A time in Spring
参宮橋駅で降りる。
改札口を出てすぐ、僕は走り始めた。
今日は天気も良く、道路脇に咲く桜が青空に映えて。
叶うなら穏やかに、ゆっくりと物思いに耽りながら歩きたかったが、最近相手ができていなかった娘から『早く来て!』と急かされている手前、律儀にも急いでしまう。
あの公園に行くのは随分と久しぶりで、妻と一度、東京に戻ったばかりの頃にデートで訪れて以来だ。
…もうあれから、十年以上経っているのか。
今日は本来、一日中仕事の予定だった。
だが、去年から参加していた大きな炎上プロジェクトの作業が、
午前中で自分のタスクを全て終えることができ、その開放感に堪え切れず、急遽午後休みを取った。
『今から帰る』
と妻にメッセージを送り、電車に乗ったというタイミングで
『参宮橋公園で遊んでるから、こっちに来て。』
と返事が来たので、慌てて閉じかけた車両のドアを潜り抜け、小田急線に乗ってここまできた。
道を間違え、遠回りしてしまったことに気づいたが、最早この道のまま行った方が早い。
右折して、坂を走って駆け上がる。
頭上を覆う桜のトンネルから、ひらひらと花びらが舞い降りる。
坂を登り終えると、昔と変わらない桜と、相変わらず路上駐車の多い道路に出た。
妻と昔…小学校の頃、よく並んで歩いたあの道だ。
何も一つ変わらないその景色に、つい足が止まって。
…今、振り返れば。
坂を見下ろせば、共に駆け下りていくあの頃の僕らの姿が。
遠い昔、夢の中。
踏切の向こうから僕の背中を押した、春色の女性の姿も見えてしまうような。
そんな気がして、後ろ髪を引かれたけれど。
「お母さーーーーーーん!!」
公園から元気いっぱいの、聞き慣れた声が聞こえた。
娘の声だ。
振り返らずそのまま、その声のする方へと、また走り出す。
角を曲がり、小さな坂を上がり、ようやく公園の入り口に辿り着くと、すぐ目の前に妻と娘がいて。
僕に気づいた娘が、勢いよくこちらを向いた。
「お父さん遅い!
せっかくポン太に勝ったのに~!!」
全身汗でびっしょりの小さな体は、目からも涙をボロボロと零し始め、もう何もかもびしょ濡れで。
明里はタオルで、それを丁寧に拭いていた。
「ポンタ? ごめん、よく、わからないけど…
えっと…
これでも結構… 急いで、走って、きたんだ…」
息を整えながら、何とか答える。
ほんの数分のランニングだったが、デスクワークで衰え切った今の体には、過酷な運動だった。
娘に負けず、僕自身も額に汗が流れ、シャツも汗に濡れてしまっているのが分かる。
…それにしてもポンタとは一体、何のことなのか。
「柴犬のポン太くんのことよ。
いつもここで、犬を連れたお婆さんと遊んでもらってるって話したじゃない。
さっきそのポン太くんと競争して、勝ったんだって。」
…私もその時、見てなかったんだけどね。
と、耳元で小さくささやきながら、明里はタオルで僕の額を拭ってくれた。
「そうか、見れなくてごめんな…」
「ごめんじゃない!!」
その顔は真っ直ぐ僕を捉え、許してくれる気配はない。
「本当に、ごめん…」
屈んで、その小さな体を抱き寄せると、娘は大泣きし始めてしまった。
そんなに僕に見て欲しかったのかと思うと、切実な申し訳なさが胸を締め付ける。
「今月はいっぱい休めるから、沢山一緒に遊ぼう。」
「うん…」
小さな頭を胸にグリグリと押し付けられ、くすぐったい。
明里がいつの間にかカメラを持って娘の背後に忍び寄り、
「勝利の記念写真はいかがでしょうか~?」
何かのモノマネのような口調で娘に話しかけると。
「写真とる!とる!!」
胸の中にあった小さな体が飛び出し、勢いよくカメラの前に躍り出る。
そうして急遽撮影会が始まり、様々なポーズや角度で、何枚も撮り続けていた。
先ほどまで大泣きしていたのが嘘のように、ノリノリでポーズを取り続けている。
…こういうところは、誰に似たのだろうか。
何となく、明里のような気がする。
撮影を続ける二人を横目に、傍の桜の木から降る花びらを、ぼんやりと眺めた。
明里が隣にいて、彼女との未来も、足元で無邪気に笑っている。
…遠い昔、あの雪の夜、願った春。
その春の先にまでも、僕らは来られたんだな。
そう考えて感慨深くなった後、そんな年齢に相応しくない言葉を頭に描いた自分に、少し恥ずかしくなる。
不意に、長い風が公園を吹き抜けていった。
木々がざわめく。
髪がなびく。
静まり、沢山の、桜の花びら。
「まるで、雪みたいじゃない?」
いつの間にか隣にいた明里が、こちらを見つめて言った。
あの雪の日と変わらない、優しく温かな、春の眼差し。
「すごい桜!きれい~~!」
僕の返事は、その足元の声にかき消されてしまい。
それがそんなにおかしかったのか、明里は口に手を当て、声を出して笑い始めた。
屈託の無い、眩しい笑顔。
この笑顔の隣を目指して進んでいた頃のことを、思い出す。
今となっては、ただ互いを信じて進むだけだったと、簡単なことだったと思えるけれど。
そう信じられるようになるまでに必要だったものは、とても多かったように思う。
何かを間違えていたら、ここまで来れなかったのではないか。
それを考えると、今この瞬間が奇跡のようにも見えて。
尚更、大切なものに思えた。
「捕まえた~~!」
娘がまた元気な声を響かせながら、母の元に駆け寄った。
「花びら、捕まえちゃった!」
満面の笑みで、まるで秘密の宝物のように、風に攫われぬよう大事に手で覆い隠しながら、明里にそれを見せている。
「お父さん、知ってる?」
不意に、こちらを向いた。
何がだろう。
「『秒速5センチメートル』なんだよ!
桜の、花びらが落ちてくる、スピード!
知ってた?」
それ以上でも、それ以下でも無い、当たり前のことだと。
何の迷いも無い瞳が、そう語りかけてくる。
「うん、知ってるよ。」
いつの間にそうなれたのか、もうわからないけれど。
これからもずっと…その速度で、生きていきたいと思う。