あの日まで子どもでいられて、よかった。
「実はあいつから、年賀状の返事が来てさ。」
空は青く晴れ渡り、小さな雲が数えられる程度に浮かんでいる。
空港に待つ澄田に対して憂鬱なものしか用意できなかった僕の重くて暗い心境とは裏腹に、今日は全国的に晴れ模様で、太陽が眩しい。
飛行機も電車も、遅延することはなさそうだ。
…このまま何もかもが、予定通り進んでしまうだろうと思う。
空港まで父が車で送ってくれることになり。
車の中、急に父はそんな話を始めた。
「あいつって、誰のこと?」
「ずっと前に話した、同窓会で会いたかった友達だよ。」
実は去年の秋頃から、父は密かに幹事からツテを辿って、例の友達の連絡先が知ることができたという。
その友達は今長野に戻っていて、思い切って年賀状を出したところ、
『こっちに来たら、飲みに行こう。』
あちらからの年賀状に、そう書いてあったらしい。
「お前がずっと頑張ってたから、俺も頑張れたんだ。
励まされたよ。」
父が照れ臭そうにそう言った。
僕も胸が少し、温まるのを感じた。
「それと仕事の方も、あと二~三年で東京か長野に戻れそうでな。
帰る日が、今から楽しみだ。」
ハンドルを握り、正面を向いたままの父の顔は、口元が少しだけ緩んでいる。
「本当にありがとうな、貴樹。」
…僕は今日、澄田を。
ありったけに傷つける言葉の用意を、遠ざける覚悟をしていた。
それしかないと、思っていた。
さっきまでその暗い決意しか、心の中になかったけれど。
その父の言葉や、五十を過ぎた大人でもそんな風に進めるのだという明るい事実に、自分の苦しみや緊張が少しほどかれて。
「父さんこそ、色々助けてくれて、ありがとう。」
温まった心のままに、父にそう返した。
ふと、思った。
…あぁ、そうだ。
歪な僕らの関係でも、僕から澄田に、真っ直ぐ伝えてあげられることが。
一つだけ、あると気づいた。
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ロータリーで、父と別れ。
空港の入り口を見ると、フェンスにもたれ掛かった私服の澄田が待っていた。
胸の辺りまで伸びた髪が、穏やかで温かい、この島の風に揺らいで。
大人っぽい雰囲気はどこか、彼女の姉に似ているような。
その姿に、胸の奥がぎゅっと握りしめられる。
「遠野くん!おはよう!」
僕に気づいた澄田が、元気な声で軽快に駆け寄ってきた。
「忘れ物、してないよね?」と、張り付けたような笑顔で。
「ついに、行っちゃうんだね。
寂しいけど、私もサキちゃんたちと熊本で楽しんじゃうんだから。
そういえばこの前、サキちゃんと下宿探しに行って、大学前に有名なラーメン屋さん見つけちゃってさ。
行列で待たされたけど、凄い美味しかったんだ。」
澄田の行う何もかもが、いつも以上に準備されているのがわかる。
でも。
…もう、そんな話は、しなくていいんだ。
「東京だったら美味しい物いっぱいあるだろうし、羨ましいなぁ。
まぁ、ご飯食べに大学行くわけじゃないんだけどね。
遠野くんは、東京に着いたら」
「澄田。」
遮られた澄田は、驚いて。
僕の次の言葉に、酷く怯えていた。
怖がらなくたって、いいのに。
僕は、ただ…
「今まで傍にいてくれて、ありがとう。」
「え…」
大きく見開かれた、瞳。
どこまでも澄んで純粋な、この島の美しさの全てを、かき集めたような。
「澄田がこの島にいてくれて、本当に良かった。
帰り道のあの時間も、楽しかったよ。」
今の僕から言えることは、これだけしかなかったけれど。
それだけが僕が伝えておくべき、彼女に知っておいてほしい、一番大事なことだと。
言い終わった言葉の余韻も、そう確信させてくれた。
「…本当に、ありがとう。」
澄田は目に見えて、うろたえて。
「そんな、私なんて…そんな…
私の方こそ、遠野くんに。
今まで、本当に…」
同じ笑顔を張り直そうとして。
すぐ、剥がれて。
零れて、溢れて。
「遠野くん…」
僕の胸元に、飛び込んで。
大声で、泣き始めた。
ちょうど心臓の辺りが、涙に濡れて。
彼女の声が、そこに震えて、響き続けた。
傷に、涙が染み渡って。
癒されていくのが、わかった。
傷跡だけは、しっかりと残して。
あの頃の澄田は、彼女なりに進もうとしていたんだと思う。
必死に、ただ闇雲に空に手を伸ばして。
届かないものに、手を触れたくて。
こんな自分だったら届いたかもしれない、そんな自分に、きっとなろうとして。
背伸びして、何とか届くように、自分の在り方さえ曲げてまで。
ただ、ひたむきに、一生懸命に。
突き放して、忘れさせて、諦めさせることばかりを考えてしまっていたけれど。
そんなこと、僕以外の誰が望んでいただろう。
彼女へ贈ってあげられる言葉が、ギリギリ車の中で見つけられて。
…本当に、よかった。
しばらくそのまま澄田は、胸の中で泣き続け。
ひとしきり、泣き終えた後。
少し離れて、僕を見据えた。
「最後の最後に、カッコ悪いところ見せちゃったね。」
袖で涙を拭い、微笑んだ澄田は。
かつて僕を支えてくれた、あの頃の彼女だった。
「ねぇ、遠野くん。」
「なに。」
「…東京に行っても。
私のこと、覚えていてくれる?」
そんなの。
「忘れるわけ、ないよ。」
…忘れられるわけ、ないんだ。
彼女の顔はまた崩れそうなったけれど。
「ありがとう。」
それを堪え、澄田ははっきりと言った。
「私ももう、行かなくちゃ!
元気でね、遠野くん!」
そう言った澄田の笑顔は、今、この瞬間。
世界の…宇宙のどんな光よりも、輝いて見えた。
彼女は背を向け、カブの方へと駆けていき。
エンジンをつけ、颯爽と走り去っていった。
ヘルメットを被った彼女が、一瞬こちらを捉えた気がしたけれど。
そのまま彼女は振り返らず進み続け、丘の向こうへと消えていった。
澄田はまだ、これからどこに行くのかなんて、決めていなかったと思う。
でも、その後ろ姿にはもう、寂しさも、陰りもなくて。
きっと新しい輝きを、進んだ先に見つけられるだろうと。
澄田はきっと、大丈夫だと。
そう、思えた。
搭乗口が開き、飛行機に乗り込む。
席に座り、静かに、発進を待つ。
アナウンスの後、エンジンの轟音が響き始め。
緩やかに動き出し、旋回し、窓を流れる島の景色。
加速するにつれ、車体が傾き。
そうして飛行機の全てが、島の地面を離れた浮遊感と共に。
瞼の裏、走り去っていく澄田の後ろ姿が映って。
ありがとう、と。
心の中、もう一度だけ、呟いた。
…もし、もっと早くあんな言葉を贈れていたら。
あの帰り道に過ごした時間は、もっと…
それだけが、心残りで。
東京の街の灯りが目に映るまで、ずっと。
そんなことばかり、考えていた。
そうだった。
あの春は、そんな春だったんだ。
「Stop Crying Your Heart Out」は、OASISというバンドの曲の一つです。
星は見えなくなったりするけれど、またいつか輝いて進めるさという、応援歌チックな曲で。
この話を仕上げている間、この曲ばかりを聴いていました。
種子島の話、「宇宙飛行士の話」は、これで終わりです。
予定より話数が増えてしまいましたが、あと本当に、3~4話程度。
最後にあとがきを添えて、終える予定です。