鈴仙から能力の修行をつけ始めてもらってから数か月。始めたばかりの頃は波長というものがなんなのかという点で躓いていたが、最近はそれも直感的に理解し、ある程度は扱えるようになってきた。鈴仙のように自身の姿を一瞬で消したり対象の感情や感覚を操作することはできないけれど、気配を極限まで薄めたりなどはお手の物である。
どこから漏れたのか――そこら中で、主に咲夜が材料集めを行っていたために当然なのだが――俺たち吸血鬼が月へ行く計画を立てていることを聞きつけた永琳が俺を問い詰めてきたりという事件はあったものの、俺自身に月をどうこうする意思がなかったおかげで、なんとか穏便に済ませることができた。『もしも実際に月へ行くことができたとして、仲間が月の都および月の住民になにか危害を及ぼそうとした場合、レーツェル・スカーレットが責任を持ってそれを押さえ込む』。新たにそういう契約を結びつつ、俺と彼女たちの情報共有関係は未だ続いている。
修行と言えど別に毎日行っているわけではなく、むしろ行っていない日の方が格段に多い。今日もそんな多めの休日のうちの一日であり、現在は、霊夢に新しい魔道具のテストを手伝ってもらっている最中であった。
「聞こえますか?」
『あー、聞こえる聞こえる。ちゃんと聞こえるわよ』
「今度は成功みたいですね。あいかわらず、遠すぎるせいで心が読めませんけど」
「霊夢、なんだかちっちゃくなっちゃったねぇ。丸いし」
地霊殿。中庭が見渡せる二階のテラスにて、さとりとこいしとともにテーブルを囲み、水晶玉に似た球体を三人で眺めていた。
二人を連れて地上を観光する計画も、宴会に参加するという目的が達成したことで一区切りし、今では地上に出るのは一か月に一回程度の頻度になっている。今日はその日ではなく、ただ単に地霊殿にお邪魔しに来ていた。
さて、さとりとこいしと一緒に見つめている球体こそが新しい魔道具、の片割れである。大きさは半径一〇センチメートルほどで、色は水色の半透明をしている。これは二つで一つとなる魔道具の片方であり、もう片側となる小さな宝石の欠片は首飾りとして加工し、霊夢に手渡してあった。
「こいし、これは霊夢じゃないわ。これの向こうに霊夢さんがいるのよ」
「向こう? んー、レーチェルしか見えないよ?」
こいしのそんな返答に、さとりは苦笑いをした。
「まぁ、そうですね。これ半透明ですし、私は対面に座ってますし。見えるのは当然です。なにもおかしくありません」
「もしかして、レーチェルが霊夢……? うーん、こんがらがってきちゃった」
『あんたら、真面目にやってるのか冗談でやってるのかわからない問答はやめなさい』
この魔道具の効果は二つあるのだが、一つ目は至って単純、通信機能としての役割だ。こうして霊夢のいる地上と俺たちのいる地底とでの会話も、こうしてお手の物である。理論上は地球の反対側であろうとも通話が可能なはずだった。
「ところでどこまで進みました? 妖怪の山に向かい始めたってところまでは聞きましたが」
『ん、そうね。芋の神さまを倒したわ。あれ、秋の神さまだったかしら? ああいや、豊穣だったような……まぁそんな感じ。一応麓は越えたわよ』
「となると、そこからは天狗が出てくる可能性もありますね。再三言うようですが、もしも身の危険を感じたら首飾りを壊してください。いいですね?」
『はいはい、わかってるって』
魔道具の二つ目の効果は、首飾りの破壊をトリガーにその地点へ俺が召喚されること。開発当初はこの機能をつける予定はなかったのだが、ふいと何十年も前にパチュリーが召喚魔法の勉強をしていたことを思い返し――実験で小悪魔を召喚したはいいものの、送還がうまくいかなくてなし崩し的に契約していた――、彼女に話を聞きに行った。その結果、首飾りにした宝石の中に魔術陣を刻むことで、破壊をキーにレーツェル・スカーレットという悪魔を召喚するという効能を付与することに成功した。
そしてなぜその首飾りを霊夢へ預けているのかと言えば、彼女は今、異変解決に動いているのである。異変とは言っても幻想郷中が紅い霧に包まれるだとか夜が終わらないなどという大したものとは程遠く、最近外の世界からやってきた神さまに博麗神社が乗っ取られてしまいそうだというだけのものだった。
実のところ、博麗神社では祀っている神が巫女である霊夢でさえわかっておらず、知られてないがゆえに力も非常に弱い。今より力が弱まれば悪霊に神社を祟られる危険性が出てくるくらいである。冷静に考えれば他の神を信仰した方がいいことは自明の理であり、今回の異変は、別の見方をすれば新しい神さまが博麗神社で祀られる存在になろうとしていることになるのだから、悪霊の被害を受けなくなるゆえにむしろ喜ばしいことであるとも言えた。しかし霊夢は勝手にいろいろとやられることが大分気に入らないらしく、ちょっかいをかけてきている神を探して懲らしめることに決めたようだ。その話を聞きつけた俺がちょうどいいとして首飾りをプレゼントしたのである。
本来ならば、霊夢に危険が及ばないように俺もついていくつもりだった。しかし今回の目的地は妖怪の山だと言う。あそこは独自の社会が築かれているせいで、吸血鬼異変でいろいろと問題をやらかした吸血鬼である俺はそう簡単に入ることはかなわないし、仮に侵入がばれたら、どうなるかまるでわかったものではない。たとえば天狗が大量に集まってきて、俺がいるせいで霊夢が一人の時よりも危機的状況に陥ってしまうということも十分あり得るのだ。だからこそ今回は直接行くことは控え、いつでも俺の召喚が可能な道具を渡すことでどうにか自分を安心させることにした。
「今更なのですが、霊夢さんは博麗神社の巫女……なんですよね」
『そうよ。それがどうかした? さとり』
「いえ、巫女が神を倒そうとするのって、よく考えなくてもおかしいのではないかと。巫女は神を尊ぶ立場にあると思うのですが」
さとりの顔には若干の混乱が見られた。霊夢が当たり前のように言うものだから普通に受け入れてしまっていたが、確かに改めて思い返してみると、巫女が神を倒すというのはどこかおかしい気もしてくる。
人間は通常、妖怪を恐れ、妖精をうざがり、神を敬う。妖怪は人間を喰らう特性があるのだから恐怖感が前面に出てしまうのは当然だ。妖精は人間を食べはしないものの総じてイタズラ好きなので、近くにいれば人間は少なからず警戒するのもしかたがない。そして神は人を食物としては見ず、気ままな者が多いほか、人から信仰されることで自らの力が高まることを知っているので、基本的には敬ってくる相手を優遇――神徳を与えたり等――するのである。
巫女は、人間と神の橋渡しとなる職業の者のことだ。さまざまな手を尽くし人の心を集めることで神への信仰を高めるほか、神から人へと向けた言葉や力を借り受け、代わりに行使をする。巫女にはその過程でお賽銭等の形でお金を稼ぐことが許されており、すなわち神という存在のおかげで生計を立てることができる職業だと言えた。
『そんなこと言われてもねぇ。一応ある程度は心の中でありがたがってるつもりだけど、別にあいつらのおかげで生きていけてるわけでもないし、うちの神さまは名前すらわかってない状況だし。野良の神さまなんて妖怪とほとんど変わりないしねぇ』
神々をあいつら呼ばわりする巫女なんて霊夢くらいだろう。さとりは目をぱちくりとさせていた。
巫女は神の恩恵を受けることで生計を立てるのが常だ。ただしそれは通常の話であり、例外は存在する。博麗の巫女は代々妖怪退治に優れており、そちらを活用すれば巫女としての活動をしなくともお金を稼ぐことは容易にできるのだった。霊夢はむしろ妖怪退治をメインに行うことが多く、一昔前の巫女の在り方とは違って、神に頼らずに生計を立てて生活をしている。
加えて言えば、彼女特有の『人や妖怪、どんな存在であろうとも平等な存在として捉える』という性質が神への信心を阻害していたりもするのだろう。もしかすれば、霊夢にとって神なんて『人間によくしてくれる妖怪みたいなもの』程度の認識しかないのかもしれない。それほどまでに彼女は平坦なものの見方を備えているのだ。
『ま、今回懲らしめようとしてるのはうちの神社の神さまじゃないし、気にしなくたっていいんじゃない?』
「気にするのは霊夢さんの方なのですが……まぁ、当人であるあなたがそう言うのなら、私も気にしないでおきましょう」
地底に神はまったくと言っていいほどおらず、つまりさとりにとって神というものは身近な存在ではない。一度気にすることをやめようと決めた彼女は、それ以降の会話で徐々に霊夢の神の見方について疑問を抱かなくなっていった。
俺とさとりとこいしは、妖怪の山を飛んでいる霊夢からのリアルタイムの実況を聞きながら、適当に思ったことを話していく。
神でありながら妖怪の一部とされる、
しかし山の滝があるところを越えかけた辺りで、霊夢はそこそこ厄介な相手に立ち会ってしまったようだ。
『あやややや……侵入者の報告で来てみれば、まさかあなたとは』
「これは……いずれ天狗が来ることはわかってましたけど、文が来ますか」
「ああ、この声、文さんですか。言われてみればそんな感じですね。気づきませんでした」
さとりが納得した風に頷いていた。宴会で数回飲み合った程度の関係なので、桜舞う宴の時期から何か月も経った今ではあまり声を覚えていなかったのだろう。
ふと、俺が一緒について行った時を妄想してみて、さきほど想像した時のように大量の天狗に辺りを囲まれる光景を幻視した。霊夢に一人で行かせて正解だったのだと改めて思い直す。
「誰?」
『めんどくさい新聞記者よ』
こいしの質問に、俺やさとりよりも早く霊夢が簡潔に説明をする。こいしは問いかけた割には興味なさげに「ふーん」と相づちを打った。
『めんどくさいとは失礼ね。私はいつだって清く正し……って、今はそれより大事な用がありました』
『私にもあるわ、大事な用。とってもとっても大事な用がね。でもそれは天狗どもにじゃない。あんたらには迷惑かけないようにするから、そこを通してくれない?』
『そうもいかないわ。私はね、侵略者の報告を受けて呼び出されたのよ。ただの新聞記者なのに』
『だから?』
別にいいなら早く通してくれ、と言外に告げているような声音での霊夢の返しに、文は退くことなく返答をする。
『あなたのことを一番よく知っているのが私だから、あなたの相談ごとに乗れるかもしれないっていう粋な計らいね』
『さっきも言ったけど、あんたらに迷惑をかけるつもりはない。私はただ、うちの神社をどうこうしようとしてる山の神さまを懲らしめに来ただけよ』
『山の……ははーん、さてはあの神さまのことかな?』
文がいかにも心当たりありげな反応を示すものだから、霊夢が「なにか知っているの?」と食いついた。
『天狗も手を焼く神さまが山に住み着いた。どんどん山を自分のものにしようとし、麓にまで信仰を広げようとしている』と。文の説明に、きっとそいつだといきり立つ霊夢だったが、しかし文は調子に乗るようだったら天狗たちで倒すつもりだから、あなたが行く必要はないと釘を刺した。
「霊夢、どうしますか?」
答えはわかっていたが、一応聞いておく。
『決まってるでしょ。なんでここまで来たのに引き返さないといけないの?』
予想通り文の提案には否定の意を示した。霊夢は続いて「そもそも天狗になんて任せられない」とも口にする。
『あんた、私をその神さまのところに連れてってよ。あんたらより早く懲らしめてやるわよ』
『あいかわらず無茶苦茶なことを言いますね。まぁでも本音を言えば、私個人としてはそうしてもいいと思っています』
『だったら』
『それでも私はあなたを通すわけにはいかないの。だって、私があっさり通しちゃったら見回りの天狗たちが納得いかないからね。組織ってのは面子を大事にするものなのよ』
『なにそれ。めんどくさいわね、天狗って』
霊夢は説得を諦めたようだった。ため息を吐く音の後、衣擦れの音がする。おそらく袖の中からお札を取り出したのだろう。
「霊夢」
『はいはい、危なくなったら壊すわよ。いちいち言わなくてもわかってるって。あ、ちょっと集中するから重要な用がある時は大声でお願いね。反応できないかもしれないし』
さすがの霊夢も天狗は片手間で倒せるほどに弱くないことを知っている。彼女は声はわずかながらこれまでにない真剣さを帯びており、自然とこちらの空気にも少しばかりの緊張が漂っていた。
『誰と話しているのですか?』
「あんた」
『ま、誰でもいいんですけどね』
「なら聞かないでよ」
ムッとした霊夢の様子が頭の中で想像できた後、テーブルに置いた球体の向こうから文の笑い声が聞こえてきた。
『さぁ、手加減してあげるから本気でかかってきなさい! 天狗の面子を守るついでに、本当にあの神さまに勝てる実力があるかどうか、ここで試させてもらうわ!』
『あっそ。行くわよ』
そんな軽い霊夢の返事を合図に、弾幕の生成音やら衝突音やらが球体から響き始めてきた。これまではスペルカード戦をしている時は会話をしていたが、今回はそれもなく、固唾を飲んで耳を澄ませている。
絶え間なく続くそれを聞き続けていると、見守ることさえできない現状に、なんだか言いようもない無力感が徐々に湧き上がってくる。
霊夢は本当に大丈夫なのか、ただ魔道具を渡すだけでよかったのか。もっと俺にできることはなかったのか。
ふいと、さとりに手を握られた。伝わる温もりが焦りを掻き消していき、沸き立つ不安が抑制され、段々とどうしようもなかった無力感さえも薄れてくる。
戦闘が大分続き、あちらに釣られて漂っていた緊張が解れてきた頃、さとりが口を開いた。
「レーツェルは、無力なんかじゃありませんよ」
「……でも今、私にはなにもできてません」
「冷静にことを考えて、耐え忍ぶことが大切な時もあります。今の自分がなにもしていないからと、ただただ感情に流されるままその時その時で行動するのではいい方向へことは転びません。時にはそういう感情を抑制することも大切なのです」
「それは、そう……かもしれませんが」
「レーツェルはそれをわかっているはずです。わかっているからこそ、直接ついていかずに、首飾りを託したのでしょう?」
さとりの説得に俺はなにも言い返せなくなった。
言い負かされたわけではない。俺を安心させようと、さとりはとても優しい声音を意識している。それに気づき、非常に申しわけない気持ちと同時に、多大なる感謝の念が生まれてきていたのだった。
人の心が読めるとはどういうことなのだろう、と。さとりと会ってから、たまにそんなことを考えることがある。実感ができない自分にはその答えは未だ出せないが、一つだけわかったことがあった。
その能力は他人に無条件に嫌われるほどに邪悪なものでも、忌まれるべきものでもない。
「ありがとうございます、少し、安心できました」
俺のお礼に、さとりは照れくさそうに頬をかいた。
自分がしてきたことを常に振り返ってしまうから、自分の選択に自信が持てないから、こうも不安な気持ちになってしまう。これを抑えることが重要だと言うのなら、答えは簡単だった。俺はただ、霊夢を信じるようにすればいいのだ。なにせ俺はこれまでの付き合いで霊夢の強さを十分に知っているのだから。
相手が文であることも安心できる要因の一つだと意識する。彼女が相手ならば霊夢が危機に陥る可能性が万に一つもないだろう。
そろそろ戦いも終盤に差しかかっている頃だろうか。それでも、この一言だけは言っておきたかった。
「霊夢、がんばってください」
自分から手を出せない立場にいるからこそ、心の底からの強い思いを込められた気がした。