『ちゃんとご飯は食べた?オープンキャンパスはどうだった?』
ホテルの部屋の中、携帯電話越しの母の声が響く。
「夕飯はもう食べたよ。
オープンキャンパスも面白かったし、その…見に来てよかった。
大学行くのが楽しみになったよ。」
僕はそれどころじゃなくて、返事はひたすら適当になっていた。
『それならよかったわ。
じゃあ明日、気を付けて帰ってきなさいね。』
「うん。大丈夫。それじゃあ、おやすみ。」
そう言って微かに震えた指でボタンを押し、電話を切る。
「貴樹くんのお母さんの声、懐かしいなぁ…
小学校の、卒業式ぶりかな?」
ベッドに腰かけた明里が呑気に足をハタハタと振りながら、明るい調子で言った。
「そういえば、そうなるのかな…」
少し、無理をして笑った。
何で彼女が、ホテルの、この部屋まで来てしまったのか。
僕自身、未だに整理できていない。
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新宿駅でのことだった。
僕らは時間を忘れて喫茶店で話し続け、気が付けば窓の外は暗くなり、18時を過ぎていた。
明里に時間は大丈夫か尋ねると、もう少し大丈夫だから…と。
その喫茶店で、そのまま軽い夕食を食べながら、更に話し。
19時過ぎにようやく喫茶店を出て、二人並んで新宿駅に向かった。
来月にはもう、三年生になっちゃうんだね。
大学生になるって、どんなことなんだろう。
私も志望校が東京だから、二人とも受かったら、いつでも会えるね。
その短い道のりですらも、つぶさに話を続けていた。
新宿駅の改札口が近づくにつれ、寂しさも募ったけれど。
本当に、いい日だった。
明里を、笑顔で見送って。
来年、ちゃんと、桜を見に行こう。
そんな浮ついたことばかりに、頭は埋め尽くされていた。
けれど、新宿駅の入り口に近づくと。
構内、改札口の方向から…脅すような、敵意をむき出しにしたような声が聞こえてきて。
頭が冷え、胸の中がざわつきはじめた。
構内を進み、改札口の前に目に入ったのは、駅員や周囲の人に取り押さえられる、呂律の回っていない若い男性二人組と。
傍に、顔の右側を腫らし、床に膝をつく白髪の男性。
野次馬が現場を中心に円を描いて立ち、遠巻きにその行く末を見守る。
周囲から聞こえるひそひそとした話し声によると、
人身事故の電車の遅延に苛立った若者が駅員に当たり始め、それを横から咎めたおじさんが何発か殴られた…
そんなことらしかった。
後は何事も無く、見送りさえできたら。
最高の、最上の一日で終われたのに…
最後の最後で、何でこんな嫌なものを見なくちゃいけないのだろう。
残念で、仕方が無かった。
明里が乗る電車も遅延していたため、
その現場から離れた柱に二人もたれ掛かって、運行再開の連絡を待った。
「きっと、すぐ動き始めるよ。」
「…そうだよね。」
そんな風に、彼女を励ましたけれど。
一時間経った20時過ぎになっても、駅員は懸命に代り映えの無い状況をハキハキとスピーカーで伝え続け。
改札の周りはその回復を待つ人々も、タクシーを手配する人々も多くなってきた。
明里の顔にも、疲れと不安の陰りが見え始める。
「終電、間に合うかな…」
明里は、弱気な言葉を零す。
その心寒さは、遠い昔、僕が岩舟に向かう途中にあったものと、似ていたと思う。
「長引かないだろうけど、終電近くになるようなら、小山辺りまで車で迎えに来てもらう、っていうのは?
最悪、俺のホテルに泊まれば、大丈夫だよ。」
咄嗟に、彼女を安心させたい一心で言ったつもりだったけれど。
下心の塊のようなセリフになってしまったように思えて…言うんじゃなかったと後悔した。
明里も流石に、その言葉に驚いた様子だ。
「ごめん、今のは、忘れて欲しい…」
恥ずかしさにたまらず、すぐ謝った。
気まずい、沈黙。
人身事故や、あんな喧嘩なんて、無かったら。
綺麗に今日が、終わったのに…
後悔ばかりが、頭の中を駆け巡る。
「…携帯電話、借りていい?」
不意に、彼女から。
いいよ、とポケットから取り出し、手渡す。
きっと親に電車の遅延のことを連絡するのだろうと、思っていた。
「もしもし、お母さん?
今、まだ東京にいるんだけど、人身事故で電車が止まってて…
再開も遅くなりそうだから、友達の家にこのまま泊ってもいい?」
東京の友達が、近くに住んでいるのだろうか。
「うん、うん…
わかった、じゃあ、明日のお昼ご飯までには帰るから。
おやすみ。」
随分と短い通話で了承を貰えたのを見て、
僕の母親ならあと五分は説明が必要だったな…なんてことを考えていた。
通話を切った明里が、携帯を僕に手渡しながら。
「泊ってきても、いいって。」
明里は目を合わせず、俯いたままにそう言った。
「そう…なんだ…」
頭が、真っ白になって。
それくらいしか、言葉が出せなかった。
僕はそれから明里の手を引き、何かの目から逃れるように、足早にホテルに向かった。
あのホテルの立地はこの辺ではまだマシな方とは言え、治安が良いとは言えない。
さっきの駅のこともあり、もう、あんなことにも巻き込まれたくない。
そういう危機感と。
明里と二人で、あの部屋で過ごす。
嬉しいけれど、いけないことをしてしまっているようで。
誰にも見られたくない、悟られたくない。
そんな背徳感や緊張感、気持ちの高ぶりが、自然に僕らの足を急がせた。
受付のお婆さんには話は通そうと思ったものの、数分待っても姿を現さず。
「…もう、中に入ろうか。」
そう言ってそのまま、自分の部屋に明里を連れて入った。
…これで朝までは、この部屋は、僕ら二人だけのものになってしまったんだ。
…今夜、ここに僕らが二人いるのは、誰も知らないんだ。
部屋のドアを開いた時、僕の心はそんな考えと、期待や興奮ばかりが心中を熱く蠢いていた。
ほんの少しだけ、お婆さんへの申し訳なさも。
部屋に入ると明里は上着を着たままドサッとベッドに腰掛け、
その直後、携帯に母からの着信が来て、今に至る。
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僕が母からの電話を終えると、明里はシャワーを浴びると言って、バスルームに入っていった。
彼女がシャワーを浴びる音も。
彼女が中で、再び衣服を着る、布の擦れる音も。
ドライヤーで髪を乾かしたり、小さく歩くだけの足音すら。
中から響く音の何もかも、たまらないほど煽情的だった。
明里は着替えが無かったから、使っていなかった館内用の浴衣を貸して。
その浴衣になった明里は少しばかり露出度が高く、微かに水気の残る艶やかな髪も、年頃の男子には危険すぎる代物だった。
続いて、僕もシャワーを浴びる。
浴びている間、ずっと、彼女を抱くべきなのだろうか。
もしかしたら、扉を開けたら。
…もう、あられのない姿の明里が、待っているかもしれない。
そんな妄想ばかりを、膨らませていた。
寝巻代わりに持ってきていたジャージに着替え。
…意を決して、バスルームのドアを開いた。
そうして僕の目に映ったのは、
ベッドのヘッドボードにもたれかかりながら、僕に目もくれず楽しそうにお笑い番組を見る明里の姿だった。
余りにもリラックスしているその姿に拍子抜けして、残念なような、ほっとしたような。
そう思いながら、僕が窓際の椅子に座ろうとすると。
「こっちに来て、一緒に見ようよ」
そう言って位置をずらし、狭いシングルベッドの窓側半分を空けてくれた。
躊躇したが、断るわけもなく、その半分に入る。
彼女の体温が残る布団に、また緊張や興奮が高まってきたけれど。
そのままお笑い番組を少しと、ちょっとした旅行番組を並んで観ていたら、そういった性欲もなだめられていって。
それでもやっぱり、ふとしたことで高まったり、また頭を冷やしたりを繰り返しながら、少しずつこの状況に慣れていった。
同じ部屋の中、ちょっとした生活のような時間を過ごす中。
僕はぼんやりと、これからのことを思い描き始めた。
…いつか。
いつか、僕が働いて、金を稼ぎ、借りたり、或いは買った部屋で、明里と一緒に暮らして。
おはよう、いってきます、ただいま、おやすみ、と毎日交わして。
二人でテレビを見て、食卓を囲んで、笑ったり。
買い物しに行ったり、洗濯したり、掃除したり。
今みたいに同じベッドで、布団の中から伝わる熱を、共有したり。
…他の誰にも見せたことない部分まで、晒し合ったり。
そんな風に、いつかずっと彼女と一緒にいられる日が、来るのだろうか。
そんな風になりたい、と。
テレビを見ながら、そんなことをずっと、考えていた。
そうこうしていると、明里が小さな欠伸をした。
「そろそろ、寝ようか。」と声をかける。
「うん、流石にちょっと、疲れちゃった…」
その返事と共に僕は立ち上がり、テレビと、部屋の照明を消し。
二人して、同じベッドにもぐりこんだ。
半開きのカーテンの外から差し込む街の灯りが、うっすらと部屋を照らす。
僕と明里は、仄かに見えるお互いの顔を、黙って、眺め合った。
どれくらい、時間が経っただろう。
また、ほんの数十秒しか、経っていないような。
何分も、そうしてしまっていたような。
どこか、窓の外、遠くから。
車の走る音や、コツコツと響く靴音。
どこかのお店から漏れるBGM、人々が賑やかに笑う声。
明里の、呼吸。
僕の、呼吸、鼓動。
微かな体の動きに、布団が擦れる音。
急に、別の世界に来てしまったような。
僕らだけの、夜になった。
明里もずっと、僕のことをひたすらに眺めて。
僕は次第に、また堪え切れない感情に襲われ始める。
…抱き寄せて、しまいたい。
その華奢な肩も、浴衣から覗く胸元も、その眼差しも。
もっと。
…全部、感じたい。
「手、握ってもいい…?」
囁くような、彼女からの声。
僕が小さく頷くと、二人の間にあった僕の左手を、彼女の左手が優しく握った。
触れ合う手の温もりが、肌触りが、更に僕を高ぶらせる。
「ありがとう、貴樹くん」
彼女は柔らかく、微笑んで。
「わざわざ東京まで、来てくれて。
会いに来てくれて。」
手の感触も、その言葉も。
僕を堪らない気持ちにさせて。
「明里…」
抱いて、しまおう。
その衝動のまま、右腕を彼女に伸ばし始めた、矢先。
「ごめんね。」
熱く浮かれていた頭が冷え、右腕が止まる。
何を、何が、何の…ことだろう。
「私ね、貴樹くんのこと、忘れようとしてたんだ。」
明里の声が、震えている。
「もう、会えないんだって、思ってた。
もう、一人で生きていかなくちゃいけないんだ、って。」
瞳から、冷たそうな涙が、一粒零れた。
昼間に溶けてなくなったはずの寒さや不安が、僕の胸を再び包んでいく。
「貴樹くんは、私のこと、忘れないでいてくれたのに。」
僕だって、とっくに諦めて。
忘れようと、してた。
「また手紙を送ってくれて、ありがとう。」
あの手紙は、そんなんじゃない。
全部投げやりで、君のこともうろ覚えで。
諦めて楽になろうと、しただけで。
「それに、また桜を一緒に見たいって、書いてくれて。本当に。」
彼女が、言葉を続けるごとに。
胸を、抉られるような。
「二回もこうして、会いに来てくれて。
私は、待ってばかりで。」
なんで、そんなことを。
僕なんて、それなら。
「いつも、何もしてあげられなくて、ごめんね。」
「そんなことない!」
何もしてないことなんて、ないんだ。
何がそんな風に、思わせてしまったんだ。
「俺のことを、待ってくれた。
今日だって、あの岩舟の時だって。
それに、それに…
引っ越した栃木から、手紙をくれたのは明里だ。
卒業式で、あんな別れ方をしたのに。
大体、俺だって…」
抑えようと、したけれど。
込み上げた言葉は、そのまま溢れてしまった。
「僕だって…明里のことを諦めたくて、去年、手紙を出したんだ」
喉の奥から熱くて。どうしようもない言葉が、溢れてくる。
「明里のことももう、忘れかけてて。
本当に、たまたま、いない寂しさを思い出して…
もう、引き摺っていられないほど、辛くなって。
もう全部捨てたくて、投げやりに書いたんだ。」
素敵だったはずの一日を、穢して、壊している感触。
「手紙だって、偶然が重なって、ようやく出せただけで。
僕は、本当は、何も…
全然、僕一人じゃ、何もできなくて、弱くて。
ただ…運が良かった、だけなんだ。」
涙が目に滲み。
思わず、彼女から、目を逸らした。
自分が見るに堪えない存在にしか、思えなくて。
彼女の眼差しから、逃げてしまった。
なんてことを言ってしまったんだ。
こんな、僕の汚い、ずるい部分のことを、何で…
でも、明里が自分を否定してしまうのが、耐えられなかった。
明里が卑下されるような存在なのだとしたら、僕なんて、何なんだ。
そういった想いが、とめどなく湧いて。
でも、明里を肯定してあげられるような言葉も、上手く出てこなくて。
僕は、自分を下に出すことしか、できなくて。
「こんな僕で、ごめん…」
何で僕は、こんなことしか言えないんだ。
また、自分だけ楽になろうとして。
重い物を、暗いものを、抱えたくなかったんだ。
そんな後悔ばかりが胸に渦巻き、内側を擦れて傷つけていった。
僕は、僕のことを、こんなにも。
自分のことが、こんなにも、嫌いだったのか。
明里を一度、容易く手放してしまった自分が。
想いも伝えないまま、諦めてしまった自分が。
呼吸が苦しくなるほど、胸が締め付けられて。
僕はこんなにも、僕が、嫌いだったんだ。
「…それでも。」
明里が、小さく語りかける。
「あの手紙は、貴樹くんが出してくれて。
写真まで撮って、贈ってくれた。
私に思い出させてくれて。
こうして、会いにまで、来てくれた。」
滲んだ視界のまま、明里を見る。
彼女も泣いているような、気がする。
「私のこと、覚えていてくれて、ありがとう。」
その言葉は、僕が受け取るには、眩し過ぎて。
涙は、もっと止まらなくなって、溢れてしまった。
何か、言わなくてはいけないはずなのに。
胸も、喉も、押し寄せる感情に詰まって。
言葉にならない嗚咽しか、出せない。
「私ね、小学校卒業して、栃木の中学に入った後。」
目も開けられないまま、瞼の闇の中、明里の声が続く。
「知ってる人も全然いなくて。
でも、周りの人には友達とか、もう小学校の頃のグループで繋がってて。
最初の内、本当に一人っきりだった。
話しかけてみたいなって思っても、勇気が出なくて。
話しかけられても、上手く答えらなかったりして。」
彼女の言葉は、どうしてこんなにも、優しくて。
「でも、貴樹くんだったら、どうしただろう…って。
思い出しながら、真似し始めたら、
とりあえず上手くやり過ごせるようになって、気付いたら、友達も少しできて。
こうすれば、一人でも生きていけるんだって、分かって。
凄く、助けられちゃった。」
明里は静かに、子供に絵本を読み聞かせるような柔らかさで、そのまま話し続ける。
「高校に入った時も。
塾とか、部活とか、他にも新しい何かに飛び込まなくちゃいけない時も。
無意識に、そうしてやっていけるようになってて。
…思えばずっと、貴樹くんに助けられてたんだって。
つい最近、気付いたんだ。」
彼女は両手で、僕の左手を握り締めた。
「貴樹くんは強くて、守りたいものを守れるだけの、強さがあるから。
どんな風でも、私に会いに来てくれたのは、奇跡みたいに凄いことだから。
もう、そんなに、泣かないで。」
その言葉に、どれだけ救われただろう。
僕こそ明里に、何もしてあげられていないような、気がしていたけれど。
こんな僕でも、明里に何か、与えられていたんだ。
そう、思うと。
少しだけ、自分を好きになれたような気がした。
「ありがとう…」
そのたった五文字を発するのが、精一杯で。
この言葉があってよかったと、強く思った。
こんなにたくさん、言葉を貰ったのに。
どう返してあげたらいいのか、やっぱり、わからなくて。
僕こそ明里に、いつも助けられていたはずなのに、それが何なのか、わからなくて。
やっぱり、惨めさだけは残った。
そこから僕も、少しだけ、話した。
文通が途絶えた、後。
時折海岸に行って、本州の方角を見ては、途方もない遠さに絶望してしまったことや。
会いに行こうとも考えたけれど、中学生の自分には、何の手段も思いつかなくて。
自分の手紙が迷惑なものなんじゃないかと、思えて。
それでも、明里の手紙が来ないか、いつも、期待して。
段々と怖さが勝って、手紙が書けなくなったこと。
自分で話している最中も、
僕は、明里のことではなく、自分の寂しさのことばかりを話していることに気づいて、また自己嫌悪に陥ったけれど。
明里は静かに、それを聞いて。
「私たち、似た者同士なんだね。」
たったそれだけの言葉で、笑って、受け入れた。
それからも、手を握り合ったままに。
お互いのこれまでの寂しさや、寒さを、分かちって、慰め合って、温め合って。
ありがとう、とか、ごめん、とか。
そんな言葉が、何度も何度も、行きかった。
今まで話したことのない、悲しさや、孤独や、冷たいことばかりを話して。
凍えそうな不安や、離れていきそうな予感に包まれ、苛まれたけれど。
互いの手の温かさと、拙い会話で、一つずつ溶かしていった。
僕にはただ、明里が傍にいてくれたら。
春のように温かで、幸せな時を過ごせていたけれど。
寂しさや、孤独や、やりきれなさや、別れのような。
冬の気配からは、全部目を逸らしていたのかもしれない。
互いが傍にいるだけで、僕らは何も、怖くなかったから。
全て分かち合えたように、満たされてしまったから。
僕は大切なことを、何一つ、言葉にできていなかったんだ。
大事な瞬間に言葉を紡いでくれるのは、いつも明里のような気がして。
僕から何か、彼女に伝えられたことがあっただろうか。
そんなことを、朧げに考え始めた。
段々と胸の内も温かく、安らかになって。
次第に交わす声の大きさも速度も、小さく緩やかになり。
冬の終わりを感じさせる温かさに、体中が包まれ始めて。
ゆっくりと瞼が重くなり、いつの間にか、眠りに落ちていた。
薄れゆく意識が、途切れる寸前。
夢の中だったのかも、しれないけれど。
大好きだよ。
そう、聞こえたような気がした。