キリキリと悲鳴を上げる心を剥離して、誓いをもとに生み出された呪いだけで思考を支配する。
視界が段々と鮮明になっていった。
まるで漫画や映画でも見ているかのような感覚だった。主人公にどれだけ感情移入しようとも、それはどこまでも薄っぺらい。本当の心は海の底に深く沈めたまま、偽りの思考だけが表面に浮き上がる。
『光の翼』がレミリアを傷つける可能性があるなら、ただ単に歩いていけばいい。
ピチャピチャと水たまりに音を立てながら、紫へ向かって歩みを始めた。
「来るわね。これはどうするの?」
前方一メートルほどの場所に半透明の壁が生み出される。どうもこうもない、認識すると同時に能力を使用した。この壁が俺と接触を果たした結果により生じる物理的阻害という『答え』をなくし、すり抜ける。
「ならこれよ」
四方に現れたスキマが線をつなぎ、俺を取り囲む。全身の力が抜けていく感覚から封印の一種だと理解し、これにより力が弱まる『答え』をなくした。
止まることを知らず歩き続ける俺に不敵な笑みを浮かべた紫が、今度は左手の傘を天へと向けた。ゆっくりと振り下ろされる――先端の直線状に有った雲が真っ二つにされているのを眺め、境界を引かれることで分断される『答え』をなくす。
前に進んでいるつもりなのに遠ざかっていくことに違和感を覚えた。方向の境界が曖昧にさせられているという『答え』をなくす。
急に暗くなっていく視界。闇と光の境界がいじられている『答え』をなくす。
空気が固まってきている気がした。気体と固体の境界がいじられている『答え』をなくす。
そこら中に現れた無数のスキマから妖力の弾と光線が放たれて来た。光線はすでに無効化しているので、妖力弾により怪我を負う『答え』をなくす。
「……厄介ね」
ピチャピチャと、ヒタヒタと、一切その速さを緩めずに近づいていく。
それ以来攻撃が止んだ。攻撃や小細工が無駄だと判断したのか、別の視点での一手を考えているのか。
八雲紫まで、あと数メートル。一歩、二歩、三歩。
行動を起こさない彼女にお構いなしに、右脇に抱えられているレミリアへとゆっくりと手を伸ばした。
「これでどうかしら」
そうして届く直前、俺の腕を紫が掴んだ。
「あなたの意志と能力との境界をいじった……あなたはもう、使用するという意志を持って能力を行使することはできない」
自信満々に口の端を吊り上げて、「いったんスキマで距離を取って、もう一度――」なんて。
浅はかだよ。
捕まれたまま、絡ませるように紫の腕を掴み返す。
俺の言葉と行動に不思議そうに首を傾げていた彼女は、数秒後に限界まで目を見開いた。自分が陥っている事態に気づいたようである。
「使用する意志を持って『境界を操る程度の能力』を行使するという『答え』をなくさせていただきました。自分がしようとしていたことをされる気分はどうですか?」
「え……? なんで……」
「私は相手に触れることができれば、その者が直接的に関連する事象も操作できるようになるんです」
この世のすべては無数の事象が重なり合うことで成り立っている。その有無を司るということがどういう意味を持つのか。
最強の妖怪との幕引きはあまりにもあっけなかった。あまりにも唐突に、あまりにも平然と。
呆然としていた紫が途端に顔を歪め、憎々しげに俺を睨んでくる。
「ッ、私が聞きたいのはそんなことじゃないわ。どうして能力が封じられているのにも拘わらずこんなことができるのか、それを聞いているのよ」
なんだ、そんなことか。それなら『答え』は簡単だ。
「私は"答えのない存在"ですから」
「……どういうことかしら」
「『答えをなくす程度の能力』は、言ってしまえば私自身の在り方です。生まれた意味から目を背け、それを失った救いようのない哀れな"狂った帽子屋"。私こそが能力で、能力こそが私。それを引き離すことなんて絶対にできません」
要するに『自動発動機能』が働いてくれたというだけのことだ。驚くことなどなに一つもない。
「返してもらいます、お姉さまを」
八雲紫がレミリアを抱える意志を持って行動に移している『答え』をなくす。ガクンと膝を落とす紫。その隣で転げ落ちそうになった我が姉を地につく前に抱え上げた。
すぐに影の魔法を発動し、俺の影を纏わせて降り注ぐ日差しからレミリアを保護する。
「もう能力は使えますよ。私が他人の事象を消せるのは、触れている間だけですから」
そう言って踵を返す俺の肩を掴み、「待ちなさい」と。
「私は条件通りお姉さまを取り返しました。文句を言われる筋合いなんてありませんが? それとも、あなたは自分の言ったことにも責任が取れない下等な妖怪なんでしょうか」
「言ってくれるわね。もう少しどれだけの力があるのか把握しておきたかったのもありますが、私もこれ以上戦うつもりはないわ。ただ、聞きたいことと言いたいことが一つずつあるだけ」
「なら、聞きたいことからどうぞ」
首を傾げる俺に真剣な表情で問いかけてくる。
「あなたは、どうして私を殺さなかったのかしら? そこまでのことができるなら、そのまま私を殺すことができたでしょうに」
「そうですね。いずれ外の世界で忘れ去られる運命にある吸血鬼には、忘れ去られた者たちが集まる幻想郷が必要になります。幻想郷は境界の妖怪がいなければ成り立たない。だから生かした。それだけですよ」
「恨みはないのかしら。姉を人質に取ったのよ?」
「悔恨がないというわけではありません。ですから、そうですね……貸し一つということにしておきましょう。今度絶対に返してもらいます」
絶対に、の部分を強調した。大好きな姉を傷つけられ、一度はこちらが生殺与奪の権利さえ得たのだ。当然の要求である。
聞かなきゃよかったという具合に苦々しい顔になった紫に、「それで」ともう一つのことに耳を傾ける。
「言いたいことっていうのはなんですか?」
「……忘れ去られた者たちの楽園、幻想郷にようこそ。それだけよ」
なんでそういうことだけは律儀なのかな。
小馬鹿にするように「ようこそされました」とだけ口にして、レミリアを抱えたまま紅魔館へ向けて空に飛び立った。
□ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □
「レミィ、大丈夫? 顔色悪いわよ」
「……ええ、別になんともないわ」
図書館でボーッとしていたところを見かねられ、本を読んでいたパチュリーに心配の言葉を投げかけられた。
「まだ調子が戻ってないの? 殺されかけたって言ってもレミィは吸血鬼でしょうに」
「体は大丈夫よ」
「レーテに助けてもらったのよね。前から思ってたけど、あの子は本当に仲間思いだわ」
仲間思い、か。顔を上げて、パチュリーの顔をじっと見つめる。
なに? と首を傾げる彼女に「パチェは」と問いかけた。
「レーツェルのこと、どう思ってる?」
「どうって……そうね。妹さまをすごい大事にしてて、レミィのことを一番に慕ってるわ。私がちょっと調子を崩しただけでも世話を焼いてくれる心配性で、思いつきで突拍子もないことをすることがある……と言った感じかしら」
思いつきで変なことをするのはパチュリーも同じのくせに。
「ちょっと前と私を連れ帰って来た時とで、なにかレーツェルに気づいたことはない?」
「え? うーん、レミィが気絶してたから必要以上に慌てていた以外は特になかったわよ」
「そう……」
やっぱり誰も気づけない。誰も気づかない。
なんの気兼ねもなくレーツェルが過ごしていた頃を知っている私でなければ、あの瞳の奥に広がる暗くて冷たい悲鳴の海はわからない。
あぁ、どうして焦ってしまったんだろう。どうして、あの子の心が浮き上がり始めていたことに気がつかなかったんだろう。
失敗した。失敗してしまった。また何百年も前に逆戻りだ。最初からやり直し。
「レミィ、今日は早めに横になった方がいいわよ。あなた、自分が思っている以上に調子悪そうだから」
「そうかな……そうかもね。あぁ、今日はもう部屋に戻るわ……」
「お大事にね。レミィがそんな様子だとレーテも心配するわよ」
それは絶対にしてはいけない。そんなところを見られてしまえば、私が弱音を吐けば、あの子の心はもっと深くに沈んでしまう。
おぼつかない足取りで大図書館を出た。しばらく歩いて、辺りに誰もいないことを確認してから耐え切れずにうずくまった。
「大丈夫……大丈夫。一度、レーツェルの心は取り戻しかけた……だから、まだ可能性はある」
諦めない。諦め切れない。あの日から変わらず今も彼女は過去の呪縛に捕らえられている。私が知れないどこまでも深い罪悪感と後悔で、悲鳴を上げている本当の心をずっと海の底に沈めて隠してる。
助けないと。救わないと。あの時あの場所で、痛々しすぎるくらいに悲しい顔で泣いていた大切な妹を。
そうだ。前向きに考えろ。今回はただ失敗したわけじゃない。いつの間にかレーツェルの心が浮き上がっていたということは、あのままいけば本当のあの子を取り戻せるということに他ならない。
方法はわかった。レーツェルを縛る鎖を増やし、日常を過ごすことで少しずつ沈んだ本心を引き上げていくこと。
一度失敗した。しかし、だからこそどうすればいいのかを明確にできたのだ。
立ち止まるな。立ち竦むな。怯むな。臆すな。
「救い出す……」
諦めたくない。ここで終われば、いったいなんのためにこれまでがんばってきたのか。
幸い、境界の妖怪とやらの運命は手に入った。これもまたレーツェルの心を取り戻すために利用させてもらう。
私。フラン。美鈴。パチュリー。咲夜。境界の妖怪、そしてその式神。
まだ足りない。もっと集めなければ。もっともっとたくさんの者たちの運命を手中に収めなければ。
私にレーツェルの運命は操れない。だからこそ周りの運命を最大限に利用し続ける。
最低と罵られても構うものか。昔からずっと、私はレーツェルのためだけに『運命を操る程度の能力』を行使してきた。
今までも、これからも変わらない。
「ごめんね、レーツェル。でも次は絶対、失敗しないから」
立ち上がり、両手でパチンッと頬を叩いた。大丈夫、大丈夫。私ならやれる。私ならできる。
まだ諦めたくない。レーツェルの笑顔は、絶対に私がこの手で取り戻す。
ジンジンと痛む頬に「強くたたきすぎたかな」と魔力を流しつつ、ちゃんとした足取りで自室へと歩いて行った。
□ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □