アストロナウト   作:戸口

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※2026/3/14 タイトルを「父」から「大人」に変更しました。


大人

一階から、足音と思しきものが聞こえる。

気のせいだと思いたかったが、微かでありながら、確かな音として耳に入る。

 

恐怖心から夢のことは頭から一気に消え去り、今はその音を聞くことに集中した。

誰か、一階にいる気配がする。

父さんか母さんなら、わざわざ音を立てないように歩くことはしないと思う。

 

僕は足音を殺すために、少し厚めの靴下を履いて、

静かに自室のドアを開け、恐る恐る、確かめに階段を下りる。

 

一階に降りると、小さな風が頬を撫でるのを感じた。

風は、リビングの掃き出し窓から入ってきているようだ。

音をたてないようにドアを開き、静かにリビングを覗くと、父が庭先に立ち、煙草を吸っているのが見えた。

 

…とりあえず不審者ではないとわかり、心が安堵に包まれる。

ほっとした反動か、父の薄水色の寝巻が、安いサイダー味のアイスみたいな色だな、なんて呑気なことを考える。

 

父とは普段からあまり話していない。

帰りが遅く、夕食のタイミングも合わない。

ごはん時でも話すのは、基本的に母さんの方だ。

たまにする会話も、「学校はどうだ」とか「勉強は大丈夫か」とか、事務的に最低限の確認を取ってくるようなものだ。

それが別に、嫌というわけではない。

クラスメイトから、むやみやたらに干渉してくる親の話を聞かされると、そういった粘度の高そうな接し方よりは、今のドライな関係の方が、自分にとっていいと思う。

ただ、好きというわけでもなく、あまり関心を持っていない。

顔も父親似だと言われるが、どちらでもいい話だと思う。

 

 

…普段なら、ここで話しかけることなんてしない。

このまま何も言わず自室に戻り、何事もなかったように眠るだけだったと思う。

 

ただ、夜空をを見上げ、静かに煙草を吸う後ろ姿は。

先ほど見た夢のせいか、この先の、大人になった自分の背中を見ているような。

自分と無関係ではないように見えてしまい、僕は無意識に、いつの間にか父の数歩後ろまで歩み寄っていた。

 

父が気づき、振り返った。

「なんだ、貴樹か。」

いつも通り、真顔だ。

微かに悲しみか、寂しさを纏っているように見えるのは、月明かりがそういう演出をしているだけ…だと思う。

 

父はいつも静かに、母さんの話を淡々と聞いて、

ほんの少し、口元を緩めたり、眉を顰めたり、

最低限の感情表現と、言葉だけで生活しているように見える。

いつものように、そうして話しかけてきた。

 

「最近、どうだ。」

「取り立てて変わったことはないよ。

 いつも通り朝練行って、授業を受けて、部活して、帰ってきてる。」

「そうか。…この島にも、流石にもう慣れたか?」

「うん、慣れた。」

「そうか…」

 

そういってまた大きく、ゆっくりと煙を吸った。

一瞬停止、視線を別の遠い場所に移した後、煙を緩やかに吐き出した。

 

しばらく間何も言わず、そのまま二人並んで星空を眺めた。

雲はまばらで、様々な虫の鳴き声が周囲を行きかい、辺りを包んでいる。

父は煙草を出し、火をつけてまた吸い始め。

その煙が鼻をかすり、少し匂いを嗅ぐ。

良い匂いとは思わないが、何か身体に広がっている感情を、内側に圧縮して、一つに纏めて、整理させてくれるような。

悪くない匂いだ、と思う。

 

「この島にも慣れた、かぁ…」

不意に、父が喋る。

「俺は最近、早く地元に…長野に帰りたいと思うようになったよ。」

「え?」

 

一本目を足で踏みつぶし、二本目を取り出す。

また、吸い始めた。

 

「小学校の同窓会が、この前あったらしくてな。」

正面を向いたまま、目も合わせずに話し始めた。

「招待状がこっちに届いたのが三日前で。

 開催の日付は一週間も前だった。

 前の東京の住所宛に送られて、転送する時になんやかんやあって、遅れたらしい。

 郵便局の人から、電話で凄い謝られたよ。

 今度、お詫びの品が届くとさ。

 

 …それすら届かなかったら笑ってしまうな。」

 

そう吐き捨てた後、また煙草を深く吸い、ゆっくりと吐いて。

 

「…会いたい奴がいたんだ。

 小学六年の途中で転校して、連絡先がわからなかった。

 同窓会にはそいつにも連絡してみるって、幹事の奴が言ってたから。

 いつか同窓会が開かれるのを、楽しみにしてた。」

ため息をつく。

 

「会う機会が、無くなってしまった。」

 

「幹事の人に連絡先を訊いてみたら?」

 

父が、こちらを向いた。

 

「そいつに連絡先を訊いたとして、お前ならどうする?

 今、この島にいるお前から。

 とんでもなく強い意志や労力が、お互いに必要だと思わないか?」

 

僕を見つめる父の瞳には大きな諦めと共に、

奇跡的に妙案が出ないかという微かな期待が滲みでていた。

 

その質問の答えは、かつて自分自分も必死に探して、結局見つけられなかったもので。

今だって、僕も知りたいぐらいのものだ。

 

「…わからない。」

「だよなぁ。」

 

そう言ってまた、父は少し笑った。

 

「同窓会って、何度もあるものなのかな?」

 

その乾いた笑顔の上に、月明かりにぼやけていた悲しみの輪郭が、はっきりとし始めていた。

僕が夢から連れてきてしまったものと、似ている形のようにも思える。

 

「僕も…」

 

父が持つ同類の悲しみに、釣られてしまったのだろうか。

 

「僕も関東にいた友達と、前までは手紙でやり取りしてたんだ。

 一回だけ、電話も。

 でも、段々手紙に書くことも無くなって…

 もう、送れなくなった。」

 

魔が差したように、その言葉を出してしまっていた。

あの夢を見てから、内側に暗く重たいものが堆積し始めて。

どこだっていいから、それを吐き出してしまいたかったのだと思う。

 

「せっかく夏休みなんだし、会いに行ってこればいいんじゃないか。

 来年は受験もあるし、行ける時に行っておけばいい。」

その言葉に、少しおかしくなって笑ってしまう。

「最後に手紙を送って、もう二年以上経つんだ。

 今更、何て言って会いに行けばいい。

 文通だって最後の方は、もう何も書くことなんてなかったのに。」

「会いに行き方の話をするってことは、会いたいには違いないんだな。」

 

その言葉に苛立ちを覚えたが、反論はできなかった。

『会いに行かない』という選択肢が、言われるまで思い浮かばなかったから。

 

「どうせ女の子なんだろうなぁ…」

追い打ちをかけるように、小さく笑いながら煽ってきた。

適当に言っているのは明白だったが、それも間違いではないから、余計に反撃しづらい。

 

「父さんだって、何とかしてその人に会いに行く努力くらいしたらどうなんだ。」

「そうだな。違いない。」

煙を大きく吐き出した。ため息のようにも、思えた。

「でももう、時間が経ちすぎていて…

 あいつは俺のことなんて覚えてないかもしれないのが、怖いんだ。」

 

『あたしのこと、覚えていますか?』

 

中学一年の、とある夏の日。

初めてあの子から来た手紙、その最後にあった言葉が、ふと頭をよぎった。

 

「確かめるのが、怖いんだ。」

父はそういって、二本目の煙草を捨てた。三本目は取り出さずに、話し続ける。

 

「俺も招待状が来るまで、完全に忘れてたんだ。

 あの頃は絶対、忘れることは無いと思ってた。

 高校か、大学くらいまでは覚えていたと思うんだが…

 社会に出てから今まで、思い出したことは多分一度もなかったなぁ。

 思い出す暇なんて、無かった。

 仕事ってびっくりするぐらい、それまでのことを忘れさせられるんだな。」

 

そういって、父は少し笑った。

何度目かになる、別に面白くもない言葉に続くその渇いた笑いは、自分の中に生まれる苦さを有耶無耶にしたいだけなのだなと、気付く。

遠くを眺めていた父の目は、更に遠くを見始めているように見えた。

 

父の話した怖さは、今の自分にも通じているものがあって。

そして、かつてそういった恐怖に抗って、あの子は…明里は自分に手紙を送ったのだということに、気づいた。

あの時の僕は、その喜びだけに浮かれてばかりで、彼女がどんな思いであの手紙を出したかなんて、考えてもいなかった。

 

あれも確か、ちょうど夏だったか。

別々の中学に通って、数か月経った後だ。

小学校の卒業式で、彼女の別れの言葉にも返さず、僕は何一つ言葉を贈らず、別れた。

…そんな態度を取った僕に、その手紙を出すには、どれだけのものが必要だっただろう。

僕が今出しあぐねている勇気の何倍も、あの時の彼女はもう持っていたんじゃないか。

 

父の言葉をよそに、しばらく僕はそのことばかりを考え。

気付いたら父は新しい煙草に火をつけ、黙って吸っていた。

 

「文通してたのかぁ…」

父がぼそりと言った。

どれだけ自分が沈黙していたのか分からないが、大分長かったように思う。

気まずそうな口調のまま、父は話し続けた。

「まぁ確かに二年も経ってると、いきなり会いに行くのは流石にハードル高いか。

 でもとりあえず、もう一回だけでも、手紙を送ってみたらどうだ。

 写真でもつけて。

 それか、暑中見舞いって体にして、何かギフト送ってみるのもいい。

 手紙だけじゃ、伝わるものも伝わらないだろう。」

 

思い返すと短絡的で、一見馬鹿馬鹿しいアイディアにも思えたが、その時の僕には新鮮なものに映った。

手紙だけに拘る必要が、何かあっただろうか。

「手紙だけじゃ、伝わらないのかな。」

「手紙というか、文字だけで全部伝わったら、会議は苦労しないし、携帯電話やインターネットだって普及しないさ。

 対比の数字だったり、図表だとか現地の写真だとかあって、ようやくイメージできるんだ。」

「…手紙の返事が、来なかったら?」

「終わりだな。その子の幸せを祈って、諦めるしかない。」

仕事なら、返事を貰う期限までちゃんと書くもんだ~などと、

その後も父は何か話していたが、自分の中を整理するのに必死で、よく聞いていなかった。

 

父の指摘は全て、ただ当たり前過ぎる言葉だった。

手紙だけでこの距離がどうにかなると、どうして思えたのだろう。

どうにもならないと分かっていたから、あの日、本当は別れの手紙を渡すつもりではなかったのか。

何で僕は手紙だけで…言葉だけで繋がっていられると、信じられていたのだろう。

 

この時僕は、自分が今まで、「言葉」に強く固執していたことを自覚したけれど、その理由が何なのか、この時は分からなかった。

ただ、大人になった父でさえ、この距離はどうしようもなくて。

言葉だけでどうにかできることも無いのだ。

もう何もできないと思っていたけれど、まだできることが残っているかもしれない。

胸の奥が少しずつ熱くなって、自分の中にはまだ、あの子と共にいたいという願いが、確かに残っているのがわかった。

 

それから、空が朝焼けの色に染まるまで、父と他愛の無い話をつづけた。

 

僕の目指すものや、思い悩むことは、僕と、あの子にしかきっとわからないものだ。

父との会話を経ても、その考えは変わらなかった。

ただ、僕らだけがこの距離に悩む訳ではないのだと。

大人なった父ですら、抗えず、苦しむものなのだと知って。

大人になることで、自分の抱えている何かが解決できるとは、考えなくなったと思う。

 

ただ進めば、強い大人になりさえすれば、何かに届くはずだと思えなくなり。

まずは目の前にできた、やるべきことをただやろうと思った。

 

その朝、再び布団に入り、眠りについた後。

夏の夜、中学生になったばかりの女の子が、初めての手紙を書く夢を見た。

 




原作に出てこないキャラクターをあまり出したくはなかったのですが、
貴樹と明里の二人の問題を解決するには、どうしても何か、外部の支えが必要だったとしか思えませんでした。

出番は少ないですが今後もちょくちょく、この父親は登場します。
予めご了承下さい。
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