思想が強すぎる単独強襲刀剣無双リコリス【完結】   作:難民180301

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第8話

 夢を見ている。田中が二歳か三歳の頃の、覚えている限りもっとも古い記憶だ。

 

 場所はおそらく鍛冶場。熱い火を噴き上げる炉がすぐ近くにあって、赤熱した二本の刃物に、汗みずくの男たちが槌を振り下ろしていた。

 

 田中の目の前には、腹を開かれた妊婦がいる。羊水と血の混じったどろどろした液体の中に、双子の妹たちがうずくまっていて、田中は誰かに何かを言われ、妹たちへ刃物を振り下ろした。

 

 妊婦は血の泡を吐きながら、

 

「痛ましかろう、惨かろう。たちまち肉は腐れ落ち、蛆が湧き、瘴気と疫病(えや)みを撒き散らしおる。これが死である。死をひさぐ我々こそ、死のかくあるべきことを忘れてはならぬ。痛ましかれかし、惨かれかし」

 

 そう言って、息絶えた。

 

 すると、刃物を鍛えていた男たちが割り込んできて、妊婦の腹の中で死んだ妹たちを取り上げる。腹部からこぼれる未発達な小腸は、絹糸のようだった。

 

 鍛冶台に乗せた妹たちに、男は灼けた刃物を突き立てる。じゅっと音が鳴って、肉の焼ける匂いがした。

 

 次に男は、血と肉片のこびりついたその二振りの刃物を、田中に向ける。額に汗して誇らしげに笑いながら、

 

「おめでとう、我が娘。今日よりお前は田中である。姉妹ともども、日の本に尽くせ」

 

 田中の腹に刃を刺し、引き抜いた。

 

 呼吸もできない強い痛みと熱さの中で、灼けた刃の上に自分の血肉と、妹たちのそれが混ざり合っているのが見えた。

 

 こうして田中は田中になって、大切な家族を得た。昨日のように思い出せるいつかの記憶。

 

「わたし、にしきぎちさと! あなたは?」

 

 次の記憶は、花が咲くような笑顔の幼女から始まる。

 

 その幼女の名前があまりにも素敵で、田中は名乗るのをためらった。比較するほどの知識がなくとも、なんとなく平凡な響きがあるのは分かっていた。

 

 けれどちさとは、恥じらいながら名乗った田中に対し、

 

「すっごくすてきななまえだね! なんかほっとするっていうかー、ふつうっていうかー」

 

 田中は、自分の名前が大好きになった。その子のことも大好きになった。

 

「いたましかれかし、むごかれかし。しをひさぐ田中がひのもとをたいへいにみちびく。かばねの山にむくいるために」

「??」

 

 田中は自分の言っていることの意味が分からなかったし、幼女はもっと分からなかったのだろう。しきりに首をひねっていた。

 

「たいへーって何? ひのもとって?」

「へーわ。あと、やさしい。ひのもとは、せかい」

「それ、すごいね。へーわでやさしいせかい!」

「すごい? みたい?」

「みたーい!」

 

 きっと、お互いに深い考えは何一つなかった。正しく意味を共有できているかも怪しいやりとりだった。

 

 それでも田中は、嬉しかった。意味も分からない自分の理想が肯定された。そのために生きようと本気で考えるようになって、誓いを立てた。

 

 田中の理想を追究する。

 

 そして初めて肯定してくれたこの人に、理想の世界を見てもらうのだと。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 目を覚ました田中の視界に広がったのは、二人の美少女の心配げな顔だった。

 

 体が重く、動かしにくい。白い壁とシーツ、点滴の台と心電図が見え、病院のベッドの上だと分かった。

 

 美少女のうち一人は、夢に出てきた幼女をそのまま成長させた外見をしていた。

 

「ごめ……なさい。ちさと、せんぱい……」

「……っ! 謝るなら最初からやるなっての……!」

「先生を呼んできますっ!」

 

 田中のもっとも敬愛する先輩である、千束。もう一人の黒髪美人は仕事の同僚、たきなだった。

 

 たきなは俊敏に退室すると、ほんの三十秒とかからず白衣の女性を連れて戻ってきた。その女性はよく心臓のことで相談していた女医、山岸だ。

 

 山岸は田中の瞳孔に光を当て、見当識を確かめ、おおむね問題ないと見るや淡々と現状を説明していった。

 

 田中は腹部の刺し傷により一時生死の境をさまよい、三日間眠っていたこと。ここが都内の病院であること。傷は残るが、奇跡的に後遺症もなく完治するだろうことなど。

 

 セリフを読み上げるような山岸の言葉を聞くうち、徐々に意識がはっきりしてきた。すると唐突に、猛烈な焦燥が身を焦がす。

 

「た、太郎と次郎はっ!? 田中の家族はどこですか!?」

 

 腹を痛めて産んだ二振りの妹が手元にない。病室の見える範囲にもない。

 

 腹部の激痛を無視し慌てて起き上がろうとすると、千束に肩を抑えられる。

 

「落ち着いて。リコリコで預かってる。ロッカーの鍵はここ」

「よかったぁ……」

 

 田中が持ち歩いていた鍵は、千束の指に引っ掛けられている。手元にないのは寂しいものの、場所さえ分かれば不安も和らいだ。

 

 安堵すると、たきなが俯いて、肩を震わせているのに気がついた。

 

「よかった……? 何がよかったっていうんですか?」

 

 山岸は気まずげに目をそらし、「一応患者だから、暴力は厳禁よ」と言って逃げるようにそそくさと出て行った。

 

 そのときやっと気づく。千束の表情から感情が抜け落ちていること。俯くたきなが拳を強く握り、目元を光らせていることに。

 

「ああ……良くはねーですね。仕留め損ないました。一生の不覚なのです」

「田中ァ、お前──」

「ふざけないでくださいっ!」

 

 千束を遮り、たきなが前に出る。ベッドに両手をつき、田中に詰め寄った。

 

「クリーナーに依頼した上で自殺って、ありえないでしょう!? なかったことにしていい命はないって、そう言ってたじゃないですか! 何考えてるんですかっ!?」

 

 初めて見る形相のたきなを見上げながら、そうだった、と田中はぼんやり思い出す。

 

 田中はクリーナー──死体を含む事件の痕跡を処理する業者に依頼を出した。女子高生一人の死体、すなわち割腹自殺した田中を片付けてもらえるように。そうして誰からも忘れてもらえるように。

 

 田中は人体の急所を知悉している。まずは太郎にて腹を一文字に裂き、次に次郎で腹部大動脈をえぐり、確実に死ぬつもりだった。

 

 しかし、使い慣れたはずの二振りの刃先は不可思議に狙いを逸れ、一つは腹膜をかすめるように背へ突き抜け、もう一つは横隔膜をわずかに切りつけた。そのためすぐに呼吸困難に陥り、やり直しの力もないまま這いつくばってしまった。

 

「クルミが見つけてくれなかったら死んでました……! 本当に何のつもりだったんですか!」

 

 はて、と内心で首をかしげる。スマホはリコリコに置いてきたし、都内のカメラも避けたのにどうやって、と。

 

 考えても分からないことを考えていると、千束が口を開く。

 

「田中。知ってるよな? 私は命を粗末にするやつは嫌いだ」

「そう見えますよね」

「だけど実際は命を大事にしてるって、また理屈こねるんだろうけど──」

「いえ、粗末にしてるのです、実際。認めます。でもそれが田中の使命です。田中は太平へ至る真の道を知った。知った以上、それに準ずる行動を取るのが田中である」

 

 千束は、実に頭が痛そうに額を抑え、大きくため息をつく。

 

 たきなも同じようにして深呼吸すると、千束と顔を見合わせてから、田中へ向き直る。

 

「分かりました。聞かせてください、田中の考えてることを」

 

 田中は心が軽くなった。たきなはいつだって逃げたり怯えたりせず、正面で腰を据えて話を聞いてくれる。だから田中は気兼ねなく、田中を伝えることができる。

 

「田中は重大な過ちを犯していた。悪の秘密結社を倒したとて八千代の太平は訪れない。重要なのは悪を討つのではなく、人類の理解と人心の救済であった。優しさと思いやりの生物である人類が、不和と対立、猜疑と不安に支配され悪を成している現状に、結社の作為を見出せることは周知の事実である。人々は結社の洗脳によって善性を失い、我欲のために他者を害することを是認し、罪人へ堕ちる。しかしそうであるなら、結社は何者に洗脳されたのか? 無辜の民を洗脳し凶行へ走らせる巨悪を、何者に指示されて行っているのか? ここに及んで更なる上位の悪を仮定するのは、突飛にして蒙昧な陰謀論と言う他ない。天地逆転がごとき世界観の転換を伴うものの、論理的な思考における答えは唯一つである。人は、悪になりうる。結社のなき時代に悪を犯した最初の数人と、この時代においてもごく少数の人間は、何者に唆されることもなく自然の成り行きとして悪に堕ちる。悪の秘密結社の正体とは、人にあらざる悪意の集合や怪物などではなく、悪に堕ちた人そのものであった。矛盾なき論理の導きとはいえ疑念を禁じ得ない驚天動地の結論ではあったが、千束先輩に狼藉を働いたかの女がたしかに血の通った人間であった以上、認めるより他はない。さにあらば、今日(こんにち)の世界を支配する結社を仮に絶滅させたとて、やがて第二第三の結社が生まれ堂々巡りの陥穽に陥ることは明白である。したがって、結社を討つことに意味はなく、罪人を処刑するDAもまた恒久の太平に貢献しえない。その点は田中が十年間に積み上げた五百余りもの(かばね)が証明している。むしろいたずらに命を散らすことで憎悪と報復の連鎖を促し、世を乱す結果となる。ここに求められるは対症療法にあらず、人の世の根本治療──すなわち、人心の救済である」

 

 言葉を切った。千束は分かったような分かってないような顔でうなずいている。たきなはしっかりと理解しているようで、早く続きをと目で促してくる。

 

 人が善性だけの生き物でない以上、結社を潰してもまた新たな結社が現れる。

 

 本当に必要なのは、人を導き、救うことだ。

 

「善悪併せ持つ人々の心は均衡を保ち、故あって一方へ傾く。生まれついた環境、貧困、差別、迫害、戦争、飢饉。世に跋扈する理不尽と不条理がゆとりを奪って悪へ誘い、一度悪性に浸った心は善性を取り戻すこと叶わず、結社の手先に堕ちる。これを防ぐもっとも確実な手立ては不条理と理不尽の排除であるが、それらなくして人の世は成り立たないのは明らかであり、根拠なき理想論と言わざるを得ない。反面、もっとも現実的かつ建設的な手立てこそ、導きと救いである。善性と気高さに満ちた優れた人格者によって人々の心を正しい方向へ導き、たとえひとたび道を誤ろうと、寛容と慈愛の手を差し伸べ、悪性の落とし穴から救済する。現人神の所業である。無論、女神とはいえ個人である以上救える範囲は限られる。だがまったくそれで良い。衷心からの優しさと思いやりは人の心を打ち、波紋のように伝播していく。女神がただ生きて存在しているだけで、世を形作る人心は善性へ傾き、やがて日の本のみならず世界の端々まで太平が満ちるであろう。そして女神の名前こそ、誰あろう、錦木千束その人である」

「……ん? 私ぃ?」

「なるほど」

「えっ、納得してる? たきなさん?」

 

 困惑する千束に、田中は強く射抜くような視線を向けた。

 

「以前、言った。錦木千束の才能、役割、使命は錦木千束だと。千束先輩はただ思いのままに生きてほしい。それのみで多くの心が救われる」

「お、おう……」

「事実として、田中は二度救われた。一度目は十年前。二度目は昨年の晩夏。正しい道を示してくれたものは、おっぱいであった」

「なんて?」

「おっぱいであった。おっぱいが、救済こそ太平の道なりと」

「おっぱいが?」

「おっぱいが、蒙を啓いた」

 

 何とも言い難い空気が病室に満ちる。

 

 思い当たる節があったのか、千束は耳まで赤くなった。

 

「人の乳でどんだけ悟ってんだお前は!?」

「千束……胸に哲学書でも詰めてるんですか?」

「んなわけあるかぁ!」

 

 千束は全力でツッコんだ。当人には分からないだろうが、田中にとって千束の乳房は確かに宇宙だったのだ。

 

 緩んだ空気を引き締めるように、たきなは一つ咳払い。

 

「んんっ。考え方を変えたのも、千束が女神なのもまあ分かりました。でもそれがどう自害につながるのか話が見えませんね」

「そうだそうだ!」

 

 田中は数秒考え込んで、結論から入った。

 

「田中が使命を果たすためである。田中は永久(とこしえ)に続く日の本の太平を実現し、過去に築かれた屍の山に報いることを使命としている。先に述べたおっぱいの預言により、太平の実現には千束先輩の生存が必要不可欠と確信し、かねてよりの腹案であった心臓の生体移植計画を水面下で進めていたものの、ミカ先生の果断なる行いによって千束先輩の長寿は約束された。もはや田中の愚考など必要なく、千束先輩が生きている限りいずれ日の本は太平に至る。この尊い道程に田中が入り込む余地はない。なぜならこの田中はすでに壊れているからだ。死を(ひさ)ぐほかに能のない、暴戻無道の廃疾者、それがこの田中である。千束先輩のごとく人心を救うなど、獣が空を飛べぬがごとく、鳥が宙へ至れぬがごとく、この人非人には望むべくもないのだ。日の本の太平に貢献できぬ以上、この田中に価値はなく、されば速やかに腹を切り使命に殉じるが筋の通った行いである。以上、事理明白な帰結で……ある……のです、よ?」

 

 結びの言葉が尻すぼみになっていった。千束の顔からまたも表情が抜け落ち、たきなに至ってはどこか殺気のある真顔になっているからだ。

 

 中盤までは良かった。ただ、後半になるにつれて少しずつ二人の怒気が増していった。

 

 田中には、これ以上に噛み砕いて説明する力がない。おっぱいをきっかけに本当にやるべきことを悟り、でも自分にそれができないのは分かりきってるから自刃する。もちろん絶望して自暴自棄になったわけではなく、救済の化身こと千束に希望を託して果てるのだ。どこまでも正しく、胸を張れる行いだ。

 

 千束とたきなは、同時にため息をついた。

 

「田中ァ」

「田中」

「はい?」

 

 分かってくれた。納得してくれた。田中は優しい言葉を期待して顔を上げ、

 

「シバくぞ?」

「ぶっ飛ばしますよ?」

「なんでぇ!?」

 

 大いに混乱した。

 

「いやー、うん、私に色々期待しすぎだろってツッコミは一旦置いとくな? それよりまず……ちょいちょい、たきなステイ!」

「一回ビンタします止めないでください」

「ここ病院だぞ!?」

「ひええ!?」

 

 真顔でいきりたつたきなに、田中は心底戦慄した。やはりこの世は理不尽と不条理ばかりである。

 

「撤回してください。田中が壊れているだの廃疾者だの……挙げ句のはてに、使命を果たせないから自刃する? 吉松と同じっていうかもはやそれよりタチが悪い」

「タチが悪くても……それが、この田中の幸せです」

「田中!?」

 

 もはや話は通じない。田中は点滴を抜き、体中が発する痛みと息苦しさを無視してベッドから降りた。

 

「幸せは当人が決めること。田中は腹を切り、使命に殉じて幸せになるのです」

 

 千束が苦々しげに眉間にシワを寄せた。

 

 吉松は、千束の幸せは殺しをすることだと言った。しかし何が幸せなのかは本人だけが決められるものだ。

 

 田中にとっての幸せは、

 

「日の本の太平と安寧、そして死者への報い。そのために血の一滴、骨肉の一片までも捧げてみせる」

 

 家族と一緒に使命を果たす、ただその一念のみである。

 

 窓際に歩み寄り、窓を開ける。冬の冷たい空気が肌を打つ。下を見ると、そこそこに地面は遠い。三階ほどだろう。

 

 たきなと千束は目つきを鋭くして、リコリスの鞄に手をやっている。

 

 田中は構わなかった。たきなの9ミリ弾はもちろんのこと、今の容態では千束の非殺傷弾でさえ致命傷になりうる。二人は撃たないだろう。

 

 田中は窓枠に足をかけつつ、千束に手を差し出した。

 

「千束先輩。ロッカーの鍵、ください」

「いや、渡すわけ──」

「何でも一つだけ言うこと、聞いてくれるんでしょ?」

 

 千束は「あっ」と声をあげた。今思い出した、というように。

 

「本当は二年後、田中の心臓を受け入れてって言うつもりでした。でもその必要はなくなった。田中のわがままに使います」

 

 田中の頭に、輝かしい逃走プランが浮かび上がる。鍵を受け取り、窓から飛び降り、着地してリコリコへダッシュ。到着次第ロッカーに保管した家族を回収し、邪魔にならない場所まで移動して、切腹。クリーナーは呼べそうにないので土の上が望ましい。

 

 早くくださいと言わんばかり、改めて手を突き出す。

 

 千束は渋々、胸ポケットに入れていた鍵を取り出し──

 

「よーし動くな田中ァ」

 

 その鍵に、45口径の銃口を突きつけた。たきなは目を見張り、田中は頭が真っ白になる。

 

「ちょっとでも動けば鍵をぶち抜くぞー。そしたら太郎と次郎とはもう二度と会えないなぁ?」

「えっ、千束? そんな脅し通じるわけ──」

「やめてぇ! 家族は一緒じゃねーとヤダ! 何でもするから許して!」

「ええ……」

 

 田中は屈服した。あわあわと手を上下させ、涙目で膝をつく。

 

「よーしベッドに戻れい。ほんでケガが治るまで大人しくしな。いい?」

「ぐぬぬ、この卑怯者ぉ……」

「おー、そうだよ。女神でもなんでもない、普通の卑怯もんだよ。こんなのに希望を託すなんて無責任だよねぇ?」

「そ、そんなことは──」

「田中がいなくなったら、真島のやつと組んでテロテロしちゃおっかなー? 思うがままに生きてるからなー」

「ええ!? 無茶苦茶ですよ先輩っ!」

「だから、そうだってば」

 

 田中はなすすべもなく捕まって、ベッドに戻された。やりとりのさなかにたきながナースコールを押していて、程なく血相を変えた看護士がやってくる。

 

 病室を出ていく際、千束は鍵をちらつかせて、

 

「私が世界を救うっていうなら、ちゃんと見届けろ。それが貴様の新しい使命。分かったら、きっちりケガ治せよー」

 

 と、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。

 

 たきなはそれを胡散臭そうに見つめてから、田中に向き直って、

 

「下手な真似をしたら、太郎と次郎がどうなるか分かってますね?」

 

 がっつり脅迫して出ていった。

 

 そうして田中は二振りの家族を人質に取られ、自刃を封じられたのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 腹に穴が空いている状態で動いたために、田中は丸三日間熱を出して寝込んだ。

 

 ようやく見舞い客を迎えられるほどに体調が整った頃、ミカ、ミズキ、クルミの三人がやってきた。立って挨拶をしようとするも肩を抑えて止められ、目礼に留める。

 

 ミカは菩薩のように穏やかな瞳の奥に、激しく燃える炎を宿していた。

 

「もう体調はいいのか」

「はい。今月中には退院できそうです」

「そうか、そうか」

「……あの、店長? もしかして怒ってます?」

「お前の体調によってはビンタでもしているくらいには、な」

「ひっ」

 

 当然、千束の育ての親であるミカも、命を粗末にすることは好まない。田中の行為は傍から見ればケンカを売っているようにしか見えないのだろう。

 

 怖くなって、田中は目をそらす。仏頂面のクルミと目が合った。

 

「く、クルミちゃん。クルミちゃんが田中を見つけたと聞きました。助けてもらってありがとうございました」

 

 わずかに目を見開くクルミ。

 

「意外だな。恨み言でも言われると思ってたぞ」

「命は大事です。誰にだって一つしかない。だからありがとうなのです」

「……本当にお前、歪んでるよ。まっすぐ過ぎるくらいに、歪んでる」

 

 口をへの字にしてクルミが黙り込み、代わりにミズキが前に出た。

 

「命が大事ならなんであんなことした?」

「それはそれ、これはこれ。田中は田中に殉じます。でないと死者に申し訳が立たない」

「いい加減にしろよガキっ! オッサンたちがどんだけ心配したと──」

「ミズキ、やめろ。もういい」

 

 ミズキの肩を掴み、ミカが首を横へ振る。もはや処置なし、というように。

 

「私たちが何を言おうと、この子には届かない。あの子たちに任せよう」

「ちっ……田中ァ! アンタには晩酌のアテを作る使命があんの! それを忘れんなよっ!」

 

 おそろしく俗っぽい使命を課しながら、ミズキたちは出ていった。

 

 入れ替わりに、作戦行動中並みの張り詰めた表情で千束とたきなが入ってくる。

 

 二人は無言でベッドの横の椅子に腰掛けると、物理的な重圧さえ感じる鋭い視線で田中とにらみ合う。さながら真剣の切っ先を向け合うがごとき緊張感が病室に満ちた。

 

 田中の勘は、戦いの気配を感じ取る。

 

 その予感は次のたきなの一言で、見事的中した。

 

「完全論破、してやります」

 

 すらりと抜かれたのは言葉の刃。理論の鋼が正面から田中の思想に振るわれる。

 

「田中は死をひさぐ、つまり殺し以外に能がないから死ぬと言いました。この時点で間違っています。自分がリコリコで何をしているか忘れたんですか? 接客、掃除、会計、厨房、まかない、それから語学学校、保育園、警察のヘルプ、迷子、ペットの捜索、その他色々、表の仕事だけでもこれだけの方面で田中は活躍しています。裏の仕事だって、やろうと思えばすべて非殺傷で容易にできる実力があるのは明らかです。それだけじゃない、千束も私も田中に命を救われてます。サクラもそう。殺すどころか命を救ってる。したがって、殺し以外に能がないというのは、自分が見えていない子供の世迷言です。田中はやろうと思えばなんだってできる。つまり、自害の理由は何もない。そうですね?」

「断じて否」

「えっ」

 

 が、言葉の刃は空振りに終わった。

 

 さらりと身を躱し、田中の反撃。

 

「田中は死を鬻ぐ以外に能がないため死を選ぶ。この言説には何者も覆せない前提が二つある。一つ、田中は日の本の太平を実現し死者に報いねばならないこと。二つ、そのために死力を尽くして献身すること。当初、田中は刃を振るい罪人を処刑することで太平に貢献できると信じていた。しかし年々増加する罪人の数から間違いに気づき、結社の打倒こそ正しい行いと考えた。おっぱいはその論を更に先鋭化させ、結社を構成しうる人心への救いと導きこそ、太平に至る真の道だと説いた。田中はこの道の踏破が使命であったが、この田中は死を鬻ぐ田中であるから、その他の手段で貢献することは能わない。いかに尋常一様の職能があろうと、太平の実現に繋がらないと明らかである以上、この田中の役割は終わっている。道を踏破する先輩に希望を託したのち、速やかに自刃する所存である。でなければ現今の日の本を築く屍の山に顔向けできない。この田中は田中の矜持にかけて、田中に悖る行いだけは決してしたくない。頼む、たきな。我が朋友よ。田中に田中を、成就させてはくれまいか」

「……っ!」

 

 たきなは言葉に詰まり、黙り込んだ。

 

 田中は別に、何も能力がないから死ぬ、と言っているのではない。日の本に太平をもたらす能力がないと確信したから、自刃するのだ。それが本当に可能なのは千束であり、田中ではないから。

 

 きっと分かってくれると期待を込めて、たきなを見つめた。

 

 が、たきなよりも先に返答したのは、千束だった。田中が希望だと信じる千束。

 

「なんで……そんなこと言うの……っ」

「えっえっ、先輩?」

「千束!?」

 

 千束は号泣していた。大粒の涙をぽろぽろこぼし、しゃくり上げながら、とぎれとぎれに言葉を紡ぐ。

 

「たいへーとかひのもととか……世界とか人類とか……どうでもいいよ。そんなのより大事なのが、たくさんある。先生が作ったお店、コーヒーの匂い、お客さん、町の人、美味しいものとかきれいな場所、仲間、一生懸命な友達と……一生懸命過ぎて訳分かんない後輩……それが私の全部。日の本がどうとか……知らない。どうでもいい」

「ど、どうでもって……わ、分かりました。先輩がそう言うならいいです。思うがままに生きていただければ、きっと日の本の太平は──」

「知らない知らない! そんなのより田中が大事なのっ!」

 

 千束の顔が目と鼻の先に迫った。涙にきらめく赤い瞳と正面から見つめ合う。

 

「言ったじゃん。たくさん大切なものがあって、それが私の全部なの。一つでも欠けたら私が私じゃなくなっちゃうよ……ほんとに真島と組んでヤケを起こすかもしんないよ……? やだよ、そんなの……だから、田中……」

 

 生きて、と。

 

 俯いて、消え入りそうな声で、千束はそう結んだ。

 

 田中はこのとき初めて、自分の中の確固たる信念が揺らぐのを感じた。錦木千束という希望の中に、田中は一人の後輩として息づいていて、それはとっくになくてはならないほど大きなものだから、日の本の太平のためには──

 

 違う。田中はゆるゆると首を振った。

 

 使命も役割も矜持も関係ない。そんなのはすべてどうでもいい。

 

「ごめんなさい、先輩」

 

 痛む腹を無視して上体を起こし、ぐずる千束を抱きしめる。

 

「田中は生きます。だから泣かないで。泣かないでください、先輩」

 

 千束に泣いてほしくない。そんなことのために田中は腹を切るのではない。田中を成就することで千束が悲しい思いをするくらいなら、使命を擲ってでもいい。とにかく泣かないでほしいと、田中は心からそう思った。

 

「ほんと? 生きる?」

「生きます」

「ほんとのほんと? 約束する?」

「ほんとのほんとです。約束するのです」

「そっかぁ……」

 

 千束はしばらく嗚咽を漏らし、田中の病衣を涙と鼻水で濡らして、たきなはその様子をかたずを呑んで見守っていた。

 

 数十分後。

 

 弾かれたように千束が立ち上がり、踵を返す。表情は見えなかったが、なぜか耳が真っ赤だ。

 

「じゃ、帰る。さっさと傷治せよ、田中ァ」

「えっ、あ、はい」

「行こ、たきな」

 

 そそくさと病室を出ていく千束。

 

 唖然と見送る田中は、残されたたきなを見やる。たきなは頬を膨らませて、田中を睨みつけている。

 

「論理じゃなくて泣き落としが有効なんて……釈然としません。こんなのずるいです」

「ずるいって、え? たきな?」

「早く治して戻ってきてください。じゃないと太郎と次郎を売り飛ばしますから」

「やめてぇ!」

 

 ぷい、とそっぽを向いてたきなも出ていく。

 

 家族を人質に取られ、約束までさせられた田中に選択肢はもはやなく。

 

 一日でも早く傷が治るよう、大人しくしておく他なかった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 ミカ、ミズキ、クルミの大人組三人は、千束とたきなが田中を説得すると予想していたらしい。もう切腹はしないと田中が約束して頭を下げると、胸を撫で下ろしていた。

 

 およそ一ヶ月に及ぶ入院期間のうち、大人組は足繁く見舞いに来てくれた。ミカとはリコリコの些細な出来事を雑談し、常連客が田中の不在を寂しがっていると語った。店では影を薄くしているつもりの田中にはあまりピンとこなかった。

 

 ミズキは田中が生きると決めてからは怒りを収め、店で晩酌するときと同じく、やれ男は見る目がないだのここに超絶優良物件がいるのにだの、ひたすらに愚痴を語った。多少辟易しつつ、田中は聞き役に徹した。

 

 クルミには、もっとも気になっていた件のネタバラシを頼んだ。失踪した田中を、どのように見つけたかである。

 

 聞かれたクルミは不敵にニヤリ、と笑ってみせた。

 

「ウォールナットをナメるな。都内には表と裏の合わせて無数にカメラがある。それら全部に映らず、リコリコから三時間で行ける距離と場所は相当に限定される。後は一つ一つをドローンと人間で確認していけば簡単に見つかったよ」

「ほえー」

「ほえーって何だよ」

「もしかして、クルミちゃんってリコリコで一番非常識なのかなって」

「お前にだけは言われたくないな」

「クルミえもんって呼んでいい?」

「却下だ、語呂が悪すぎる」

 

 都内のカメラを丸ごと全部乗っ取ったらしいクルミが一番やばい。田中は心中でそう決めつけた。

 

 大人組がそのように訪ねてくる一方、千束とたきなは一度も来なかった。寂しいと言ってみると、ミカは「それなら一日でも早く良くなれ」と急かした。

 

 そんなことを言われても、一般的な十代後半の体しか持たない田中にはどうしようもない。ベッドの上で退屈な時間を凌ぎつつ、どうにか一ヶ月をやり過ごした。

 

 二月初旬。冷え込む真冬の朝、病衣から私服のオーバーサイズのパーカーに着替え、ミズキの車に乗り込んで、寝床兼職場の喫茶リコリコへ向かう。

 

 すでに入り口の扉にはOPENの札がかかっており、中からはコーヒーの香ばしい匂いがする。

 

 いささか緊張しながら中へ入ると、千束とたきなが並んで待ち構えていた。

 

「おかえり」

「おかえりなさい」

「た、ただいまです。あの──」

「田中、これをどうぞ」

 

 たきなに手を取られ、握らされたのは、鍵だった。太郎と次郎を保管するロッカーの鍵だ。

 

 さすがに信用を取り戻すまではお預けだろうと覚悟していたので、田中は慮外の喜びに口元を緩める。

 

 が、たちまち絶望に曇ることになった。

 

「あとこれ、千束先輩様からプレゼント」

「えっ」

 

 千束は田中の後ろに回り込み、首元に手を回す。何かが巻かれる感触がしたかと思うと、かちり、と鍵の締まったような音がした。

 

 戸惑っていると、正面に回った千束が手鏡を用意していた。

 

「な、なんですこれ?」

「退院祝いのプレゼント! 似合ってんぞ田中ァ」

「店長とクルミさんが手作りしたチョーカーです」

「いやあの、チョーカーっていうより……」

 

 鏡に映った自分の首に巻かれたもの。リコリコの制服と同じ、明るい橙色のそれは、チョーカーよりもむしろ──

 

「ちなみにGPS機能が付いてます」

「それと鍵がなきゃ外せないから」

「首輪じゃねーですかっ!?」

 

 首輪であった。

 

「おー、田中おかえりー」

 

 奥からあくびをしながら、クルミがやってくる。ぼさぼさ頭を気にもせず田中を見上げると、首元で視線を留めた。

 

「それ作るの苦労したんだぞ? 絶対壊すなよ。壊したら千束とたきなのスマホに警報が飛ぶからな」

「ハイテク!?」

「それと二人から一定以上の距離を取っても警報が鳴る。あとバイタルも拾ってて……面倒だな。とにかくもう自害はできないものと考えろ、いいな?」

 

 田中の自害を防止するハイテク手作り首輪、もといチョーカーらしい。清々しいほどに信用されていない。

 

 尊厳を失った田中は、涙目で千束にすがりつく。

 

「先輩っ! こんなの、ひどいですよう!」

「安心しろって、お肌に優しい素材選んだから」

「そういう問題じゃ……ひぃんっ!? な、何です!?」

 

 尻の肉をちぎれんばかりに掴まれて、田中は嬌声を上げた。首をひねって見てみると、千束の手が田中の尻を鷲掴みにしている。

 

 力づくで座敷まで引きずられ、千束の太ももにお腹を乗せる形で固定された。

 

「な、なんですかこれ! なぜ田中は辱めを受けているのです!?」

「山岸先生から聞いたぞ田中ァ」

 

 ぎくり、と田中の肩が跳ねた。

 

「私に心臓をぶち込もうとしてたんだって? いざとなったら事後承諾でやるつもりだったらしいな?」

「しかも、都合の悪い部分は隠して私に教えましたよね。危うく騙されるところでした」 

「いえ、そのう……」

「その、何? 裏は全部取れてんだよ」

 

 田中は暴れた。水揚げされたマグロのごとく千束の膝の上で跳ねた。

 

 しかし不利な体勢の上に、病み上がりで現役リコリス二人の膂力に敵うはずはない。力ずくで抑え込まれ、田中は必死で助けを求めた。

 

「て、店長、ミズキさん、クルミちゃんっ! 助けてぇ!」

「……すまん」

「ケジメって大事よね」

「いい薬になるだろ」

 

 世界は理不尽と不条理に満ちている。大人組に田中の折檻を止める者はいなかった。

 

「田中ァ!」

「うぎゃー!?」

 

 すぱーん、と。無駄にでかい尻をシバき回す良い音と、田中の汚い悲鳴が響き渡った。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 燦々と降り注ぐ陽光と青い海。潮風にヤシの木が揺れる砂浜に、喫茶リコリコのハワイ出張店舗が営業していた。現地でレンタルした移動式トレーラーをリコリコのモダンな色合いに装飾し、上質なスイーツとカフェを提供している。

 

 切腹騒動で一時取り止めになったハワイ出張は、色々と落ち着いた春頃に改めて実施された。

 

「Enjoy!」

「あー、電話電話!」

 

 今しも現地人にたきなが品を手渡して見送り、千束はトレーラーに備え付けの電話に対応する。ミカは黙々とコーヒーをドリップし、ミズキはアイドンスピークイングリッシュと言うだけの装置と化して運転席に陣取っている。クルミはメニューの看板を背負ってトレーラー周辺をうろつき、文字通り看板娘と化していた。

 

 一方、田中は何をするでもなく、トレーラーのすぐそばの砂浜にパラソルを広げて、ぺたんと座り込んでいる。袖口を大きく長く改造されたオーバーサイズパーカーと、ホットパンツ。袖の中には二振りの家族を納刀している。すぐ横の砂地に、地元の金物屋で買ってきた無骨なマチェットが突き立っていた。

 

「んあー……」

 

 古びた日記を開いてはいるが、ページは白紙だ。鉛筆の芯が紙に近づいたり離れたりして、黒い点をポツポツと落とす。諦めて日記を閉じた。

 

 表から陽気な客と、千束の元気なやりとりが聞こえてくる。

 

「Hey, what is Special Ninja Coconut?」

「Ah, you have good taste! With this menu, you can enjoy a real Ninja wazamae and special coconut! I'm sure you will be blown away!」

「Seriously!? I' ll go with this!」

「Got it! たきなー、田中ァ! スペシャル忍者よろしくぅ!」

「はーい」

 

 呼ばれた田中は重たい腰を上げ、マチェットを抜いて表に出る。普通の少女然とした田中を見た南国の青年は、ワクワクした顔から一転、訝しげに眉根を寄せた。

 

 砂浜の上で、距離を取ってたきなと向かい合う。たきなの手にはココナッツ。目配せでいつでもいい、と伝える。

 

 たきながココナッツを投げた。

 

 無意識の反射が発動しない程度の山なりの軌道で、ココナッツが迫る。田中は切れ味の鈍いマチェットを両手で斬り上げ、ココナッツの上から三分の一程度の箇所を切り飛ばした。ココナッツを受け止めながら、わざとらしい残心を挟んで大げさな血振り。切り口にストローを差す。

 

 唖然とする客に、ココナッツジュースを差し出した。

 

「Once again, Tanaka cut a worthful object, ご、ござる……」

「……WAZAMAE!」

 

 歓声が湧いた。注文した客だけでなく、遠目から窺っていた通行人たちも拍手を送っている。

 

「さんきゅー、さんきゅー! 喫茶リコリコをよろしくぅー!」

「うぅ……」

 

 千束が調子よく答えているが、田中としては取ってつけたようなござるが非常に恥ずかしい。こそこそと影を薄くしてパラソルの下へ引っ込み、それがまた忍者っぽいと好評を生む。

 

 スペシャルニンジャココナッツは、ハワイで千束が考案した、田中専用の新メニューだった。作り方は簡単で、現地で安く仕入れたココナッツを田中に投げつけ、切り口にストローを差して提供するだけ。地元民や観光客はココナッツの硬さをよく知っており、それを豪快に切り伏せるパフォーマンスは受けが良かった。相乗効果を狙って、田中には派手な残心やござる口調などを使うよう教育している。

 

 田中はパラソルの下で膝を抱えた。新メニューを提供している間は、それに専念して他の業務は休むことになっている。注文が入るまでは手持ち無沙汰だった。

 

「よー、忍者。またつまらぬものを切ってしまったなぁ?」

「クルミちゃん……もーやめてよ恥ずいんだから……」

 

 ぼけっと海を眺めていると、看板娘状態のクルミがやってきた。

 

 どっこいしょ、と隣に腰を下ろして、同じく海を見る。サボりにきたのだろうか。表から千束とたきなの明るい声が聞こえてくる。

 

「ここに来てから随分と退屈そうだな。痛ましい彼氏をやれないのが不満か?」

 

 なんとはなしに、クルミが口を開いた。

 

 田中は首を振る。

 

「んーん。全然。もちろん敵がいるなら死を悼むけど、いないなら別にいい。ただ……」

「何だ?」

「田中はどうすればいいのか、分からない」

 

 訥々と、田中は語った。オレンジの首輪を指先でなぞりながら、毎日の虚無感を言葉に変える。

 

「この田中は、田中に殉じるのが唯一正しい方法だと思ってた。だけど千束先輩に泣かれて、間違いに気づいた。だから今も生きてる。でもね、本当にただのうのうと生きてるだけで、田中を成就できるのかなって。それが分からない」

「……成就だの殉じるだの、『田中』ってなんなんだ?」

「この田中の生き様。日の本の太平を実現し、今日(こんにち)を築く屍の山に報いることである」

「ほーん。ま、分かんないならこれから見つければいいんじゃないか? 幸い、千束は大丈夫だ。お前が焦る必要はもうないだろ」

「えっ、焦る? なんで?」

「気づいてなかったのか」

 

 クルミは呆れ顔で田中を見上げ、「お前は焦ってたんだ」と続けた。

 

 田中は元より、二年後に自身の心臓を千束に譲って死ぬつもりだった。だからそれまでに太平を実現しようと躍起になっていた。

 

 しかしDAでの仕事が太平につながらないと気づき、かといって具体的な方法も浮かばず、縋り付いたのが陰謀論だった。分かりやすい悪者を用意して、それを倒してしまえば手っ取り早く太平が訪れる。突飛な飛躍の裏には焦躁と絶望があって、それに気づかないまま際限なく思考が煮詰まり、挙げ句に自害を試みた。

 

 そのように、当人ですら気づかない心理をクルミは理路整然と説明した。

 

 田中は首をひねる。

 

「そう、だったのです? 田中は焦っていた?」

「そうだよ。だからもう焦るな」

「うわわっ……みゅ」

 

 クルミは田中の後頭部に手を回し、強引に引き寄せた。薄い胸板に顔が押し付けられ、優しい手付きで撫でられる。

 

「お前はもう十分がんばった。これからはもっと力を抜け。ゆっくりやれ。誰も急かしはしないから」

「……」

「癖になる撫で心地だな。でかい犬みたいだ」

「……」

「田中?」

 

 微動だにしなくなった田中を訝しみ、クルミが体を離す。

 

 田中の瞳は焦点が合わず、虚空を見つめていた。ブラウンの瞳の中に宇宙と涅槃と浄土が広がっている。クルミの顔から血の気が引いた。

 

「おい、嘘だろ……!」

「そうか、そうだったのか……世界のあるべき姿……救いと導き、伝道と啓蒙……女神を知らしめねばならぬ……!」

「なんでそうなるんだ田中!? 言っちゃなんだがボクの胸だぞ! 見境ないのかお前っ!?」

 

 自身の命と魂をかけてやり遂げるべきことを悟った田中に、迷いはなかった。頭が冴え、総身に力が漲り、魂に使命感が迸る。きりっとした顔つきでクルミと向き合い、頼もしげに笑う。

 

「ありがとう、クルミちゃん。おかげで目が覚めたのです」

「ま、待て……!」

「大丈夫、田中を信じて」

 

 田中は猫のように素早くしなやかに立ち上がり、パラソルの日陰からトレーラーへ駆け寄る。車内で雑談中の千束とたきなの元へ行くと、二人は頬を引きつらせた。

 

「千束先輩、たきなっ。共に救いと導きをもたらすのです!」

「ついに来ちゃいましたか、いつものが……」

「ちなみに今回のきっかけは?」

「クルミちゃんのおっぱい!」

「おいおいついに無から悟りやがったぞコイツ」

 

 胡乱げに聞いていたミズキがドン引きし、他方、ミカは慈母のような微笑で見守っている。クルミはもう諦めたのか、看板を背負ってうろつく作業に戻っていた。

 

 千束とたきなから否定的な空気を嗅ぎ取って、田中は最強のカードを切った。

 

「千束先輩、なんでも言うことを一つ聞いてくれるんでしょ」

「うぐっ」

「まさか約束を破る先輩じゃあねーですよね?」

 

 しばし視線を泳がせていた千束だが、ついに観念したのか、たきなの首に腕を回して据わった目つきで睨み返してくる。

 

「ええい、女に二言はねえ! なんでも来いやぁ!」

「私まで巻き込まないでくださいよ!」

「たきなにもお願いするつもりだったのでちょうどいいのです。では話をしましょう、人心を救い導き、世界のあるべき姿を取り戻す方法とはすなわち──」

 

 こうして恒例行事よろしくスイッチの入った田中が語り出し、主に拒否権のない千束と、ついでにたきなが巻き込まれ、ハワイを中心にちょっとした騒動を引き起こすことになる。

 

 その渦中に据えられたリコリコメンバーは、ドン引きしたり、苦笑いしたり、おかしそうに笑ったりして、口を揃えてこう言った。

 

 思想が強すぎる、と。

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