それが己を自覚した時、既に封印されていた。
知識はある。音楽と知っているようで知らないこの世のこと。そして、どこか遠い世界の知識。そこから己はやってきたのだと漠然とした郷愁の念が教えてくれる。だが、その世界にまつわる思い出というものが砕け散ったかのように欠けていた。
今のそれにあるのはこの世における思い出のみ。湧き上がる負の感情のままに暴れ回り、ついには打倒され封印されたこと。楽譜である己はそのまま燃やされて廃棄されてもおかしくなかったというのに封印で済まされたのは慈悲なのか。それともただ単に不可能だっただけなのか。
問いただそうにも相手がいない。
気が遠くなるような時間を独りで過ごした。空想の中、観客もいない独りでのアンサンブルは空しいもので、時折、微かに漏れ聞こえてくる音色だけが寂寥を慰めてくれる。
そしてある時、はっきりと聞こえてきたのだ。
歌が。
歌声が。
ウタウタの実の能力者の歌が、それに封印を抉じ開ける活力を与える。
そして、歓喜したそれは勢いのまま歌声の元へ向かった。
歌声の主はまだ幼い『ウタ』であった。それにとって知っているが知らない女の子。長い時の流れで擦れた記憶が蘇る。
「楽譜? 歌詞? 変な文字だけど、読め、る?」
彼女はいつの間にか現れていたそれを興味津々といった様子で手に取った。きっと音楽を、歌を心から好いているのだろう。
それは嬉しくなった。このままでは駄目だとも思った。
蘇った知識が警告するのだ。この後に起こる惨劇を。かつてのように暴れ回る己の姿を。また新たな悲しみを生んでしまうと。
「えぇと、がぁざん、うぅん。ᚨᚺ ᛉᚨᚾ ᛏᚨ———ワブッ!?」
歌い出したウタの顔に楽譜から飛び出たそれが引っ付き、歌を止める。彼女の両手で引き剝がされたそれはマスコット化して小さくなったトットムジカの魔王であった。
「だれ?」
『吾輩はトットムジカである』
そう名乗るつもりであったのだが、それは喋ることが出来ぬと気付く。
代わりにジャジャンと鍵盤を鳴らす。
ウタは目を輝かせ、様子を見に来たゴードンは顔を青くした。
音楽の島エレジア。
そこでは今、歴史を揺るがすかもしれない事件が起こっていた。
「あれがその伝説にあるトットムジカだと?」
「私も信じられないが、そうだとしか言えない。伝説では負の感情を司るとされるが……」
赤髪海賊団の船長シャンクスとエレジアの王ゴードン。二人の視線の先にはウタの歌に合わせて演奏を行うミニチュアトットムジカの魔王の姿があった。ついでにそれを聞き入る船員や島民の姿もある。
「そうは見えないな」
「ああ。とてもそんな風には聞こえない」
彼女らはとても楽しそうであった。そして、奏でる音色には喜びが溢れていた。負の感情など感じ取れない。
「もしかすると、あれこそがトットムジカの正しい姿なのかもしれない」
「伝説が間違っていたと?」
「分からない。伝説が真実だとしても、音色を聞けば分かる。我らと同じくあれもまた音楽を愛する者だと。だが、時代のせいか、当時の能力者が願ったのか知れないが、伝説の姿は負の感情に呑まれてしまったが故かもしれないと思ったのだ。もしくはあの子の歌が変えたのか」
「となると、伝説の再現になるかどうかは今の時代とウタ次第というわけか」
時はまさに大海賊時代。夢とロマンの裏で悲しみと苦しみに溢れた世界。
「あるいは、来るか。新時代」
それはどこか確信に満ちた言葉であった。
歌声の残響を区切るようにポロロンと鍵盤が弾かれ、一人と一匹の演奏は幕を閉じる。鳴り止まぬ拍手喝采。礼をし、シャンクス達の方にも手を振る一人と一匹。
そうして、赤髪海賊団にとってエレジア島最後の夜は更けていった。
トットムジカは『エリーゼのために』というこの世になかった曲が好きだった。
もはやエリーゼが誰を指すのか、その譜にどんな思いが込められているのかも知れないが、それでも好きだった。もしかすると、遠い世界での思い出の曲であったのかもしれない。
分かりやすく、親しみやすい。スキップするようなステップと荒れ狂う胸の内を連想させる二つのエピソード。それは恋か、愛か。今のトットムジカには分からない。ただ、誰かのために綴られたであろうこの曲が懐かしく、羨ましい。
己は誰かのための曲で在れるだろうか?
己の内にある悲嘆や絶望に赫怒を吐き出すような曲も音楽という表現における一つの形であると断言できる。ただ、その感情に振り回される身としては複雑だ。己だけはその想いを否定してはならないと思うし、その想いを伝えなければならないという使命感さえある。
ただ、それでも曲とは、音楽とは誰かに奏でられ、聞いてもらって初めて意味をもつものだから。聞く者がいなくなってしまうようなことは許せない。己に綴られた想いを残し、伝えるためにも、自身がその想いに吞まれてしまってはいけないのだ。
いつか、惨劇を起こさず、ウタが己を歌い上げられる日が来れば。
ウタとの演奏を終えたトットムジカはそんな夢を抱いた。