「桜、綺麗だねぇ。」
一学期の、始業式の日。
最後の一年なんだから、最初が肝心だ。
私はその日の朝、そう意気込んで玄関を出たのを、覚えてる。
午前で学校が終わって、昼過ぎの帰り道。
いつものコンビニで、遠野くんと並んで、ベンチに腰掛け。
春ののほほんとした温かさが辺りを包んで、天道虫や蝶々が、視界の隅で飛び交って。
遠くにぽつりと立つ桜の木を見ながら、私が何気なくそう言うと。
「…本当に、そうだね。」
そう答えた遠野くんの横顔は、
見たこと無いくらい澄んだ、春のように温かな微笑みで。
何故だか、胸が苦しくなって。
その眼差しも、意識も、全部遠くに咲く小さな桜の木と、その奥に向けられているのが、わかって。
そこに、私ではない何かを見出しているのが、感じ取れてしまった。
気のせいだって、思いたかった。
でも。
それから何度か共にした、遠野くんとの時間の中でも。
遠野くんの行く先には、この島も、私もいないんだと、気付かされるばかりで。
私はそれから、彼を避けて、逃げて。
一緒に、帰れなくなった。
それでも、それでも。
きっと違うって、思っていたかった。
六月初めの…たしか、日曜日。
湿気の酷い、雨の。
何もかも台無しになってしまうような日。
激しさを増した雨にサーフィンを中断し、雨の中、原付で帰っている途中。
郵便局の前、傘を差し、ポストの前に立つ遠野くんの姿が見つけた。
スピードを少し落とし、横から覗いた彼の顔は。
こんなに悪い天気で、雨で、ズボンもびしょ濡れだったのに。
まるで桜を見るように、微笑んでいた。
すぐそばを横切った私に、彼は気付かなくて。
…私は声をかけず、逃げるようにそのまま走り去った。
私が望んでいた全てが、音を立てて崩れていく。
しばらく走った先、水たまりにタイヤが滑って、転んで。
服も泥まみれで…何もかも、踏んだり蹴ったりで。
地面に削れた膝の擦り傷なんて可愛いくらい、胸が痛くて。
転んだまま、誰もいない道の真ん中、泣き続けた。
遠野くんのことを考えるのは、やめよう。
もう、忘れてしまおう。
その方法を、そんな生き方を、考えて、考えて。
考えれば、考えるほど。
私は、遠野くんが好きだった。
忘れたくなんて、なかった。
遠野くんから貰った言葉も、声も、表情も、ひとかけらも無くしたくなかった。
遠野くんに、忘れて欲しくなかった。
尚更、私を覚えていて欲しくなった。
桜の…花びらのひとひら分だけでも、いいから。
だから、遠野くんが。
この島を離れて、その先に、遠く進んで行ってしまっても。
遠い東京の街に、彼の行く先に溢れているであろう、様々な光に負けないくらい。
そんな輝きを、彼の中に残したくて。
ぼんやりとした、中途半端な私じゃなくて。
はっきりとして、強くて、素敵な女性になった私を。
遠野くんの横で、そう在りたかった私を。
遠野くんの目に、心に、焼き付いて欲しいと、願った。
波に乗ると、決めた。
大人になろうと、決めた。
進路を、熊本の大学に決めた。
必要な科目を、基礎からとにかく勉強した。
話し方や、人との接し方、表情の作り方の本も読んで。
お姉ちゃんや、学校でも面白かったり、分かりやすい人の話し方や、話題や言葉の選び方、仕草も真似して。
色んな人と積極的に話して、試して、身に着けて。
朝はひたすら、波に挑んで。
昼は学校で、色んなことを試して。
夜はご飯を食べたら、勉強した。
夏休みも、サーフィンと勉強を繰り返した。
十月の、上旬。
何か月かぶりに、綺麗に波に乗れた。
馴染みの無い人とも、難なく話せるようになっていた。
模試の結果が、A判定だった。
だから、また。
遠野くんと帰ろうと、思った。
遠野くんは、優しくて。
言おうとしていた言葉を、飲み込んだまま。
歪な私の行動を、見えないことにしたまま。
一緒に、帰ってくれた。
私の言葉に笑ってくれた、その顔を。
彼の口から届けられる、その言葉たちを。
触れてしまいそうな距離、空気越しに伝わる彼の温度を。
時折見せた、彼の苦しそうな気配すら。
私は大切に、胸に刻み込んだ。
遠野くんの心に、たったひとかけらでいいから。
光や影のように、形にならない、曖昧なものでもいいから。
私の何かが、これからも、残っていて欲しい。
春には、私の居場所が無いのは、分かったから。
夏でも、秋でも、冬でも。
夕焼けの中でも、星空でも、暗がりの中でも…どこか、ほんの片隅に。
…空が、明るくなってきた。
あと、数時間もしたら。
遠野くんは、行ってしまう。
…あぁ、もう。
本当に、最後なんだ。
始業式の日の、あの彼の微笑みみたいに。
あんなに素敵なものを、最後に、贈れたらいいな。
そうしたら、きっと。
私のことを、忘れないでいてくれるから。