十月半ばの、ある日のことだった。
二学期が始まり、遅めの台風が一つ通り過ぎ。
その台風が連れてきた、秋の涼し気な空気がこの島を漂い始め。
原付の登下校に何か一枚羽織った方が良いだろうかと、考え始めた頃。
夕方、五時三十分。
自習室での勉強を終え、そろそろ明里の手紙が来る頃だろうか…と考えながら、駐輪場に向かうと。
夕日の橙色に包まれた駐輪場の柱にもたれ掛かる、澄田の姿があった。
以前なら校舎裏に隠れていた彼女が、目が合うと僕に駆け寄り、正面から出迎える。
「一緒に帰ろう?」
澄田が、無邪気な笑顔でそう言った。
断る理由はなく、願っても無い機会ではあるのだが…
以前と異なる彼女の態度や行動に、少しだけ緊張してしまう。
帰ろう、と誘うのは、校舎の影から出てくる彼女に対して、いつも僕からかける言葉で。
彼女から言われたのは、高校に入りたての頃…
澄田と初めて帰った時以来、だったかもしれない。
帰り道、久しぶりに原付で一緒に走って、コンビニに寄り。
僕はデーリィコーヒーを、澄田は迷うことなくヨーグルッペを買った後、
コンビニの横のベンチに二人で腰掛け、世間話を始めた。
最近の涼しさのことや、引退した部活のこと。
夏休みにあった、些細な出来事。
澄田が久しぶりに、波に乗れたのだということ。
楽しそうに話す、澄田。
前は僕に質問することが多かったのが、自分のこともよく話すようになって、
話し方も依然と比べて明るくハキハキとしている。
その会話は楽しくもあったけれど…薄い違和感が纏わりついて、拭えない。
横並びだから、という理由もあったが。
話し始めてから、彼女の目を直視することができなかった。
視界の隅に映る澄田の顔は、とても素敵なものだと分かったけれど…
何でだか、それを直視する勇気を出せない。
話題は、進路希望調査の話に移って。
「遠野くんは、受験?」
「うん、東京の大学受けるんだ。」
「東京…。そっかぁ、そうなんだね。」
一筋の風が通り抜けていく。
その音だけの、静寂。
「東京じゃなくちゃ、ダメなの?」
周囲の木々が、ざわめいて。
優しい夏の終わり空気が、引き締まったように感じた。
「行かなくちゃ、いけないんだ。」
「そっか…」
そう言うと、彼女はヨーグルッペを一口含み、ごくりと飲んだ。
優しい風の、揺れる草木の、コンビニのラジオの音も。
聴こえているのに、感じられない。
やけに、辺りが静かに感じる。
明里に、想いを告げた時のような。
夏休み前、あの後輩の子に告白される前のような。
世界が圧縮され、僕らの周りだけに集約されてしまうような。
大きな、重要な言葉を向けられてしまう、そんな気配があった。
その前に、俺から言わなくては。
そう思い、口を開きかけたけれど。
「遠野くん」
僕の喉から出かかったものを制するように、先に名を呼ばれてしまった。
隣の澄田が、真っ直ぐに僕を見つめて。
僕も遂に、その瞳に向き合わざるを得ない。
彼女の瞳は本当に、ただひたすらに僕だけを捉えていて。
…こんなにも真っ直ぐ向けられて、放たれるであろう想いを。
断って、傷つけなくて、突き放さなくては、ならないのだろうか。
そうせざるを得なくなった、自分の優柔不断さを悔やんで。
僕はもう全てを諦め、その言葉が出てくるのを、静かに待った。
「遠野くんがこの島にいる間は…
こうやって、一緒に帰っていいかな。」
澄田の言葉は、僕が想像していたものと、全く違ったものだった。
その意味を理解できず、困惑したままに彼女の顔を見直すと。
「私は東京には、行かないから。」
僕の瞳を捉えまま、そう、付け加えた。
その言葉に、僕の様々な言葉が封じ込められてしまったことに。
彼女の想いも、僕の言葉も、遠くに投げ出されてしまったことに、気付いて。
僕は言葉を、失ったままで。
澄田は僕を、ひたすら見つめたままだった。
澄田が僕に求めたことは、とてもシンプルだった。
このまま、これからも帰り道を、共にしたい。
卒業まで。
僕がこの島を、離れるまで。
…それ以上を、求めない。
僕が向けられると思った言葉は、澄田が言わないと決めた言葉だったと思う。
伝えてしまえば、終わってしまうと。
澄田はいつ、気付いたのだろう。
こんな風になるなんて、思ってもみなくて。
狼狽えて、混乱して、頭の中で組み立てていたことの全てが、崩れ去っていった。
…でも、もし。
明里が、そういう存在だったら。
僕も、そうしたんじゃないか?
大事なことを全部置き去りにしたまま…まるで大切なことなんて、何一つ言わなかったみたいに。
「ところでさ~」と、澄田は微笑みながらその全て切り離し。
全く別の次元の、関係の無い雑談を始めて。
うわべだけは楽しそうな、空っぽな会話が始まった。
当たり障りの良い言葉だけが行きかい、お互いの心の何にも触れられない虚しさを孕んだその会話は、かつて緩やかに終わりゆく手紙のやり取りに、どこか似ていた。
絶え間なく、会話は続いているのに。
薄くて、浅くて、肌触りの良い、掴みやすくて、丸い会話なはずなのに。
…もうあれから、何年経ったか。
大人になってしまった今なら、分かる。
そうするしかなかったのだ、と。
僕が澄田と、同じ立場なら。
もしも明里が、そういう存在だったとしたら。
傍にいられたとしても、届かないと分かってしまったら。
その輝きを出来る限り、感じていたいと思ったなら。
別れが、分かっていても。
共にいられる未来を、望めなくても。
伝えたかった言葉を、伝えず。
そこにあるその笑顔を、声を、些細な言葉も、求めてしまうと。