東方帽子屋   作:納豆チーズV

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二.Ältere Schwester②

 私は私で足がかりを探す、とは言ったものの、はてさてどうしたものか。

 とりあえず、昨日よりも前の記憶を探ってみる。二日前、一週間前、一か月前、一年前、一〇年前、一〇〇年前――もっと昔を。

 すると驚くべきことに、そのすべての記憶に同様の靄がかかった部分があることに気がついた。明瞭に思い出せる出来事も、思い出せなくなっている誰かと関わる部分だけが不自然に有耶無耶なものになっている。

 これが示す事実はただ一つ。その思い出せない誰かは咲夜やパチェ、美鈴と出会うよりもずっと昔から私の隣にいたということだ。

 そもそも美鈴やパチェ、咲夜を私はどうやって紅魔館に住まうように引き入れたのだろうか。美鈴は私が見込んで門番にして、パチェはパチェの方から頼み込んできて、咲夜はこのまま死に絶えるにはもったいない命だと思ったから。

 でも、そのすべてが私だけの意思で決定したものだっただろうか。なにもかものことが少なからず、思い出せなくなっている誰かのために……ダメだ。そのはずなのに、実感が沸かない。どうしてもそうなのだと確信することができない。だけど、一応そう仮定して行動してみることにしよう。

 私は館の中を歩き回った。食堂、テラス、玄関、ホール等々――主に私が毎日行くような場所に足を運ぶ。しかし、どこにも足がかりとなるものは見つからない。ただ、途中で通りがかった妖精メイドたちに私や咲夜、パチェが覚えているような違和感がないかと尋ねてみたりしたところ、彼女たちはそういえばと言った具合に考え込む仕草を見せていた。思い出せないだけで、妖精メイドたちも確かに覚えているのだった。

 そもそも私はなにを探しているつもりなのだろう。ただ考えなしに食堂やホールなんかを見回ったって大した意味がないのは明白だった。見つけ出すべきものは思い出せなくなったしまった誰かが残した痕跡、もしくはその人物に関わる私たちが残した記録等である。

 ならば、それがあるだろう場所はどこだろう。思い出せなくなってしまった誰かの部屋が一番手っ取り早いが、どうもそこにも靄がかかっていた。腹が立つ。ただ、そこに不快感の一切は存在しておらず、興奮するだけであったが。

 

「……思い出そうとすればするほど、逆にわからなくなっている……?」

 

 ならばなにも考えず無意識のままに行動できれば楽なのかもしれないが、あいにくとそこまで私は思慮のない生き物ではないと自覚している。ついでに言えば一度靄がかかる現象の発生条件に気づいてしまったために、それを意識しないでいることが難しくなってしまった。もはや無意識下で行動しての手がかりへとたどりつく方法の実行は絶望的だと言っていい。

 ああ、もう。やらかしたか? どうしたものか。

 

「――私の部屋、か」

 

 自室を通りすぎかけて、ふいと私は立ち止まった。起きた時にそこにいたから見回ろうなんて考えもしなかったが、思い出せない誰かが本当に昔から私と知り合いだったのだとすれば、その者の部屋の次に私のそこに痕跡が残っている可能性が高い。

 思い立ったが吉日、私は意を決して自室の内部へと突入する。見慣れた内装が視界に広がるが、敢えて家具や道具の一つ一つに注目するように意識してみた。

 まず照明。これに関しては妖精メイドたちが設置してくれた記憶があるので、思い出せない誰かの痕跡とはまったく関係がないはずだ。

 次にベッド。古くなりすぎて何度か替えることはあったが、デザインは完全に私の趣味であるし、そこに私の意思以外が介入する余地はない。

 

「鏡……ねぇ」

 

 吸血鬼は鏡に姿が映らない。なのになぜ必要ない鏡がここにあるのか。その経歴を探ろうとしたところ、ほんの少しだけ靄がかかった部分を見つけることができた。

 思い出せ。ただし思い出そうとせず、なんとはなしに記憶を探るのだ。

 

「むぅ」

 

 鏡を設置したのは自分の姿がどんななのか確認したかったからだったことを記憶している。寝ぐせに気づけないでそのままにしているのははしたないし、そういうところはできるだけメイドの手を借りずに自分でどうにかしたかった。なにより姉として妹のための見本になれるようにと……妹? フランはその頃はまだずっと地下室にこもっていたから、そんなこと気にしなくても……ああダメだ。気にし出してしまったら、それを詳しく思い出すことはかなわない。思考を進めよう。

 そういう目的で自室に鏡を取りつけた私だったけれど、なんとも抜けていることに、実際使うまで吸血鬼が鏡に映らない特性があることを忘れていた。即座に意味のないものと化した鏡だったが、どうしてそれが未だここに残っているのか。

 真似だ。

 思い出せない誰かが私と同じように自室に鏡を置いていたから、私も残しておいた。きっと、ただそれだけのことだった。

 

「うーん、でも、これは役に立ちそうにないわね」

 

 一応、昔の私が思い出せない誰かに関わるものとして残した痕跡ではあるのだが、大した意味を持ちそうにない。

 というより今更だけれど、痕跡なんて探して、私はどうするつもりなのだろうか。本当にそんなものを見つけ出すことでなにかが変わるのだろうか。完全に思い出すことができるようになるとでも思っているのか。

 そんなことは不可能だ。

 思い出そうとすればするほどに靄がかかるこの記憶を解消するためには、その思い出せない誰かに関わる痕跡を探すだけでは明らかに足りない。わずかな足がかりでは、決して記憶の先にはたどりつけやしない。こんなこと、ただ単に思い出に浸るのと一緒なのだから。

 もっと強烈な衝撃が必要だった。もっと刺激的な、それでいて形ある思い出が必要なのだ。

 

「はぁ」

 

 そんなものが都合よくあるはずがないだろう。そしてそれがわかっても、今の私にできることは限られている。なにせ状況が状況なのである。

 諦めてさらに自分の部屋から痕跡を探そうとした。なにか思い出せない誰かへ繋がるものがないかと、わずかな希望を胸に辺りを見回そうとした。

 そんな時、ふと私の目が本棚に留まる。本棚を埋め尽くす勢いでしまってある、何十年も前から置いてあるような何冊ものボロボロな日記帳を見つけたのだった。

 どうしてかそれを目にした途端、ふらふらと足が動く。意識せず、半ば勝手に手がそれに伸びる。

 私は日記帳の一冊を取り出して、震える手でそれを開いた。

 

「一九四三年……一〇月。紅魔館にパチュリー・ノーレッジと名乗る魔法使いがやってきた」

 

 ――月の光が日光を跳ね返したものだということに驚いた。なぜそんなものを妖怪が浴びて力を増すのかと言えば、おそらくは太陽の力を月の魔力で変換しているからだろう、とパチュリーが言っていた。たった十数年しか生きていない新米も新米の魔女だったが、知識だけは豊富なようだ。

 ――今度、レーツェルに内緒でパチュリーにいろいろ習ってみよう。それから姉として、妹に私が博識なところを見せてあげるのだ。私を尊敬する目で見るレーツェルの姿を想像すると、なんだか頬が緩んでくる。

 

「レーツェル……?」

 

 そうだ。私は日記を書いていた。そしてそれは、その思い出せない誰か――レーツェルという名前の少女に影響されてのことだったはず。

 ぱらぱらと捲っていく。記憶に靄がかかる思い出せない部分がすべて、これには記載されていた。

 パチュリーが家族になったことのお祝いに、レーツェルという少女とともにささやかなパーティを計画したこと。パチュリーが変なことばかりやらかすから、レーツェルにそのことを相談したこと。咲夜が初めて来た日、レーツェルの心を動かす鍵になるかもしれないと思って、咲夜を館に引き入れたこと。

 吸血鬼異変に誘われて、レーツェルを救うために必要なことかもしれないと参加したこと。しかしそれは間違いで、レーツェルにトラウマを呼び起こさせるだけの結果に終わってしまったこと。それからは日常を平穏に過ごすことで、少しずつレーツェルの傷を癒せればとやり方を変えたこと。

 幻想郷に来てからの生活。フランが外に出始めたことへの、これは受け入れていいのかという悩み。霊夢や魔理沙などとの出会いについて。咲夜の心を受け入れるレーツェルの素晴らしさをバカみたいに書き込んであったり。いろんな異変のこと、その後の宴会のこと。

 そしてなによりも多く書いてあるのは、レーツェル・スカーレットという妹とともに過ごす、他愛もない日常のこと。その妹が私にとってどれだけ大事であったかということ。

 

「…………レーツェル……スカーレット」

 

 呟いた名前はどんな言葉よりもしっくりきて、いつも口にしていたように言い慣れていた。

 頭の中でカチリと記憶の辻褄が合い、霧が晴れたように胸に溜まっていたわだかまりが消え去っていく。

 思い出せなくなってしまっている誰か。それは間違いなく、この日記に書いてあるレーツェルという私の妹のことだ。

 

「私は……」

 

 それがわかって、なんだか腹が立ってきた。あいもかわらず不愉快に思う気持ちは存在しないが、興奮だけは止まることを知らずに私の体温を急激に上げていく。

 私がムカついているのは、レーツェルにではない。自分自身に対してだった。なにもかもを思い出せないでいる私に腹が立ったのだった。

 この日記を見る限り――いや、この胸に満ちる圧倒的なまでの渇きは、レーツェルという妹が私にとってなによりも大切な存在であったことを証明している。もはやそれは疑いようもない事実であり、それだけは間違いのない真実だと、さきほどと違って確信を抱くことができた。

 ならばどうして思い出せない。ならばどうして、こんなにも平気な心持ちでいる。少しも悲しまない、苦しまない、辛くない。

 こんな程度じゃなかったはずだ、と。誰かに押さえつけられるほど、私の愛情は安くなかったはずだ。

 思い出せ。たとえ記憶から引き出すことはできずとも、この体は確かに覚えているはずだ。誰よりも、なによりも私は悲しんでいるはずなのだから。

 心の中に虚ろが溢れる。溢れ出る。無のくせに、なにもないくせに、心から零れ落ちていく。

 もっとだ。もっと寄越せ。この空虚は私がなによりも大切にしなければならないもの、なくしてはならないものであるはずだった。空虚に変わる前の感情は、私がもっとも忘れてはならない激情のはずなんだ。

 負に類する感情に痛みがない。だからどうしたと言うのだ。

 悲しみに痛みが付属してない。だからどうしたと言うのだ。

 悲しい。辛い。苦しい。その事実は変わらない、変えられない。目を背けるなんてできない、したくない。

 全部、私のものだ。たとえ誰であろうと、どんな力であろうと、他人なんかに奪わせてたまるか。

 

「レーツェル、スカーレット……」

 

 視界が滲み、頬を雫が伝う。涙だった。心なんて少しも痛んでいないはずなのに、悲痛の水滴が垂れていた。

 そうして私の顔に笑みが浮かぶ。してやったり、と。今の状況を仕組んでいる犯人を越えてやったのだ、と。

 大丈夫だ。私はなにも忘れていない。たとえ思い出せなくても、たとえ心に痛みがなくとも、レーツェルという大切な妹と過ごした日々をこの体はなによりも強く覚えている。

 誰にも否定なんてできない。そんなことさせやしない。レーツェルと過ごした思い出は私のものだ。私だけのクオリアなのだ。絶対になくさない。なくさせやしない。

 忘れていない。忘れていない。覚えている。覚えているんだ。思い出せなくても、確かにそれは私の中にある。すぐそばにある。

 それにただ、気づいた。

 

「……必ず助ける」

 

 涙を拭う。覚悟はもう――何百年も前から、とっくに決まっていた。

 日記帳を閉じる。手に持っていたのは最新のそれだった。時間も忘れて夢中で読み進めていたらしく、足元には読み終えた日記帳が散乱している。

 それを一つずつ拾って、時系列順に本棚へと並べていった。一つ入れるたびにその内容を思い返しながら、ゆっくりと。

 そのすべてが終わってから、私はパンッと強く両頬を叩く。目を覚ませ、しっかりしろと、体から思考へと指令を出す。

 日常なんてものに逃げるのは終わりにしよう。救うのだ。状況なんて顧みず、私が私の意志で、妹を。

 行こう。大切なものを取り戻すために。

 

『――――さすがと言うべきかしら。この異変の影響下にありながら、自力で自意識を確立するなんて』

「ッ……この声は」

『私が心配するまでもなかったわね』

 

 素早く視線を巡らせるが、どこにも声の主の姿はない。空間の隙間らしきものも見当たらないし、その気配もなかった。

 それでもいつなにをされてもいいようにと警戒をしながら、私は私を盗み見ているだろう者の名前を呼ぶ。

 

「八雲紫……いったいなんの用? 姿を見せなさい」

 

 紅魔館の内部にいきなり出てくるのはまだいい。けれど私にさらすのは声だけで、それも私の部屋なんてプライベートルームを覗くなんて不愉快極まりない。その不愉快さも虚無へと変化してしまうのだが、怒ったフリだけはしておく。

 

『それは無理な相談よ。姿を見せてしまえば私もこの紅霧の影響下に……って、あなたにはこれが見えないんだったわね』

「紅霧? 私はそんなもの出してなんか」

『レーツェル・スカーレットが出しているのよ。そして幻想郷中に溢れているけれど、それに触れている生き物はすべて見えないようにされている』

 

 レーツェル。その名に目ざとく反応してしまったことを、紫はもちろん気づいていることだろう。

 

『彼女が出す紅霧の効果はそれを見えなくする以外に、主に二つ。一つが負に類する感情から生じる痛みをなくすこと、一つが寿命も含めて通常の方法では死ねなくすること』

「……この異変が、レーツェルが起こしているものだと?」

『あら、あなたもそのことには気がついているはずよ。でなければ助けるなんて言葉は出てこない』

 

 日記帳によれば、レーツェルは『答えをなくす程度の能力』と自身で名づけた災厄の力を保有しているらしい。それを使えば、確かに現状を実現することはできるだろう。

 そして私は、きっと今回の事態がそうであると無意識に理解していた。

 

「でも、どうしてこんなことを」

『罪悪感に耐え切れなかったのか、守りたい大切なものが増えすぎたせいか。はてさて、いったいどちらでしょうね。最初は後者だと思っていたんだけど……どうにも納得ができない部分があるのよねぇ。かと言って前者の可能性も薄い』

「……まぁいいわ。とにかく、私はレーツェルを助けたい。それで紫、今まで結構話しかけてくる機会があったでしょうに、どうして今頃声をかけてきたの? あの子を救うのにちょうどいい案でもあるのかしら」

 

 少しでも可能性のある発案ならば迷わず実行する。そんな意志を込めての質問だった。

 

『思い出せなくても、あいかわらずの妹好きっぷりねぇ……どうして今更なのかっていうのは、別にあなたの動きを観察していたとかではなくて、ここまで結界を繋げてくるのに苦労しただけ。いくら月への対処だとしてカモフラージュができてもレーツェルの目がある紅魔館の近くには歪が作れないから、しかたがないわ』

「そう。で?」

『はいはい。案、案ね。まぁ、ないこともないわ。とっておきのがね。そうね……膝をついて頭を下げるって言うんなら教えてあげても――ちょっと待ちなさい。本当にやろうとしないの』

 

 やはり紫はどこからかこちらの様子を見ているらしい。私の動作を止め、これみよがしに盛大なため息を吐いてきた。

 

『……案は二つ。一つは、レーツェル・スカーレットを殺すこと』

「却下。次」

『そう言うと思ってたわ』

 

 当たり前だ。私が聞いたのは異変の解決法ではなく、レーツェルの助け方なのだから。

 

『私もできればそんなことはしたくない……というか、実はそっちの方が成功率が低いかもしれないのよね。ちょっとめんどうなモノをあの子は持ってるから』

「めんどうなモノ? 今も使ってるっていう、この答えをなくす力のこと?」

『それだけじゃない。もっと別の、あの子自身がもっとも忌まねばならない禁忌……まぁ、それも後で見せましょうか。二つ目の案を実行する直前に、それがある場所へ寄って行きましょう』

 

 もったいぶった言い方だ。はっきりとなにを持っているのか言ってしまえばいいのに。

 そんな私の考えを察したのか、はたまた顔に出ていたのか、紫が「あれは中途半端な予備知識があるよりも、直接見た方がいいだろうから。いえ、悪いのかしら」と補足する。

 教えてくれないなら教えてくれないでいい。その内情なんて知らない。早く二つ目の案を言ってくれ、と宙空を睨む。

 

『さて、案のその二は……あの子に思い知らせること。あの子がどれだけ幻想郷で慕われていたのか、どれだけ強く親しい者たちの心に残っているのか。それを伝えて、このバカげたことを自主的にやめさせるのよ』

「……そんなこと意味があるの? バカげてるけど、レーツェルは親しい者たちを守りたいって一心でこんなことをしているんでしょう? それに、その気持ちとやらを伝える方法がない」

『あなたはもう理解しているはず。苦しみがなければいずれ楽しさは消失し、痛みがなければ成長はできない。それが負であろうと正であろうとすべての感情は個々人のものであり、決して誰に奪われていいものでもないわ。あの子への親愛とともに、それを伝えるのよ。そうすれば、あの子が異変を起こす直前に霊夢を通して撒いておいた綻びが広まって……うまくいけば、の話ですが』

 

 うまくいけば。そしてその具合は、レーツェルを説得する私や親しい者次第というわけか。

 

『伝えるための方法だけど、その鍵は霊夢が握っているわ。それを使えば霧もなくなるから記憶を正しく取り戻すことができる。最初の方は私が境界を狭めて実体化させようと思ってたのだけど、あの子、厄介なことにそれを封じちゃっててねぇ。ちゃっかりしてるわ』

「ふんっ、さすがは私の妹だね」

『はいはい。あなたの妹のせいでいろいろめんどくさいことになってるんだから、威張らないの』

 

 めんどくさいなんて感情、今の私には抱けない。レーツェルが生み出している紅霧の影響下にいない紫だからこそ吐ける言葉であった。

 本棚から踵を返し、自室から廊下へと出た。

 

『あなたには必要なかったけれど、私はこれからあの子と特別親しかった人妖に声をかけて回りに行くわ。そうして紅魔館に行くように誘導する。ある程度集まったら、厄介なモノとやらを見せた後に案を実行するわよ』

「みなまで言わなくても、わかってる」

『そう。ならよかったわ。それじゃあ、また後で会いましょう』

 

 紫の声が聞こえなくなる。だが、やるべきことはすでに固まっていた。

 絶対に妹を救う、この異変を止めてみせる。できるできないではなくて、やる。この数百年間ずっと見たかったものを――レーツェルの笑顔を必ず取り戻してみせるのだ。

 足音は、レーツェルに関わる痕跡を探していた時の何倍も明瞭に聞こえた。迷いも疑いも完全に消え去った覚悟の心が自然と表れているようであった。

 みなまで言わなくてもわかってる。そう、わかっている。

 紫は親しかった人妖に声をかけに行くと言っていた。だけれど、それに含まれていない少女が一人だけいる。私にしか引き入れることができない存在が一人いる。

 

「ここが……」

 

 足を止める。日記帳によれば、私が今いる扉の先こそがレーツェルの部屋だった。

 手をかけて、ぎぃ、と扉を開いていく。

 私と同じようなデザインの天蓋のあるベッド、ベッドサイドテーブル、照明、鏡台、机やイス。部屋の隅の方にはテレビという灰色の四角い箱が鎮座し、そこから少し離れた場所に、布団を合わせたかのようなとても温かそうなテーブルが設置されていた。テーブルと言っても足は非常に低く、四方にはイスの代わりに座布団が置かれている。それらはおよそ洋風なこの館には明らかにマッチしていなかったが、どこか自然な雰囲気を放っているように思えるのは、それらが結構な日数この部屋に在る証拠であろう。

 そんなちょっと変な部屋のうち、ベッドの端の方へと私の目は自然に移動した。そこには私の予想通り、一人の少女がぼーっとどこか遠くを見つめながら座っているのだった。

 

「フラン」

 

 声をかけると、顔はそのままに瞳だけがこちらを向く。

 

「……お姉さま……じゃ、ないかぁ」

「いやいや、お姉さまよ」

「レミリアお姉さま、でしょ?」

 

 フランは生まれてから今まで、ずっとレーツェルとともに過ごしてきたと言う。だからこそその存在を思い出せなくなってしまった時、私以上に影響が出るだろうことを推測していた。だから地下室ではなくて、ここにいると思った。

 そしてその推測は当たっていたらしい。私のように刺激的な思い出の痕跡がなくとも、フランは私の他に姉がもう一人いたのだと気づいているらしかった。

 どこか寂しそうに、フランが右の手の平に視線を下ろす。寂しい気持ちなんて抱けないはずなのに、どうしてか彼女はまるでそれがあるかのごとき顔をしている。そこになにか大切なものがあるとでも言うように、とても大事そうに自身の手を見つめている。

 

「お姉さま。私ね、すっごく慕ってる人がいたのよ。大好きな人がいたの」

「ええ」

「大好きだった。ずっと一緒にいたいって思ってた。一緒にいるだけで幸せだった。ううん、今もきっとすぐそこに……でも、違うのよ。私が求めてるのは、そうじゃない。こんなのは嫌なの、絶対に」

 

 フランは、自分の胸の前で左手をぎゅっと握り込む。痛みなんてないはずなのに、嫌なんて感じられないはずなのに――いや、違うか。きっとフランも日記を見た時の私と同じ思いでいるのだ。

 心から溢れ出ていく感情、それが空虚に変わる前の激情をどうしても失いたくなくて、どこまでも深く自分の中を見据えている。虚ろの先の悲痛に手を伸ばしている。一緒にいることの幸せを、クオリアを忘れたくないと泣き叫んでいる。誰よりも強く、自分以外には決して誰にも理解できないだろう思いを持って、正も負も関係なしにただただ純粋に。

 

「わがままを言わないって約束したわ。誰よりも好きだった人と約束した……でも、だからどうしたって言うのよ。私は、誰も逆らえやしない破壊の力を持ってる。そんな口約束、いくらだって破ってやれる」

「あなたは本当にそれでいいの?」

「先に破ったのは、お姉さまの方よ。そう……思い出したの。思い出したのよ」

 

 フランの、自分の左手を握り締める力が強まったのがわかった。

 

「私は……私たちは、約束した。血の海の上で……すごく悲しそうな目をした優しい女の子と」

「それは」

「いっぱい遊んでくれるって……いつもいつも、お姉さまはずっと約束を守ろうとしてただけだった。私は忘れてたのに、お姉さまはずっと覚えてた。私がお姉さまから笑顔を奪っちゃったことだって、本当は気づいてたわ。気づいてたから、目を背けたかっただけ。気づいてたから、無意識に忘れようとしてただけ。だからきっと、私には怒る資格なんてない。お姉さまに頭を撫でてもらう資格なんて、最初からなかったの」

「……だったら、どうするつもり? 私は進むわよ。たとえどんなに可能性が低くても、あの子を救うためならなんでもする。そう決めたから」

「私も行くわ」

 

 顔を上げたフランが、ベッドから立ち上がる。思い出になんて目もくれずに、確固たる意志のこもった瞳を持って私の方に歩いてくる。

 

「約束を破りに行く。私は、お姉さまと一緒にいたい。たとえそれが嫌われる結果に終わっても、どんな怨みつらみを吐かれるような結果に終わっても……受け入れる。なんとしてでもお姉さまを取り戻す。なにがあっても絶対に諦めない」

「そう。それはよかったわ」

 

 レーツェルを取り戻すためには、レーツェルの中でもっとも歪な立ち位置にあると言うフランの存在が不可欠だ。もしも断られていたら、紫の案とやらは必ず失敗に終わっていたことだろう。

 けれど私は、フランが必ずついてくるだろうことはわかっていた。断られる心配なんて一切していなかった。なにせ私と同じなのだから。フランにとって、レーツェルという存在は自身の世界の根幹を担うほどに重要な柱らしいから。

 

「でもフラン、一つだけ訂正しておくことがあるわ」

「なに?」

「レーツェルはきっと、あなたを怨んでいない。むしろ誰よりもあなたを愛している。そのことだけは、どうか正しく理解してて」

「…………うん」

 

 フランと並んでレーツェルの部屋の外へと出る。それから、一緒に歩き出す。

 振り返ることはしない、しようとも思わなかった。レーツェルの匂いがするだけの場所への名残惜しさなんていらない。私たちが欲しいのはそんな程度のものではないのだ。

 望むは本物ただ一つ。向かうべき場所は思い出の先、なくしてしまった大切な誰かの笑顔。

 

「ふふっ」

「どうかした? フラン」

「ううん。ただ、レミリアお姉さまと協力してなにかするのって、なんだか初めてのことだと思ったから」

「……それもそうね。結構長い年月一緒に過ごしてきてるのに」

「いっつも私に将棋とかで負けて泣きそうになるからねぇ。それでお姉さまになぐさめてもらったりして……うーん、頼りにしてもいいのかなぁ」

「ちょっと」

 

 面白そうに笑うフランの額を人差し指でつつく。痛みなんてないくせにフランは大仰にのけぞって、痛そうにつつかれた場所を押さえた。

 それがなんだかおかしくて、私も釣られて頬が緩んだ。そんな場合じゃないはずなのに。

 けれどフランは、それに満足そうな顔をした。そこではたと気づいたのだった。フランはただ、緊張しすぎていた空気をほぐしてくれただけだ。

 

「そんなに気負っても、お姉さまはたぶん助けられない。また申しわけなさそうに謝られるだけだわ。もっと心のまま、思うがままに行かないと。ね?」

「……ええ。ありがとう、フラン」

「まぁ頼りになるかどうかの心配は本当のことだけどねぇ」

 

 一言余計だ。再度フランの額をつつこうと手を伸ばすと、しかし今度はちゃっかりと躱してきた。なのでそれを追いかける、さらに避けられる。それを繰り返す。

 傍から見ればレーツェルのことを忘れてじゃれているだけに見えるかもしれない。でも、違う。私たちの中には、確かに共通した一つの強い思いがあった。レーツェルを取り戻したいというなによりも強い欲求があった。

 だから、進まなければ。

 つつこうとするのをやめて、フランに手を差し出した。そうすると彼女も足を止める。微笑んで、その手を取ってくる。

 

「ていっ」

「ったぁ!」

 

 とりあえずその隙を狙って片手ででこぴんをしておいた。

 フランを引き入れた――これでとりあえず現段階で私のできることは終わりだ。あとは紫の手回しで館に来るだろう人妖たちを待っていればいい。この先、懸念があるとすれば紫の言っていた『あの子自身がもっとも忌まねばならない禁忌』とやらだが……まぁ、なんとかなるだろう。いや、なんとかする。それがどんなものであろうと。

 恨ましげに睨んでくるフラン――痛みがないのだから、恨みなんて抱けるはずもないのだが――にニヤリと微笑み返しながら、私はフランの手を引いて廊下を再び歩き出した。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □


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