東方帽子屋   作:納豆チーズV

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 Sie hat das Lächeln der jüngeren Schwester sehen wollen.
 ――彼女はただ、妹の笑顔が見たかった――――。


Kapitel 10.Alice im Märchenland
一.Ältere Schwester①


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 ――ねぇ、お姉さま。もしも私が、違う世界から来たって言うならどうする?

 ――違う世界って、なによそれ。どうしたのよ急に。

 ――なんだか唐突に聞きたくなっちゃってね。ほら、実は私ってお姉さまよりちょっとだけ年上なんだよ。そうしたらお姉さま、どうする?

 ――はぁ、そう。凄いわねー。

 ――完全に信じてないね……うーん。まぁ、いいや。お姉さま、今のは忘れてくれてもいいよ。

 

 そうやって目を逸らす、銀の中に金の色彩が混ざる美しい髪をした少女は、どこか寂しそうにしているように見える。今の会話はほんの冗談交じりのもののはずなのに、どうしてか彼女はそれを本当のことみたいに思っていて、その『違う世界』に戻れないことに悲痛を覚えているかのようだった。

 それはまるで、誰も踏み入ることができない暗い海の水面に立って、ずっと遠くの届かない水平線を見つめているかのように。それはまるで、どこで誰といても結局自分は一人ぼっちなのだと言っているかのように。

 私は少しの間、口を噤んだ。

 目の前の少女はいつもそうして唐突に物淋しげな顔をするのだ。

 ほんの一年くらい前までは特に訴えることもないくせに毎日のように泣きわめいていたし、それを抑えるのにもなぐさめるのにも、いつも両親が手を焼いていた。たった二つしか歳が離れていない姉の私はもっぱら甘えたいざかりの時期だったから、妹に大好きな父と母が取られてしまっていることを疎ましく思っていた。

 私だってたくさん甘えたい。わがままを言いたい。それなのに。

 両親が手を離せない時の少女のお守りは、私の役目だった。少女が泣き出した時は毎度私は自分の表情をがんばって笑顔に変えて、優しげな声音になるように意識して、少女が人肌を感じられるように寄り添いながらよしよしと頭を撫でる。とにかく彼女が泣き止むのを待つのである。心の中では、どうして自分がこんなことを、なんて葛藤を抱えながら。

 半年ほど前からその気持ちは少しずつ薄れてきて、代わりに姉としての使命感みたいなものが湧いてきたけれど、それでもまだ私は妹のことを理解しているとは言いがたかった。

 意味もなく泣きわめくことはなくなったが、あいかわらず前兆もなく泣きそうな顔をするのは変わらない。どうしてこの少女はいつもいつも泣いているのだろう、どうしてこの少女はそんなにも苦しそうな顔をするのだろう。私はいつだってそれを不思議に思っている。

 今、ここで少女が浮かべている寂しそうな顔もいつものそれと同じものだった。だから私もいつも通り、少女の頭を優しく撫でて、大丈夫だと柔らかに囁いてあげようとする。そうすればいつも泣き止んでくれるから、もはや慣れた手際でそれをしようとする。

 しかし今日はいつもと違うことが一つだけあった。私が動くよりも先に、目の前の少女が痛々しい笑顔を浮かべたのである。

 いつだって私の手を煩わせているからか、それを申しわけなく思って、なんの心配もいらないと突っぱねるかのように。妹のくせに、姉の私に気を遣っているかのように。

 なんだこれは。

 そのあからさまな作り笑いを、私はふいと大嫌いだと感じた。そんな表情の少女を見たくないと、心の底から強く思った。

 腹が立ったのだ。一人が嫌なくせに、一人で抱え込もうとするその姿に。

 だから、私は彼女の両肩を強く掴んだ。

 

 ――あなたがどこの誰でも、たとえ私より年上なんだとしても、あなたが私の妹だという事実は変わらないわよ。あなたがどんなでも私はいつもみたいにあなたを甘やかして、あなたの前を歩く姉でいる。あなたが安心して頼れるような、ただ一人の姉でいる。

 

 そう言ってやった。

 少女は目を見開いていた。ぱちぱちと目を瞬かせて、私の顔をじっと見つめていた。私はただ、それを見返していた。

 それからしばらくすると、彼女は、ゆっくりと頬を緩めていって。

 誰よりも優しくて人懐っこい、本当に嬉しそうな微笑みを浮かべたのである。

 

 ――ありがとう、お姉さま。

 

 ああ、これなのだ。

 私は、少女が見せるこの顔を見るのがなによりもお気に入りだった。他の誰のそれよりも一番の大好きだった。

 最初は少女のことを疎ましく思っていたはずなのに、私は、いつの間にかその世話を焼くことに充足した感覚を覚えるようになっていたのだった。

 この顔が見たい。うん、その表情も結構いいかも。でも、やっぱり。

 感情豊かな少女の表情は見ていて飽きない。いつだって私は彼女のいろんな顔が見たくて、そしてなによりも笑う顔が見たくて。

 それはなににも代えがたい唯一のクオリア――私だけが感じるのことのできる、少女とともに在ることに対する幸せだった。

 

 ――どういたしまして。

 

 心の底から溢れ出た、本当の笑顔。少女がそれを浮かべるからこそ、私も同じように笑うことができる。

 守りたい。誰にも傷つけさせたくない。大好きな妹と、この先も一緒に歩んでいきたい。

 姉として、そしてそれ以上に私がただ私として、私は強くそう思っていたのだった。

 

 

 

 

 

「……ここは」

 

 闇の中に沈んでいた意識が少しずつ浮き上がってきた。頭の覚醒と合わせ時間をかけて開いた目の中に、なにやら柔らかそうなものが入ってくる。

 どうしてか視界が滲んでいた。それから、なにか熱いものが頬を伝っていることに感づく。半ば無意識に指で掬ってみて、それが目元からこぼれ落ちた涙という雫であることを理解した。

 夢を見ていた気がした。なによりも大切で、他のなんだろうと代わりになんてならなくて、私だけが感じることのできる、幸せな思い出の夢を。

 

「誰……かと、話してた……それから、笑ってた……?」

 

 どうにか夢の内容を探ろうとしてみる。けれど夢という曖昧なもののためか、すでに目覚めてしまった頭では眠りの記憶を呼び覚ますことはできない。現実だったのかということさえひどく疑わしげな、なんの形も成していない朧しか思い浮かばせることができない。

 どうしてか、この記憶だけは思い出さなくてはならない気がした。決して忘れてはならない気がした。

 だが、こんな状況ではどうしようもない。いったん思い出そうとする思考を断ち切って、そのことを横に置いておく。滲んでいた目元を腕で拭い、改めて周囲のことを把握する。

 最初に見えた白い柔らかそうなものは天蓋だった。半透明なそれの向こうには、机やイス、鏡やランプ――どうやら私は、自室のベッドにて横になっているらしい。

 起き上がり、ベッドの端から足を投げ出して立ち上がる。それからサイドテーブルに置いておいた帽子を手に取って、いつものように頭にかぶった。

 とりあえず、今の時間帯を確認したかったので扉の方へ向かう。吸血鬼は日の光が苦手なゆえに自室に窓は取りつけていない。照明のついていない部屋の中は暗闇に包まれていたが、私の目には問題なくその中が見えていた。

 廊下に出て、窓の外を見やる。ぱらぱらと雪を降らす空は雲に覆われていたが、その明るさの程度から今が朝の早い時間であることは把握できた。

 

「……昨日は、なにしてたんだっけ」

 

 窓に近づき、枠に肘をつく。その時にわずかに背が届かなかったので、ちょっと浮いておいた。

 目を閉じて思い出そうとしてみれば、夢の内容とは違って鮮明にそれが頭の中をよぎっていく。

 そろそろ霊夢が帰ってくる頃だろうと思って、月に行く手伝いをしてくれたお礼のために、私はパチェとともに月で見た海の記憶を頼りに、大図書館に小さな海を作っていた。本をどけて、スペースを作って、水を巡らせて……パチェが最終調整をするという時に、私はちょっと図書館を離れた。そこで誰かと会った。

 誰か?

 会ったはずだ。だけれど、会っていないような気もする。他の記憶は鮮明なものだというのに、そこだけはどうにも靄がかかったように曖昧で朧げだ。

 

「覚えてる……はず、なんだけど」

 

 思い出せない。確かに記憶の中にはあるのに、それを引き出すことができない。目を向けることができない。

 なんだろう、この感覚は。

 どうしても呼び起こさなければならない記憶である気がする。その時交わした会話は他愛もないものだったはずだけれど、最後に見たあの少女の目は今まで見た中でもなによりも悲しそうで、辛そうで。

 少女? 今まで見た中で? 私は、その誰かと長い付き合いの知り合いだったのだろうか。

 

「なんなのよ、この焦燥は」

 

 胸を掻き毟りたいような気分だった。悲しい? 辛い? 苦しい? 全部が当てはまるはずだというのに、少しも心が痛くない。少しも悲痛や苦痛を感じない。ただただ焦りと空虚だけが胸の内で存在感を放っている。

 思い出さなければ。なんとしてでも思い出さなければ。どうして? わからない。思い出せなくたって少しも問題ない。むしろ思い出せないことを受け入れてしまえば楽になれそうだった。でも、どうしても。

 悲しいはずだ。辛いはずだ。苦しいはずだ。なのにまるで行き場をなくしてしまったかのように、ただ淡々と第三者の目線でそれを捉えるだけだった。痛みがない。辛さがない。気持ちの中を意味のない空虚が充満している。虚無が広がっている。無が大半を占めている。

 ただわずかに、意味のわからない出所の不明な気味の悪い使命感を覚えるだけで、その他はすっぽりと抜け落ちてしまったかのようになにも感じることができなかった。

 これはなんなのだ。この言いようのない異様な感覚は、いったいなんなのだ。

 

「レミリアお嬢さま」

「……咲夜ね」

 

 背後に立たれるまで気づけなかった。振り返ると、声から予想した通りの銀髪の少女の姿がそこにある。

 咲夜は時を止める能力を有している。だが、それを使って私の後ろに回ったわけではないだろう。ただ単に私が考え込みすぎていただけだ。

 

「パチュリーさまが呼んでおられます。相談したいことがある、と」

「奇遇ね。私も誰かに聞いてほしい悩みがあったのよ。咲夜、あなたはどう?」

「……そうですね。なんだか、なにかが物足りない気がしています」

 

 咲夜がなにかを探すように、宙空を見据え出す。

 

「決定的ななにかが足りないような、なくしてはいけないものがどこかへ行ってしまったような……こういうもの、時を止めている時はいつも味わっていたような気がするのですが」

 

 どうやら私だけが覚えている感覚ではなかったようだ。遠くを見据えるように目を細める咲夜を見ていて、きっと私と同じような気持ちを抱いているのだと理解する。

 パチェからの誘いを断る理由はない。むしろ私から向かいたいくらいだった。

 私は咲夜を引きつれて、大図書館の方へと足を進めていく。その途中にも、とにかく記憶を探ることを忘れない。

 思い出せない誰かと会った後、どうしてか私はひどく慌てていて、海に霊夢を誘うのを中止した。そのくせして急いで博麗神社の方に向かい、そこにいた魔理沙と文に霊夢がその誰かを追いかけて上空へ飛んでいったことを聞いた。私もそちらへ向かおうとして……そうだ。その直前で霊夢を追いかける理由が突然わからなくなって、愕然と立ち竦んだんだ。

 その時までは、その誰かのことを私は確かに覚えていたような気がする。いや、覚えている覚えていないとかではなくて、そもそも一度たりとも忘れかけたことはなくて。

 ああ、もう。イライラする。でも、そのイライラさえも不快という気分にはほど遠くて――どこか薄ら寒さにも似た感情を覚えた気がした。それもまた、気づけば虚ろへと沈んでいってしまったけれど。

 

「パチェ」

 

 図書館についた。机を前にして座るパチェは珍しく本を手にしておらず、不可解なことに直面したかのごとく、目を瞑って思索に耽っているようだった。

 私の呼びかけで私と咲夜の来訪に気づいたパチェは、ゆっくりとその瞼を上げる。

 

「来たわね。その様子だと、レミィもそうだと思うけど」

「ええ。いないわね、誰かが」

「咲夜は?」

「同じように感じていますわ」

 

 私と咲夜の回答に満足したかのようにパチェが頷いた。それから机の上に置いてあった魔導書の一冊に手をつけ、一ページ目を開いては私たちを手招きする。

 パチェのすぐそばまで近づいてその本を覗き込むと、そこには『生活魔法』と書かれた目次があった。

 

「著者は不名よ。ただ、この本は……今私たちが思い出せない誰かからもらった、私の宝物……のはず。いえ、確かにそうなのよ。うまく思い出せないけれど、忘れているわけじゃないから」

 

 それから、とパチェが天井を見上げる。そこには不可視化されている魔法陣があるのは、大図書館に入ってすぐに把握できた。

 

「ここを中心に構成された、普段は見えないようにされている保護の魔法……魔術式からして、これは私が手掛けたものではないわ。そもそも私にこれを作った記憶はない。かと言って妹さまのものでもないから……」

「その思い出せない誰かとやらが作った代物、というわけね」

「ええ。私に本をプレゼントしてくれたり、館にここまでわかりやすい仕掛けをしていたり……これはその誰かが、私たちと親しい関係にあったということのなによりの証拠よ」

 

 なのに思い出せない。昨日のある時を境に、まるで記憶に鍵をかけられたかのように思い浮かべられなくなってしまった。

 首が疲れたのか、パチェが視線を下ろし、本を閉じた。それから、その魔導書を大事そうに胸に抱える。

 

「この現象の原因はいったいなんなのでしょう」

「そこまではわからないわ。手がかりが少なすぎるもの。ただ……なにか感情が変なような気がするわね」

 

 それは私も感じていた。悲しみ、苦しみ、辛さ、寂しさ、切なさ、憎しみ等々――およそ負に類するものから発生する心の痛みがなくなっているとも言おうか。そこから発生するはずの激情が形あるものへと昇華する前に虚ろなものへと変化し、無だけが胸の内を駆け巡るのだ。

 まるでぼーっと宙を眺めているだけのように、思いがけないことに呆然としてしまった瞬間が永遠に続いているかのように。

 

「……そういえば咲夜、里の様子はどうだったの? 私の予想では、相当大変なことになってると思うんだけど」

「里の様子?」

 

 私が首を傾げると、パチェが「見に行ってもらってたのよ」と説明してくれる。どうにも昨日から妙な力の気配が漂っているらしく、その影響が里で出ていないかを咲夜に確認してもらうよう頼んでいたらしい。

 パチェの問いに、しかし咲夜は途端になにか言いにくそうに黙り込んだ。どうしたと言うのだろう。よほど言いにくい状況だったのだろうか。

 

「……阿鼻叫喚でしたわ。いえ、むしろその逆でしょうか」

「逆って、どういうことよ」

「これを見てもらった方が早いと思います」

 

 咲夜は懐からナイフを取り出すと、それを思い切り自身のもう片方の手の甲へと振り下ろした。いきなりすぎて止める気さえ起きるのが間に合わず、ただ私は目を見開く。

 そうしてすぐにそれ以上の驚愕を経験した。

 ナイフが刺さっていないのだ。どう見ても肌には当たっている。当たっているけれど、ただそれだけで、それ以上刺さりもしないし切れもしない。咲夜はどう見ても思い切り力を入れているのに、なんの音もなく刺さる直前で止まってしまっていた。

 まるで、刺さるや斬られるという事象そのものが世界から抜け落ちてしまっているかのように。

 

「それが火でも、窒息でも、長物で殴られることでも、高いところから落ちた衝撃でも……妖怪の捕食でも、同じようなことが起こるみたいですわ。その先の現象がそもそも存在していないとでも言いましょうか」

「……なるほどね。それはそれは里は混乱していることでしょうね」

 

 パチェが難しそうな顔をしながらため息を吐く。彼女はきっと、この状況が恐ろしいと感じているのだろう。

 だが、それが心に不安定さをもたらしてはいない。不安や心配と言った感情を抱くことはない。どういうわけか、そうなるように仕組まれているから。

 

「現在は危機感を覚えた……って、今はそんなものありませんね。危機感を覚えたフリをした人たちが、家の外に出ないようにと里で言い回っているようです。ただ、それも一時しのぎにすぎないでしょう。いずれ誰もが今の状況を受け入れるようになって」

「倫理観の崩壊。無秩序な異常行動をする者で溢れ返る、というわけね。その世界では普通の行動なのかもしれないけど」

 

 その時、人々がなにをしているかなんて容易に想像することはできないだろう。仮にそれがかなったとしても、きっとその想像を絶する狂った事態ばかりが繰り広げられるに違いなかった。

 肉体的にも心理的にも、自分や他人がどんなことをしても傷つかないと知った時、人はどう動くようになるのか。負に類する感情から痛みという根幹が抜け落ちてしまったことを正しく『理解』してしまった時、人々の心の在りようがどう変化するのか。

 ぶるりと、寒気が私の全身を駆け巡る。それはおそらくことの悍ましさから来たものだろう。おそらく、というのは、私ももはや正しい形で恐怖心を抱くことができないからだ。危機感を覚えることができないからだ。ただ淡々と、少し前の自分ならこういう気持ちになっただろうと空想するだけ。

 

「早めに解決しないと不味いわよ、この異変は」

 

 パチェの呟き――だが、それも私と同様に少し前の自分を思い浮かべての、危機感を覚えているフリなのだろう――に、私と咲夜も無言で頷いた。

 親しかったはずの誰か、およそ痛みと呼べるすべてのモノ、そのそれぞれの消失。

 この二つは繋がっているのだろうか。そんな自分への問いかけに、すぐに答えは出せる。確実に繋がっている。でなければ、こんなに都合よく二つが同タイミングになくなったりはしない。

 そんな私の持論を語ってみると、パチェも咲夜も同じ考えであるらしかった。一様に首を縦に振り、同時にこの異変に積極的に関わろうという意志を示し合う。

 いつものように博麗の巫女に任せておけばいいなんて、そんな悠長なことは言っていられなかった。そもそもこの異変は、どうしてか思い出せなくなってしまっている私たちと親しかった誰かが手がかりとなっているようだし、それならば私たちにも責任があると言える。

 いや、違うか。これはきっと、そんな理屈的な思考から生じた使命感ではない。

 

「パチェはこのままここでその誰かの痕跡を探してて。それで、なにか思い出したら連絡して。咲夜は、そうね。霊夢を呼んできなさい。霊夢の勘は鋭いし、なにかの役に立つかもしれない」

「わかったわ。仰せのままに」

「わかりました、レミリアお嬢さま」

「私は私で足がかりを探すわ。二人とも……よろしくね」

 

 ただただ大切なだけだ。親しかっただろう誰かが、私にとってそれほど大事なだけなのだ。

 無意識にそれを覚えている、感じている。だからこんなにも焦りが体中を走り回っている。だからこんなにも、どうしても思い出したいという欲求と衝動に駆られている。

 きっとこれを気にしないようにしてしまえば楽になれるだろうことはわかっていた。きっと、痛みのないこの世界では、その気持ちを捨てさえすれば楽に生きることができるように仕組まれていることは理解していた。

 それでも。

 ねぇ、どこか遠くへ行ってしまった、とても大切だったはずの誰か。あなたはどこにいるの? あなたはなにをしているの? どうして私は、あなたを忘れてしまっているの?

 そんな問いかけに返事はない。虚ろが広がる。どこまでも寂しげな空虚が続く。

 見つけなくてはならない。そんな漠然と、しかし確かな突き動かすものを胸に、私は大図書館を後にした。


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