「あそこから、何かしらの虫の鳴き声が聞こえてくるだろう。
何の虫かは、興味ないが。」
父はそう言って、家の正門横にある小さな茂みを、煙草の先端で指した。
多分、ただの鈴虫だと思う。
空が白み、曙色に染まり始める。
もうすぐ、日の出だろう。
父が、『その女の子に次会えたら、ちゃんと言葉で想いは伝えろ』と何度も言って煩いから、
「言葉だけじゃ伝えられないって、父さんが言ったんだろ。
じゃあ何で言う必要があるんだ。」
と、冗談交じりに反撃したつもりだった。
もう長い時間父と話していたせいで、頭も眠気で朦朧としていて、
そんな厄介な質問をする僕のテンションも、少しおかしくなっていたと思う。
父はその質問に腕を組んで考え込み。
ふと喋り始めたのが、その言葉だった。
「あの虫がもし鳴いていなかったら、俺たちはあそこに虫がいるとは知らなかった。
言葉も同じで、発することでようやく、
『そういうものが、その辺りにある』ということ、相手に認識してもらえる。
自分でもそうしてようやく、気付くことだってあるしな。」
うん、そうだ、と。
父は勝手に納得したようだ。
茂みを見つめたまま、父が続ける。
「多分、理解させることが重要なんじゃあない。
口から言葉で出すことで、その存在を自分から相手に指し示すことが、きっと大事なんだ。」
父はやり切った顔になって、また一本煙草を吸い始めた。
…あぁ、なるほど。
僕の疲れ果てた頭は、その言葉を理解できたか怪しいものだったし。
父の言葉だって、何かぼやけて、正確さに欠けているように思えたけれど。
その言葉は確かに、僕の心に居場所を作って、居座り始めたと思う。
「…もしかして」
最後の煙草を灰皿に捨て、父が喋った。
「今のセリフ、かなりキマってたんじゃないか?」
そういって、また父は笑った。
ただ、ようやく父が本当に笑ったように思えた、無邪気な…子供のような笑顔だった。
「知らないよ」
僕も笑って、そう返した。
薄い黄色に滲み始めた東の空を見ると、
一つだけ、未だ爛々と輝く星があった。
…あの星も、もしかして。
誰かに見つけてほしくて、あんなに輝いているのだろうか。
きっと、酷い眠気のせいだろう。
柄にも無く、そんなことを考えた。
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「あとほんの十日もしたら、四月になって。
私たちも、三年生になっちゃうね。」
明里が爽やかな朝の空を見上げながら、そう呟いた。
「種子島に行ってからもう四年近く経つけど。
振り返ってみると、結構あっという間だったような気もするなぁ。」
朝9時過ぎ、僕らはホテル受付で、お婆さんへの事情の説明とチェックアウトを済ませ。
手を繋ぎ、ゆっくりと歩いて、新宿駅に向かった。
朝日に照らされた街並みは新鮮な光を纏い、
まるで今生まれたばかりのような艶やかさを、そこここに垣間見せる。
「来年の春も、すぐなのかな。」
そう言いながら、明里はこちらを見る。
「そうだろうね。
…でもその前に、大学受験頑張らなきゃ。」
「受験勉強、やりたくないなぁ~。
春から塾の講義も増えちゃうし。
特に数学、苦手なんだよねぇ…」
「俺は数学得意だから、教えられたらよかったんだけど。」
「教えて貰いたかったなぁ。教えるの、上手そうだし。」
そんな風に、来年の春までの話をぽつぽつと話しながら。
地面の感触を確かめるように、ゆっくりと歩いた。
その穏やかな対話の時間に、意識の全てを奪われそうになってしまいそうになったけれど。
朝、秘かに決意したことだけは、胸の内で守り続けた。
…僕は、明里に、伝えるんだ。
新宿駅は思っていたよりは人が少なくて。
明里はそう待たされずに切符を購入し、とうとう、別れの時がやってきてしまう。
「それじゃあ、また来年ね。」
彼女が手を小さく振って、改札口に向かおうとしたけれど。
「…明里!」
緊張して、変に上ずってしまった声で、呼び止めた。
明里がきょとんとした顔で、こちらを振り向く。
胸の鼓動が、収まらなくて。
大きすぎる感情が喉に詰まって、息苦しいけれど。
「その…」
伝えなくては。
知らせなくては。
「君のことが、好きだ。」
言って、しまった。
ついに、明里に。
明里は目を大きく見開いて。
肩が強張るのが、わかって。
髪が、微かに揺れて。
彼女の、そのほんの僅かな反応に、
僕はどうしようもなくかき乱されて、
言葉を、失いそうになったけれど。
「あと、それと」
もう、少しだけ。
「来年、また、絶対、戻ってくるから。」
だから。
「だから、また…待っていて欲しい、です…」
恥ずかしさのあまり、思わず俯いた。
[また]と二回も言ってしまったり、
何で最後、[です]なんてつけてしまったんだ、
そもそも、何てちぐはぐな言葉で、
何で片言になってしまうんだ、とか。
「ごめん、もっと上手く伝えられたら」
自分の言葉に耐えられなくなって、思わず謝ろうとすると。
体に、柔らかな感触がぶつかって。
頬をふわりと、彼女の髪がくすぐって。
僕は、抱きしめられていた。
左肩に、彼女の頭が当たって。
…鼓動が、彼女に伝わってしまうのが、わかって。
彼女の鼓動も、僕に。
「私も、大好きだよ。」
耳元で、その声が響いた。
…分かっていた、はずなのに。
僕は、明里が好きで。
彼女も、僕のことを好きでいてくれているって…分かり切っていた、はずなのに。
夢や理想の中にしかなかったものが、ようやく姿を現してくれたような。
当たり前だったもののはずが、ようやく理解できて。
やっと、何かに追いついたような。
あぁ、僕は、こんなにも…
明里のことが、好きだったんだな。
明里の体が、離れる。
その手はまだ、肩を優しく掴んだままに。
「絶対、待ってるからね。」
彼女はそう言うとすぐに駆け出し、改札口を通り。
改札の向こう、彼女は立ち止まって振り返り、こちらに手を振った。
僕が放心状態のまま、手を振り返すと。
彼女は微笑んで走り出し、人混みの中に消えていった。
彼女の姿が、見えなくなってからも。
しばらくそのまま、立ち尽くしていた。
その後控えていたオープンキャンパスには、行かず。
僕は新宿駅を歩いて離れ、一番最初に目についたベンチに腰を下ろし。
さっきの言葉の感触と、来年の春のことを、想いながら。
近くに立つ満開間近の桜の木々を、ひたすら、無心に眺め続けた。
また、彼女に会いに、戻ってくるのだと。
一緒に、春を迎えるのだと。
そう、心に決めた。
いくつか補足です。
・冒頭の父と貴樹の対話は、時系列としては本稿3話「父」の時、明け方近くにあった会話を描いています。
・「Yellow」というタイトルは、Coldplayというバンドの同一名の曲から取っています。
夜空の星の輝く色を、英国では「Yellow」で表現するようで、
その歌も星の輝きに恋人を重ねて歌ったものです。
流石に意図がわかりにくすぎると思い、補足させて頂きました。
次話から舞台は種子島に戻り、澄田の話に移ります。
あと残り5~6話程度、十月半ばには完結できるかと思います。