『またいつか、一緒に桜が見られたらと、願っています。
もし、明里もそう思ってくれているなら、高校の卒業までに、返事をください。』
自分が送った手紙の最後に書いた言葉を思い出す。
手紙をポストに入れてから二週間ほどが経ち、今はお盆だ。
その内容を何度振り返っても、返事が来るような内容には到底思えない。
来なくても、何ら不思議ではない。
あの手紙は、彼女の為でも、二人の為でもなく、ただ僕を救う為のものでしかないもので。
「篠原明里様へ」と宛先に書いておきながら、
中に記した言葉は、明里を想って書けたものではなかったから。
それでも何故だか今は妙に清々しい心持で、夏の日差しに色づく景色と、その上に跨る入道雲を、自室の窓越しにぼうっと眺めた。
父と夜中に話した日、僕は午後に目を覚まし、封筒や便箋、インスタントカメラなどを買いに行き、準備を整え。
そうして机に向かい、三行ほどの堅苦しい挨拶を書いた後、もう、僕のペンは止まってしまった。
篠原明里の姿を、思い浮かべることができなかったのだ。
覚えているのは、遠い雪の夜の朧げな映像と、幻のような温かい感触、いくつかの言葉だけで。
今の彼女がどんな風に過ごし、どんなことを話し、何に笑い、悲しむのか。
もう、何も分からなくなっていた。
以前は受け取った手紙の中から何とか掬い上げていた彼女の欠片も、この二年間で綺麗に失われたこと。
手紙を書こうとする決意と比べて、今自分の中にある想いは酷く曖昧で、抽象的になってしまったことに愕然とした。
初日はそれ以上、一文字も進まなかった。
翌日、僕は雲を掴むような思いで、とにかく自分の中に浮かぶ言葉を書き出してみた。
最早誰に向けられているのか分からないそれは、時折携帯のメールに書いては捨てていた独り言と、少し似ていた。
手紙を書けなくなったことへの懺悔のようなことや、
この島から見える世界の途方も無い広さ、彼女との遠さのこと。
卒業したら、東京の大学に行こうとしていること。
返事に焦らなくてもいいから、また文通を始めたい、ということ。
いつか一緒に、桜を見たいとまだ願っていること。
そういったことを、順番も考えずに取り留めも無く、書いていった。
それらのことは、昔の僕が伝えたかったことで。
今の僕の気持ちなど、微塵も表現できていなかった。
残骸を必死にかき集め、ハリボテのように繋ぎ合わせ、何とか見栄えを整えただけのものに見えた。
彼女と共にいたい、会いたいという確かにあったはずの想いは形骸化していて、
共にいたことで何を感じていたのか、どんな温もりを得ていたのか、もう、胸の内に再生することができなくなっていた。
そうした中、僕はとっくに、篠原明里のことを諦めしまっていたのだと。
僕はただ、自分の中に有耶無耶に残っている諦めていなかった頃の僕を、今更救いたくなっただけなのだと。
今の僕は、昔と同じものを求めているけれど、今の自分として書けることを持ち合わせていないと、悟った。
その諦めにも似た悟りを得た後から、漸く何とか手紙の体を保った文章が書けるようになった。
数日後、そうやって昔の僕や、夢の踏切にいた僕が紡ぎ出した言葉の欠片を寄せ集めたものを、何とか無理くり手紙の体にすることができた。
この手紙の本当の宛先は多分、あの夢の中、踏切の先に去っていった女性だった。
もう戻らない…きっともう会えないであろう、かつて自分が夢に見た存在に、それに向けたかった感情を、この手紙に詰め込んだのだと思う。
これを明里に送るという行為は、他人宛てに書いた恋文を敢えて渡すようなものに思えて、不誠実さや罪悪感、正直に言えば、そんな自分が気持ち悪いとさえも感じたけれど。
今の自分はこれ以上の言葉を出すこともできないということも、分かっていて。
一度だけ読み返した後、逃げるように目を瞑りながら封筒の中に入れた。
書き終わった僕は、近所の桜の木や学校の写真を撮り、最後に、玄関の前で父に自分の写真を撮ってもらった。
自分の写真を入れたのは、父からあの夜「絶対に入れろ」と言われたこともあるが。
僕自身も、もしこれが最後の手紙になるのなら、入れた方がいいように思えた。
彼女の為ではなく、ただ、僕の為に。
自分の写真を撮られる瞬間、僕は少しの恥ずかしさや照れくささに襲われ、それは表情にも露わになった。
この姿が明里に届くのだと思うと、そういうむず痒い気持ちが自然に湧き上がった。
その感情だけは昔の僕でも無く、夢の僕でも無く、確かな今の僕の感情でしかなくて。
父が言っていた通り、書き終えた手紙よりも遥かに、今の気持ちが伝わるように思えてしまった。
全ての行程が終わり、写真を封筒に入れ糊付けで封をして。
近所のポストの前で少しだけ躊躇した後、投げやりにポストに突っ込んだ。
手を離し、ポストの中に吸い込まれていくと同時に。
胸の中で、とても大きな塊が、どこかに落ちていったような気がした。
僕が書いた手紙は、彼女が昔初めて僕にくれた手紙とは、雲泥の差だった。
僕はあの手紙に込められたような素直な温かさを、入れてあげることができなかった。
彼女はあの手紙をポストに入れるのに、どんな気持ちや覚悟が必要だっただろう。
それはきっと、真っ直ぐに僕に向けた、綺麗なものだったと思う。
僕がポストに入れる瞬間にあったのは、ただ、諦めだけだった。
何て、有り様なんだろう。
そう、思った。
それからの僕は、普段通り部活に行ったり、夏休みの課題をしたり、気が向けば原付でドライブに出かけてみたりして、
今までの夏と同じように過ごし、返事を待った。
課題をしている時、解答がどこかに用意されている、ということに安らぎを覚えてしまうくらい、僕はあの手紙の作成で消耗していた。
でもその疲れと同時に、妙な晴れやかさも生まれていて、
原付を走らせ流れていく見慣れた景色が前よりも彩りに溢れて映るようになり。
今、この島にいる自分をようやく受け入れられたような。
世界の、今まで見えていなかった部分が、見えるようになった気がした。
もう、どんな結果になったとしても、受け入れられるように思えた。
そんな生活を続け、手紙を送って三週間が経った、お盆明けの日。
部活帰りにポストを覗くと、見覚えのある字で書かれた、自分宛の封筒を見つけた。
心臓が大きく鼓動し、驚き、喜び、内容への不安や、その他様々の言い表せない感情を封筒と一緒に抱え、自室に駆け込んだ。
本当に全く期待していなかった分、その衝撃は凄まじいものだった。
意味もなく急いで、封筒を開ける。
中には、便箋と写真が、三枚ずつ。
緑の生い茂る、あの雪の日に一緒に見た、桜の木の写真。
夕焼けに染まる岩船の駅のホームから、小山方面を映した写真。
そして、家のポストの横、恥ずかしそうに立つ、夏服の彼女の写真。
その懐かしい、遠慮がちな笑顔は、久しく忘れていた春の気配を思い出させ。
抜け殻のようだったかつての想いが、胸の内に蘇っていくのを感じ。
篠原明里に宛てた言葉が少しずつ、思い浮かび始めた。