萃香と離れている距離はたかが二メートル程度だ。いくら身長が低いと言えど相手は鬼なので、その一歩は他の種族とは比べ物にならない。
萃香が踏み込んできた時点で懐に入られている。とっくに拳を振りかぶって殴りつける態勢に入っていて、避けようにもどう考えてもそれは間に合わない。
――『光の翼』の唯一の弱点。それは翼の位置関係上、後ろへは加速できないこと。
「まずは一発」
反応できたのが奇跡だと言っていいだろう。音速を軽く越えて迫る拳を片手で受けると同時、右側の翼にだけ魔力と妖力を流した。左へ移動しながら、受け止めていた手がバキバキと嫌な音を立てるのも気にせず、相手の攻撃をなんとか受け流す。
ここで攻撃するか、いったん距離を取るか。そんな考えを抱いたのは人間では決して知覚できないほんの一瞬だったというのに、その程度の迷いさえ隙だと言うかのごとく萃香が追撃をしてきた。
拳を振り切った不安定な体勢から、しかしその勢いに逆らわずに片足だけで立ち、後ろ回し蹴りを繰り出してくる。
「う、ぐ……!」
避けるのに使ったばかりなので『光の翼』は機能できない。即座に両腕を交差させて受け止めたが、これもまた骨が折れる嫌な音が木霊する。蹴り飛ばされた身を、そのままだとどこまでも飛んでいってしまいそうだったので、すぐに『光の翼』で勢いを殺す。
萃香が追ってこないことを確認して、あらためて自分の両腕を見下ろした。
どちらもまともに足技を受けた前腕がぐにゃぐにゃと、プラプラとしている。確実に複雑骨折していて、もしも俺が人間ならば切断する以外の選択がないと言われるくらいだろう。左腕は最初の一撃も止めたために手首から先も見るも無残な姿であり、自分のことながら痛々しすぎて目を背けたくなる。
魔力を流して吸血鬼の再生能力を最大限に発揮したとしても、完治までは数十秒の時間が必要だろう。意外にすぐに治るという感想を抱いたならばそれは間違いで、勝負の最中で数十秒の隙なんてあまりにも致命的すぎる。
「二発でここまで……ちょっと舐めてたかもしれません」
「鬼が怪力なのは今に始まったことじゃないじゃないか。なにを驚いてるのかねぇ」
「吸血鬼の私がまったく防ぎ切れない攻撃をなんの苦もなしに連続で打ち出せるなんて、そりゃあ戦慄くらいしますよ」
少しは対抗できると思っていた。俺より少し上程度のパワーだと思っていた。その考えが、甘かったのだ。
今の攻撃は萃香の素の怪力であり、呪術的な力を使っていない以上は未だ全力でないと言える。それでいてただ受け止めるだけで腕が使い物にならなくなるなんて予想外どころか規格外すぎて言葉が出ない。
鬼が強いことは最初から理解していたはずなのに、吸血鬼も『鬼』なんだからと、心のどこかで自分たちに近い次元の存在だと思い込んでいたのかもしれない。それはまったくの誤解だったというのに。
これが鬼なのだ。どんな理不尽もどんな障害も関係なしに、その強さだけで強引に罷り通ろうとする妖怪の中の妖怪、真の理不尽なる存在。
「で、どう? そろそろ治り切った頃じゃない?」
「……後悔しますよ。今、攻めなかったこと」
「しないさ。どうせ今のは挨拶代わりだ。これから何度も殴ったり蹴ったりしてやるんだから」
さきほどまでの怪我が綺麗さっぱりなくなり、両腕がいつも通りに動くようになったのを確認して、自分の意識のほぼすべてを目の前の鬼へと集中させる。
そもそもの話、紫と同程度の妖力を持っている時点で弱いはずがなかった。俺が彼女に勝てたのは単なる奇跡、ならば萃香に太刀打ちできるかどうかも最初から怪しいところだったのだ。
それでも。
「行きますよ」
両腕に少なくない魔力と妖力を練り合わせ、さらに『光の翼』で急速に接近。同時に影の魔法で萃香の両足を固定し、一秒の十分の一も使わずに彼女の背後に回り込んだ。
萃香は俺ほど速くはない。けれど、その目はきちんと俺の姿を捉えていた。こんなものは障害にすらならないと萃香は足元の影を当たり前のように引きちぎり、振り向きざまに拳を振り回す。元々この鬼ならばそれくらいやるとは予測できていたので、当たる直前で迫る萃香の腕の側面を殴りつけて軌道を逸らした。
その時には今度は俺が攻撃の態勢に入っている。彼女の攻撃を防いだ方とは逆の腕を引き絞り、空気を引き裂いて一撃を打ち出した。
ガッ、と。
萃香の、攻撃を繰り出さなかった方の手で受け止められる。魔力と妖力を両方ともそれなりの練度で込めていたのに、ほんの少しだけしか受け止めた萃香の手を押し込むことしかできなかった。
一足遅れて、衝撃が萃香の体を通って地面に伝わり、ボコンと辺りが陥没する。
その瞬間を狙って『光の翼』を片側だけ点火、再度彼女の背後に回り込んだ。当然のような超反応で逆回転に萃香の腕が振るわれてくるが、足元にできたわずかな穴を利用した飛行による下降と上半身の逸らしでギリギリ回避する。そのまま月明かりで作られていた萃香の影を踏みつけ、発動。
「影踏み」
「むっ!?」
九尾の狐、八雲藍の動きさえも封じた魔法であるが、紫クラスの力を備えた萃香にはどれほど通じてくれるものか。ここはすぐに攻撃に移ってしまうに限る。
辺りの影を瞬時にかき集め、萃香の全身を囲い込んだ。魔力を込め、その身を押し潰すくらいの気持ちで影を圧縮させる。
それができていた時間はほんの三秒程度だった。バンッと一瞬にして影のすべてが散らされ、さらに影踏みを破った萃香が、獰猛な笑みを浮かべて切迫してくる。
最初は右の拳、次は左、次はもう一度右と見せかけて右脚の回し蹴り。
素で音速さえも捉える自分の目に妖力と魔力、全神経を集中させて、萃香の攻撃をまともに受けないようにしながら逸らしていく。
「ははっ! 楽しいねぇ!」
「そうですか?」
「そうだよ! 最近は軟弱なやつばっかで消化不良気味でさ、こんな血沸き肉躍る戦いはできなかった!」
当たらない打撃に痺れを切らしたのか、萃香が強く地面を踏み鳴らした。一瞬で周囲十数メートルの足場が霧状へと変化し、落ちかけた体を飛行することで支える。
「お返しだ!」
萃香が後退しながら俺に片手を向けてくる。直後、萃香が霧散させていた土が俺を囲み、四方八方から萃まってきた。さきほど俺が彼女へ影を使ってしたように、大地が俺を取り囲んで閉じ込めてくる。
外から見れば土で作られた一つの球体が浮いているように見えるだろう。強烈な密度で圧縮された土は熱さえも発している。月の光も星の輝きもない真っ暗な世界で、潰されないように踏ん張りつつ『光の翼』の出力を全開にした。体中に負荷をかけながらも強引に一点突破、球体から脱出する。
「次、行くよ!」
俺が出てくることは最初からわかっていたとでも言うように萃香は次の攻撃の準備を整えていた。明らかに打撃が届かない位置で拳をぶん回したかと思うと、殴りつけた空気が爆炎を散らし、その爆発が連鎖的に一直線で俺に近づいてくる。
『光の翼』で避けてもよかったが、ここは真正面から迎え撃つとしよう。
倉庫魔法を行使して金と銀の装飾がなされた豪華な弓を取り出した。瞬時に特殊な矢型弾幕を形成、それを番える。
本来ならば上空に撃ち出して無数の光の雨を降らせる一線を、直接萃香に向けて撃ち出した。そうなれば当然彼女の繰り出した爆発の一撃と激突することになり、金と赤の光がせめぎ合って空気さえも壊す大音響を奏でた。
弓を倉庫にしまい直すと、音が収まらないうちに『光の翼』で加速し、右へ左、上へ下へと複雑怪奇な軌跡を描いて萃香に接近する。今まで見せた中でも最高の速度、マッハ二をも越える速さを萃香はまるで目で追えていない。しかし、まったく狼狽もしていなかった。
背後に回り込んだ途端、俺の動きを捉え切れていなかったはずの萃香が瞬時に片手を後ろに伸ばして服を掴んできた。それを無視して思い切り右の拳を突き出すが、それもまたパシンッと軽く止められる。さらには服を掴む手を起点に無理矢理に回転し、明らかに不自然不安定な体勢で回し蹴りを打ち出してきた。
彼女の攻撃は一撃一撃がまさしく必殺だ。そしてそれを今は服を掴まれているから避けられない。ならばと、『光の翼』を再度片側だけ噴出させ、萃香の脚が迫ってきているのとは逆側へ動く――それでも彼女の蹴りの方が速かったが、同じ方向へ移動しながらならば、その脚に触れても俺の腕が粉砕されたりなどはしない。
萃香の脚を両腕でガシッと掴み、俺の翼と相手の回し蹴りの力を両方掛け合わせ、ついさっき萃香が地面を霧状にしたせいでできた穴の中へとぶん投げた。さすがに互いの力が合わさっただけあって、強大な衝突音と土埃とともに穴の中にまた大きな窪みができた。
「剣よ、槍よ、矢よ」
魔力を具現、圧縮。ほんの一秒で数え切れないくらい膨大な数の武器型弾幕を形成し、一斉に萃香を投げた地点へ射出する。撃ちながら、なくなった部分を即座に補完して再度発射。
そんな工程を何度も何度も繰り返す中、不意に土煙の中から萃香が飛び出てきた。追うようにして弾幕を放っていくと、そのすべてを縫うようにして避けながら地を疾駆する。ボロボロのくせに逆にさきほどよりも笑みが深まっており、心の底から勝負を楽しんでいるかのようだった。
「そろそろあんたも降りてくれば!」
萃香から放たれる妖力が増大したかと思うと、その姿が巨大化した。彼女が備える『密と疎を操る程度の能力』はそういうことも可能だとわかっていたために驚きはない。目算で全長二〇メートルと言ったところか。
こちらの弾幕をすべてその身に受けながら、小さい時とまったく変わらない速度で腕を振り回したり体当たりをしかけてきたりしてくる。『光の翼』で飛び回ってなんとか回避を繰り返してみるが、単純に攻撃の範囲が広がっただけでもかなりキツい。いつ萃香の攻撃が当たってしまってもおかしくなかった。
だからこそこちらも手を打つ必要がある。全力で魔法を行使、同時に『光の翼』の出力を全開に。夜だからこそ莫大に存在する影で萃香の体を絡め取って動きを阻害しつつ、懐に潜り込んではその身に手を触れる。
「あなたの能力で大きくなっている『答え』をなくします」
変化は一瞬だ。瞬きの間に萃香の体が元の大きさに戻り、突然の無効化に俺の目の前で無防備な姿を晒していた。
俺はまだ『光の翼』での妖力と魔力の噴出を止めてはいない。
萃香の両腕を俺の両手で掴んで押さえつけ、彼女を下敷きに大地へと落下した。衝撃で隕石が衝突したかのような窪地ができ上がるが、それでも翼の出力を緩めない。
最大出力の『光の翼』、魔力と妖力を込めた自身の両手両足、さらにはフルパワーの影の魔法を持ってして萃香の両腕と両脚を地に固定する。さすがにここまですれば馬鹿力な萃香と言えど動けないようだ。ギチギチと影が小さな音を立てながら千切れ、彼女を押さえつけている腕や脚が逆に少しずつ押し返されてはいるものの、それでもすぐには身動きは取れない。
「一つ……あなたに再提示しておくべきことがあります」
「へえ、なんだい? 言ってみなよ」
「実はですね、私、吸血鬼なんです」
顔を萃香の首に近づけて口を大きく開くと、そのまま牙を突き立てた。萃香が目を見開いて硬直するのが視界の端に窺えたが、それを無視して血を吸い出し始める。
離せとばかりに身じろぎをしてくるが、その程度ではがぶりついた俺を引き離すことは敵わない。もっと、もっと、もっと。このまま続けて、動けなくなってしまうくらいに血液を頂いてしまおう。
「くっ……このっ……!」
ジャラジャラと鉄が絡み合う音がしたかと思うと、俺の胴体になにかが巻きつけられた感覚がした。若干驚きながら視線だけで確認してみると、萃香の右手だけが解放されていて、その手首から伸びていた鎖で俺の体を縛ってきていた。局所的に力を萃め、右腕の、それも手首から先だけを拘束から逃れさせたようだ。
鎖がわずかに発光し、ズズズと俺の中から力を――体力を、気力を、魔力を、妖力を吸い取ってくる。
「奪い合いだっ!」
俺は萃香の血を、萃香は俺の力そのものを。全身に倦怠感を覚えながら、それでも血液を飲むことをやめない。萃香もまた肌が青白くなってきているというのに、そんなことは関係ないとばかりに吸収の出力を上げてくる。
そんな拮抗の中で最初に崩れたのは俺の方だった。『光の翼』の出力、影の魔法の効力が弱まり、萃香を拘束するものが俺の両腕と両脚だけになる。左腕を用いて俺の胸を押して首筋からほんの少し顔を離させた直後、彼女は頭突きを繰り出してきた。
予想もしていなかった一撃に一瞬だけ思考が停止する。それを見逃す萃香ではない。俺の胴体に巻いていた鎖を素早く解き、腹に蹴りを入れて己の上から俺をどかす。相当血を吸い出したためか当初に比べてあまりにも力がこもっておらず、ほんの数メートル吹き飛ぶだけだった。
かなり体力を奪われたからか、思ったように体に力が入らない。それでもなんとか立ち上がる。あちらもまた多量の血液不足でフラフラとしているが、あいかわらずその顔に浮かぶ獰猛な笑みだけは消えていなかった。
「いやぁ、私をここまで追い詰めるやつなんて、本当に久しぶりだよ。えぇと、名前なんだっけ?」
「レーツェル・スカーレットです、伊吹萃香。私は初めてかもしれませんね。紫と対峙した時も、戦ったとは言えないような終わり方でしたし」
「紫ともやり合ったことあるんだ。それで生き残ってるんだから、そりゃあ強いわけだねぇ……で、そろそろ問おうか。いったいあんたはなにに悩んでるんだい? 鬼の中でも図抜けた力を持つはずの私と対等にやり合えるほどの膨大な力があるんだから、大抵のことは無理矢理にでも叶うだろうに」
腰に括りつけていた――戦う邪魔になるからだろう――瓢箪を手に取ると、失った血を補給するかのごとくゴクゴクと勢いよく飲み始めた。もちろんそんなもので血液を補完できるはずもなく、足元がおぼつかないことに変わりはない。
「別に悩んでなんかいませんよ……ただ」
「ただ?」
「私が愛していた、私を愛してくれた両親と義理の母親を、殺した。それだけです」
「…………へえ」
勝負も話も、もう終わりにしよう。
頭の中で式を描き、獣人化魔法――いや、鬼化魔法とでも言い換えよう。自身の中にある萃香の血を解析し、その鬼の遺伝子を術式として当てはめる。
頭から二本の角が生えたのがわかった。全身に、これまでにない力が漲ってくるのがわかった。
「ふぅん、これは私も本気で答えないといけないか」
影を右腕に集め、一回り大きな腕を形成する。さらに左手の平を爪で傷つけて、溢れ出た血を操作し、黒い右腕に巻いて補強する。
萃香もまた次の一撃に全力を込めるつもりのようだった。どこからともなく萃まってきた岩や石が彼女の右腕を覆い尽くし、俺と同等に巨大な塊を作り出す。さらには萃香の能力で限界まで高められた密度は莫大なまでの熱を発生させ、萃香の右腕が溶岩のそれへと変化した。
「さあ、いざ尋常に!」
「勝負……ですか?」
先に飛び出したのはほんの少し萃香が先だった。持ち前の怪力で大地を蹴って、迫ってくる。そこからほんの数瞬遅れて俺が『光の翼』を今出せる最大の出力で点火、一瞬にしてお互いの距離が縮まった。
迷いなく影と血を纏う拳を振るう。萃香もまたほぼ同時に、溶岩と化した高密度の拳を打ち出していた。二つとも真正面から衝突する軌道である。
俺も萃香も理解している。これに打ち勝った方がこの勝負を制する、と――果たして。
「――――はい、そこまで」
「むっ」
「っとと」
パシンッ。そんなあっけない音が二つ、今まさに決着がつこうとしていた場に響き渡った。己が拳の行く先を見れば、それはどうやら突然空間を割いて現れた華奢な手に防がれているようで。
手を下ろし、影と血も同じように引っ込める。萃香もまた腕に集めていた岩と熱を散らして元に戻していた。
そうして二人して、目の前でスキマを開いて現れる一人の妖怪を出迎える。
「いい加減やめなさいな。辺りがどんなことになってるか気づいてるの?」
「無粋だなぁ、せっかくの真剣勝負だったのに……もちろんわかってるって、紫」
「えぇと、その」
今いるのも戦いの中で作られた窪地の一つである。ちょっとジャンプして見渡してみれば、萃香が大きくなったせいでできた窪みや、俺が弾幕を撃ちまくったせいでできた穴やらがたくさん見つかった。
元々ちょっとは荒れてもいいように人気のないところに移動してから萃香を実体化させたのだが、予想していた以上に荒れ果ててしまっている。
「はぁ。萃香、レーツェル。あなたたちなら理解していたはずでしょう? 力のある妖怪同士がルールもなしに全力でぶつかり合えば、こうして周囲にも被害が及ぶ。私はそういうことも考慮してスペルカードルールを巫女に――」
「別にいいじゃないか、人里からかなり離れてるんだからさぁ」
「よくないわ。どこであろうと幻想郷であることは変わりないし、そもそもあなたたちが暴れてる音、普通に人里まで聞こえてるのよ? すっかり警戒されてる」
「むぅ……あー、もう。悪かったよ。しばらくはしないって約束する。鬼は嘘は吐かないから、これは絶対だ。でもさ、私もレーツェルも全力ではなかったぞー」
「これだけ荒らしておいて、ねぇ」
紫は怒っているようだった。当然である。幻想郷にいながら、スペルカードルールを無視して正面からやり合っていたのだ。
「私は全力でやっていましたよ?」
「だから嘘はやめなって。例えば、私は能力を使って霧になったりはしなかった。自身を霧散させれば誰も私に触れられなくなる、一方的に攻めるのだってお手の物だ。レーツェルだって同じようなものだろう? 無効化能力を使えば私の攻撃をすべて無力化するなんて容易いはずなのに、それをしない」
「……まぁ」
俺の能力を用いての無力化は現象そのものを完全に否定する。萃香のようにわかりやすい単純な攻撃しかしてこない――怪力等の一点特化な相手にはどうしようもないくらいに相性がいいのだ。殴る、蹴る、その他目撃した諸々を次々と無効化していけば、相手はいずれ完全に打つ手がなくなってしまう。俺の能力をまともに相手にするならば、紫のように多彩すぎるくらいに多くの手を有していなければならない。
勝負が勝負にならなくなる。それを理由として攻撃の無力化は使わないようにしていたのだが、どうやら萃香は俺が制限しているのを感じ取って、自らも能力の一部を封じていたようだ。俺も萃香も、別に手加減していたわけではない。俺がハンデをつけていたから、彼女も同等にハンデをつけていただけ。
「全力だったとか全力じゃなかったとか、どうでもいいわ。あなたたちがそこら中を破壊したことは変わりないもの」
「へえ、言うねぇ。ずっと見物してたくせに」
「なんのことかしら」
「とぼけないでよ。私とレーツェル、二人とも紫一人でどうにかできるくらいに弱るまで待ってたでしょ? じゃなきゃこんないいタイミングで出てこないもん」
「あらあら、なにもかもお見通しってわけねぇ。まぁ、萃香はともかくレーテもいるとなるとねぇ、ちょっと厳しくて」
「喧嘩売ってる?」
「買ってくれるのかしら?」
わざわざ弱るのを待ってから出てきた、と暴いたのは萃香の方だ。喧嘩しても勝てるわけがない。「あいかわらず手が汚いなぁ」なんてぼやきながら、萃香が紫から視線を逸らす。
「あーあ、叩き直してやりたかったなぁ。やっぱり最初で一気に決めておくべきだったかな。紫からストップもかかっちゃったし、勝負はしばらくお預けかねぇ……」
「私は正直、もう萃香との戦いは遠慮したいんですけど」
「嘘。本当はまた私と戦いたいと思って――」
「思ってないです。絶対、間違いなく」
滅茶苦茶痛いし、一発が致命傷になりうるからちょっと掠るだけでもヒヤッとするし、懲り懲りである。俺は命がけの戦闘が好きというわけでもないのだ。
「『間違いなく』、ねぇ。気づいてる? ずっと見てなかった心の奥の方、今ちょっとだけ触れたよ」
「……なんのことでしょう」
「私の言葉、今まで一度も自然に否定したことなかったし、それがいい証拠だよ。戦いが終わって気が緩んだからかな。なんでもいいけど。そうそう、とりあえず言っておくよ。せっかくそれだけ強いんだからもっと自分に正直に生きたらどう? 私みたいにさぁ」
さすがにそれはやりすぎじゃないの? と紫が呟いて、萃香に蹴りを入れられていた。
それを眺めながら、片手を頬に添えてみる。
――自分に正直に? どうやって?
俺の顔は決して表情を映さない、映させない。それは欠点じゃなくて利点なのだ。こうしていれば痛みも苦しみも悲しみも、全部見なくて済む。目を向けようとすることを拒むことができる。
これでいい。むしろ、こうじゃなきゃいけない。これが"狂った帽子屋"、『レーツェル・スカーレット』。それ以外の何者でもないのだ。
――私は最初から、正直者ですよ。
能力が俺の在り方を証明し、体現する。俺は『答えのない存在』だ。偽り、狂い、どこにも行き場がなくなった、償いと贖いのためだけに生きる
幻想郷最強の妖怪であろうとも、俺のこの
「そうですね。もう少し、正直に……」
萃香との対峙はとても参考になった。これからはもう少し思慮深く行動していくとしよう。
もっと上手に偽る。もっと上手に狂う。
鬼にも気づけないように、誰にも気づかれないように。
「いろいろと迷惑をかけてごめんなさい、ゆかりん。騒ぎになっているとなると、お姉さまやフランが心配してるかもしません。そろそろ帰りますね」
「次はこんなことないようにお願いするわよ」
「気をつけます。それでは、お先に」
さきほどまで本気でやり合っていたというのに、またねー、と呑気に手を振ってくる萃香へこちらも同じように振り返す。空へと飛び立ち、鬼化魔法を解いてから『光の翼』を発動させた。
体中だるいし、今日は帰ったらすぐに休むことにしよう。ああ、そうだ、皆が心配するから見つかる前に服も着替えておかないと……。
紅魔館についてからのことに考えを巡らせながら、満月の夜空を横切っていく。
こうして今日もまた、一日が終わるのだ。