遠野貴樹は、流れゆく景色をぼんやりと眺めながら。
遠い昔、この電車に乗って岩舟に行った雪の日のことを思い返していた。
外に広がる春の田園風景に、あの日の雪を被せることも、
その先にあった、奇跡のような夜をありありと思い起こすことも、容易にできて。
窓を横切る桜に冬の思い出を並走させながら、今は本当に春なのだと、当たり前のことに心を震わせた。
あの日からのことを、ゆっくりと思い起こす。
種子島に到着した日のこと。
島から明里に、初めて書いた手紙。
明里との文通が、途絶えていったこと。
高校に入学し、澄田と初めて帰り道を共にした日のこと。
父と互いの寂しさを明かし、語り明かした夏の夜のこと。
…いや、その前に。
そういえば僕は、あの夜、夢を見たんだ。
東京らしき街の中、踏切で電車に遮られ。
向こうに去っていた、春色の女性の…
あれは、何だったのだろうか。
あの女性は、明里だったような、気がするけれど。
そもそも何で僕は、あんな夢を…
もう何年も前の霧散しきった夢の欠片を懸命にかき集め。
踏切の向こうに一瞬見えかけた横顔を再度捉えようとしたが、流石に無理があった。
まぁ、しょうがない。
…ありえないけれど、いつかもし会うようなことがあれば、感謝したいものだ。
あの女性が、誰であったとしても。
あの夢を見ていなかったら、僕はここまで来られなかったかもしれないのだから。
そのことを考えると、目の前に広がる春の景色が、急に脆くて、儚いものに見えたけれど。
父や母、澄田が最後に見せた笑顔も。
そして明里と過ごした多くの時間も、疑いようも無く今を支えていて。
未だ傍に輝く思い出たちが、降りかかった小さな影を軽く吹き払ってくれた。
夢の女性のことを心の片隅に留めながら、
窓に肘を置き、気を取り直してまた車窓の風景を楽しみ始める。
今日、明里の実家に向かうあたって、電車という手段を取る必要性は全く無かった。
車の方が早いし安い、何かと都合は良いのは分かっている。
何なら、車なら実家にある明里の荷物を載せたり、彼女がしきりに話していた高校近くの食堂へと、帰りに寄ることだってできたのだ。
明里にもかなり怪しまれたけれど、
僕は洗車する暇がないとか、忙しくて疲れてるから長い運転をしたくないとか…
様々な理由をこじつけて、何とか電車で来ることができた。
(実際、仕事が忙しいのは事実だが)
一つ、ささやかな夢を叶えたかった。
東京への帰り、あの岩舟の駅から、彼女と一緒に、電車で帰りたい。
…理由はただ、それだけだ。
あの遠い昔の、岩舟駅での雪の朝。
君も一緒に、電車に乗せてしまって。
そのまま一緒に、僕らを隔てる一切を捨てて、どこか遠くまで行ってしまえたらいい、とか。
一緒に東京に帰って、また共に生きていけたらいいのに…とか。
あの日の帰りの電車の中、窓の外を見ながら、叶わない夢だと思いながら願ったことを。
その幼い夢に描いた通りにしたかった。
未だ自分の中に残る、世界の広大さや、茫漠とした時間に怯え、明里と一緒にいられる未来を、信じ切れていない自分に。
どうしようもない自分の幼さや弱さに震え、彼女を守れるだけの力が欲しいと、強く願っていた頃の自分に。
もう大丈夫だと、伝えたいのだと思う。
…明里は、僕のそういう類の企みや隠しごとに妙に敏感だから、もしかしたらまた、見つけられてしまうかもしれない。
そして無邪気に指摘した後、いつも得意げな顔を見せる。
恥ずかしいから、やめてほしいけれど。
まぁでも、それはそれでしょうがないし、それが嫌というわけでもない。
車内アナウンスが響く。
もうすぐ、岩舟だ。
窓の外に小さく、あの桜の木が見えてきた。
少しずつ大きくなるそのシルエット。
駅のホームに、僕を待つ明里の姿が小さく見えた。
本当に春なんだ、と。
何度も、何度も。
その感触を、確かめた。
あと一話、次に投稿するエピローグが最終話です。
それと併せてあとがきを投稿したら、おしまいです。