スターゲイザー - 夏
「お母さん、ちょっといい?」
昼食の洗い物をしている最中、二階から降りてきた明里に声をかけられる。
部活から帰ってきたままの、まだ制服姿だ。
「どうしたの?」
蛇口を止め、タオルで手を拭く。
「写真を撮るの、手伝って欲しいんだけど。」
「写真?」
突然の思いがけない娘の願いに、つい戸惑ってしまう。
手には既にインスタントカメラが握り締められ、表情は浮足立っているような…
でも何か、後押しして欲しそうな心細さもあるような。
「写真って、何の写真?
どこかに撮りにいくの?」
「私の写真。
家の前で、今の私を撮ってくれるだけでいいから。」
明里の写真?なんで?
「…おかしなことに使うんじゃあ、ないでしょうね?」
変なことに手を出すような子ではないと、信じてはいるけれど…
唐突過ぎる話に、つい心配になってしまう。
「大丈夫。
遠くにいる友達への手紙に、添えるだけだから。」
『遠くにいる友達』という言葉の響きが、まだ怖い。
怪しい輩に写真を求められていたりとか。
友達であってもその先にそういうのが潜んでいて、やっぱり何か変なことに巻き込まれてしまうんじゃないか。
心配になり、根掘り葉掘り訊こうかと考えたけれど。
明里の眼差しに、真剣さが少なからず含まれている気がする。
こんな風に何かをお願いしてくるのは、いつぶりだろう。
前にも確か、一度だけ…
いつのこと、だっただろうか。
「…わかった。
洗い物、もうすぐ終わるから待っててちょうだい。」
「ありがとう!」
「あぁ、でも。」
「なぁに?」
あれは、どこだっただろう。
「お父さんの部屋の、確か… 本棚の上の小物入れに、カメラがあったでしょう。
用意しておいてくれる?」
せっかく、娘を撮るのだから。
しっかりと、綺麗に撮ってあげないとね。
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夏の太陽が容赦なく照り付け、蝉の声がそこかしこから五月蠅いくらいに響き渡っている。
青い空、緑の深い山々、遠いアスファルトの蜃気楼。
外に出て1~2分、冷房の余韻が残っている間だけは、そういった夏の風情に心が動かされるけれど。
もう、肌が熱い。
頭もぼやけて、息すら暑い。
もう、クーラーが恋しい。
日焼けしちゃう前に、早く終わらせないと。
まだ玄関を出て、正門の前でカメラをケースから取り出しただけなのに、もうこんな体たらくだ。
それにしても…
門前のポスト横に立ち、我が家を背に立つ制服姿の娘。
入学式でもないのにこんな写真を撮るのは、不思議な感覚だ。
そんなことを考えながらカメラを覗き、久しぶりの手つきでピント調整をする。
カメラの中に、前髪を整えたり、スカートや袖のしわを手で軽く伸ばす、娘の姿。
ようやく、ピントが合った。
娘も我が家も、我ながらいい具合に収まっているように思う。
…ここに来てから、もう四年も経つのだなぁ。
そう、考えた時。
『どうしても、東京の中学に行きたいの。』
思い出した。
一度だけ明里が、私たちに強く、お願い…というより、反発したことがあった。
あの子がまだ小学生の頃、東京からここに引っ越すことが決まって、そのことを伝えた時だ。
どうしても…!
せっかく勉強、頑張ったのに。
葛飾のおばさんの家から、通うのは…?
引っ越しには慣れているものだと思っていたから、
あんなに悲しんで、抵抗してくるとは思わなくて…
あの時は私もついムキになり、叱りつけてしまった。
明里は怒って玄関を飛び出し、夜の中に走り出していって。
戻ってくるまで、肝を冷やしながら近所を探し続けた。
戻ってきた明里の、失意のどん底に突き落とされたような顔を見た時に沸きあがった罪悪感が、胸を締め付けられた感覚が、にわかに蘇る。
…そんなことも、あったな。
「お母さん?」
娘の言葉に、我に帰った。
「どうしたの?」
心配そうにこちらを見ている。
「ごめん、何でもないの。
明里も大きくなったなぁって、感慨深くなっちゃって。」
「なにそれ。
確かに去年より、また少し身長伸びたけど。」
「そういう意味じゃないわ。
さ、もう準備はいい?
暑いし、さっさと撮っちゃいましょう。」
そう言うと明里は、改めて姿勢を正し、ピシッとカメラに目を向ける。
微かに力んだ口元、ちょっと不安そうな眉。
見るからに、強張った表情。
…緊張、しちゃってるなぁ。
「それじゃあいくわよ~?
はい、チ~ズ!」
そう声をかけ、シャッターを切る直前。
固い表情が、柔らかく。
小さな微笑みに、変わって。
私にも、きっと夫にも見せたことの無いその表情に、胸が温かく、ざわつく。
カシャッ
「どう、上手く撮れた?」
明里が、不安そうに尋ねてきた。
「…多分、良かったと思うけど。
念の為もう一枚、いくわよ。」
テンプレートのようにそう返しながら、本当に念の為、もう一度カメラを構えたけれど。
さっきの一枚はきっと、既に最高の写真だったという感触が、胸の中に残っていた。
その予感の通り、後日現像されたその一枚は、
今まで撮ったどの写真に映る明里よりも、可愛くて、綺麗で。
一枚焼き増ししてもらい、私の机の引き出しの中に、今も大切に閉まってある。
あの子の、あんな素敵な表情を引き出したのは。
カメラの先にあの子が見ていたのは、誰なのだろう。
気になって、手紙の宛先を何とか聞き出せないかと思ったけれど。
「ありがとう、お母さん!」
写真を手にそう言ったあの子の顔がまた、弾けたように無邪気で、眩しかったものだから。
笑顔に屈した私は、何も、訊くことができなかった。
時系列的には4話と5話の間、
久しぶりの貴樹からの手紙への、返信用の写真を撮る話です。
あまり書けなかった明里側の話を、
母親視点で4~5話ほど書きたいと思います。