新宿駅の東口、交番前に13時。
時間はまだ12時40分過ぎ。
車両を降りて、人の流れに沿いながら構内を歩く。
栃木じゃ考えられないほど路線も出口もたくさんあって、なんて複雑な駅なんだろう。
人混みを伴ったその複雑さが、以前渋谷で感じた孤独感をにわかに蘇らせた。
気を取り直して前を向き、歩き続ける。
適当な改札口を抜けて、掲示板の案内を見ながら東口を目指した。
春休みだからか、同じ年代の人もたくさんいて。
一人で歩く男の子の姿を見かける度、いちいち小さくドキリとしてしまう。
東口の出口を抜け、辺りを見回した。
右手にローマ字で書かれた「KOBAN」の看板を見つけ、交番の位置を確認し。
その方向、交番から少し奥…ビル角の近くに立っている、紺色のジャケットを羽織った、男の子は。
彼だ。
すぐ声をかけようと、したけれど。
でも。
もしかしたら、違うんじゃない?
だって。
だって、こんなところまで来てくれることなんて、あるの?
…また、彼に似ているだけの、誰かなんじゃ、ないの?
そんな不安が襲い掛かって、勇気が萎んでいく。
声をかけるのが…確かめるのが、怖い。
でも。
「貴樹くん、ですか…?」
不安で詰まった胸から圧を逃がすような気持、掠れた声でそう言った。
男の子が振り返る。
目が、合った。
写真の通りの、思い出のままの。
本当に…
本物の、貴樹くんだ。
「久しぶり、だね。」
喜びも、混乱も、驚きも入り混じる中、辛うじてその一言を出す。
「うん、本当に…。」
彼の声だ。
その顔も、姿も、静けさを纏った眼差しも。
貴樹くん。
本当に、貴樹くんなんだ。
ほんの少しの間、私たちは見つめ合って。
その間だけで、私の中にあった不安が、溶けていって。
懐かしい温かさが、体を駆け巡っていく。
「雪が降らなくて、よかった。」
不意に彼が、呟いた。
彼のその一言を聞いて。
あの日、彼が岩舟まで来てくれた時。
彼も、こんな気持ちだったのかな。
そんなことを、考えた。
「本当に、そうだね。」
溢れてしまいそうな涙を堪えながら、そう返した。
あぁ、夢みたいだ。
それから私たちは、二人して新宿を歩き回った。
新宿御苑や、古本屋や、雑貨屋さん。
二人で街の中を歩いて、色んな物を見て、感じて、分かち合った。
夢みたいなのに、当たり前な幸せ。
忘れていたはずなのに、ずっと傍にあったような。
こんな気持ち、何で忘れてしまっていたのだろう。
…何で、忘れられたのだろう。
頭にちらついたそんな疑問も気にせず。
私はひたすら彼と一緒に、あの頃と変わらない幸せに、身を任せていた。
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シャワーから出る温水が、気持ちよく肌を洗い流していく。
その心地よさを感じながら、今日一日の、かけがえのない時間のことを思い返し。
そして、部屋で待っている彼と過ごす今夜への、緊張と期待に胸を高鳴らせる。
『泊ってきても、いいって…』
シャワーを浴びながら、先ほど自分が言った言葉の恥ずかしさを思い出す。
随分と熱に浮かされてしまっている、と思う。
…お母さんもきっと、分かってただろうなぁ。
電話越しだったけど、少し笑ってたような気がする。
こんなつもりじゃあ、なかったけれど。
…彼にだったら、貴樹くんにだったら。
いいと、思う。
少し、怖いけれど。
彼になら、体を預けてしまっても、いい。
きっと、もっと深く、分かり合えて。
もっと、幸せに…好きになれるのかな。
…本当に、それで、いいのかな。
心の中、小さく湧いたその疑問から。
胸の中にまた、薄ら寒いものが生えてきて。
温かなシャワーをいくら浴びても、それが溶けていく気配がない。
シャワーを止め、体を拭く。
浴衣に着替え、湯気に曇った鏡を拭いて、そこに映る自分の顔を見つめてみる。
胸はまだ、ときめいて。
私は彼を、求めていて。
この夜に、期待している。
なのに、なんで。
なんでそんなに、不安そうな顔、しているの?
頬を両手で軽くはたいて、気を取り直し、ドアを開けた。
「シャワー、終わったよ。」
声に反応して、こちらを見る彼。
恥ずかしそうに頬の赤らめた彼に、少し和んだ。
でも、胸の寒さは消えない。
胸のときめきも、再び胸の内に根差した寒さも、隠してしまいたくて。
テレビに流れるお笑い番組にムリをして笑いながら、彼を待った。
こんな寒さ、笑い飛ばせたらよかったのに。
彼がシャワーから出た後も、ずっと残り続けていた。
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「電気、消すよ。」
その声の後、灯りが消えた。
彼は、ベッドの窓側に。
私の方を向いて布団に潜った。
薄暗い部屋の中、微かに窓の外から差し込む光に照らされた彼の顔は。
私をひたすら捉え続ける、透き通ったその瞳は。
夢みたい。
夢じゃ、ないよね。
「手、握ってもいい…?」
触れて、確かめたくて。
私はつい、そう呟いていた。
静かに頷く、彼。
手を、握る。
…あったかい。
彼の手に、皮膚が触れている箇所も。
二人の手のひらの間、小さな隙間の温度すら。
ただ、愛おしい。
鼓動が、静かに速くなっていく。
確かに、確かに。
この手の中にある。
貴樹くんは、本当にここにいて。
あの遠い島から、ここまで、来てくれたんだ。
「ありがとう、貴樹くん。
わざわざ東京まで、来てくれて。
会いに来てくれて。」
切なそうな彼の瞳が、私を捉えて。
そのまま、吸い寄せられてしまいそうで。
今すぐにでも、抱き寄せられてしまいそうな。
「明里…」
このまま、彼の温かさに全て、任せてしまいたい。
今夜このまま、心も体も、全て通じ合えたなら。
この手の温かさを、全身で共有できたなら。
きっと、あの日よりももっと、奇跡的な幸せがその先にある。
そう、確信できた。
これからこの先、何十年も生きて、死んでしまうまでの間に。
そんな幸せを手にできる機会と、あと何回、出会えるんだろう。
…もしかしたら、もう、無いのかも。
彼もきっと、それを望んでいる。
私だって、ずっと。
でも、その想いが大きくなるにつれて。
「ごめんね。」
なんて、我儘で。
何でこんなに、臆病なんだろう。
「私ね、貴樹くんのこと、忘れようとしてたんだ。」
目の前にある、私が願い、求めていたものの全てを。
何の犠牲も無く、そのまま手にしてしまうのが、何だか怖かった。
そうしたら、また。
何かがおかしくなって、また、あなたと会えなくなってしまうような。
また、静かに消えていってしまうような…そんな気がして。
「もう、会えないんだって、思ってた。
もう、一人で生きていかなくちゃいけないんだ、って。」
お互いのいない季節が、この先にまた、立ちはだかったら。
また、そうなってしまいそうで。
「貴樹くんは、私のこと、忘れないでいてくれたのに。」
何で一度、終わりかけてしまったのだろう。
それをまた、息を吹き返してくれた、あなたは。
「また手紙を送ってくれて、ありがとう。
それに、また桜を一緒に見たいって、書いてくれて。本当に。」
いつも、私は。
あなたは、いつも。
「二回もこうして、会いに来てくれて。
私は、待ってばかりで。」
流れに身を任せて、抱きしめ合うことすら。
怖くて、できなくて。
「いつも、何もしてあげられなくて、ごめんね。」
ごめんね。
「そんなことない!」
彼は震えて、声を少し荒げた。
…そんなこと、あるよ。
「俺のことを、待ってくれた。
今日だって、あの岩舟の時だって。
それに、それに…」
それから私たちは、大きな氷の塊を、少しずつ溶かしていくように。
二人とも、微かな涙を時折流して。
それぞれの寂しさや、悲しみや、罪悪感とか。
暗くて、冷たくて、心を痛める言葉ばかり、伝えては、慰め合った。
前の文通が消えていったことへの虚無感や罪悪感の感じ方とか。
その文通が無くなった後に感じていた、喪失の捉え方も。
私と彼は、そんなところまで、似ているように思えて。
でも同時に、私はそういう彼の寒さや孤独さのことは、何も知らなかったんだって、気付いた。
あんなに具体的で、直接的な寂しさにまみれた言葉を口から出したのは、二人とも、あの夜が初めてだった。
今まで、そんな言葉を交わしたことなんて、なかった。
だって、一緒にいられるだけで、全部満たされていたから。
…でも、思えば。
いつからか、そんな寂しさに繋がってしまう言葉を使わないように、避けていたかもしれない。
そこにある温もりを、損なわないように。
傍にいられたあの頃は、そんな過去があったことが信じられないくらいに、夢みたいに幸せだった。
この世の素敵な部分だけを切り取った、別の世界に行ってしまっていたような。
抽象的な、優しい輪郭の言葉だけでも、彼とは十分に意思も、想いも伝わっていた。
また、離れてしまったら。
綺麗すぎて、温かすぎて。
夢や幻みたいに扱って、消えてしまいそうな、気がしたから。
私はそんな予感を、消してしまいたかった。
手に入ったはずの素敵な夜を、放り投げてしまってでも。
私は、あの夜。
今度はちゃんと、あなたを好きになりたかったんだと、思う。
あなたが傍にいる時にだけ存在する世界と、いなくなってからの世界を。
思い出と、この先の人生を。
夢のようなものと、私の体が見て、聞いて、感じるものたちを。
この手の温もりと、心の冷たさを。
春と、冬を…繋ぎ合わせたかったんだと、思う。
そうしたら、きっと。
この先、現実的なものの多くに、阻まれてしまっても。
更に遠くまで、引き離されてしまったとしても。
どこにいても、二人とも同じ世界の中にいるって、信じられる気がしたから。
段々と、出てくる言葉も途切れ途切れに、文章にすらならなくなってきて。
気が付くと、彼はその瞼を閉じ、穏やかな寝息を立て始めていた。
「大好きだよ。」
ごめんね、今はこんな風にしか、言えなくて。
来年、戻ってきたら、その時は。
今度はちゃんと、伝えるから。
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「あとほんの十日もしたら、四月になって。私たちも、三年生になっちゃうね」
彼と手を繋ぎながら、爽やかで、まだ人の少ない街の中を、ゆっくりと歩いた。
空も青くて、爽やかで小気味よい風が吹き抜けて、良い朝だったけれど。
そんな朝の雰囲気よりも、目が覚めて夜が明けても、この手の温もりを感じられたことが、ただひたすらに嬉しかった。
「種子島行ってからもう四年近く経つけど。
振り返ってみると、結構あっという間だったような気もする。」
そういえばもう、あの日からそんなに経ったんだ。
「来年の春も、すぐなのかな。」
彼に、訊いてみる。
「そうだろうね。
でもその前に、大学受験頑張らなきゃ。」
微笑みながら、そう答えた。
この先、私たちがどうしていくのか。
一緒にこの先をどう過ごしていくのかを語り合いながら、ゆっくり駅へと歩いていった。
改札口につくと、きっぷ売り場は思いの外空いていて、切符はすぐに買えてしまう。
「それじゃあ、また来年ね。」
寂しいけれど、また、会える。
そう自分に言い聞かせながら、小さく手を振り、改札に向かおうとすると。
「明里!」
彼に呼び止められ、振り向く。
「その…」
少し俯き、拳を固め、思い詰めているような彼。
「君のことが、好きだ」
心臓が、止まってしまいそうに、なった。
「あと、それと…
来年、また、絶対、戻ってくるから。」
『絶対』…?
「だから、また、待っていて欲しい、です…」
私が、怖くて言えなかった、届きたかった、言葉。
『絶対』なんて言葉を、彼は安易に、使わない。
彼は、本当に。
来年、絶対、帰ってくるんだ。
今、ようやく…
全部、繋がったんだ。
「ごめん、もっと上手く伝えられたら」
彼が再び喋り始めたのもお構いなしに、
愛おしさに身を任せ、思わず彼に抱きついた。
私たちに必要な、最後の言葉を。
彼は、言ってくれたと思う。
彼の温もりに包まれて、鼓動が、伝わる。
きっと、私のも。
ありがとう。
そんな言葉を使ってまで、約束してくれて。
ごめんね。
いつも大事な時に、頼ってばかりで。
心臓の鼓動と、想いと、伝えたい言葉で、胸が溢れそうになったけれど。
「私も、大好きだよ。」
何よりも、それを伝えたかった。
その後もしばらく、彼の体の温かさに包まれていた。
少しだけ落ち着いた私は、再び彼の瞳を見つめて。
「『絶対』、待ってるからね。」
私もつい、そんな風に返した。
そう、口にした途端。
更に心が温かく、強くなったような気がして。
私は、この人を待つんだ。
絶対に、絶対に…帰ってきてくれるから。
私は、自分がこれからそうしていくんだって、はっきりと信じられた。
そんな自分が急に照れ臭くなってしまって、彼に背を向け走り出し、改札口を駆け抜けた。
突然の出来事にも、急な自分の気持ちの変化にも、少し混乱していたと思う。
でも改札を抜けた後、やっぱり名残惜しくなってしまって、もう一度振り返る。
彼はまだそこにいて、私のことを見守って。
大きく、手を振ってみる。
彼も小さく、手を振り返した。
それだけのことでも、跳ね上がってしまいそうなくらい、無性に嬉しくて。
そんな弾けそうな気持ちのままに、ホームへと訳も無く駆けていった。
帰りの、電車の中。
「絶対に…」
彼の口から聞こえた言葉を、魔法のように呟きながら。
時折桜が流れていく車窓の景色に、見惚れながら。
次の春を、想い続けた。