一階から、足音と思しきものが聞こえる。
気のせいだと思いたかったが、微かでありながら、確かな音として耳に入る。
恐怖心から夢のことは頭から一気に消え去り、今はその音を聞くことに集中した。
誰か、一階にいる気配がする。
父さんか母さんなら、わざわざ音を立てないように歩くことはしないと思う。
僕は足音を殺すために、少し厚めの靴下を履いて、
静かに自室のドアを開け、恐る恐る、確かめに階段を下りる。
一階に降りると、小さな風が頬を撫でるのを感じた。
風は、リビングの掃き出し窓から入ってきているようだ。
音をたてないようにドアを開き、静かにリビングを覗くと、父が庭先に立ち、煙草を吸っているのが見えた。
…とりあえず不審者ではないとわかり、心が安堵に包まれる。
ほっとした反動か、父の薄水色の寝巻が、安いサイダー味のアイスみたいな色だな、なんて呑気なことを考える。
父とは普段からあまり話していない。
帰りが遅く、夕食のタイミングも合わない。
ごはん時でも話すのは、基本的に母さんの方だ。
たまにする会話も、「学校はどうだ」とか「勉強は大丈夫か」とか、事務的に最低限の確認を取ってくるようなものだ。
それが別に、嫌というわけではない。
クラスメイトから、むやみやたらに干渉してくる親の話を聞かされると、そういった粘度の高そうな接し方よりは、今のドライな関係の方が、自分にとっていいと思う。
ただ、好きというわけでもなく、あまり関心を持っていない。
顔も父親似だと言われるが、どちらでもいい話だと思う。
…普段なら、ここで話しかけることなんてしない。
このまま何も言わず自室に戻り、何事もなかったように眠るだけだったと思う。
ただ、夜空をを見上げ、静かに煙草を吸う後ろ姿は。
先ほど見た夢のせいか、この先の、大人になった自分の背中を見ているような。
自分と無関係ではないように見えてしまい、僕は無意識に、いつの間にか父の数歩後ろまで歩み寄っていた。
父が気づき、振り返った。
「なんだ、貴樹か。」
いつも通り、真顔だ。
微かに悲しみか、寂しさを纏っているように見えるのは、月明かりがそういう演出をしているだけ…だと思う。
父はいつも静かに、母さんの話を淡々と聞いて、
ほんの少し、口元を緩めたり、眉を顰めたり、
最低限の感情表現と、言葉だけで生活しているように見える。
いつものように、そうして話しかけてきた。
「最近、どうだ。」
「取り立てて変わったことはないよ。
いつも通り朝練行って、授業を受けて、部活して、帰ってきてる。」
「そうか。…この島にも、流石にもう慣れたか?」
「うん、慣れた。」
「そうか…」
そういってまた大きく、ゆっくりと煙を吸った。
一瞬停止、視線を別の遠い場所に移した後、煙を緩やかに吐き出した。
しばらく間何も言わず、そのまま二人並んで星空を眺めた。
雲はまばらで、様々な虫の鳴き声が周囲を行きかい、辺りを包んでいる。
父は煙草を出し、火をつけてまた吸い始め。
その煙が鼻をかすり、少し匂いを嗅ぐ。
良い匂いとは思わないが、何か身体に広がっている感情を、内側に圧縮して、一つに纏めて、整理させてくれるような。
悪くない匂いだ、と思う。
「この島にも慣れた、かぁ…」
不意に、父が喋る。
「俺は最近、早く地元に…長野に帰りたいと思うようになったよ。」
「え?」
一本目を足で踏みつぶし、二本目を取り出す。
また、吸い始めた。
「小学校の同窓会が、この前あったらしくてな。」
正面を向いたまま、目も合わせずに話し始めた。
「招待状がこっちに届いたのが三日前で。
開催の日付は一週間も前だった。
前の東京の住所宛に送られて、転送する時になんやかんやあって、遅れたらしい。
郵便局の人から、電話で凄い謝られたよ。
今度、お詫びの品が届くとさ。
…それすら届かなかったら笑ってしまうな。」
そう吐き捨てた後、また煙草を深く吸い、ゆっくりと吐いて。
「…会いたい奴がいたんだ。
小学六年の途中で転校して、連絡先がわからなかった。
同窓会にはそいつにも連絡してみるって、幹事の奴が言ってたから。
いつか同窓会が開かれるのを、楽しみにしてた。」
ため息をつく。
「会う機会が、無くなってしまった。」
「幹事の人に連絡先を訊いてみたら?」
父が、こちらを向いた。
「そいつに連絡先を訊いたとして、お前ならどうする?
今、この島にいるお前から。
とんでもなく強い意志や労力が、お互いに必要だと思わないか?」
僕を見つめる父の瞳には大きな諦めと共に、
奇跡的に妙案が出ないかという微かな期待が滲みでていた。
その質問の答えは、かつて自分自分も必死に探して、結局見つけられなかったもので。
今だって、僕も知りたいぐらいのものだ。
「…わからない。」
「だよなぁ。」
そう言ってまた、父は少し笑った。
「同窓会って、何度もあるものなのかな?」
その乾いた笑顔の上に、月明かりにぼやけていた悲しみの輪郭が、はっきりとし始めていた。
僕が夢から連れてきてしまったものと、似ている形のようにも思える。
「僕も…」
父が持つ同類の悲しみに、釣られてしまったのだろうか。
「僕も関東にいた友達と、前までは手紙でやり取りしてたんだ。
一回だけ、電話も。
でも、段々手紙に書くことも無くなって…
もう、送れなくなった。」
魔が差したように、その言葉を出してしまっていた。
あの夢を見てから、内側に暗く重たいものが堆積し始めて。
どこだっていいから、それを吐き出してしまいたかったのだと思う。
「せっかく夏休みなんだし、会いに行ってこればいいんじゃないか。
来年は受験もあるし、行ける時に行っておけばいい。」
その言葉に、少しおかしくなって笑ってしまう。
「最後に手紙を送って、もう二年以上経つんだ。
今更、何て言って会いに行けばいい。
文通だって最後の方は、もう何も書くことなんてなかったのに。」
「会いに行き方の話をするってことは、会いたいには違いないんだな。」
その言葉に苛立ちを覚えたが、反論はできなかった。
『会いに行かない』という選択肢が、言われるまで思い浮かばなかったから。
「どうせ女の子なんだろうなぁ…」
追い打ちをかけるように、小さく笑いながら煽ってきた。
適当に言っているのは明白だったが、それも間違いではないから、余計に反撃しづらい。
「父さんだって、何とかしてその人に会いに行く努力くらいしたらどうなんだ。」
「そうだな。違いない。」
煙を大きく吐き出した。ため息のようにも、思えた。
「でももう、時間が経ちすぎていて…
あいつは俺のことなんて覚えてないかもしれないのが、怖いんだ。」
『あたしのこと、覚えていますか?』
中学一年の、とある夏の日。
初めてあの子から来た手紙、その最後にあった言葉が、ふと頭をよぎった。
「確かめるのが、怖いんだ。」
父はそういって、二本目の煙草を捨てた。三本目は取り出さずに、話し続ける。
「俺も招待状が来るまで、完全に忘れてたんだ。
あの頃は絶対、忘れることは無いと思ってた。
高校か、大学くらいまでは覚えていたと思うんだが…
社会に出てから今まで、思い出したことは多分一度もなかったなぁ。
思い出す暇なんて、無かった。
仕事ってびっくりするぐらい、それまでのことを忘れさせられるんだな。」
そういって、父は少し笑った。
何度目かになる、別に面白くもない言葉に続くその渇いた笑いは、自分の中に生まれる苦さを有耶無耶にしたいだけなのだなと、気付く。
遠くを眺めていた父の目は、更に遠くを見始めているように見えた。
父の話した怖さは、今の自分にも通じているものがあって。
そして、かつてそういった恐怖に抗って、あの子は…明里は自分に手紙を送ったのだということに、気づいた。
あの時の僕は、その喜びだけに浮かれてばかりで、彼女がどんな思いであの手紙を出したかなんて、考えてもいなかった。
あれも確か、ちょうど夏だったか。
別々の中学に通って、数か月経った後だ。
小学校の卒業式で、彼女の別れの言葉にも返さず、僕は何一つ言葉を贈らず、別れた。
…そんな態度を取った僕に、その手紙を出すには、どれだけのものが必要だっただろう。
僕が今出しあぐねている勇気の何倍も、あの時の彼女はもう持っていたんじゃないか。
父の言葉をよそに、しばらく僕はそのことばかりを考え。
気付いたら父は新しい煙草に火をつけ、黙って吸っていた。
「文通してたのかぁ…」
父がぼそりと言った。
どれだけ自分が沈黙していたのか分からないが、大分長かったように思う。
気まずそうな口調のまま、父は話し続けた。
「まぁ確かに二年も経ってると、いきなり会いに行くのは流石にハードル高いか。
でもとりあえず、もう一回だけでも、手紙を送ってみたらどうだ。
写真でもつけて。
それか、暑中見舞いって体にして、何かギフト送ってみるのもいい。
手紙だけじゃ、伝わるものも伝わらないだろう。」
思い返すと短絡的で、一見馬鹿馬鹿しいアイディアにも思えたが、その時の僕には新鮮なものに映った。
手紙だけに拘る必要が、何かあっただろうか。
「手紙だけじゃ、伝わらないのかな。」
「手紙というか、文字だけで全部伝わったら、会議は苦労しないし、携帯電話やインターネットだって普及しないさ。
対比の数字だったり、図表だとか現地の写真だとかあって、ようやくイメージできるんだ。」
「…手紙の返事が、来なかったら?」
「終わりだな。その子の幸せを祈って、諦めるしかない。」
仕事なら、返事を貰う期限までちゃんと書くもんだ~などと、
その後も父は何か話していたが、自分の中を整理するのに必死で、よく聞いていなかった。
父の指摘は全て、ただ当たり前過ぎる言葉だった。
手紙だけでこの距離がどうにかなると、どうして思えたのだろう。
どうにもならないと分かっていたから、あの日、本当は別れの手紙を渡すつもりではなかったのか。
何で僕は手紙だけで…言葉だけで繋がっていられると、信じられていたのだろう。
この時僕は、自分が今まで、「言葉」に強く固執していたことを自覚したけれど、その理由が何なのか、この時は分からなかった。
ただ、大人になった父でさえ、この距離はどうしようもなくて。
言葉だけでどうにかできることも無いのだ。
もう何もできないと思っていたけれど、まだできることが残っているかもしれない。
胸の奥が少しずつ熱くなって、自分の中にはまだ、あの子と共にいたいという願いが、確かに残っているのがわかった。
それから、空が朝焼けの色に染まるまで、父と他愛の無い話をつづけた。
僕の目指すものや、思い悩むことは、僕と、あの子にしかきっとわからないものだ。
父との会話を経ても、その考えは変わらなかった。
ただ、僕らだけがこの距離に悩む訳ではないのだと。
大人なった父ですら、抗えず、苦しむものなのだと知って。
大人になることで、自分の抱えている何かが解決できるとは、考えなくなったと思う。
ただ進めば、強い大人になりさえすれば、何かに届くはずだと思えなくなり。
まずは目の前にできた、やるべきことをただやろうと思った。
その朝、再び布団に入り、眠りについた後。
夏の夜、中学生になったばかりの女の子が、初めての手紙を書く夢を見た。
原作に出てこないキャラクターをあまり出したくはなかったのですが、
貴樹と明里の二人の問題を解決するには、どうしても何か、外部の支えが必要だったとしか思えませんでした。
出番は少ないですが今後もちょくちょく、この父親は登場します。
予めご了承下さい。