新宿駅から、歩いて10分ほど。
ビルの合間に意図せず挟まってしまったような細長さの、少し色褪せた4階建てのそのビジネスホテルは、足を踏み入れるのに幾許か勇気が必要だった。
だがいざ中に入ってみれば、昭和を思わせる古めかしい内装ではあるものの、掃除が行き届いた小奇麗さがあり。
受付のお婆さんは話しかけやすく気前もよさそうな人柄で、部屋も一人には十分な、一般的なビジネスホテルの広さだ。
値段の割には良いところだと思う。
朝早くに出発したのに、今はもう19時半。
テレビ台の横に荷物を下ろすと同時に、疲れがどっと押し寄せて。
たまらずベッドの上に、重力任せに倒れ込んだ。
足から血が上ってぼんやりと暖まった頭で、何もない天井を見上げながら。
東京に着いてから、このホテルに辿り着くまでの道のりを思い起こした。
電車の中、床に座り込み我が物顔でスペースを使う高校生たち。
駅の出口、大声で馬鹿笑いをする連中や、煙草を平気で路上に捨て見向きもしない男性。
柵に腰かけながらひたすらに携帯の画面を見つめ、不意に高笑いする横並びの女性達。
遠くから聞こえる、誰かに宛てた罵声。
何かの液体でところどころが滲んだ床のタイルや、アスファルト。
紙袋や、先端の汚れた割り箸や、中身の残るペットボトル、雨にふやけたアダルト雑誌。
道端にも、街路樹の足元にも、至る所にそういったものが打ち捨てられていた。
昔住んでいた世田谷周辺のことしか記憶に無かったとはいえ、
僕がこの街に思い描いていたイメージとは、大きくかけ離れた有り様だった。
もっと上品で、喧騒ももう少し角の無いものだった気がしたのだけれど。
「東京って、結局どんなところなの?」
ふと、その質問を思い出した。
同じクラスの佐々木という、東京の大学を目指している女の子から訊かれたことだ。
このホテルを教えてくれたのも、佐々木だった。
去年の暮れ、冬休みに入る前。
職員室で先生からオープンキャンパスの冊子を受け取る際、
佐々木はもう夏に東京のオープンキャンパスに行っているから話を聞くといい…と勧められた。
東京に来ることそのものが自分の目的だったから、大学の話はどうでもよかったけれど。
泊る場所については全くアテが無かったから、話を聞いた方がいいかもしれないと考えた。
同じクラスだが接点はほとんど無いため、いきなり教室で話かける気にはならず。
放課後、よく図書室で勉強しているという噂は聞いたことがあったので、部活を休んで話を聞きに行った。
このホテルは、彼女が通う塾の先生がよく塾生に勧めるところで、
見た目は古いが清潔感もそこそこ、何より安価であるため、男子学生が好んで使うらしい。
佐々木は周辺の治安が気になり別のところにしたらしいが、僕はそこで充分だろうなと、その時ほとんど心に決めていた。
佐々木は遠巻きに見ていた印象では、口数は少なく、穏やかそうな目をした黒縁眼鏡で、その外見通りの真面目な性格だろうと思っていた。
だが実際話してみると、話し方の丁寧さと控えめな声量とは裏腹に、物言いにははっきりとした輪郭があり、色んな事を経験や挑戦したいという意欲が言葉選びからも伝わってきて、見かけ以上になかなかエネルギーに溢れた人間だった。
何でなのかそこそこに気が合って、見に行った大学の話や入った喫茶店の話などの雑談していた時、その質問をぶつけられた。
「昔、住んでたんだよね?
原宿とか、新宿、東京駅周りも少し観光したけど。
色々ありすぎて目が回っちゃって、結局どういうところなのか、よくわからなかった。
この島にいるよりは面白いだろう…っていうことしか、何となく。」
とにかくこの島から出たい。彼女はそう言っていた。
種子島が嫌いというわけではないが、学ぶことが昔から好きで、新しい経験や学びが純粋に欲しいのだという。
とにかく何でも集まっているような印象がある東京が第一志望ではあるが、
親に私立は厳しいと言われた手前、名古屋や大阪の国公立も視野に入れているとのことだった。
それを澱み無くスパスパと話す明快な口調には、彼女の迷いなき性格がそのまま表れていた。
その時僕は「色々あるってことしか、結局俺も分からないな…」なんて曖昧な解答で言葉を濁したが。
来てみると実際、その解答で充分だったように思う。
僕が東京を目指したのは、明里との思い出があったからだ。
去年まではぼやけていたが、今やそれははっきりとした理由だった。
じゃあ、明里がいなかったら。
僕はこの街が嫌いだったり、興味が無かったりしただろうか。
それも少し、違う気がした。
色々ありすぎて、結局どういうところなのかよくわからなかった…か。
城のように巨大なビルも、ボロ小屋のような店も、ライトに照らされた光り輝く道も、闇の塊のような裏路地も。
人が社会に求めているものが、良かれ悪かれ、全て集まっているようで。
街の中を探せばどこかに、自分の欲しい何かがあるんじゃないか。
そう思わせる魅力的な不可思議さや複雑さが、この街にはあるような気がして。
明確な宛てもなく何かを探そうとすると、とりあえずこの街を目指すのかもしれない。
佐々木にはこの街が合っていて、上手くやっていけるような気がする。
彼女が知りたいと願っただけ、多くを手に入れられる場所のように思う。
僕も、もし明里に巡り合うことも無く、大人になっていたとしても。
最終的には、東京に行きついていたかもしれない。
ただ、僕がこの街に何かを見出すことが、できるだろうか。
そこには自信が持てなかった。
そんなことをつらつらと考えて、ふと腕時計を目をやると、もう20時を過ぎていた。
明日の午後は、明里に会うんだ。
…会って、何を話せばいいだろう。
この予定が決まってから幾度も考えた。
流行っているドラマを調べたり、最近読んだ本のことを整理したり。
昼休みに女子が話す内容に聞き耳を立て、話題にならないか考えたり。
学校帰り、コンビニの本棚にあった「オンナのコと盛り上がる話100選!」などという胡散臭い文庫本を覗いてしまうくらいには。
明里と会って話すということが、それくらいに不安で。
その不安の大きさに、自分が明里をどれだけ特別に思っているのか、改めて思い知らされた。
ただその不安がどんな理由で、どこから来ているのかは、判然としない。
不安なのは何となく、上手く話せるどうかだけではない…と思う。
…佐々木みたいに、簡単に自分の答えが出せたらいいのに。
最近の文通が安定してきたとは言え、一度は途絶えてしまったし。
会うのはあの中一の…三月の岩舟以来。
実に、四年ぶりだ。
…あの頃みたいに、話せるだろうか。
やっぱり、結構怖い。
でも同じくらい、明日が待ちきれない気持ちもある。
…もう、寝よう。
今さら不安になったって、やれることなんて無いんだから。
ベッドから上半身を起こし、ゆっくりと寝支度を始めた。
佐々木さんは一応原作にも登場していて、澄田と友人との会話の中に名前だけ出てくる、東京行きを目指す女の子です。
性格とかは勝手に決めました。
今後はもう出てこないと思います。