中学の卒業式の後、彼に渡そうとしていた手紙を、小さな菓子缶の中に閉まった。
あの桜の木にも、近寄ることをやめた。
それでも、家に帰るとポストを覗く習慣だけは続き。
覗くたびにあった、自分宛の手紙が無い寂しささえ、無くなりかけていた頃だった。
高校二年の夏、八月一日。
篠原明里はポストの中に、自分宛の封筒を見つけた。
表面に書かれた懐かしい筆跡の宛名を目にした時、失われかけていた記憶や想いと共に、喪失や無力感が内側に再生し。
そして、この中に何が書かれているのか。
それが彼女を、不安にさせた。
封筒を学校鞄にしまい、そのまま玄関を抜け、階段を上がり、自室に立てこもる。
机に座り、鞄から封筒を取り出し、改めてそれを見つめた。
胸の中に、熱が生まれ始めていた。
それは嬉しさだけでなく、郷愁や、困惑、何かへの憤りや、苦しみ。
直りかけた傷口がまた血を流し始めたような、痛みの熱に似ている。
封筒を眺めたままに、彼が種子島に行った後の手紙のやり取りを、静かに思い返した。
種子島での生活のこと。
新しい景色、植物、文化、東京では感じられない、広大な景色。
見慣れないテレビ番組、大きな台風に家が揺れたこと、原付で登校する高校生など。
始めは新鮮な心持で手紙を読んで、遠さに寂しさを感じながらも、楽しい文通ができていたと思う。
本屋で買った種子島のガイドブックの写真を見ながら、
あぁ、こんな場所なんだ、とそこにいる彼を想像しながら手紙を読んだ。
ガイドブックに映る景色は、海水の澄んで奥まで広がった美しいビーチや、
青空の下、ひたすら真っ直ぐ丘の上に伸びていく道路や、夕焼けに沈む海岸線が映り。
幻想的な、広くて、綺麗で、静かそうな場所だと思った。
反面、もしここで、一人で生きていくことになったら、なんだか、とても寂しい場所のようにも思えてしまった。
自分の家の周りのような、山や田んぼに包まれている田舎とは違う、
島ならではなのか、海に囲まれ、そこだけで完結している、隔絶された孤立の空気。
島の自然を前面に押し出した旅行雑誌なのだから、人を映していない写真が多いのは、分かっているけれど。
彼が一人、この写真の中に佇む姿を想像すると、その姿は、とても寂しいもののように思えた。
隣に、自分を並べてみようとしても、全く見たことの無いその場所に、自分が立てるイメージが。
奥に映る海を越え、そこに辿りつくイメージが、浮かび上がらなかった。
写真だけでもこれなのだから、実際はもっと綺麗で、そして、広く感じるのだろうと。
それを考えると、今、二人が離れている距離が、
距離以上に多くのものが立ちはだかっている事実を突きつけられ、
その度に心細くなり、自分の気持ちがしぼんでいくのが、分かった。
次第に、彼の、私の手紙も、徐々に。
内容も、頻度も、少なくなっていった。
彼は、島に慣れ始めて。
その景色と広さ以外、何も見出せていないように、見えた。
私は、その理解から離れ始めて。
彼と何を共にできているのか疑問に思い、自分が彼に対して何もできていないようにしか思えなくなり。
やがて、手紙は来なくなって。
私も、手紙を送れなくなった。
私が彼にしてあげられることは、もう、無いような気がした。
…この手紙は、もしかしたら。
別れを、終わりを告げる手紙なのかもしれない。
…そう、思えてしまう。
そう考えて胸の痛みは増したものの、どうしようもないという納得もあった。
そうして封筒を見つめ、封筒の重さと向き合っている内。
自然と封筒を握る強さが、いつの間にか強くなってしまっていて。
ふと、握り締めた封筒の裏側に、固い感触があることに気づく。
便箋と違い、折り曲げる力に抵抗する、固い感触。
…封筒も良く見れば、以前より大きめのものが使われている気がする。
それが何を意味するのかはわからない。
ただ、便箋以外のものが入っている。
…別れの為の手紙なら、わざわざそんなことはしないのではないか。
そんな不確かな予感を勇気に変え、思い切って封筒を開けた。
中には、2枚の便箋と、4枚の写真。
緑色に茂る小さな、多分桜の木の写真、広い海岸の写真、校門前…多分、彼が通っている高校の写真だろうか。
そして、最後の一枚に。
見かけない、少し風変りな出で立ちの家の前の、ポストの横に。
恥ずかしそうに微笑み、真っ直ぐに立つ、夏服姿の彼。
写真の上に一粒、涙が落ちた。
慌ててすぐ、それを拭ったけれど。
涙がどんどん、あふれていく。
胸が、どうしようもないくらい感情で詰まって。
溢れた分は次々に、涙に変わって。
写真を胸に抱え、涙をそのまま、膝に落とし続けた。
今まで送った私の手紙は、ちゃんとこの写真のポストに。
彼の元に、届いていたのだと。
彼はまだ、私と同じ世界にいて。
この手紙は確実に、彼からの手紙だと。
それが、今、分かって。
自分が、そんな当たり前のことを信じられなくなっていたのだと、気づいた。
そして、写真の彼の表情は、この手紙は別れとは遠いものだと、思わせてくれて。
それがただただ、嬉しくて。
久しぶりにこの世界に、彼を感じられたような、気がした。
そのまましばらくの間、写真を見つめながら。
彼の存在の温かさや眼差しや、あの優しく静かな声を。
彼のことを、思い出した。