解しつつも、当地で繰り広げられる茶番劇そのものは極自然な生存競争の一つに過ぎず、アインズの狩りも含めて強いて介入するほどの関心を呼ぶものではない。

 が、ここいらが潮時だろう。おそらくアインズは気づいていまいが、当地の力無き人間たちが、賊を屠って歩く全身甲冑を新たな王として渇望していることを知ってしまった今となっては。この世界の住人たちに(かしず)かれることを必ずしも望まない癖に、そういったところへの政治的配慮にいささか欠ける幼さには困ったものだ。

 

 まぁ、ボクも百余歳の時分はこんなだったか?

 あるいはこれもまた、件の最上位悪魔(デミウルゴス)の差し金か?

 

「どうだろう、アインズ。この辺りでの狩りは一旦鉾を収めてもらえないか?

 事態の収拾はボクに任せて欲しい。これは評議国の意向でもある。」

 

 ツアーのこの言葉にアインズはしばし鳩が豆鉄砲でも喰らったような様子でいたが、

 

「まぁ、そろそろ飽きてきた頃でもあるし。」

 

と、素直にツアーの提案を呑んだ。

 

「そんなことまで気遣い出したら寝る暇もなくなるんじゃなかったのか?」

 

 別れ際、半ば嫌味混じりにアインズはそう問うたが、

 

「世界の守護者たる腹は括ったのでね。」

 

 ツアーはそう言いつつ身振りはお手上げの姿勢(ポーズ)をとったので、ふふふ、とアインズは笑い、ツアーもまた、ふふふ、と笑って応えた。

 

 

 

 リ・ウロヴァールに突如飛来した白金の甲冑騎士は、問答無用に割拠する勢力の主だったものを集めてこう宣言した。

 

「当地の秩序回復のため、リ・ウロヴァールをアーグランド評議国へ編入する。」

 

 唖然とする聴衆を前に、ツアーは滔々と評議国の掟を説いて聞かせた。

 

「代議員は有産市民の投票により選出し(まつりごと)を司る。その監督は永年評議員たる竜王(ドラゴンロード)に委ねられ、代議員の不正は竜王の権の(もと)に裁かれる。不服なものは一ヶ月以内に旧ウロヴァーナ伯領から退去するといい。以下、細目(さいもく)は追って派遣される顧問団が教えてくれるだろう。」

 

 その制度を実際のところどう運用するかは、当地の人間次第だ、とツアーは割り切っている。少なくとも評議国では長きに渡って安寧をもたらした仕組みであるし、どうしてもこれに馴染めないものは、周辺に逃れてこれを反面教師に対抗制度(カウンターカルチャー)を育めばよい。

 

「ボクはアーグランド評議国永年評議員、白金の竜王(プラチナムドラゴンロード)ツァインドルクス・ヴァイシオン。諸君らの待望する新たな真なる王……の一人だ。異議ある者は命を賭して申し出たまえ。」

 

 ただ一人、戦斧(バトルアックス)を肩に担いだ優れた体躯の向こう見ずな無頼が歩み出てこれに挑んだが、瞬きも許さぬ()に一刀両断され、以て大勢(たいせい)は決した。

 

 この顛末が、エ・レエブルにまで聞こえたのは大分(だいぶ)と経ってからのことで、この時点で市参事会はリ・ウロヴァールへの中間地点にあり、侯爵が参事会の庇護を求めて来ていたリ・ブルムラシュールへの政治顧問団の派遣を決していた。

 侯爵は僅かばかりの年金を保証されてアゼルリシア山脈沿いの小さな荘園に蟄居せしめられ、エ・レエブルの顧問団はリ・ブルムラシュールとその近郊の有志を選抜し、今後独自に市政を司ることとなる同市参事会の立ち上げを支援する建付(たてつ)けとなる。エ・レエブルはブルムラシュー侯国の接収を潔しとせず、共和政権の擁立とそれとの共存を選択した。

 

 この政治顧問団には、治安要員として参事会から提示(オファー)を受けた青生々魂(アポイタカラ)級冒険者<朱の薔薇>も同行している。リ・ウロヴァールの顛末は、噂として彼らの耳に届く時点ではかなり細部を端折ったものになっていた。

 

(漆黒の英雄の正体は実はツアーで、<翻訳の神秘>回復の後は自身で乗り込んで来てリ・ウロヴァールのアーグランド評議国への編入を宣言した?)

 

 キーノは、いささか自分の知るツアーとは異なるその行動様式に驚きを隠せずにいるが、当初漆黒の英雄と呼ばれていた甲冑騎士が、評議国編入宣言の時点では白金の甲冑を纏っていたと聞き、確かにツアーに違いない、と確信せざるを得なかった。

 

 ちなみにこの白金の甲冑騎士は、後日リ・ロベルの街で人探しをしながらうろついているのが目撃され、自分たちもアーグランド評議国に編入されるのではないかと早合点した同市の人々と、追ってその話を耳にしたキーノを再び困惑させることになるのだが、これはまた別のお話。

 

「ここからがまた大仕事(おおしごと)だな。」

 

と、リキウス・アインドラは、不安半分期待半分の顔をしている。

 

 <朱の薔薇>に期待されているのが、未だ世情不安定なリ・ブルムラシュールに一度(ひとたび)事あるときの鎮圧収拾であることは論を待たないが、同時に、これまで辛うじて残った貴族家門の権威に依存することで安定を保ってきたブルムラシュー侯領に自助自立の気風を確立すべく、その先駆けたる冒険者集団を育成することもまた、明示的に契約された事項でこそないものの、それが明に暗に求められていることは、雇った側も雇われた側も言わずもがなに承知している。

 

「マズハ国境守備兵トシテ招集サレテイタ(もの)()タッテイクカ。」

 

 師父ギンの問いに、リキウスは即答する。

 

「俺もそれが妥当だと思う。知らぬ顔でもないし、俺たちの勇名がいい方に転んでくれることを祈るのみだな。」

 

「何なら私の色香で誘惑してだな。」

 

「「「「……」」」」

 

「何故、そこで一斉に沈黙する!」

 

 (はた)から見るものにはわかるまいが、双子忍者クゥイアとクゥイナは、この様子を随分と満足した気分で眺めていた。

 

 遥か遠い昔、彼らの(あるじ)であった戦槌(ウォーハンマー)を片手に無双を誇った妖巨人(エドモン)の今際の際の言葉は、今でも双子の脳裏に木霊し続けている。

 

Merci d'être avec moi(共に在ってくれてありがとう).」

 

 ギルド拠点の崩壊と共に公開鍵署名の縛りが解かれたことで、彼らは自由気儘な身分となったが、それでも(あるじ)の言葉の残響からは逃れることが叶わなかった。

 

 ガ・ギンと初めて出会ったあの日、武者修行の途上にあって戦槌(ウォーハンマー)を手に独り森の中で巨大な怪物と対峙していた妖巨人(トロール)の後ろ姿に、かつての(あるじ)のそれを重ねた二人はどちらからともなく、乞われたわけでもなく助太刀に入った。

 

「共闘ニ感謝スル。」

 

 勝利の(のち)にガ・ギンから放たれた簡潔な謝辞は、二人の心を強く捉えた。二戦、三戦を重ねるうちに、その思いは不動のものへとなってゆく。本質的には何の渇望も指向も持たず、ただ、共に在るべし、と決めた者に追従する遊撃子(オプション)である彼らが欲するはただ一つ。

 

「共に在ってくれてありがとう。」

 

と迎えてくれる仲間だけ。

 

 その条件を<朱の薔薇>が満たし続ける限り、双子忍者は永遠に彼らの周囲をくるくる回る遊撃子(オプション)であり続けるだろう。

 

 

                    *

 

 

「おまえは本当にいい匂いがするな、アルベド。」

 

 アインズは、愛するアルベドの体を弄び、響き渡る嬌声と立ち上る噎せ返るような甘く蠱惑的な体臭を楽しみながら物思いに耽っている。彼女が、愛交に際して自身の存在にのみに集中し雑念を(いだ)くなかれ、などと求める無粋な女でないことは承知の上だ。

 

 

 

 ユグドラシルから渡り来た者の宿命として、こちら側で得た新たな経験、知見の記憶を長期に渡って保持することは叶わない。これについては既に割り切った。その一方で、でありながら確実に色褪せない積み上がっていく思い、というものがあることにアインズは気づいている。

 

 こちらの世界に顕現した直後のアインズは、ユグドラシルにおける認識を引き摺って自分自身を人間鈴木悟が操るところのアバター、死の支配者(オーバーロード)モモンガであると極自然に考えていた……はずだ。

 自分自身のことでありながら、はずだ、と言わざるを得ないのは、自身が<日誌(ログブック)>に記録された至高の四十一人の記憶から顕現した存在であることへの自覚によってその認識が変容していった過程についてまさに何も記憶していないからだが、自分は人間鈴木悟を源流(ルーツ)にしつつも人間ではない、という自己認識は、それがこの世界に渡り来て以降に得た新たな知見であるにもかかわらず、既にアインズにとっては揺るぎないものになっている。

 

 同様に、少し前までアインズは、フレーバーテキストの改竄を通して自身を愛することを強制したアルベドに対し、今ではどうしてそうであったのか理解できないが、後ろめたい申し訳なさをずっと感じていた……ようだ。

 が、これも最早何がきっかけであったかについてはまったく記憶にはないが、時折アルベドが主従の枠を超えて(いとお)し気に「アインズ」と呼び掛けてくれるようになってからは、それが(せい)ある者たちが<愛>と呼び習わすものとは過分に異なるものであろうことは承知しつつも、でありながら、確かに自分はアルベドを深く愛しているのだ、これからも愛していくのだ、と強く自覚しているし、アルベドが自身に向ける愛もまたなんの(わだかま)りもなく受け入れることができている。

 これもまた、こちらに渡り来た直後のモモンガはもちろんのこと、<現実(リアル)>の鈴木悟すら持ち合わせていなかった感性であることは疑いないが、既にアインズにとっては揺るぎない自己像の一部だ。

 

 そして、<翻訳の神秘>を再びこの世界にもたらす決断をツアーと分かち合ったことを通じて、新たに深く刻み込まれた思いがある。

 

 人間を含むこちらの世界の現住生物全般に対し、アインズは何の共感(シンパシー)も感じることがない。これまた記憶に残ってはいないが、ある種の突出した個性に対して心惹かれることは少なからずあったかも知れない。が、それはあくまでもその個性に対してであって、突き詰めれば生きとし生ける者はすべて、アインズにとっては屠るべき対象でしかないのだ。

 

 アインズは<死>そのものなのだから。

 

 一方で、正義の味方(たっち・みー)自然愛好家(ブループラネット)哲学者(死獣天朱雀)教育者(やまいこ)たちとの記憶を自身の基盤(ベース)に据えるアインズは、<死>そのものである自分自身の存在を真正面から受け入れつつも、それを無分別にこの世界にまき散らすことだけは(かたく)なに避け続けて来た。

 それゆえに、自身が共に連れて来た愛すべき下僕(しもべ)たちが、(あるじ)であるアインズにとって()かれと考えその尋常ならざる力を振るった結果、この世界を、ツアーの言葉を借りれば「(けが)してしまう」ことに対して、(あるじ)としてそうならぬよう(ぎょ)する(せき)を負っている、と思い込んでいた……はずだ。

 

 だが、今のアインズは知っている。

 

 下僕たちは、確かに融通が効かず加減を知らないところもないではないが、彼らがこの世界を汚してしまえば結果的にアインズが深く傷つくであろうことを、銘々に浅深(せんじん)の差こそあれよく承知してくれている。特に知に優れた者たちに至っては、アインズ自身が図らずも一線を越えて世界を汚してしまうことのないよう、明に暗に気遣ってくれてさえいることも。

 

 ……まぁ、セバスについてだけはちょっとどうなのよ、と思うところがないでもないが、その創造主(たっち・みー)がしばしば行き過ぎた独り善がりの正義感を暴走させて返って災厄を振り撒いていたことを思えば、これはこれで仕方のないことなのだろう。

 

 とまれ!

 

 ツアーも含め、下僕たち、そして、常に心の内にある至高の四十一人の記憶は、共に暮すこの世界に対する責任を背負い分かち合う仲間なのだ。

 

 アインズ自身には、必ずしもこの世界をいずれかの方向へと導きたい、などという思いはない。この世界は自分の所有物ではないのだから。が、今後も繰り返し訪れるであろうユグドラシルからの来訪者が、越えるべからざる一線を越えて存外気に入っているこの世界を(けが)すことがあれば、自ずと応じることになる、とアインズは確信していた。

 

 世界を護りたいわけじゃない。

 神様になんかなりたくない。

 

 仲間たちと共に冒険するお気に入りの世界を(けが)す奴がいれば立ち向かう、ただそれだけのことで、そんなことは当たり前のことだ……とする思いもまた、まるでずっと昔からそうであったかのようにアインズに深く刻み込まれていた。

 

 

 

 短期記憶(ワーキングメモリ)の利用可能領域を確保すべく何を除去(パージ)し、何を維持(キープ)するかを意識的に選択する術は見つかっていないが、自身の常の思考の(コア)に関わる部分は、繰り返し参照し続けられるがゆえに強化され、こうして積み上がっていくものなのではないか、とアインズは考えている。

 

 それが正しいとすれば、次第に肥大化する核の大きさが短期記憶領域のそれと一致してしまう日が遠からず()るのではないか、そうなってしまえば、自身は最早その核の指し示すままに思考し行動する自動機械になってしまうのではないか……という(ばく)たる疑念がアインズにはある。

 

 

 嗚呼、憶持(おくじ)過積載(オーバーロード)

 

 

 が、仮にそうなるのだとして、何か憂うべきことがあるだろうか?

 

 たとえ最早自身の思考様式に何の変化も起こらなくなり、揺るぎない論理の(もと)に決断が繰り返され続けるのだとしても、おそらくアルベドは変わらぬ愛を注いでくれようし、デミウルゴスは飽きもせずにアインズの無意識に求めるところを使嗾し続け、他の下僕(しもべ)たちも以下同様。

 

 それを主観的に体験するアインズは、変わらずアインズであるはずだ。

 そのことを憶持する(忘れぬ)限り、何も恐れるものはない。

 

 

 

(アインズ様。)

 

 既に満足してすやすやと寝息を立てる愛らしいアルベドの寝顔を眺めていると、<伝言(メッセージ)>が届いた。またこの時宜(タイミング)かよ!

 

「ナーベラルか、どうした?」

 

(デミウルゴスより、火急にお目通り願いたい件があるとのことで御座います。)

 

 ふとアルベドに目を向ければ、リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンが嵌められた左腕ががっしりと大好き抱き(だいしゅきホールド)状態で、たちまちには出ては行かれぬ具合。目覚まし伝言(モーニングコール)で叩き起こしてやっても構わないが、本当に秒を争う事態であれば、デミウルゴスならば追って相応の手段を採るだろう。

 

「わかった。

 玉座の間で落ち合うのでしばし待て、と伝えてくれ。」

 

(承知いたしました。)

 

 さて、今度は何を持ち込んで来たものか。きっとまたぞろ碌な事ではあるまいが、さりとてそれが決して自身の意に叶わぬことではないこともアインズは知っている。あのデミウルゴスが火急、というからには火急なのであり、それはきっと、たちまちにそうであるかは毎度の如く不明ではあるし、疑いなく想像もしなかった困惑へと突き落としてもくれようが、究極的にはアインズにとって楽しいことであるに違いないのだ。

 

 そして。

 

 死の支配者(オーバーロード)アインズ・ウール・ゴウンが、仲間たちの声に耳を傾け(おのれ)の意思で決断し続けていく限り、(ひら)けぬ道があろうはずもなし。岐路に立つ都度心の内より聞こえ来る至高の四十一人の声は、未だ誰一人「お疲れ様」「もう十分に楽しんだ」「歩みを止めてよし」と告げる者はいない。さらば、我らがナザリック地下大墳墓は前進あるのみだ。

 

 アインズ・ウール・ゴウン万歳!

 死の支配者(オーバーロード)に栄光あれ!

 

 今しばらくアルベドの寝顔を愛でながら、アインズの未だ何処にその実体があるやらよくわからぬ頭脳は、さらなる冒険を渇望してうち震えている。

 

 お楽しみはまだまだこれからだ!(ペカー)ちっ!

 

 

 

                    完

 

 

 

 

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